丸いサイコロ
ぼんやりしていると、頭の中に、意図せずいろんな台詞が浮かんでくる。ずっと、これが苦手だった。でも、耳をふさぐことも、出来ない。
聞き慣れた音楽のように、ぐるぐると回り続ける。
不思議なもので、一度こんな体験をした、と思っていても、少ししてからある日、ふと違う視点からその記憶を起こせることに気付く。違う視点からは、全く違う解釈があり、良くも悪くも、結果が、当初思っていたものと正反対のことがある。
場合によっては、当時に関わっていた誰のことも、恐ろしくなり、信じられなくなってしまい、知り合いに会うたびに内心怯えることもあった。
事実はひとつ。でも、解釈は考えるたびに変わっていく。
昔見た映画や、小説を、再び読んだって、誰かの言葉や、自身の気づきで、昔とは印象が変わってしまう。
『その子……』
中に入ったとき、コウカさんは言った。ケイガちゃん(またはヒビキちゃん)は、びくついてまつりの後ろに隠れていて、まつりは表情を変えないで、説明した。
『……ふたごの姉を探してる、って言って、ある日、メールをくれました』
『――探してたのは、エイカなのね。私ではなくて』
どういう意味だろう、とぼくは思った。まつりは、冷たい目で、ぼくに聞いた。
『……うん、覚えて、ないかい?』
『そうだねぇ、何年前になるのかな?』
そう言って少し首を傾げる。後ろにいるケイガちゃんは、ぼんやりと床の敷石を見ていた。コウカさんは、堂々と、立っていた。
『――外にいた男の子がね、向かいにあるお屋敷から外に出ていたメイドさんを見つけて、何かを言われて、ついて行くんだ。メイドさんは、突然その子をさらったそうだ』
そして、メイドの彼女の心配そうな台詞が浮かぶ。
頭の中に、またしても芝生の庭が見えてきて、もういいよ、と言いたくなった。今は見たくない、あの家が見える。
『その子は、そのまましばらく家に帰らなかった。その子の親は激怒した。お屋敷の主人が、健康な男の子に恵まれなかったからと、跡を継ぐ者に悩んでいたのを、知っていたから、よりいっそう怪しんだ』
まつりは、そう解釈していた。しかし、それは、表向きの理由だ。
帰らなかったのは、確かにぼくの意思だ。いつだって抜け出せたのに、どうして、数日、留まっていたんだろう。居心地が良かっただろうか。
『逃げなさい。こんなところにいちゃ、だめよ』
こんなところ。あんな家。――彼女は、あの家自体が、嫌い?
『ここに隠れていたのは、あなたが、苦しんでいるからじゃないの?』
やめろ、ぼくは、苦しくなんかない。
『……いろいろ、あったからね』
『やめて! その人は……その人は、本当は、エイカを追い詰めた人物じゃない!』
『……エイカって、誰? 本当は、エイカっていうの? 《双子のお姉ちゃん》。ねぇ、《双子のお姉ちゃん》はどこ? あなた、双子のお姉ちゃんの妹?』
彼女がまだ、保育園にいるくらいのとき、エイカさんのことを、双子のお姉ちゃん、と慕っていた。
――その頃、コウカさんは囚われたり、いろいろとあったから、詳しくわからない?
――それが、何を意味する?
まつりは、それで何か手がかりが掴めるんなら、こんな役くらい請け負っても、安いと思っている。
それは、どんな情報だろう。
考えようとしていると、誰かの気配がして、ふと気を取られた。高速回想はいきなり終了する。
「――ここにいたんだね」
廊下の灯りがつく。
部屋がほんのり照らされ、突然、はっきりした声がぼくを呼んだ。なにかに納得するような言い方だった。
振り向くこともなく、ただ、正面で、机を挟んで向き合うようにして、ぼくと、その人は対面する。好奇心に輝く瞳は、ぼくを、これまでの知人として見ていないと、証明していた。
「まつり――」
「あは、呼び捨てにされるのは、久しぶりだ」
「……久し、ぶり?」
いや、さっきまで呼んでたぞ。
「――うんうん。きみを、探していたよ。まつりは、どうやら、きみを閉じ込めた人に、気付いていた。その人と会うために、ここに来ようとして、そして」
「ち、ちょっと待て、いきなり、そんなぺらぺら言われても」
「――この男が、そのとき、まつりを見つけたようでね」
くい、と親指で指されたのは、もう帰ったと思っていた、兄だった。まつりの背後で横たわっている。
服装は、Tシャツでも、派手な服でもなく、スーツ姿。なぜだか、縄で縛られて、眠らされている。抱えて来たのかと思ったが、廊下の方を見ると、奥に荷台が見えた。
「兄ちゃん……」
幼いときの言い方で思わず呼んでしまった。びっくりした。どうしたのかと聞こうとしたが、そんな雰囲気ではなかった。まつりは、うっすら笑って、吐き捨てるように言った。
「あーあ、過去のことを探っていたら、今のことが、わからなくなってきた。そして、とうとうこれだ。怖れていた事態なのに、いざなってみれば、情けないだけだな。
同じ失敗ばかりする。自分が間抜けだよ、本当に。よく考えたら、こんな風に、過去の自分しかしらないことも、あったのに。最初から人に頼りきりなのがよくなかったのかな。きみと、当初はどれだけ親密だったのか知らないが――」
何か、強いられているような、無理をしているような口調が辛そうで、一旦、呼吸を置いてもらおうと口を挟む。
「まつり、えっと……落ち着け、落ち着いて」
「なんだ、冷静だよ。笑えるくらいに、冷静だろ」
声がだんだん弱々しく震えていく。こんなことは、初めてで、どうしていいかわからない。
推測でしかないが、まつりが、誰かに会うと記憶が混ざっていくのは、その人との間の過去が自身の、記憶を結び付ける何らかに、関わるからだと思う。
昔のことを思い出したり、昔の人に関わるだけで、自身の記憶がさかのぼってしまうと、今までの経験から、思わなかったわけではないだろう。
考えていてもなお、知りたい、必要なことだった。だからこそ、まつりなりに、他にさまざまな予防線を張って、出来る限りの努力をしてきたのだと思う。
そしてきっとそれに、自信があった。
「忘れるのが、怖かった。今までは、こんなに、怖いと思ったことが、なかった。少しずつだったから、なかなか気付かなかった。気付いても少しなら大丈夫だと誤魔化した。でも――」
しゃがみこんだ背中はやけに小さく見える。後ろの兄は眠ったままで、それが際立った。
ぼくは、ただ突っ立って、なかなか、かける言葉もなく、ぼんやり、震えるそいつを見た。しばらく、互いに無言だった。
今の関係はただ、知り合いでありながら、ほとんど知らない人なのか?
以前の関係なら、何か気のきいたことが言えただろうか。
言葉じゃなくとも、どうにかする手段はぼくには浮かばなかった。
まつりは、弱っているときに関わられ、触れられるのが、特に嫌いだ。相手にそんなつもりがなくても、危害が加えられると思ってしまう。その性質だけは、今も変わらないと思われる。
そういえば、あの場所もそんな環境だった。落とされたら負けで、漬け込まれたら終わり。
大人や、周囲の触れ合いが示すのは、ほとんどが、警告、敵意、偽善のどれかだった。
もし今、ぼくに何かできるとするなら、ただ、淡白に切り替えることだけ。
「……ぼくを、探していたのは、なんで?」
「……ああ」
ぼくとは違い、求められれば一瞬で思考を切り替えられるまつりは、ぱっと顔を上げると、そうだったよね、と返事をして、すこし間を空け、考えた。
「……んー」
数秒後。
話は頭のなかで、まとめられたようだが切り出しかたに迷っているのか、まつりはやっぱりなかなか口を開かない。
どうかしたのかと、声をかけようとしていたら、立ち上がり、机のそばを回り、とたとたとこちら側に近寄ってきた。
「……んーとぉ」
そして、やっぱり考えた顔のまま(人によっては無表情に見えるかもしれない)、ぼくの頬に手を伸ばす。
「な、なに」
近い。やっぱり綺麗な目をしているが、何を考えているかは読めない。伸びてきた髪はふわふわと頬に当たる。痛い。今度切らせよう。
むに、と左手でぼくの口を摘まみ、それから、両手で、頬を引っ張り、すごく嫌そうなぼくの顔を2分ほど堪能すると、やっぱり少し納得したような顔をした。何に?
「きず」
ぺた、と首筋に左の手のひらが当たる。ぞわ、と恐怖でいっぱいになったが、必死に堪えた。
「あ、あの、痛いんですが……」
「んー……」
どうしても、とはいわないが、ぼくもまた、触れられるのは、どんな人にであれ、あまり楽しいものではなかった。
弱ったとき、無防備なときに触られるのは、卑怯だと、怖いと、思いたくなくても、思ってしまう。たぶん、これは、どうにもならない、本能的なものなのだ。
『彼』が居たこともあり、過去の出来事に、過敏になっているのも重なっているらしい。
顔が一瞬、外からはほとんど見えないくらいで、ひきつったが、紛らわそうと、とりあえず喋る。
「……傷、が、どうかしたか?」
「たしか、ここに、傷があった」
「……ああ、あの頃、罠かなんかに引っ掛かってさ、針金で首を擦ったことはあったっけ。傷になってたのかなあ」
「違う。狭い通路の」
「ああ、あのときの裏道か。そうそう、あのあと、枝が引っ掛かって、なかなか進めないし、血が出て止まんないから服が汚れるしで、大変だった」
ほかに何か言いかけて、やめた。代わりに、思い出だけを口にした。
「……ぼくは、あの日も、同じように、あの場所に、隠れていたっけ」
狭い壁を抜けたり、庭の植え込みをくぐり抜けたりする、今となると、若いから潜れたような道だ。狭いし、枝もあり、ぼんやりしていると、避けきれずに首を引っ掻くことがある。
まつりの家と、ぼくの家を繋いでいる中間地点。普段は、バレないため(植え込みを切られるわけにいかない)に、あまり使わないようにしていたが、隠れたいときや、近道したいときに使っていたと思う。放課後とかに。鞄を持って入れないので、家に置いてきていた。
「あの場所は、知ってる。たまに、きみがあの場所から来たときは、葉っぱがついていたり、首に傷を作っていた。そして、それを使う日の、大半に、あの男が、関わっていた」
手が離れ、やっと息がつける。くい、とまつりが視線を寄越したその男は、ただぐったり眠ったままだ。
「やっぱり知ってたんだ」
「……聞かない方が、いいと思って」
「うん。まあ。ありがとな」
素直に言ってみたが、まつりは俯いて、少しの間、ぼくから顔を逸らしていた。