丸いサイコロ


 そのとき、誰が再生を押したのか、それとも、自然に流れたのか、突然、0002が開いた。

『聞こえますか──今日は──月……日、現在、16時くらいだと思います』

女の声だった。
ぽつ、ぽつ、と何かのノイズが挟まって、少し間が空いて、また話が聞こえだした。

『──告白することがあります。私、は────以前、彼、夏々都くんを、軟禁しました。榎左記さんに、唆されて、それに甘えました。────確かに、彼に、可哀想なところはありました。でも、本当は、私が、あんなことしたって、ダメだって、頭ではわかってたんです。
私──弱いから、彼女の、私も彼も、同時に救うことができるという言葉を、勝手な感情で信じて、盲目的で、愚かな行為をしました』

『……私は、今、どこかのおそらく、地下に捕まっています────眠らされて、気が付いたら、ここにいました。息が、詰まりそう。暗くて、静かで、怖い───もうすぐ、近くで工事が始まるのか、なにかの音がうるさいです────』
『昨日、遺書を、書かされました……私は、これから、自殺になるそうです。ある意味では、自業自得なのかもしれませんね』

奥で、カンカンと何か打ち付ける音が入っている。
ぼくは、体が指先から、すっと冷えていくのを感じた。頭が、ツンとして、痛い。心臓が早鐘を打つ。
足音が聞こえ始めると、しばらく、無音が続いて、最後に、違う誰かの声が、小さく入っていた。

『おい、本当に、ここに埋まってんのかよ……』

『……しっ、まだ、埋めてないわよ!』

ぼくのせいだ。ぼくのせいだ。ぼくのせいだ。ぼくのせいだ。
頭の中が、混乱して、怖くて、怖くて、冷たくて、痛くて、わからない。どうしていいかわからない。
ポケットの中の手紙を思い出す。本心らしくない、冷たい文面を思い出す。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
怖い!
何があっても受け入れようと決心したはずなのに、それは想像より重く、きつく、ぼくを縛り上げる。

まつりが、そばに寄り添うように、ぼくに話しかける。

「……変更したんだよ。これを聴いたときは、やっぱり、こんな風に、きみが傷付くと、思っていたから」

首を振る。
どんなに怖くても、痛くても、自分を責めることになっても、これは、隠してはならないことなのだと、思う。


「どうりで、あの手紙、おかしかったんだよ、なんか──」

声が、震える。泣きそうだった。まつりは、ぼくの左頬を引っ張った。励ましてくれているのだろうか?
痛いよ。

「それで、これに、最後の方入っていた音声についてなんだけど」

まつりは、笑わない。
冷たい目をして、兄を見ている。

「最後の……入っていたのは、あなたの声だ。そうだろう?」

兄は、一瞬だけ、動揺したような気がした。しかしなぜこれに、彼女の撮っていた記録に、兄の声が?

どうして、まつりはそう思うのだろうか。ぼくは、先ほど聞いた音声の最後の方を思い出そうとしてみる。『本当に、ここに埋まってんのかよ』『まだ、埋めてないわよ』
頭の中には、何度やっても文章しか浮かばない。
《本物》が《そこ》に居ないからだ。

兄の動揺したような態度から、何かがある気もしなくはないが―─しかし、それはほんの一瞬だけだった。
「ははっ……ははは、あは、アハハハハ! それだけなら、それだけならな、いくらでも、誤魔化せるんだ」

さすがに切り替えが速い。彼がこういうときに立ち回りが上手いのは、昔からだ。どんなときでも自分が助かるために、状況を把握して、うまく知恵を絞れる。
まつりは黙った。俯いて、髪に隠れた表情は、わからない。 少しだけ、肩が揺れた。髪の隙間から、耳と、口が見え隠れする。
そして──そこで、気付いた。


(あれ。こいつ、もしかして笑ってる……?)


「ふふ、そう、だね。これだけなら、ね……。ああ、もういいや。変更だ。もうちょっと、面白くなってから、改めて話すことにしたよ!」


「……はったりなんだろ、どうせ」

「さあねぇ。どっちだとしても、こちらに困ることはないんだ、お兄さん。成功と失敗、最初にどちらも想定して準備しておけば、どちらにしても予定通りってわけ」

「たいした預言者だな」

「ありがとう、あはははっあはははっはははっ!」

まつりは、壊れている。
いつもより、もっと、歪んでいる。そうしたのは、そうさせたのは、やっぱり、ぼくなのだろうか────にた、とまつりは笑った。ぼくは、嫌な寒気がした。兄に距離を詰めていくまつりは、全く、こちらを見なかった。いや、何も見ていないようだった。

「言うことはそれだけ? 俺は、もう帰るけど」


「……ははっ……ねぇ、お兄さん。お兄さんお兄さん。まつりは、あなたが、行七夏々都に、加えていた制裁も知っているし、その理由も知っているし、あなたが、義理のお兄さんってことも、知っているんだよ。あなたより価値が出来るのは、そりゃあ、本物だから、仕方がないよねぇ……」

会話が、頭に入らない。体が、拒絶している。
なにを、いっているか、わからない。知らない言語のように感じる。
ぼくは、知らない空間に取り残されたのだろうか。


「おいおい、なんの話だよ、いきなり」


「……ふふ、ふふふっ、実は、もともとね、最近、身内がここの工事の取り決めをしていたようなんだけどさ、突然、上から止めが入ってさあ。なんでかなって思っていたけど……お兄さんは最近、常にこの家を見張っているようじゃないか」


「証拠も……ないのに、たいした狂言者だな。呆れるよ。お前は、バカなのか」

「わざわざ作ってやった隙に、のこのこと現れて、あっさりと気絶させられたようなうっかりさんに、言われると、実に恥ずかしい気持ちだね、ふふ……」


二人は、なんの話をしている?
二人が、どうして、ここにいる。ぼくは、ぼくは、どうして、何があった。
だいたい、ぼくはただ、久しぶりに外食をしたってだけで────あれ?

「……あの子を、連れて帰る約束自体は、本当にあったんだがなあ」

「あー、そうだろうとも。でも、まあ、仕事が減って良かったですねーお兄さん」

「減ったのは手柄だ。誰かが邪魔したからな」



「待てよ、この人は、ここに泊っていたんだろ? だから、その……」

「スーツについてか? ただ単に、俺が着替えたんだよ」

なんのために。
それを、聞くことが、許されないような気がして、ぼくは聞けなかった。
──汚れたから、着替える。
誰が言ったわけでもなく、なんとなく、そう思っているぼくがいた。でも、深く考える気はない。

というか、まず彼はどうして、ここに来ていたのだろう。どうして、隠れていたはずなのに、今になって出てきて、目的なんて明かしているんだ?
なにがしたいんだよ。
どれが、本物なんだよ。
そうだよ、ぼくには、わからない。個人の、他人のことなんて。周りがぼくの行動原理がわからないように、ぼくも──彼らのことを──全く見ようとしていなかった。
残酷な現実、差異を見るのが、悲しい。悔しい。苦しい。だから、見なかった。
 あえて皮肉みたいに言うなら、互いに『わかりあうことはない』ということを、わかりあえていたのかもしれない。

 それより、と声がかかる。なにかが、わかったような、そんなことを、まつりは言った。


「──もう少し、捉えるべき情報は、絞っていいんじゃないかな。関係ないものまでごちゃごちゃしてたらそのまんまの道筋が、見えなくなるだろう。寄り道も、悪くはないけど」

今になって──今になって?
様子を見ていたようなことを言う。いや、そういえば、最初の辺りから、まつりは言っていたっけ。
ぼんやり、思っていたら、まつりは言った。
呆れるような、憐れむような、優しい目をしていた。

「誰のせいにもしない、誰も疑いたくない。さっきから、きみの視点があっちこっちに広がるのは、そういうことだろうって思うんだ。現実を把握したくないんだって。『自分のせいにしなくて良いこと』は拾って、自分を追い込むのにさ」

「なにを、言ってるんだよ? 誰かが悪いって、いつ、そんな話に」

「犯人がわかったところで、その犯人の気持ちもわかってしまう気がして、誰も責められない、そういう奴なんだろうね」

「ち……違う、わからないから、わからないから……知りたいと、思ってしまうんだ。誰にも知ろうとされなかった、突き放された頃のぼくを、重ねてしまうから──」

勝手に、守ろうとしてしまう。
怖くて、痛くて、悲しくて、どうしようもなかった頃を、思い出してしまう。


スプーンが飛んできた。
特に、意味があったわけじゃないんだろう。ただ、遮りたいという衝動だったんだろう。
ゆっくり視界に捉えて、柄の部分をしっかりと手のひらの真ん中に包んだ。
ある程度の余裕をもって、それを行えた。大丈夫、ぼくは、落ち着いている。


「なるほど、優しい、って、わりと、そういうものってこともあるかもね。重ねてしまうものや、わかってしまうことがあるから、守ろうとしてしまう──だと、しても……さ。それ、じゃ」

なにかが、床を打ち付ける音がした。なにかが、なんなのか、一瞬、判断出来なかった。
目線の先、視界に、さっきまで話していた人の姿がないことに、数秒かけて、ぼくは気付いた。さっきから気配がしていないと思ったが、いつの間にか兄は帰っている。

 やられた。と思った。《過剰な出血》が《嘘》だとしても、それを嘘にすることで、傷自体を誤魔化されてしまっていたらしい。

安心してしまって、全く、気付くことが出来なかった。まつりは、ずっと痛みに耐えていたのだろうか。しかしそこまでして、ここに留まり、稼ぎたい時間が、あった、ということ────?

 なにか、見逃している気がするのに。なにか、なにかを──気付けていない。

「……起きてる?」

足元に倒れた人物に、声をかけてみたが反応がない。顔が、青白い。無理なんて、しないでくれと一方的に思ってしまうのは、そうまでしたかった、という根性を、貶してしまうことになるのだろうか? それでも──無理なんてしないで欲しかったのに。


「……どうしよう」

誰か呼んでくるべきか、と考えながら、もう一方で、回想を進め、同時に考える。
慌てる、悲しむ、という回路は、とっくの昔に、滅茶苦茶になっていて、こういうときも心の底から動揺出来ない自分は、冷酷なのだろうかと考える。考えても、どうにもならない。


「そうだ携帯――は、携帯してなかったな、そういえば」

――携帯。
脱走。
彼女は、脱走を知らない?彼女は――過程を知るだけで真相を、知らない?

「すごい音がしたけど、大丈夫!?」

白いワンピースのコウカさんが、慌てたように、中に入って来た。
そのとき、あれ、と思った。
 なにか、引っ掛かる。
彼女が、最初にも、こんな風に出てきたときの、違和感。

「大丈夫、かわかりません。通報、してもらえませんか、電話、持ってなくて」
「わかりました」

彼女がどこかに駆け出して行く。どこだろうと、壁で見えなくなるギリギリまで目で追うと、使うのは鍵室にある電話のようだった。しばらくして、彼女は戻ってきた。

「『これ』は繋がっていない」

と言って。

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