丸いサイコロ


<font size="4">20.いづれ実行出来るなら、真実と同じ</font>


 ぼくは優しいを超えて、病的なのだろう。でも、そうせずにいられない。覚えている限りのことは、出来る限りのすべて、寝覚めを悪くする結果にしたくなかった。狂っていたって、これ以上、狂いたくない。
明確に思い出せるなら、根本を変えるしかない。覚えることがあるほど、その中で、まだ変えられそうな余地がある記憶を、あら探ししてしまう。


 過去を引っ掻き回したって、何もかもが、既に変わっているのに。後悔以外はそこにないのに。




 現在、昼間送ってもらってきたのと同じ車の中で、ぼくはぼんやりと、片方のコウカさんと話をしていた。密室。甘いにおい。目が回る。



「……姉さんが、あれから帰って来なくて、だから私は、あなたに聞いたの。別荘はどこってね」


「……ここ、だと、ぼくは、思っていました。その日は、あなたも、あなたを……コウカさんだとも、思っていましたよ。ぼくは、人が変わっても、そのときに、そこにいて、なおかつそっくりだったら、見分けが、つかない。似た人が、屋敷内にいるからこそ、あの日に、コウカさんが監禁されたとも思わなかった」

 細かい違いなら近付けば、分かるかもしれないが、ほとんど知らない女の人にそんなに距離を詰めることなど、ぼくはできない。

只今、彼女が近くの病院に、電話(部屋のやつだ)をし、すぐに来た救急車を見送って、病院で少し説明など(事件性がある話にすると、この場合ややこしいのだと、彼女が無理矢理のような事故話をでっちあげていた)
が終わってから、帰りの車内で、彼女と話をしているところだ。

「私も……あなただけじゃなく、誰にも気付かれなかった。本当に、そっくりだったもの。嘘でしょ、ってくらい、気付かれなかったわ。あの家の方だって、特にどっちがどっちか、わかっていなかったしね。居なくなっても、代わりは居たし。小さな女の子――あの子も、エイカの異変なんて、気付いていなかった。だから――――途中からは、私が、姉に代わった」

「ヒビキちゃん、は──じゃあ、あなたを」

あなた。自分で言ってから、ひどく胸が痛んだ。

『──あなたは、誰』

 病室の映像と、そこにいる人物の言葉が浮かんだ。振り払うように、あわてて口を開いて、続きを言おうと、した。
『……いろいろ、あったからね』

『お前は、そのとき、どうしてたんだ? どうして、そんなことを、知ってる?』
『お茶を、飲んでいたかな。外が、急に騒がしくなって、みんなが上に行ったから、代わりに、地下の書庫に行こうとしていた』


ふいに、そんな会話を思い出す。なんで、このタイミングで。
──ん?
外が、急に騒がしくなった?

ぼくは、誰にも見られずに、半分くらいは自分の意思で、付いていったし、中の人にバレた様子も、その時点ではなかったはずだ。
なにに騒がしくなっていた?
っていうか、ぼくの思っていた『そのとき』と、あいつの思っていた『そのとき』がずれていないか。

「コウカさん」

「なんですか?」

「……もしかしたら、その」

「いいえ、違う。その夕方にね、あなたが居なくなったから、って、あなたの母様が、お屋敷に来たのよ。それで、一騒ぎあったみたい。門限を過ぎているにしても、あまりに遅いって。地下に行こうとしていたまつりさんは──でも、そこで、気付いたんじゃないかな。そこにいるあなたに。それから、たぶん、慌てて戻ってきて、適当に事情を作って場を収めた」


たぶん、その場面で、うちにいます、なんてあの屋敷の中の人が言ったりしようものなら、ますます事態が大きくなるから。
屋敷の人はほとんど真相を知らないし。


「まさか――でも、だとしたら……」

ぼくは、咄嗟に脳内で推測を組み立てていく。
でも、やっぱり、なにかが抜けているみたいだ。どうも、何かが、ずれている気がするのに。見逃してきたことが、たくさんあるような気がするのに。

 先に来ていたエイカさんは、来賓館で、既に殺されている。それには兄が、関わっていて、榎左記さんが、関わっていて……

だめだ、わからなくなってきた。これでは、不十分だ。なにか引っ掛かるのに。不自然なのに。

なぜ、彼女の居場所を、榎左記さんが知っているか、とか、そんなこと以前に、もっと根本的なことが。
大切な、ことが。
 急に、じわりと痛みが押し寄せてきた。胸の奥に、耳に、目に、頭の深い場所に。

『あなたは──』

あなたは、あなたは、あなたは、あなたは。
その言葉、たった一言が、絶望のような優しさで、希望みたいな残酷な響きで、鼓膜から、脳髄までを、支配する。
病室、ベッドの横のボタン。腕の番号。テレビ。
ベッドの上に座って、きょとんとこちらを見る目。
布団。毛布。棚の位置。消毒のにおい。そこにあるかのような映像が、消えない。
そんな目で、見るなよ。
やめてくれ。

「……帰りますか?」

コウカさんは、言った。
車は、赤信号で停止中。
どこに、という問いかと考えたが、聞く気にならなかった。
ぼくは、顔を上げそうになって、うつむいていたことに気が付く。泣きそうにはなるのに、やはりぼくには、泣くことが出来ないようだ。
どちらとも取れるように、ぼくは返事を返した。

「……はい、確かめたいことがあるので、来賓館に、もう一度、寄ってください」

信号が青になった。
車は再び走り出す。

「コウカ、それから、少年、お帰りなさい」

「……はい、ただいま、帰りました」

館に戻ると、もう一人のコウカさんは、食堂で紅茶を入れていた。
ポットから注がれるそれは、甘い香りがして、心が安らぐ。彼女は、用意していた人数分のカップにお茶を注ぎ終わると、蓋を被せて、少しだけ待ってね、と言った。

「浮かない顔をしているね、何かあったん?」

「コウカさんが連れ去られた間、あなたは、どうしていたんですか?」

「……私は、連れ去られてないよ?」

「あ……そうでしたね、その間、あなたはヒビキちゃんに、会っていたんですか」

「……そうだね。《最後》に、ヒビキちゃんに会ったのは、私。でも、私は二人ほどは性格が似ていないからね。彼女に言ったよ。『もう、ここに来てはいけない』って。もともと、そういう契約でもあったし」

「それで」

「彼女は、あなたが妹さんか、って聞いたよ。そうだって言った。エイカのことを聞かれたから、知らないって言った。――ああ、確か、きみなら、何か知ってるかもって言ったよ。それからは、来なくなったかな」

「……ぼくは、そのとき、彼女に、なにか、会うことがあったんでしょうか。思い出せないんです。どうしても」

紅茶を差し出された。
ぐいっと飲んだ。思ったより、熱かった。
ごちそうさまです、とぼくは言った。

「……さあ、私には、わからないな」

「私にも、わからないよ?」

 二人のコウカさんは、苦笑いのように嘲笑いのように、笑っていた。なにか、知ってるようで、なんにも知らないような、怪しさがあった。

「きみは、確かめたいことがあるんじゃなかったの?」

「ええ……わかりましたよ、だいたいは」


投げやりにいって、ぼくは二階へと急ぐ。急ぎのようがあるから、というよりは、ただただ、居心地が悪かったからだ。


「ヒビキちゃん」

廊下まで進んでから、確信はないけど、ぼくは彼女を呼んだ。なにも、返って来なかった。

「ヒビキちゃん。ヒビキちゃん……」

やはり、なにも、返って来なかった。わかっていたような、いなかったような、曖昧な気持ちで、ぼくは、奥へ奥へと進む。
食料庫について、扉を抉じ開ける。鍵がかかっていたようだが、力を込めれば、それなりには、開かなくもなかった。僅かに出来た隙間から、棒の代わりに、近くの掃除用具入れのモップを差し込んで、無理矢理隙間を広げる。

そのとき、激しい音がして、衝撃に驚いたぼくは咄嗟に後ろに離れた。
何かが、どこかに転がったような音がして、場が静まる。突然のことに、驚いたぼくは、しばらくその場から動けなかった。

「――さっきのは、ほとんど空気だよ。なっ、この方が、早いじゃん?」

なにが、なのかぼくにはよくわからないことを言いながら、ジーンズ姿のコウカさんが笑う。
しゃがんで、ヘアゴムを拾い上げた。さっき転がったのはこれだったらしい。
 彼女は《何を》使ったのかは見せなかった。さっさとズボンのポケットにしまいこむと、食料庫の入り口に手をかけた。既に鍵が壊れているのか、簡単に開いた。

「――残念だけど《これ》をしたのは、私でも、もう一人のコウカでもない。それは、それだけは、わかって欲しい」

扉が開いて、油みたいなにおいがした。だけど、思っていたとおりというか《あのとき》みたいなにおいはしない。

「ぼくは、疑っていたなんて、言っていませんが……」

「疑いそうだったからね。先手というやつだよ」

「……そうですか」


昼とはいえ、真っ暗なその部屋は、少しひんやりしていた。ここも、地下に続く階段がついている。15度くらいに保たれていたはずだ。
足が震えなかったかと言えば、嘘になる。進みたくないような気持ちの方が、正直、大きかった。
それでも、ぼくは、《そのこと》を確かめずにはいられなかった。

「あ、明かりになるようなもの……持ってきてもらえませんか?」

今さらのように気が付いて、ぼくは彼女に聞いた。
彼女は、曖昧な笑顔を浮かべ、待っててと言って奥に走っていった。
地下の階段をのぞき込む。あのお屋敷の中の場所とは違って、ここはよく冷える。上着をしっかり着直して、そのそばにしゃがんだ。扉を閉めていくせいで、本格的に真っ暗になってしまったが、また開ければいいので、ひとまずは気にせずに、闇の中に座り込む。

そのときだ。
背中を、誰かに押された気がした。
闇が、ぼくを飲み込む。
美しい七色の幾何学模様が、ぐるぐると視界に広がる。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、赤、青、黄色の、三角や丸を、しばらく眺めているうちに、それらは弾けた。

一瞬の夢から覚めて、しかしまだ、体が闇を漂う。 これが、いわゆる、タキサイア現象、というやつだろうか。
脳の錯覚とされているのだけれど、危機に陥ったときに、情報処理速度が一時的に上がるんだかなんだかで、空間が止まって見えるらしい。
(ただ、昔ある実験で、スカイダイビングか何か、危ないことをしながら、被験者に数字を見せたが、正確に読み取れない、というものがあったとまつりが言っていた。危機感を覚えてなかったのかもしれないし、結局よくわからない)

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