丸いサイコロ
呆れてしまったのか、ほっとしたのか、悲しかったのか、ぼくには、ぼくの気持ちさえ、わからなかった。複雑な気持ちで、少しだけ、笑えた。口のなかが、酸っぱくなって、頭の奥が、痛む。
苦しくなって、痛くて、怖くて、全部が、どうでもいいような気がした。
「燭台は、上の、食堂に行くとこの廊下から移動させてきたんだよ。最終的にはここに来るって、わかってたからね」
「お前って、よくわかんないところで忙しいよな……って、おい、チャイムはどっから押したんだ。足音は」
「きみは、よくわかんないところで、鋭いね……それはまあ、今は後にして……っと」
──よっ、と館内に降り立つと、まつりはまっすぐにこちらに向かってきた。
そして、じっとぼくを見て、ぼくに技術があったら既に立体像が作れていそうなくらい、観察をしてから、ああ、と言った。
「裏口を使うときほど、つい表に立ちたがる――ってやつだね」
「……ぼくを見て言うな」
意味がわからない。
「んー? えへへへ。で、えーっとね。えーっと。どうしようか……当初の計画が、すっからかんに抜けちゃってて、えーっと」
じろじろと周りの人物たちを見渡して、まつりは首を傾げた。毒気も何もなく、ただ、純粋に、ボードゲームの駒を、どう動かすかと思案を巡らすようにして、考える。
「ああ、わかった。だから、つまり……」
そして、そう言いつつ、服のポケットから、携帯電話を取り出し、どこかに連絡した。
すぐにどたどたと、足音がして、その人が戻ってくる。それは、幼い少女だった。
紛れもなく。
「ヒビキちゃん……!」
「――ああ、寄るなロリコンめ」
しかも、とんだ誤解つきだった。冷たい目でぼくを一瞥してから、電話の相手にきゃんきゃん吠える。まったく、誰に何を植え付けられたんだ? いけないな。
――でも、生きている。ちゃんと、生きているんだ。ああ、良かった。
「貴様がチャイムだけ押させて、置いていくから、迷うところだったぞ!」
「おかえり、ちゃんと、見つけられたんだ。えらいえらーい」
まつりが、からかうようにほめたが、彼女は今度は、とくにコメントしなかった。あきらめの対応を見せている。早くも、学習したらしい。
「さみしい反応ー」
と思ったが、頬を引っ張られて、やっぱり『何をする!』 と叫んでいたので、そうでもないかもしれなかった。
「まったく、きみが余計なことをするから、手間をかけてしまった」
「余計って……」
言い返そうとしたが、そういえば、確かに、何かを、忘れている気がする。
忘れまくっている気がする。
「なんだっけ……たしか、たしか……」
「――そうだ、おねぇちゃんは、お前に《裏切られた》ってわけじゃない。ちゃんと、知っているよ。悪かった。ただ、あの場では、そうする必要があったんだ」
「嘘……生きてる……ちゃんと、生きてる」
初めて、彼女が、取り乱した。コウカさんだった彼女は、今は、ただ、誰かを気遣う女性だった。
「自分の姉の、とはいってもこんな小さい娘が、知ってて協力していたって、気付いてどんな気分だった? それを気に病んで、誰かを攻撃したり、自殺したってどんな気分だったかな」
「え、あれ、自殺――の演技だったの?」
「演技……いや、ちょっと、違うが、半分くらいはな。ちゃんと、洋服の胸元に焦げ痕のメイクまで付けていたってのに、ロリコンには直視出来なかったらしい」
「いや、血がさ、多かったんだよ……」
「こいつは血のりに萌える性癖なんだ」
まつりが余計な情報を付け足してきた。ほとんどぼくで遊んでいる。
ヒビキちゃんは言うまでもなく、ドン引きしていた。
「よ、余計なことを言うなよ!」
「そこは否定を選べって……冗談で言ったのに」
そうだった。
落ち込んだついでに、ひとつ思い浮かんだ。
「あ――手紙……そうだ、手紙だよ。脅迫のやつ――」
「あー、えーっと。言わなかった? おかしいな。言った気がしてたけど。そうだね、過去に言っていたら、覚えてるから、こんな混乱はしなかったよね」
「ああ」
「──まず、この館をそう呼ぶ人が、限られてるってことは、きみにもわかってるでしょ? だから、そうだな、うん。書いたのは――そこに関わっていた人になるわけだね。ここで、姉というのが指すのは、おばさまなわけです」
「はあ……」
「そんで、それを再現したものを、ちょうど良さげだったので、このちびっこに送りつけたのでした」
ちびっこってなんだよ!と文句を言われているが、まつりは不思議そうにぱちくりとそちらを見ただけだ。まるで、既に用意してあった答えを聞いてきて、代わりに喋っているみたいに、実感の伴っていない声だった。
いつだったか、ぼくは、あいつが、分厚いメモ帳を持っているのを見たことがある。腕に書くだけでは、足らないことも、あるだろう。
ちらりと隙間に見えた内容は、暗号じみていて、ぼくにはまったく理解出来なかったけれど、記憶の羅列を知識の記号として、読み込むという、その行為の大変さは、ぼくには想像を絶する。
何度も何度も、プログラムを、読み込んで読み込んで、読み込んで、修正して──
それは、どんな気持ちなのだろう。
「ああ、なるほど――そう、だったんだー……なるようになるかなって。どうだったところで、どうにもならないし」
どこか、残念そうな視線を向けられた。
「ちょっとは考えてよ。ばらまいた伏線を総スルーどころか斜めに大逆走って、まったくいい度胸過ぎるよ。問題からは答えが出せるけど、答えの中から問題が出せないってことかな」
「……いやね、ちょっとは考えたんだよ、ちょっとは。でも、なんていうのかな……むしろお前の存在が嘘だったんじゃないかと」
「話がえらく飛んだな。そして、そこは疑うなよ」
佳ノ宮家は、身内で物騒な兄弟喧嘩が絶えない頃があったらしい。連れてこい、と指示されたのが誰だったのかと聞けば……たぶん、まつりなのだろう。したっぱだったからねーと言うが、実際、身分というか……家族間でも、そういう類いは珍しくない光景だろうし。
今さらのように注釈だが、佳ノ宮まつりは、話を引っ掻き回して軌道をねじ曲げて、謎を作って、増やして帰る。そういうやつだ。ぼくは、たぶん、それに利用されて、遊ばれているだけなのだろう。
だけど、なんでか、こいつだからなのか――ぼくは、悪い気がしないようだ。
だって、それは決して『無意味』ではないのだから。
こいつは、何かを隠していると思った。意図的に、そこに触れない話をしている気がした。だって、それだけでは、おそらく――噛み合わない部分があるのだ。だけど、ぼくもあえて触れない。
――でも、本当に、なんだったんだろうか。『あれ』は。なんて。
「見ていた限り、今回そこに触れたら、ショートを起こしそうだと思ったから、やっぱり、やめておいたんだ。あ、ショートニングじゃない方だぞ」
「……その注釈は、いらないな」
本当に、全くいらない。
心の内をなぞるように、まつりは言って、ぼくはつっこんでおいた。
しかしそれが、なんの話なのかは、ピンと来なかった。それよりも、そいつの顔色が、明らかに悪いことの方が、気になって仕方がなかった。
「……お前まさかさ、強制痛み止めみたいなこと」
「あー、うん。無理矢理起き出してきたのは確かだな。えーっと。もう、ごちゃごちゃしてきたな。えーっと。あ、そう、この人なんだけど……」
ぴし、と指さされたのは、相変わらず、存在があるんだか無いんだかな、兄だった。そういえばそうだった。うーん。ぼくが認識しきれていないのだろうか。
不愉快そうに、鉄パイプを持て余している。
「あれ……誰だった、かな。そう、えーっと……あ、あの、会社の人の……えーっと。あの、なんだっけ、そう……とりあえずさ、そこの人。今日の件で《代わりになるお土産》を送っておいたから、帰ってくれていいと、思うんだよ。指定パスワードは、7から始まるやつを……候補から――」
それを聞いて、兄も、納得したようだった。
――結局、彼はなんだったんだ?
たぶん、部屋に待機していたのは、本当なんだろうけど。だってあの家を、彼が知っているわけがないし。身内から遠ざかるためにあそこを借りているのだから。
「……わからんが、わかった。弟の歪む顔を見られて良かったぜ」
「そこは同感だね」
いや……同感しないでほしい。なんてやつだ、と怒るところじゃないだろうか。
最後に満面の笑みのまつりが、兄に一言二言、なにかを囁いてから、兄は帰って行く。楽しげな様子に見えたが。
――今度こそ、帰ったんだろうな?
車のエンジン音がして、遠ざかる。そういえば、ここって、車かバスで来なきゃならない距離だっけ。
って待て、車、一台しかとまってなかったよな。 ぼくたちは、バスに乗れってことか。
「で、ええっと……」
彼女を見て、ぼくが、どう言ったものかと考えていると、ヒビキちゃんが、かばうように、目の前に出てきた。
「……いい。私が言う。『母さま』私は、確かめたいことがあって、ここに来ました。だから――あなたが仕組んだことを、そのまま利用させてもらいました」
彼女は、《娘》を見ても何も言わなかった。ただ、気まずそうに、目を反らしているだけだった。
それが、何を意味するのかは、わからないが、少なくとも、目を合わせるだけの自信が、無くなっているのだろう。
《この人たち》が、双子、と積極的に言っていることに、ぼくも気付いていないわけではなかったが、その理由を考えるのが、つらかった。
双子の名前は同じ?
そして、それと別に、エイカさんの名前が出てきたが、しかしそれなら彼女は、双子には、含まれていないことになるが。
みつ子、と言わないのは、きょうだいとは別に、双子が生まれたということかと思ってしまいそうだったが。そこに《いるべき》なのは、双子と、その母、のみであって――――
結論を出したわけじゃないのに、そこまで考えて、なぜだか、嫌な予感がして、――つまり《そういうこと》なのかと、聞くのが――怖い気がした。
母さまと呼ばれた彼女は、しばらく待たされていて退屈だったと言わんばかりの、壁に寄りかかった姿勢をやめて、起き上がった。
「でも、本当は──」
「まさか。《あなた》が、生きていたなんてね……」
ヒビキちゃんの問いを遮り、皮肉とでもいうような表情を浮かべて、笑う。心が痛むような笑顔だった。
ヒビキちゃんは、やはり、まっすぐに彼女を見ていた。怯まない。問いの答えを待っている。
「──ええ。私も、あなたに対しては、そう思います。まさか、あなたが『母さま』だったとも、最初は思いませんでしたし。で、茶番は結構ですので、私が聞きたいことについて、確かめたいことについて、お答えしていただけますかね」
「……何を?」
「あなたは、どうして私を引き取ろうとしたんですか。それから──どうしてとらわれていたあなたが『脱走』出来たんですか」
──ん?
いつの、何のことかと考え、順番を整理しようと、ぼくは日付を思いだそうとした。だけど、頭の中でぼやけて消えた。数字や日付は、ごちゃごちゃして、ぼくには、よく、わからない。カレンダーを見たことも、そういえばほとんどなかったっけ。
「あなたは……何が言いたいの?」
「──ときどき会いに来ていた人が、ある日を境に来なくなったから、こっそりと会いに行ったことがあるんです。
あの屋敷に入ったという噂は、私も聞いていましたよ。そのときは、ナナトって人がどうにかなってから、しばらく経っていた気がします。《その人と思われる人》が、お屋敷から出てきたので、付いて行きました。だけど──途中の道で、あなたが、出てきたのを見て、引き返しました。あなたは、あの人に何かをしたんですか?」
「……どうして、そう思ったの」
「それは……」
「違うよ。《彼女本人》は、それよりも前のことだ。この人は……」
まつりが、唐突に口を挟んだ。かと思えば、口を閉ざす。はっきりと言うべきか迷っているようだった。
まつりがあえて言わなかったことに対し、彼女は頷いた。意外とあっさりしていた様子で、ふらふらと、立ち歩く。どこかに引っかけたのか、ワンピースの裾が、僅かにほつれている。
「──ええ。私は《あの女》を、殺した。なんでだと思う?」
誰も答えなかった。
じゃあきみは、と、なぜかぼくに振られた。答えられなかった。
ぼくは理由なんて、興味がない。理由があっても、どうしようもないと思った。納得なんて、したくなかったし、考えるのも、あまりいい気分ではない。
『本当の理由』はいつだって、結局は《それらしい建前》の下に隠されることが多い。その理由なら、わかる。どうしようもないから。
「あなたが──守るため、ですか?」
「──まさか。あの家が嫌いだったからちょっと復讐しようと思ったの。でも、誤解しないでね。私が選んだのだから」
そうだろうか。不意に、たくさんの台詞、表情を思い浮かべた。彼女は、本当に、それだけだったのだろうか。
「──心配だったんじゃ、ないですか?」
心配、という言葉は、あまり好きではないが、そう表現するしか浮かばない。彼女は、明らかに動揺した。
「……なんなの、脈絡がない話をしないでよ。失礼なやつ。あなたは、人の話を聞けって習わなかった?」
「さあ。ぼくみたいな、最初から壊れてるやつと、まともにお話してくれるような、優しい人なんて、ほとんど居ませんでしたから……そういう礼儀は、なかなか身に付いていないかもです」
まつりの方を見た。
顔色が、さっきより悪い。微動だにせず、なんとか立っている感じだった。なんとなく、寒いのかなと思える。
あら? とか、やっぱり無茶なんだってとか二人が言っているのが聞こえた。
「大丈夫、じゃない、よなあ。少し休め。命令だ。病院戻るなら電話する」
大丈夫? なんて聞いたら、適当に誤魔化されてしまうだろうと、決め付けてみるが、まつりは笑った。楽しそうに、どこか苦しそうに。
「ははははっ、良い身分だね……きみが、命令するとは。大丈夫、結構時間をかけたけど、もうちょいで、おしまいなんだからさ……もう、少しだけ、時間を」
言っても聞かないよなと思って、とりあえず上着を脱いで頭に被せた。モゴモゴ言っている。内側には貼るカイロもついているし、少しくらいは暖かいだろう。
「なにを待ってる?」
「内緒」
赤ずきんみたいに、顔だけのぞかせて、そう言った。服の隙間から、そういえば持ったままだったロープが見えた。結局なあなあになって『懺悔させる』が完了していなかったように思うが。どうするつもりだったんだろうか。帰らせたのはこいつだから、案外、そこも抜けたのか?