丸いサイコロ
<font size="4">24.生き延びる死人</font>
「じゃーん、来てしまいましたー!」
突然、1番目の部屋のドアが開いて、誰かがこちらに歩いてきた。銀縁の眼鏡をかけた人だった。コウカさんに似ている。服装は、暖かいポンチョみたいなやつだ。わざわざ来るなって言ったのにとまつりがぼやいている。
さっきまでのんびり歩いていたぼくらの、今の目の前の部屋から、手を振っている。
「……うふふふ。あの音声、びっくりしたでしょう? 死んだって思った? カンカンカンカンって音がね、モールス信号をちょっといじった感じの改良版になっててね。『わ・た・し・は・ふ・じ・み』って! 私を見てくれた? ねぇねぇ」
もっと伝える文面はなかったのだろうか?
まつりはなにか嫌そうな顔をしていた。
「──嫌なことを思い出した……もっと早く気付いていればあのとき絶対断っていたのに……あんなつまらないパシり役……」
「何があったか知らないが、仲間関係が垣間見えるな……」
ヒビキちゃんが、珍しく、まつりに同情の目を向けている。真っ暗な目をして気味悪くぶつぶつ言っている。
「あいつも、苦労してるんだよ、たぶん……そっとしておいてやろう、さもなくば命が危険だぞ、っていうか、あれ? 誰だ」
彼女はぱたぱたとほこりを立てそうな勢いで、カーペットを踏みつけてぼくに向かってきた
「エイカねぇさんでーす。元気にしてた? してたよね、夏々都くん、久しぶり! うふふふ、可愛い! 成長したね、背が縮んだ?」
「そこは伸びたか聞いてください……いや、聞かないでください」
ある意味、泣きたくなってきた。なんだか、納得する。そうだ、そういう人だと、これが本人なのだと、しっくりくるようだった。おかしいな。
「――あ、そうだその前に、まつりんは、やっぱりダメダメですね! もっと早くて良いやり方があるでしょうに」
彼女は突然、いけませんよっ! みたいな感じでダメ出しを始めた。まつりはなんのことかわからず、きょとんとしている。
ぼくにもわからない。
「……なんの話ですか」
「さっきの、お兄さんの話!」
「ああ。あれは、これでいいんだよー。なるべく、時間はゆっくりかけないといけなくてさ」
「なんの話だよ」
「……んー、そうだね、おじさまとおばさまが、ここに、税金を払いたくないって――まあ、ちょっと、過去にそんなこともあってさ。
何で儲けたのかは知らないけど。──まあとにかくそれについても、同時に調べていたんだけども。あの人は、うまくやるよね……人の隙間に滑り込むのが、うまいって感じ。ちょっと気にくわないことがあったし、その話題でこっちに呼んでみたら、あっさり来てくれたよ。まあ念押しってあんまり役立たなかったけど、確実性は大事だからね。まあ、彼自身にも、他に目的があったらしいんだけど」
「それで……埋めたの?」
「さあね。まあ、身内の話はあんまり――しない方がいい。あんまり、言いたくなかったからな。細かいところは想像に任せるよ。それに、あながちそれにも関わっていないわけじゃないというか……完全にそうじゃないわけじゃないからまあいいかなと」
あれ? なんだろう。じゃあ、もしかすると。
――また、騙されて、いた?
おかしいな。どこか、納得が行かない。
なんで、わざわざぼくに……
というかあのタイミング?
「……で、誰だったの」
まつりが聞いて、エイカさんがそっちを見る。
なんの話かはぼくにはよくわからないが、これは知らなくてもいい気がする。
「その《彼》」
「あー、だろうねぇ……じゃ、帰る。聞きたいことはだいたい聞けたしね。あと、あんまり出てこないでくれる? どんな格好してようが、わかるから」
「え、寂しくない?」
「黙ってろ」
「むしろ私が寂しい! ……お茶しましょう」
二人がコントみたいな会話をしているなかで、ぼくはぽつんと考え込んでいた。さっきから、どうにも、なにかを誤魔化されている感じがあるが、やっぱり思い当たることが出来ない。──ん? あれ?
『最初に言ったようなこと』って、ぼくはあの子に話したっけ。それに、まつりがあのとき言った『彼女』って、それじゃあ──
「それならやっぱりあの人たちを連れて来たのもそうなるのかな。あー、だったら分かりやすくていいね。《彼女と共通の話題がある》人は、限られるからね」
まつりが話をしているが、あまり頭に入らない。ぼんやりする。
「あ、そうそう。帰って来ていなかったのは、勿論、彼女が逃げていたからだよ。あれから、あそこに入ってもらっていると、こっちとしても手が出せないから、一度、逃げてもらったんだ。なにより直接聞きたいこともあった。あっちはあっちの担当がいるからね」
「……わざと」
「ん?」
「わざと、なのか……」
ヒビキちゃんの悲しそうな声が聞こえて、少し、はっとする。まつりはなんのことか、わかっていないようで、少し考えてから、そうだねと言った。
「目に見える結末を与えた方が、少しは口が軽くなる。《終わった》と思った方が、話してくれるものだから。ときに、どんな優しい言葉よりね。意味がある無意味ってところかな。ただし、使い方を間違えちゃいけない」
深いのかよくわからないことを言って、まつりは静かに小さな彼女を見ていた。二人の間に、何か他にも、いろんなやりとりがあったのだろうか。ヒビキちゃんは、それを聞いて、静かに、しかし悔しさを込めて言った。
「あのひと……知らないことを、知っていた。だから」
突然、叫び声が上がった。ぼくの背後にいた、コウカさんだった。
「な、なに!?」
気が付けばその腕に、まつりがどこからか出したロープを巻き始めている。逃げる間もなかったようで、彼女はすっかり拘束されてしまっていた。ロープに深い意味はなかったんだろうか?
「──うん。優秀な子だね。そうそう。そういえば、あの死体が誰かについて、あの場で直接的に言ったのは、おまえだけだったなあ。ずっと、あれから変装し続けていたおまえだけだ。──あ、助かったって思ってた? そんなわけないよね」
きょとんと『わんちゃんお散歩行く?』とでも聞きそうな、純粋な目でまつりは彼女を覗き込む。
怒ったり、笑ったりもせずに。
「……あの死体って、別に、それに、あの場にいたらそう思」
「目線がそっちに動いたのも、おまえだけだった。中身入りだって知ってたよな。──まあ、こんなことしなくっても、お前のしたことは知ってたんだよ」
「な、仲間だろ! だから、見逃してくれたんじゃ」
ああ、とまつりは言葉を切った。それから、子どもを諭すような優しい笑顔で言う。
「そういうのって──大っ嫌い」
□
「……あなたちって、本当にいちいち言葉が足りてないのね」
このうすら寒い夜に、わざわざバルコニーでお茶を飲むのは何でだろう、と思ったが、いつの間にかお茶会になっていた。
果たして女性は寒さに強いのだろうか。
彼女は、どこか裏っかわの方の部屋に居たらしいが、誰も来なかったようで、つまらないので途中から大きい部屋を使おうと思ったが、やはり誰も来なかったらしかった。
本来の母、という彼女と再会したはずらしいヒビキちゃんだが、どこか嬉しそうではあった。
とはいえ、いきなりは話すことが浮かばないのかお茶を飲みながら、黙って彼女を見守っている。
「必要ないんですよ。ある程度があれば」
「あら、でも、それだと誤解されまくりじゃない? 周りから」
「あなたみたいな人がわかってくれるならまあ、いいんです」
きゃっうまいのねーとか言っているが、別にぼくは、そんなつもりではなかった。複雑な表情になってしまう。
「あーあー、誰かさんのせいで、最悪……いたたたっ……死んだことにすりゃあ、わざわざ会わずに済んだのに、いたたた……」
まつりの記憶が持ち続けるというのは、ぼくには奇跡みたいで、だけど、苦しむ顔を見るのもあまり楽しいものではなかった。
「結構ざっくりいってんだな」
「痛みは、生命の危機だからね……細かいこと、考えにくく、なるし……長年の推測の成果、だな。根本的に解決してないけど。と言っても、概要と、一部のことは、抜けている」
「あの……結局……どういうことで、どうして生きてらっしゃるんですか?」
ヒビキちゃんが聞いた。
エイカさんが、クッキーを紅茶に浸しながら答える。ここだけ切り取ると、優雅な絵だった。
「まつりんは、そもそもあなたを私に会わせたくなかったのよ。それに──榎左記さんを殺害した彼女は、私が死んだことを知っていて、犯行したらしいの。だからね、ややこしくなるから引っ込めって。彼女もいなくなったし、出てきたの」
「全っ然答えてないぞ?」
「黙りなさい。私が生きてた理由? それは簡単。死んだことにしなさいーって言われて、ここに住んでたの。まつりんが『お金のことで、バラされたくないことがあるはずだ』って脅して借りきってね。でもそろそろ限界でねー。更なる脅しが……」
「それだと、今までどうしてたかしか説明してないぞ。あと脅しとか人聞き悪いこと言うな。ちょっと、その──、優しい人だから、お願いしただけだよ」
「あなたって人のことなら理解出来るのね……」
まるい木のテーブルに置かれた紅茶は、セイロンの……なんかよく知らないやつだった。少し、独特の苦みがある。熱かったので、湯気をぼんやり顔に当てて冷ましていると、怪我人(なのかもわからないが)のくせになぜかハイなまつりが違う話題を提供した。切り替えが突然だ。
「あっ、にしてもあの演技には、笑えたな……なにより、あの将来の夢は素敵だったぞ」
「うるさいなあ」
ふふふふと、ヒビキちゃんも笑いを堪え切れないでいる。エイカさんはテープあるよね、録音ばっちし!? とか言っている。
……つらい。
「兄にさ、言われたんだよ『ぼくがいると都合が悪かったんじゃないか』って。それで最初はそうなのかーって思ったんだけどさ……ぼくがいると都合が悪かったんだとしたら、どうして《ぼくのときは》殺さなかったんだ? ってこととか……だって、難しくなかっただろ。うーん。うまくは言えないけど、それは、ぼくと関わりがあるからか、またはそうするとまずいから……あれ、なんか違うな、ぼくは本当にそう考えたんだっけ? えーっと、とりあえず、あれは、なんか直感的に嘘っぽいと思って、でもあの場はあいつに合わせるしかないかなと……」
もっと違う要素があったはずなのだ。それに所持品の確認なんて、一度もされていないし、ぼくはあれをもらって帰っていない。見張っていたくらいなら、わかるんじゃないだろうか。
昔のことなので、ぼくも、一瞬は、もらって帰ったかなと考えたけど。
っていうか、あいつはなんで突然ぼくを突き落とした?
『――残念だけど《これ》をしたのは、私でも、もう一人のコウカでもない。それは、それだけは、わかって欲しい』
そもそも彼女は先走っていた。ぼくが考えていたのは、別のことであって、彼女の思っていたことではなかったのにな。それ以前に、既に彼女の中ではボロが出ていた、と考えることになるけど。きっとあいつが片付けたっぽいし。
そんで余計に彼女に信頼されてたんだろうに。
それでもまだ残っているかも、とは思ってしまうくらいには、不安があったのかもしれない。
まあ、突然自分たちの名前を出すなんてのに、引っ掛からないわけじゃないんだけど────
「これなかなか面白いから、また今度焼き増ししておくよー」
わー、やったー、とエイカさんが喜んでいる。
っていうか、誰も聞いちゃいねぇ。あとどっから監視出来るんだ? いつからそんなシステムが。
「なあ……ぼくをいたぶって楽しい?」
「楽しい!」
いい笑顔だった。
ああそいつはなにより、と受け流して、ぼくは再びぼんやりすることに決めた。関わるだけ無駄だ。結局兄は何をお土産にしたんだ? まつりは、あいつに何を言ってたんだ?
いろいろ、わからない。
エイカさんが誰に向かってなのか、話を再開する。フリーダムな人たちだ。
「──でね、犯人を探す気なんてなかったまつりんは、最初っから『どちらでもいいから、酷くいじれば』なんかそれとなくわかるーって考えたのね。悪趣味だから」
「……悪趣味で悪かったな」
「それに、私が死んだんだーって諦めてもらうには、なんかそれっぽくする必要があるのね。それとついでに、悪ノリした。ああ、そもそもね、私が、どちらか榎左記里美本人を、殺害してるかもーって最初に言っていたのよ。最近、ここで、白骨みたいなのが見つかって、ね」
「──えっ、そう、なの?」
知らなかったようだ。そして自力で解いていたらしい。いらないことさせやがってと言いたげな目をしている。
「……あ、そういえば工事の人には、言うのを待ってもらってるーってのも、なんか聞いてたな最近。しかもおじさまが、なんだか焦ってるんだっけ。あれ、これは違う話か」
「さあね?」
「……、こほん。だって私、そのときはもう、ここに《生きる死人》として住んでたし。《あの場所》にいると、なにかと面倒だからね。ちょくちょく部屋は変えていたけど」
そこで切って、ヒビキちゃんを見つめる。彼女はどこか不思議そうに、体を背けた。
「まあ、確かに最後に娘を、思い出したと思うわ。違う意味では。……って、あなたまさか本当になにも覚えてないの?」
それはつまり、情報を盗んだ、と言われた二人のうち、片方の彼女だ。彼女は《あの人》の方を既に殺害している。それは、もちろん榎左記さんではなく、《あの人》だ。
「──ねぇ、あなた私に関すること、忘れ過ぎてない? どうしてつまずくところが、そこなの!?誰も、つっこまないのはなんでだったの?」
「え──ああ、えっと……その、なんででしょう? なんか……小さい子に泣かれてると……」
「あ……だとしたらあの軽い報告書が、書き間違ってるかも。結構、覚えてないし、あんたのこと」
急に、エイカさんの表情が、険しく変わった。
「……え? なんで、今持ってる? それ」
「いや、頭に入れてるー」
内容を聞いて、ますます彼女は深刻な表情に変わっていた。
「そう。だとしたら……変わってるわね、一部。順番も、ちょっと、違う」
まつりも、複雑な表情で考え込んでしまった。心当たりを検索しているんだろうか。
「……そうじゃないかと勝手に進めておいたけど。やっぱりそうか。おそらく、あれが足りないし、2と……3の手前にも、あれが入る、のかなあ……」
気付いたことがあったので、空気を破ってしまうと思うが、さりげなく質問してみる。
「……あのペンダント、やっぱり、部屋に置きっぱなしにしてたんですか? なにか重要なヒントかと思っていました。だってあれの傷が一致するのを付けてたのは、《死んだはずの》あなたですし……」
そういえば、悪趣味なら、この人も負けていないと思う。大したことじゃない、と思っているのだろうか。いや、別に今さらどう言われたって、どうしようもないけれど。もし、あの話自体が嘘だったなら、だいぶんぼくも、なんというか──複雑だ。
他人行儀な態度でも、ちょっとは許してほしい。
彼女はもっと打ち解けて欲しそうだが、距離を感じる。
「──ああ、そうね。落としてたのかしら。あれ、あなたたちの話からすると、あのとき、あの子が知らせるはずだったんじゃない? 私が生きてるって。
でも、それも叶わず、鳥が室内廊下に落としたのかしらねぇ。あのまま、拾ってどこかの部屋に置いたと思ってたけど。今度はまた、中に入った誰かが間違えて付けちゃったのかな? っていうか、ん? どうしてあのペンダントのことがわかるの? 気持ち悪い!」
……なれてるけど、さ。傷付くなあ。やっぱり。
それにしても、生きていると知らせることが出来ていたら、変わったんだろうか。彼女たちの何かが。
「──あれ、だとしたら、最後の、あっちのコウカさんは──誰を?」
ヒビキちゃんが話を変えてくれて、助かった。
まつりが、ぼんやり考え込んだまま、呟いた。
「名前は、言えないけど、恩人、かな」
ぼくは思っていた。鳥って結局何者なんだ、と。
「……で、本当はどうしてわかったんだ?」
「え?」
またしても話が変わった。ぼくはなんのことかと首を傾げる。ごき、と嫌な音がした。こっているらしい。なんとなく恥ずかしくて、後ろに手を添える。
「あんな状況だけなら、別になんとも言えないだろ。榎左記里美だと断言するなら、わりと、はっきりした物が必要じゃないか」
「えーっと。言ったらさすがにドン引かれるレベルのことなんだよ。まじでこいつ何、って言われて傷付いたことあるのに、今さら、わかってたって言えるわけがない。普通の人なら、見ないことだからね……そういうのは証明には使えないだろ?」
「あ。まさか、部屋に行ったときに、タンスを開けて……」
「……あ? ああそうだ引き出しは開けたかもな」
ひい、とヒビキちゃんが逃げている。まつりは楽しそうに、クッキーを一口で食べた。……ちゃんと噛みなさい。じゃなくて。
「うーん、そうだな。《変わっても変わらないもの》ってあるだろ?」
苦し紛れで、ぼくは言った。カップの紅茶を飲み干す。辺りはだんだん冷えてきた。
「……だから、一緒に生活したことがあるか、または、その子のプライベートについて知ってるんだな、ってあの人にだけは、思っていたんだけどね。ああ、ヒビキちゃんはなんでわかったの?」
目をそらされた。
答えたくはないようだった。ふいに、思い付いたことが気になったので、まつりに確認してみる。
「で、本当はあの紙ってのも、別の意味で――――」
『あなたが逃げたことで、私が連れさっていたことがあなたからバレて、私たちの関係も、あの作戦も、そのうち公になってしまうと思ったから』
意味をくんでくれたのか違うのか、思わせ振りに目を閉じると、まつりは笑った。
「……さあね?」
<font size="5">25.真っ白な本当</font>
薬のにおいがする。
白い部屋。
思考を麻痺させるような、清潔な空間。
スライドのドアをゆっくり開けて、その重みをなんとなく感じながら、ぼくは、その奥の、白くて柔らかな布団を見つめる。そこには、あいつが眠っていた。
それはまったく動かない。手や足もほとんど揺れない。規則正しい寝息だけは聞こえるので、生きていると安心出来るけれど。
――あれから、まつりは眠ってしまった。とても唐突だった。考え込んでいるのかと最初は思ったが、さすがに動かなかったし、体温が下がって来たので、慌てて病院に行ったのだ。
まだ覚めないのだな、そうだね、と、だけ交わして、ヒビキちゃんと二人で、ただ、まつりが起きるのを待っていた。
ふいに、思い出したようにヒビキちゃんが口を開く。
「――そうそう、こいつが、お前が眠っているときに、言っていた」
「なんだって?」
「『どうしてここに死人がいるとわかったのか』だったか『《二人》居なくなっている、ってどこかで話したっけ?』みたいなことだ。自分が知らないことをよく覚えているから、前に話したっけと、そういう気がしたけど、って」
「ああ、うん、そうなんだよ……」
あれ。なぜだ。
なぜぼくは、確信みたいなものがあった?
情報があるという情報。
なにか音声らしいものがぼんやり頭に流れてくるが、どうしてそんな感覚になっているか、よくわからない。
『実験』血濡れの、少女。地下室。それから、それから……
『二人で』『部屋』
『期待している』『記憶』ぼくの記憶────
やめて。……いやだ。
「それにしても私はびっくりしたな。いつも来ていたお姉ちゃんが、突然二人になっていたんだ。私を騙していたんだなと、本人は死んでいるというし、混乱した。それから……あれにもびっくりした。そいつが、どこやらに片付けていたが」
「あれって?」
眠っているまつりの腕が、ゆっくり力なく下がってきた。文字が書いてある。
『骨』
──骨?
なんだこいつ、皮膚に骨って書くなんて、変わってるなあ。
「で、私は思ったんだが──前に二人で来たことがある、には続きがあったんじゃないか?」
ヒビキちゃんは言った。
なにか、それこそ確信めいた瞳で、ぼくに問う。
見ぬふりをしたことがあるんだろう、と。
「……これがデジャヴ……ああ懐かしい」
「茶化すな」
にらまれた。
──とはいえ、ぼくは何度思い出しても、何事もなかったとしか、言えない。
だって、何事もなかったのだ。
「……じゃあ聞くが、何を食べた?」
ロッカーの隣、隅っこにある丸イスに座りながら、彼女はぼくに問う。まっすぐな目で。
「何を食べて、何をした? それは何時だった、いつ眠った? どんな会話をした?」
えーっとと、記憶をかき回す。何を食べた……何を?あれ。眠ったのは22時くらい……いや、最後に時計をみたのがそうか?
食べた、と思うが、何を?
「あれ。眠って、ない……」
そうだ、震えながら、明日が来ることを願うようにして、ぼくは、ずっと布団をかぶっていた。あの日。
『怖くない、怖くない……』
一人の部屋で、ずっと呟いたりして。
「──って、いやいや、そんな昔のこと、覚えてるわけないじゃないか!」
「こいつは、知っているはずだと言っていたぞ。目撃者を、探しているやつが、いるって」
あの日、二人で訪ねた日の順番を考えると……ぼくが軟禁されて、逃げて、それから少しして、コウカさんがさらわれて、エイカさんの件があるその辺りの日時になるはず。
……その日に、なにか、あった?
頭のなかで、うまく繋がらない。そもそも、どうしてぼくらは、ここに来たんだ。それにエイカさんがあそこに、その時期に住んでいて、彼らに出会うような場所にいたなら、それを見ていなかったのか。もしかしたら、その中の数人か、彼らにしか会っていない?
いや、だったらなんで、彼女がやったとわかるんだ?
……なんだか考えれば、考えるほど、空回りしていく気がする。
いっつも、そうなのだ。ぼくには、何も見えていない。
『それは違う』
とりあえず切り替えようと病室を出て、目を閉じると、声が聞こえた。思わず、左右に振り返って、通行人に変な顔をされる。
誤魔化すように笑ってみたが、誰も気に止めなかった。
その言葉には続きがある。何度も聞いた。
『ひとつのことがいちいち見えすぎて、埋もれちゃうんだよ。どれが大切か、わからなくなる。全部を疑問にする必要なんてない。もっと、力を抜けばいいのに』
誰かの言葉。それは、労りも優しさも感じない、むしろ、疑問でならないと言った口調。
……ああ、うるさいな。もう。
嬉しいような、苛つくような、複雑な、けれども懐かしい気分だ。
手すりつきの壁に寄りかかりそうになり、慌てて退くと、車椅子とすれ違った。あまり広くない廊下なので、スペースを作るためにやっぱり壁に押されてきて、ちょっと申し訳ないような気分になる。
「……どうかしたのか?」
ヒビキちゃんが不思議そうに、廊下に出てきた。
なんでもない、と言ってから、電話を貸してくれないかと聞いたら、いやだと言われた。うーん。
「ろっくを解除するとバレるだろう」
お、おう。
じゃあ見ないからーとか、そういう攻防をしたって、時間の無駄だろうと判断する。多分そういう問題ではないのだから。そこに関しては、似たような性質があったやつを知っている。
だいたいぼくが携帯していないのが悪いのだし、ずるずる引き下がるのは格好が悪いだけである。ええと、電話、あったかな……
「あ、そういえば公衆電話、1階ロビーだったな。良かった。入る前に辺りを見といて」
なんだかんだで、1階ロビーまで降りてきて、電話をかけようとしたが、携帯電話じゃないのだ、と思い、手を止める。
「やっぱり、どうかしたのか? 番号を忘れたか」
「あの。ペンとか、ない?」
「おやつのチョコペンがあるが、筆記用具ならないな。どうかしたのか? メモなんて必要なのか?」
「おやつは取っといてくれ」
昔から音声で覚えた数字を、思い浮かべながらボタンを押せないのだった。出来なくはないが、えらく時間をかけてしまう。人がいる手前、それは困るだろう。《見ながら》押すなら、まだマシだ。
ついでにいえば学校で、お前は電子機器も使えないのか! と怒られて、なんだか居残りしていたことがある。史上初だとか散々言われた。
詳しい理由は、ぼくだってどうもわからないが。
ちなみに携帯電話なら名前や履歴で適当にかけられたのだ。しかしずいぶん前に、逆に開いてへし折ったばかりだ。矢印でも書いておくべきかな。
深い理由は聞かずに、ヒビキちゃんがわかったと答えて、入り口近くの駐車場まで二人で歩いた。