丸いサイコロ
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結局、ヒビキちゃんが番号を聞いて代りにかけてくれた。
三回のコールを待ってから、はい、と聞こえた。小さく息を吸い、声を出す。
「……兄貴」
電話をかけた相手を呼ぶと、本人は意外にもあっさり出てくれたようだ。すっかり電話を変えているのかと思ったが、まだ大丈夫だったらしい。
『一度だけ、兄ちゃんって呼んでくれたのに、冷たくなったな、弟』
「間違えたんだ。榎左記里美さん、について聞きたい」
『なんだよ』
「お前の──実験って、いつもぼくが、居たんだろ?」
『ああ、思い出したか? そう、彼女の娘……あの屋敷の屋上から落ちてな。あの子のためにって言ってた場所だったらしいのに。すっかり内装とか改めて、名前も変わって……』
「違う。そう……じゃなくて……」
青ざめる。受話器を落としそうになった。
初耳、というにはあまりに、しっくり来てしまう内容だった。
『──あの人、あのおじさんの、愛人だっけ? 知らないけど――』
勝手に、話が続いていく。どうやら彼女は追い出されたらしい。
娘が死んで、居場所も無くした。その辺りは、また細かい原因があるらしいが、ぼくはその辺りを知らないので、同情も何もしようがないが。
彼女はそれからはいろいろと問題を起こしてきたらしい。それ以来、あの屋敷には小さな……例外を除く小学生未満の子ども、とくに『娘』は入れないらしかった。
何か事件があったので小さな子どもはダメだとは聞いていたけれど。今まで、詳しいことは知らなかった。(と言っても広いお屋敷の庭の裏側を、わざわざ探すのは大変なので、ぼくは、来ても特に見つかったことがないが……)
娘が死んで、あの人には娘が居ると知った彼女は、それで何か感じたのだろうか。
当て付けでも良いから、自分の事件について、その人にも知っておいて欲しかったのかもしれないし、なにかがあったと感じて欲しかったんじゃないか。
あの屋敷の人たちも、そのセリフを言うことで、嫌でも思い出したかもしれないし。
彼女が必要としていたのは、それを叫べる場所だったのだろうか。
もしかしたら、彼女に助けを求めていたのかもしれない。
……そもそも、何か考えたかなんて、わからないけど。
ところで、さっき、考えていたことがある。ぼくを連れ去るのではなくて、本当は、まつりを連れ去りたかったんじゃないかってことだ。
だって、あの日ぼくはあの場所に居たのだから。
それなら、もともとの情報は少なくて済む。ぼくは、家に居なかったのだし。
でも、だとしても、内部にいる人なら、まつりのことくらい知っている気がするし、そう考えるのなら、外側から来た人の方が考えられそうだ。
それだったらなんにしても外見なんかの情報は、知らないことになる。《子どもがいる》くらいのことだ。
彼女たちは、メイドさんとか、呼ばれてはいたがそんなにメイド服みたいなのばかり着ていなかったので紛れても、そんなにバレないかもしれない。
狙いはぼくだったのだと勘違いした? 《だからこそ》あそこに閉じ込めて……
──あの屋敷にいる子どもを。
しかし、それにしても、誰かが誘導している気がする。ぼくが最初に考えたことを、思った人が、いたのかもしれない。
それこそ、《違う当て付け》だと思って?
うーん……
『で、お前なんでかけて来たの?』
「電話かけたの、お前か?」
『いや、そっちがかけてきたじゃん』
「そうでした……いや、過去に『身代金』とか、誘拐っぽい電話をあそこにかけたこと、あるだろ」
……通話が切れた。
ついでなので、院内にあるコンビニで、適当に食べられそうなものを買って(思ったよりは高かった……)階段をのぼり、部屋に戻ると、まつりは布団を深くかぶったままだった。
長袖は着ているが、上着が無いのが不安なのだろうか。
やたらぶかぶかの服ばかり着ているが、自分を守ってくれているお守り、みたいなところがあるんじゃないかと思っている。身を、少しでも世間に隠していたいのだろう。……たぶんだけど。
「おーい、久しぶり」
「……こっぴどく怒られた……」
声をかけてみると、しょんぼりした声が返ってきた。そりゃあそうだろうよ。さらに悪くして帰ってきたら。あれでも結構、打たれ弱いやつだ。そして人のことは言えないが、結構怖がりなのだ。
「……うう……」
「えーっと」
これではまともに会話が出来そうになかったので、海老マヨおにぎりを差出してみる。手だけがのびて、しばらくそれを掴んでいたが、ラベルなんかから食べ物だと察知したのか、もそもそ起き上がった。
「……! お、おはようございます?」
なにやら敬語だ。
目元が少し赤くなっていた。頬もほてっていて、なんだか幼い印象を受ける。
人が本当にいたことに気付いていなかったのか?
「おう」
「てんてき、なくなったら、帰っていいんだって……言われました」
少し、考えるようにして、またも敬語だった。
もしかして、これは、冗談では……ない?
「いや、先生は念のため一日入院しろって言ったろ……」
言いながら、考えた。
何かを考えて、悲しいような気がした。
□
思い出したというより、本当は──意図的に誤魔化していたことは、まだあったけれど、ぼくはそれを口にしない。彼女と二人で会話が出来なかったら、全く、確かめなかっただろう。
「ねぇ、お屋敷の……別荘って、どこだと思う? 幼なじみだから、知っているかと、思って」
「別荘、ですか……なんでまた」
和解。なんて明確なものは、存在していなかったけど、小学生くらいだった日の、あの事件以来――中学生になるくらいのぼくは、彼女を見つけては、声をかけていた。いつの間にか、彼女もまた、そうしてくれた。
ぼくからすれば、彼女に警戒されたくはなかったし、彼女は本当は、悪い人ではないのだと、考えてだ。
それに、なにより、ぼくと彼女が仲良くしていれば(普通なら誘拐染みたことをされた人に近付かないはずなので)内心では彼女を疑っている人からも、彼女を守れるような気がしていた。
それからときを経て町を出て、手を尽くして身内に告げずに高校に進学したぼくは、彼女と会う機会が、あの日、終止符を打たれたのだとは、気付かなかった。
――そして、ぼくの間違いは、そのまま、取り返しがつかなくなる。
「別荘……知って、いるかも、わかりませんが……なんの用事ですか? それで、判断出来るかもしれません」
「掃除に行くの。お部屋が新しくなったから、その――いろいろ、整えないといけないんだって、旦那様から」
「はあ……、それで、詳しく場所は聞いてないんですね? 不親切だなあ……わかりました」
彼女の話は、一切疑わなかった。疑うほど、興味の沸く話に思わなかったし、何か話が違っていたところで、被害があるとは、想像つきにくかったのだ。
「新しくて、掃除が必要っていったら……あそこかな、うん。たぶん」
ぼくは、勝手な判断で、少し前に、まつりときた場所を教えた。(地図が書けないので、一緒に付いていったのだが)ありがとう、と彼女は言った。
人助けが出来て良かった、なんて、そのときぼくは、のんきに思っていた。
そもそも、後で聞くには、あそこは、あの家の人たちが『別荘』と呼ぶ場所ではなかったのだ。
何処の、何を、どう指してそう呼んでいるかは、ぼくにはよくわからないが、あそこは『建前』用の『仮』でしかない。
建物、とか新しい、とかで、勝手にあそこに案内してしまったが、それが何かに繋がるなんて、ぼくは全く思っていなかった。
掃除が大変そうだし、手伝おうかと彼女に合わせて隣にいると、ドアが開いた。ロックがあれば帰ろうと思ったのに、開いていたから、つい入ってしまったのだ。解除されているらしかった。
掃除の人専用のコードとかあって、彼女のために開いた、とかだろうか?
ここの仕組みは、ぼくにはよくわからないなと考えた。
中は旧式の鍵だが、最初の扉だけは、やけに厳重で、なんかの認証がついている。
二人で中を見ていたちょうど、そのとき、足音がして、そこに、いつの間にかまつりが入って来た。
待ち構えていたかのように。
そして何とも目を合わせせずに、呟いた。
「いないと思って、数時間前から何度も来ていたロック解除要請をたどってみたら、やっぱりここか。まったく、手間取らせてくれたよね……やれやれ、別荘だといったのに。──で、あれ。どうして、こんなところに、行七夏々都がいるんだろ?」
佳ノ宮まつりは、ぼくを見て不思議そうに、首を傾げて、虚ろに笑んだ。
解除したのも、まつりらしい。ぼくは、嬉しかったんだと思う。奇遇で、会えて。
声を、かけようとした。
「ああ、まつり! お前さ──」
「やかましい……騒ぐな」
まつりは、ぼくに見向きもしなかった。
感情のない声は、どこか、怒りに満ちていて、しかし冷めきっていて、そのときのまつりは、何を思っていたのか、ぼくにはわからない。
その前、ここを訪れたときから、まつりはこの調子で、かろうじてぼくのことが理解出来るようになっていて、しかし、他に齟齬が生じていた。
玄関に突っ立っていたぼくの隣にいた、彼女を見とめると、にっこりと笑って、珍しいほど、低い声で呟いた。
「場所は、ここでも構わないけど……余計なのを連れて来たあたりは、いただけないかな?」
「ご、ごめん、なさい……」
「はあ、これじゃ、ダメだな……また改めて来る。そうだ、これ、大事だろ。借りてたけど返しておくよ」
まつりがそう言って、そのときサイコロみたいなのを、彼女に渡した。
「……こ、これ、やっぱりあなた!」
「うるさい。帰る……帰ろう、夏々都」
「ああ……わかった」
今さらぼくの見落としなんて、数え切れないけれど、ここで、特にぼくが見落としたことがある。
──何度も、ぼくらが、要請を送ったような覚えはない、数時間前から来てはいない、ってこと。それから───やめておこう。