丸いサイコロ
□
えーっと。
えーっと。
……えーっと、なんだっけ?
なんだかいきなり舞台に立たされたような、そんな心境だ。スポットライトはないけれど、観客のために、そろそろ喋らないと。
まあいいかと、ぼくは舞台とは程遠い高さのテーブルの前で、そっと観客にお茶を置いてから、言った。
ああ、今?
帰宅して、次の日だ。朝の9時。
「……つまり、ぼくを試していた、ってことか」
「──結論から入らないでくれないかな?」
佳ノ宮まつりが、じっとりとした目で、ぼくを見ている。小一時間、二階の部屋に籠っていたけれど、今はわずかながらではあるが、復活したらしい。
お茶をちびちび飲みながら薄い、これだと色水じゃんとかぼやいて、茶葉を漁りつつ、まつりが不満そうに言った。
「それに、それは最初から示していただろう。何を今さら」
そうだ。ずっと、直接は言っていないが、そんな感じだっただろう。
と、ヒビキちゃんからの非難。
……なんなんだろう、この、謎の一体感。
「──いや、だってさ。既に終わってたじゃないか」
「極端に略すなー」
何を示して、何を略されているか解るという時点でなんなんだ、と、ヒビキちゃんが戸惑いまくっている。実は、それ、ぼくもちょっと不思議なんだ。
復活自体はしたけれど、ぼくを見る目だけは、ちょっと不審そうだった。
念のためにいうと、あいつは、状況や事柄は、忘れない。
人間に対してだけ、特に、悲しいことがあった場合に、突発的にあれが引き起こされるのだ。その人間や、身近にいた人に対して。
「で、何かわかったの?」
気だるそうに聞かれて(本当にだるいんだろう)、何かわかったっけと考えてみる。
「──お前は、あの人が──お前がかあさまと呼んだ人が、わからなくなったことがある。そして、それを引き起こしたのはうちの兄だな」
やめろ、と自分に言い聞かせる。嫌な記憶全部が、浮かびそうになって焦ることはよくあるが、今では、なんとか自分で制することが出来る。
「ああ……それで?」
「それで、うちの兄が、あんな《実験》を思い付いた……本人には、どうやら《ちょっと遊んだ》程度にしか記憶がないみたいだけど」
なんの話が始まったのかとヒビキちゃんはきょとんとしているが、実はぼく自身も、なんの話がしたいのか、よくわからないでいる……(言ったら怒られそうだ)思ったことを、そのまま全部言ってみるだけだった。
「あの日。きず──首に傷を作って、屋敷まで来たということは、ぼくはランドセルを持っていなかったってことだ。昔は……ちょっと、発育が、良くなかったからね。ランドセル、でかいし」
かがんで入るような、狭い道だ。手ぶらで学校に行かないし、学校の帰りで入るとして、鞄を置き去りにしたような記憶もない。
幅もギリギリだった。前に持って入ることは、出来ない。途中からは半ば這うように進むから、無理だ。(思えば、とんでもないところを通ったものである)
それに、何か違和感を感じたような記憶もない。つまり。
「学校に、行ってない。行七夏々都はその数日前の記憶と混同しているか──そうじゃないなら、その日は、登校日ではないってことだな」
まつりがお茶を入れ直しながら言った。
はっきり覚えているので、今あったように錯覚する機会が多く、昔は特に、いつのことも、今のことと区別を付けられなかった。
だからこそ、僅かな、しかし確実な差異を覚えておかないと、一日一日を区別できないのだ。
だけど、あの日々に、そんなものがあったかなとふと思い出す。もし閉じ込められ続けていたなら、ぼくは、日付の感覚がしばらく覚束なくなってしまうかもしれない。
「──もしあの日が火曜日だとしても、それは休みではないよ。なぜなら、学校があるなら、あの館にわざわざ行って、その日に泊まるなんて発想をしないからね。制服も家にあるしさ」
だとしたらまつりと約束したのは、それ以前の話で、あの日に約束なんてなかった。ぼくの勘違いだ。
「……、えっと……平日か休日か、が、どう関係するんだ?」
ヒビキちゃんが難解な顔でぼくに聞く。
「ぼくの覚えている日付に、空白が生まれるかもしれない。そして、それが限定出来るかもしれないんだ。頭で、いつかと同じ日付をなぞっているだけ、だとしたら──あれが、どこかにある空白に、入るはずだ」
「最初の予定からは、ずれたけど。《彼》に会ったときに思い出したんだ。学校に行っていないんだとしたら、その日、行七夏々都は何をしていた? と考えていたら、思い当たった。わざわざ、あの場所を通ってくる日は……」
まつりが話を続けているが、ヒビキちゃんがさらに難しい顔になる。このままだと熱が出てしまいそうな勢いだ。そうだった。
この話に、彼女はいなかったんだ。
「あの場所ってのは、裏道だよ。ぼくが昔使ってた、緊急避難用の、秘密の通路……」
どうも納得しかねる表情をされた。姿勢に、どことなく彼女なりの知性を感じたが、でも、あれについて、詳しく語るわけにはいかない。
そもそも、これについて彼女にも語る必要性があるかどうか、なのだが、それについては……ぼくがうっかり一番最初に浮かんだことを口に出したので、後戻りしづらい。
まあとにかくごまかすしかない。強引に話を戻した。
「あの日──つまり、あの館に来た日。《実験》から逃げ出したぼくは、必死に隠れ回っていて、兄は、逃げ出したぼくを探していた」
弟を知らないか、とまつりに聞いた。まつりにはその日、用事があった。だけど、わからなくなった。
ただ、あの館に行かなければと考え、そして、一人だけ、覚えていたのだ。
おじさまも、かあさまも、みんな、わからなくても、ぼくだけを────
《何か》を、最後に、強く察したはずの、ぼくのことを残してしまう。
《彼女》ではなくて。
落ち着くために、自分でいれたお茶を飲む。(ちなみに、市販のなんかすごい安かったやつだ)あ、確かに薄い……いつものようにいれても薄いなんて。
ここで問題です。
「休日であり、その日にぼくが学校に行かなかったことが、まず、何を示しているでしょう」
「一日中、楽しく友達と遊んでいられた?」
ヒビキちゃんが可愛らしく答えたが、残念ながらそんな幸せそうな場面は経験がない。
「惜しいね。──ぼくは、家に居たんだよ。ただし親はほぼ外出中だ。当時、学生だった仲良しの兄と、家に二人きりになるわけだよ」
「二人になってしまうのが嫌なこいつが、どういう思考になると思う?」
まつりが口を挟む。
「えっと……用事があるって行って、出かける」
「違う。言わずに出かけたからこそ、探されていたんだよ。でも、出かけるってのはいい線だ」
子どもには、なんだかんだで点が甘いやつである。同年、またそれ以上においてはめちゃくちゃ厳しい。自分自身には、その更に厳しいやつだったりも、するけれど。
「――その日、兄は、とうとう、ぼくを見つけられなかった。ぼくは、どこに逃げていたでしょう? 最終的にはお屋敷に行かなければならない。もちろん、隠れた場所は近辺」
その辺りをなんではっきり覚えてないかは、また別の話だ。
「……たぶん、その、通路そのもので、待機していたんだろう」
まつりが無表情で答える。お茶請けにさっきからあったクッキーを適当に放りこんだ。そのしぐさはどこか、退屈そうにも見える。
答えが出るのは一瞬だった、というより、まつりは最初から考え続けていたので、本人の意識の中においては今さらという気分なのだろうけど。
「……うん。そうだと思う。誰にも知られていないと思っている場所が近くにあるなら、ぼくなら、そうしてしまうからね。ましてやそこにいるなら、待機したんだと思うんだ」
なんのためかっていうのは、もちろん、見つからないため。そしてチャンスが出来たら、抜け出すため。
「実験、とかいうのは──?」
「その内容は、ここではちょっと、言えないんだけど……あいつが、そうしたからややこしくなった感じもある」
しかし一番ややこしくしたのはこいつだ、と、今クッキーをなぜか粉状にして袋に入れているやつを見たが、無反応だ。(っていうか、それ、どうする気だろう)