丸いサイコロ


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──どうして大人になったら……人を……傷付けるようになるんですか?


──訳が、わからないわ。私が、何かした? 私が悪い?


──先生じゃありません。ぼくは……


──あ、そう。周りの大人に、なにかされたのね? その傷もそうなの?


──やめて、ください。他の人は、関係ないです。


──どうして、そんなこと言うの。あなたが助けてって言わないと動けないのよ。どうして痛いって言わないの?


──なら、あの人たちを……


──え?


──助けてください……だったら、あの人たちを、助けてくださいよ! ぼくより、ずっと『痛い』って……

──ななとくん、あなたは

──もう、こんなの、やめてください。話したくなんかないです。これ以上──













 □

 何をなのかは、今もうまく説明出来ないけれど、ぼくは、ただ、壊さないで欲しかったのだと思う。


 もし状況が変わるなら、変えたい、と、ぼくが考えていたのだったら、面白がられていようと助けを求めたのだろうが、そうではなく、きっと、最初の頃は、確かにぼくは『彼』を助けたいと思ってもいたのだ。


 だから、そもそも自分や彼らを被害者や加害者だという考え方自体、嫌だったのだと思う。だってそれは、表面だけのことで、どこか違う気がしたから。誰のせいにもしない。それは、そういう意味だった。



 誰かが、笑っていても、怒っていても、その奥にある感情は、なんとなく、わかることがある。彼から伝わるのは、明確な悪意とは違ったものだった。 だから。


 ぼくが傷付き、そしてその傷が治るたびに、彼の痛みが、増すことに気付いた。そこには、いろんな痛みが溢れていた。それでも、彼はそうしている。


 ──悲しみ、絶望、自己嫌悪。どうしようもない、やり場のない感情。溢れている、見えない『痛み』。

彼がそんなにも、それを消化しきれず、誰かを傷付けたいほどに、つらいのなら、その痛みの正体がぼくなら──きっとぼくは、死んでも良かったと思っていたのかもしれない。自分のことなど、どうでも、良かった。


 その痛みを、理解できたら何かがわかるんじゃないかと思って、ぼくの中の、たくさんの記憶の中に、重ねて、照らし合わせてみたこともある。それは苦しくて、悲しくて、自分のことのように思えてきて、そしたら今度は、放って置けない気がした。だけど、やっぱり何も出来なかった。
余計に、出来なくなった。

 彼は、ぼくとは違う──だからいつかは、そんな痛みからさえ立ち直ることが、出来るのかもしれない。そう思ったら、なんだか、少し、寂しくて、悔しくて。怖かった。

 今ならわかる気がするが、きっと、結局ぼくはただ、人の気持ちが、ずっと、わからないだけだったのだろう。誰でも好きで、誰でも、好きじゃなくて、でも──なんだか辛そうだから、どうにかしたくて、だけど、自分が何かしたことで、相手が何を思うかなんてわからない。ただひたすら、問われることに『違うよ』とか『大丈夫だよ』とか、言っていた。

──どこかで、あきらめて、甘んじていた。


 そんなある日、彼は、突然居なくなった。海外に行ったようだった。唐突にぼくの世界は、変わる。


 助けられもしないまま、なにも理解出来ないまま、後悔だけをして、ただ引きずって、治りが遅い傷が痛んだ。ガラスも、跳ねる物も、針金も、傷を思い起こさせた。


──たぶんそれが、あの中での、一番の痛みで、最も治らない傷。

ついに誰からも見放された、一人の部屋で、初めて、ぼくは呟いた。声に出して。

「ああ、痛いな……」

最初からどこかで、わかっていたくせに。何も出来ず、ただ、無駄に痛みを負っただけで──その彼自身は、もう、今では何も感じていなくて、ぼくは、結局どうしたかったのか、わからない。どうすれば良かったのか、わからない。──感情が、処理できない。
それに向き合うことが、一番怖い。


──残ったのは、強迫観念と、痛みと、幻。

何年か続いたそれのせいで『痛いもの』とか『これで傷付いたことがある』と、いうふうに体がすでに学んでしまっていて、反射的にそれを避けてしまうようになっていた。──ぼくだけが、刻んでいる。


「なんだよ、なんなんだよっ! ぼくは、そんな、簡単に……!」


みんなが、簡単に《忘れてしまえるようなこと》を、どうして、いつもいつも、まだ、一人だけで、いつまでも覚えているのだろうか。
それは終わったよと言われても、実感と記録が、噛み合わない。
──誰からも、社会からも、ずっと、取り残されている。


「……あ、起きた?」


 闇の中から声が聞こえた。いや、目が覚めているはずなのに、どうして真っ暗なんだ? さっき、何があったのだろう。顔に当たる布の感触からもがいていたら、ようやく顔を出せた。

「はぁ……びっくりした!」

「おはよう」

「おはよう、ございます……っていうか、さっきやった。ちょっと、ぼーっとしてた」

「……ぼーっとしたまま帰って来ないから、びっくりしたよ」
 部屋の隅っこに固まっていたぼくの頭にかかっていた毛布が、はらりと床に落ちる。少し、肌寒い気がした。

 かかっていたのはこれだったのかと、ぼんやり床を眺めて、小さく息を吐く。(……っていうか、なんか頻繁に、ぼーっとするな、今日)ちなみにぼくは今、寝ていない。本当に、ぼーっと座っていただけだ。


「なんかずっと考えてたけど、考えはまとまった?」

 近くにしゃがんでいたらしいまつりに、首をかしげてのぞきこまれた。二度寝しそうだったので、ちょっとびっくりしたが、とりあえず、毛布をたたむ。

「んー、わりと?」

伸びをしながら、適当に返すと、まつりは、聞いていなかった。

 ふらふらと立ち上がって、棚から出した袋から、スナック菓子の袋を適当に掴み、開けて中身を口に入れている。こうして、少し離れたところから見ると、足が長い。服装のせいで、普段あんまりピンと来ないが。


 そういえば、ぼくは無意識に、なにか、自分のことを言っていたのだろうか……だとしたら、少し恥ずかしい。


「……おまえが聞きたかっのは、あの子、ケイガちゃんのことだな」

「ヒビキちゃんではなくて、ね」

「うん。榎左記慶賀ちゃん……」

「なに?」

ぼくが、スナック菓子を適当に掴んでいるまつりを眺めていたら、不思議そうに聞かれる。


「いや、膝かっくんが出来……じゃなくて……、えーっと」

 慌てて言い訳みたいなのをしていたが、そんなぼくをまたしても気にも止めず、黙って開けたばかりの袋を渡して、まつりはどこかに消えていた。

「……答えにくいことを読んでくれているのか、気まぐれが発動してるのかが、いまいち分かりにくいよ……」


袋からスナック菓子を取り出して、食べてみる。わさび納豆味。うわ……微妙だ。

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