丸いサイコロ
<font size="5">31.損失の利用価値</font>
「──考えてばっかりいてもつまんないし外に出よう」
時刻は14時。ぼくは唐突に切り出した。家で無意味にだらだらしていると、なんだか考え込むだけで沈んでしまいそうで、やりきれなかったのだ。まつりは畳んだ毛布に顔を埋めて、枕にしながら、だるそうに睨んでいた。
「……ぐえー、もう、昼過ぎだよー。昨日外に出たしー」
不満な声をあげているが、構わずに連れて外に出る。しぶしぶだが、ついて来てくれた。いざとなれば、こいつの方が強いはずだから、結局は合わせてくれているのだろうけれど。
服装。ファーが付いた暖かそうなジャケット(指がほとんど見えない)と、カーディガンと、ちょっと高そうな素材の縦にうっすら線が入ってるようなシャツ。ぼくは、地味な色の、相変わらず地味な服装なので取り立てて言うところがない。
「……うう貴様、いつからアウトドア人間にっ……」
さすがに引っ張られたくはないようで、振り払って歩き出すまつりが、悪人みたいな声で言った。なんだそれ。妖怪人間じみた言い方だ。
「なってないなってない。それよりもぼくのロリコン疑惑を解消しろ」
「……え?」
真顔。こいつは、本当にぼくをなんだと思っているんだろう。今さら傷付きはしないが、不思議がいっぱいだ。しかもあんなに行きたく無さそうだったわりには、どんどんと先に進行方向の右側に進んでいく。
「あのなあ」
何か言おうとしていたが、やはり、既に聞いていないようだった。家のすぐ横にある坂道を下る。
##IMGU28##
この高さからだと、海が見えて、空気がどこかキラキラしているので、ぼくは、結構この道が好きだ。ちなみに買い物はつらい。まつりはどこか遠くの並木を見ていたかと思えば、突然、近づいて、何気ない動作でぼくを後ろに、少し強く引っ張った。
「え、なに……」
思わず、そっちに引き寄せられるまま後ずさる。ファーが少しだけ頬に当たって、痒い。ちくちくとした不快感と戦っていると、前方を、白い軽トラックが通りすぎていった。
びっくりした。この坂道は、車道でもある。
「──不注意だったな。ありがとう」
言ってみたが、やはり既に聞いていなかった。手を離して、さっさと歩いていく。
何か、グレーの電話を持っていた。見たことのない形のものだ。こんなの持っていたのか。それで少し、誰かに連絡して、上着に雑に突っ込むと、また歩き出す。
「あ、そういえば……楽譜は見えるの?」
しばらく無言で歩いていたかと思えば、突然、まつりはそう聞いてきた。一瞬、なんのことだろうかと考えたが、ああ、壁のことかと、思い出す。
それから、さっき引っ張られたときのことも、思い出した。もしかすると、どこまで歩道だったか、ぼくがよくわからなかったのを察して、ずっと前方を歩いてくれていたのだろうか?
(……だとしたら、それについて、あまりぼくに気を使わせないためだったのかな)
この辺りは、最近、道路の拡張工事があったばかりで、まだぼくは、あまり慣れていないのだ。おかしいな、今日も、気を付けているつもりだったのに……
とりあえず壁側に寄る、というのを忘れていた。
「あー、さっぱりわからないんだけど、おかげでそれで隠していたものは、わかった」
「そっか」
「血痕だらけだった。あの壁。手すりの辺りのも、そうかな」
「さあ?」
まつりは適当に答えて、また先へと歩いていく。既に答えが出ているからのようだった。
指かなにかで、ひとつずつ、または数個ずつ、間隔ごとに打たれていた点を、記号を、ずっと、ぼくは見ていた。それだけ。それが『メッセージ』。もし、覚えていなくても、そこに残っていればいいわけだ。
「──あれさ、どうかしてるよね」
苦笑いだった。でも、どこか機嫌が良さそうに。ぼくは、なんとなくの感想を、率直に返す。
「……お前が、言うのか」
まつりは、それには答えない。
「で、内容の意味、わかった?」
「さあな」
ぼくも、答えない。
──少なくとも、人は不死身なんかじゃないということは、確かだ。
「そう」
まつりは聞かなかった。
前へ、ぼくが見失わない程度に先に歩いていく。
「──お前は、とりあえず、時間が欲しかっただけなのか?」
「まさか。たくさんの情報が、欲しかったんだよ」
「情報、ねぇ……」
ぼくは呟く。なんとなく。まつりは答えない。別に、聞く必要もないことだったから、ぼくもその点については、聞かなかった──ひとつを除いて。
「──で、二日酔いは結局大丈夫なの?」
「ん? なんのことですか」
きょとん、としたまま聞いてきた。コイツ、わざとだな。
「……わかったよ」
歩いている間、まつりは、けらけら笑っていた。何が楽しいのか知らないが、まあ、何が楽しくなくっても、案外、笑ってしまうものだろう。嬉しいときにも涙が出るし、悲しいときでも、笑ってしまうし、楽しくても怒ってしまう。
(そうやって、いつも、笑ってくれれば、いいのにな──)
どんなに忘れても、変わらず存在し続けるものの中に、せめて少しくらいは──救いになるものが、ありますようにと、思う。
「えっと……どこに行くんだっけ」
──ふと、立ち止まった。長い気がした坂道が終わって、T字路が見えていた。右、左、そして帰り道。
唐突に、どこかからピロピロと音がしはじめた。まつりが上着から電話を取り出す。改めて見るが、ゴツくて、グレーの、通話機能に特化してそうなものだ。
「はーい。お元気ですか?……はい。……はい、全く問題なく、大丈夫でしたよ? ふふ、貸し出しありがとうございました。お心遣いに感謝して、次こそはちゃんとしててくださいねっ。失望したくないので」
ぼんやり観察しているうちに、まつりが誰かと話し始めていた。見てる方が疲れそうな、明らかに無理をしているテンションなので、目上の人、だろうか?
と思っていたのだが、途中から、中途半端に喋りかたが崩れてきている。話して1分くらいで、疲れたのか。
「──おじさまにも、以前申し上げたと思うんですけど、勝手に手を出されては困るんです。一応ですが、《賭け》には勝ちましたからね」
だんだん、会話にトゲが混ざり始めた。まつりが話しているのは、おじさま、らしいが、何がまつりを怒らせているのだろう。
──とりあえず。
今は人が居ないとはいえ、道端で通話をすると通行人の邪魔になりかねないので、近くにある、バスの停留所に入った。壁に、方面と数十分ごとの時間が書いてある板が貼ってある。
そこは、壁に遮られているからか、外よりはまだ、暖かい。気がした。
(でも、やっぱり、寒い……)
ココアでも買って来ようと、ぼくは、数メートル先の自販機に向かった。
「うーん……自分のだけでいいかな。聞けば良かった」
呟きながら、ぼくは自販機に小銭を入れた。どうもさっきから、なんとなく頭が痛いような……うまく、景色が見えていないみたいだ。自覚したら酷くなりそうだから、気にしないことにするが。
飲まなかったら自分で飲むことにして、紅茶も買って帰ろうと、もう一本分お金を入れて、ボタンを押したら、突然、殴られたような激痛が襲う。どこが痛いのかも、パニックでよくわからないが、たぶん頭だろう。
まさか、これはツボ刺激ボタンではあるまい。押した途端に電波を受信したわけでも、変身するわけでもな──
「いたたたたた!?」
続けて、買おうとしたココアと間違えて、ぜんざいのボタンをうっかり押してしまった。だが痛みに比べれば、そんなのはどうだって良いことだ。動けないまま、数分、固まってしまった。死ぬのかと思ったが、そんなことはなく、しばらくしたら楽になったので、安心し、息をついた。
そのときだった。
「あ……」
急に頭にくっきりと、イメージが浮かんでくるのがわかった。今までは、ぼやけていた絵だ。そうだ、ぼくは──
「──全部……」
推測と実感が、繋がった。どうして、忘れていたんだろう。ぜんざいと、紅茶の缶が、冷たく感じる。あたたか~いってやつなのに、温度がうまく伝わらない。うまく持てない。
体が、震える。わけもわからず、怖くなって、息が苦しくて……どうしたらいいか、わからない。