丸いサイコロ
<font size="5">31.5</font>
話し終えたばかりなのに、いきなり電話がかかったから、まつりは席を外すことにする。ここは誰もいないけれど、気分の問題だ。と、思ってから、そういえばいつの間にか夏々都が居ないと気付く。
どこだろうと思っていたら、目の前で、戸が開いた。知り合いの女性だ。ちょうど良かったので、用があるから代わりに彼を探してくれないかと頼み、少し離れた場所まで歩いた。
『──はあ、びっくりさせるなよ。危うく首が跳ぶところだったじゃねーか! なんでカノミヤさんが持ってんだよ、それ。お屋敷に置きっぱなしたやつ。あの女の声と、俺の声、モロに入ってたとは思わなかったがな』
行七夏々都の兄からだった。なんでこれの番号、知ってるんだよと聞きたかったが、どうせあの男経由に違いない。
彼の持ち物に入っていたデータを使わせてもらったが、正直、あんまり内容は把握していなかったので驚いた。
おそらくひとつめは工作としての架空のもの──の内容が入ったのだと、思う。おそらく、《あれ》とは別のもので撮られていたんじゃないだろうか。
本体には気付かなかったみたいだし、まだ話が続いていたようだが、さりげなく、次に切り替えておいた。
もうひとつは、行七夏々都についての話だ。彼が気付かない限り、その話は言わないけれど。
――目的を果たすだけのつもりだったが、そういえば、そこにいた彼は、内容そのものよりも『音声』を恐れていたような、印象を受けた。過剰というくらいの……あんな反応をすると、正直、思っていなかったのだが、悪いことをしたかもしれない。何か、きっかけがあるのだろうか。忘れているだけで。
そういえば、定期的に使っていたというのは、どういうことだろう。《誰か》が充電して、使っていた?
『おーい、聞こえてる?』
突然呼ばれて、我に返る。考え過ぎてしまった。
「わざと忠告で聞かせてあげたんだよ。あなたみたいに。あんまり余計なことをされたら、困るし」
『──一体、なにに怒ってんだよ』
彼は、疑問そうに問う。リアクションが弟そっくりだ。どうも真面目に言っているらしく、なんとなく、気が抜けたような、呆れたような気分になる。
「全部にだよ。いくら映画館で出会ったからって、早々とチクられたらね……付いてくるし、あの車にも乗らなきゃならないし、電話かかってきたし──」
まだあったが以下略だ。彼女に聞いてみたら、私は知らないと言われた。
『あ、でも、《もう一人のやつ》は、何をしてたんだ?』
「迷子、だよ」
とりあえず、適当に答えておいた。
『あ、わかった、さては、車に酔っ──』
だがまるで聞いていない。それはそれで安心したが、酔う、という言葉に、びっくりして過剰に反応しそうになった。
「っ、車にじゃな!」
『え?』
よし、聞こえなかった。
「首が跳ぶところ、見ててあげる。久しぶりにお手紙出そーっと。バックアップはどこだったかなー」
「──いや、待って待って、やめてっ! 謝るって! 《あのこと》がバレたら──」
「じゃあ、協定を結ぼう」
「わかった、誰にも言わない、約束する」
「ちなみに、それを破っても、まだネタならあるので──」
「えっ、なにそれ、どういう」
(……あ、もう電池がないな)
最後の力でゆっくり点滅しているランプを見ながら、電源を切った。
<font size="5">33.白昼夢、レミニッセンス</font>
その頃、ぼくは、家がつまらなかった。家族との関わりかたもよくわからないままだった。……そして、ずっと、わからないままだ。
みんなが、ぼくを遠巻きに見ていた気がする。
関係がまだ、マシだった頃に、小学校の授業で見たドキュメンタリービデオの話を、放課後、最初から最後まで見たまま内容を語ったことがある。
そしたら昼間、同じ授業を受けていた兄が(全校学習という謎の総合授業があった)急に固まってしまい、それから、なぜか次の日に見せられた、ニュースの内容を話して、母が突然泣き出してしまった。
ぼくには意味がわからなかったが、喋り過ぎたのかと思って、反省した。
ついでに、ぼくは、テレビなんて、嫌いだ、と思った。思い出に交えて自分の感想を語っただけなのに、と思っていたが、余計なことを話すのは、やめることにした。
自分が否定され、拒絶されていることだけは、毎日、よく感じていた。生きている通りに生きていると、嫌われる。嘘をついて、中途半端に誤魔化さないと生きられなかった。それは苦しかった。
過度に誉められ、よくわからない機関に、回されてしまうようなことにならないのは、まだいいのかなと思った。(その頃に、そういうSF小説を読んでいたのだ)
《遊んで》もらっても、そんなに楽しいとは思わなかった。思い通りに、覚えている通りに振る舞うと、みんな怖い顔をした。
年齢が二桁にも満たない小さな頃から、よく、勝手に外に出るようになった。
本当の、一番の理由は───苦しかったから。息苦しくて『どこにいても、居場所がなかった』から。
家があるお向かいさんには、お屋敷があって、結構大きくて、家とは仲が悪かった。
だからぼくは、興味を引かれた。それで行ったお屋敷の、そのなんとなく高そうな壁に、ボールを目一杯ぶつけている、そいつに出会う。
驚いたことに、そいつは、ぼくを疎外したりしなかった。かといって興味も持たず、ただ、傷を診て、手当てしてくれた。
そうするのが、まるで自然というように。いつの間にか、よく遊びに来ていた。
そいつはぼくのことは特に聞かない。ぼくは来るたびによく怪我をしていたのだが、そのたびに、呆れたように救急セットを差し出されて『あとで、どっちの薬の方が効き目があったか聞かせて』などとだけ、言われた。不思議と、居心地が良かった。
被害者扱いしたり、狂ったように怒りだすようなやつだったら、ぼくはきっと、こんな気持ちにならなかったのだろう。
きっとぼくは、普通の、その辺の人として、扱われることに、憧れていた。人目なんて、過剰に意識する必要がない場所が、欲しかった。
誰ともずれてしまっていることを、初めて、良かったと思った。生きていることを、やっと許された気がした。
──ある日、そいつは、いつもの壁のそばに、いなかった。
――そして、ぼくは、そいつに起きた何かの変化を、理解した……いや、理解はしていないかもしれない。
理解することを、迫られた。
夕暮れ時だった。その前日は、まつりの見たがっていた本を貸そうと約束していた。確かその本は、ぼくの好きな本で、新しく入ったというメイドさんが好きな本だった。
柱時計によれば16時46分のことだ。火曜日。夕焼けはちょっと曇っていた。庭の草は刈られたばかり。学校が終わって、すぐにやってきた。
いつもの場所にいないので、帰ろうと思った。自分から言い出した約束については、滅多に破らないやつだと思っていたが、気まぐれもあるだろうと。
そのときにお屋敷、建物内の両開きの窓の向こうから、バタバタと足音がして、まつりの声が聞こえてきた。若い女の人と、まつりの声。それからすぐ、大人の女の人と思われる声がした。
「まつりさん。かあさまは、こっちよ。何を言ってるのかしら?」
やけに、騒がしい。
大人たちが揉め始める。
まつりの声は、真面目そのものだ、というのが事態の異様性を表している。誰も取り合わない。どの病院がいいのか、と大人たちが騒ぐ中、庭で遊んでいなさい、と、とうとう追い出された。
具合がどうのと言うが、追い出されたのは、結局『おかしいけれど、正常範囲』という判断だったのだろうか。
こちらに来る、と焦りながらも、今のまつりのことが気になったりもして、そのまま、ぼくは突っ立っていた。不安と好奇心で。
まつりは、ぼくを見つけて駆け寄ってきた。へらっと笑った。ぼくは、少しびっくりしながらも、頷いた。駆け寄って来たことなんて、ない。
『あ、来たの?』
──が、通常の、せいぜいの反応だった。
何を言っても否定されてわけがわかんない、らしかった。わかんないことが、皆にわかんないんだよとか、わかんないのはわかんないからだとか、そんなことを言ったりはしない。ぼくも混乱しそうだった。
「そっか」
短く、そう応えた。否定も、肯定もしなかった。まつりは、にこにこ笑って、言った。寂しそうに。
「わかるの、なとなとだけだなあ。からかわないの、なとなとだけだなあ」
まさか、本当に、からかわれているのだ、と思っていたわけでは無いのだろう。ただ、怖かったのだと思う。誰が誰かもわからないのに、それぞれのことは覚えているなんて。当てはめかたがわからなきゃ、どうにもならないような問題を、ずっと、突き付けられていたのだ。
そのときのまつりが、家族への認識をごちゃごちゃにしたのは、ぼくのせいでもあった。そのときに《その人をその人として解釈し、覚える基準になっていた何か》のバランスを、ぼくの情報が入って来たことによって、崩したのだ。
──今は、ぼくの情報がひたすら、壊している。彼らの情報を。そして、ぼくを。
遠くに行きたいんだ、と、そいつは言った。来賓館に訪れた。意味もわからず、なんか変わった名前だなあ、とぼくは思っていた。
その建物は、子どもから見ると、更に更に、大きかった。近くの停留所からバスに乗ってやって来て、着いてから、ああ、ここのことか、と思った。存在は、聞いたことがある。
更に数日前、母と父が、話していた場所だった。そうか、お客さんのために、こんなところが出来たのか、とぼくは納得したが、心のどこかで、誰かの記憶が曖昧になるほどに、こんなに無邪気になってしまうのかと、思った。まるで、幼い。
まつりは困ったように首を傾げた。
「な……? と……と。んー、わかんない。それよりさ、入ろう!」
なとなと、と、そう呼ばれていたのは、たぶん小学校の低学年くらいだ。しばらく、口を動かしにくそうに発音を確認していたのに、あっさり諦めてしまった。呼べるようになったとき、ぼくはどうなるのだろうかと思った。
視界に順に入るものすべてを見た瞬間、しっかり刻む為に、ぼくの頭は動き出した。ただ、視界に入らなければ、覚えていないし、意識がないことは、覚えていない。
まつりが、持っていた鍵でドアを開けた。なんで、持っていたんだろうか。ぼくにはわからないけれど。
四段しかない階段を進み、重たい木のドアの先に、入る、まさにそんなときに、嫌な予感がした。そして、それはすぐに、当たった。
結局、その日は、帰らないことにした。後々、記憶を呼び起こしてみれば、経緯を聞かれた覚えがない。自分のことでいっぱいいっぱいで、そいつの気持ちを考えたことが、なかったが、もしかすると、ただ、本当に、怖くて、帰りたくなかったんじゃないか。
今帰っても《否定しかされないような》場所に。
それに──何かを、見つけた? 中に入ると、それぞれ部屋を選ぼうという話になった。
小さめなサイズの部屋を見つけた。開けようかと思ったら、まつりが「それは寝室じゃなくて、倉庫だよ」と教えてくれた。家の玄関よりも(ぼくの定位置だ)、快適そうに思ったので、びっくりした。
まっすぐまっすぐ行って、ちょっと左に曲がるほど、部屋が大きくなる。だけど、ぼくは小さな部屋がよくて、あまり奥に行きたがらなかった。
倉庫と言われた部屋はふたつ。倉庫の隣の倉庫が、ふと気になった。中からは言葉で表せないような、変なにおいがしていたのだ。しかし、まつりは、何も感じていなかった。
自己暗示は、得意だった。違和感なんて、覚えなければ、問題がない。気にしなかった。倉庫から離れ、廊下を進む。しかし、その途中で、足を止めた。頭を占める問題が、違和感、なんて次元ではなくなった。
へアゴムがひとつ、落ちていたのだ。何度か結んだらしく、真ん中が捻れ、やや細くなっている。ぞわ、と全身が冷えた。いきなり転がって、顔に飛んでくるような気がして、ひどく、怖かった。足が、固まったみたいに、重くなる。
──助けを求めて、まつりを探すが、近くに居ない。ぼくは、悲鳴を上げなかった。自分でなんとかしなければいけない、と自分を説得して、何度も言い聞かせた。これは、ぼくを襲わない。大丈夫、ぼくが掴んでしまえば、襲ってこない。
ゆっくりしゃがみ、手を伸ばし、それを掴めば、案外、なんてことはなくて、ぼくは安堵した。
回収に、30分はかかったんだろうか。誰かに言ったらきっと、大袈裟だと笑われてしまうのかもしれないなと思いつつ、冷や汗で手が湿っていた。
そのときになって、ようやく、まつりが廊下の角からこちらにやってきた。
「あ、まだここに居たんだ。決まらないなら、お隣にしようぜー!」
「ああ、うん……」
動揺を悟られないように、上着のポケットに、ヘアゴムをしまった。放置すると、また同じ場所で動けなくなってしまう。もう、見たくなかったのだ。
玄関は、来た人が自分で開鍵する決まりで、それとは別に中の人の認証か、管理の人の認証が必要。そうでなければ、通報されるはずだが──中に誰も居ないはずなのに、認証だけが外されていた。まつりは、それに違和感を覚えた。
あいつが覚えていないだけで、《認証されて待っていた人》がいたのかもしれないが、そう、最初はあいつも考えたのかもしれないが、誰も見つからず、結局は同じように、違和感を覚えただろう。
あ、そういえば、鍵を開けたときに「いろいろ片付けがあるから、ちょっと待ってて」と言われた気がする。当時、ああそうなんだなーと、思っただけだったが。中に一人、先に入ってから、戻ってきて、ぼくを再び呼んだような……
その前に、あの《メッセージ》を見つけていたのだろうか。『どうかしてる』内容の。もしかすると、《あいつが》ぼくの足止めをしていた? でも、きっと覚えていても、そういうことは、わざわざ言わないだろうな。
(あれでいてわりとシャイなので、機嫌を損ねて終わりだ)
建物の構造的に、あそこ(階段を上って、左に曲がってすぐの辺り)で止められると、降りるか部屋に入るしかぼくには出来なかった。強迫的な感情を、一度なにかで引き起こされてしまうと《襲って来ない》、とか《生きていない》と、容易には、正常に、判断出来ない。恐怖にひき付けられて、動けなくなることを、読んでいたんじゃないか、とか。
そして犯人がいないことか何か確認して、安心して、ぼくのもとに、戻って来た?
……なんて、まさかな。
嫌がることは、たとえどんな場合でも強要しないのが、あいつだった。まさかぼくにそうまでして『死なないで欲しい』なんて、思うはずか、ないじゃないか。
うぬぼれるなよって言われたくないから、考えないようにしていたが。そんな説明をして、そう言われたら、恥ずかしいどころじゃない。
──続きが、ある。
確かに、泊まっていた話に。
だけど──言えるかな……ぼくは。
ぼくが悪いのかもしれない、向き合うべき、あの話を、いつか、今度こそ。
「……おいっ!」
急に、斜め後ろから、雑な挨拶をされた。なんなんだ。場面は変わっていないが、とりあえずバス停の辺りを、離れようかとしていたときだった。
「あ。やっと来たんだ」
まつりがそう呟いて、目を擦って、声のする方を向く。ぼくもそっちを見ると、電柱のそばに、白いダッフルコートを着た、可憐な少女が立っていた。髪をすべて下ろしている。
「久しぶりだね」
「無視しないで、さっきから呼んだのに。まだ数日ぶりだ! そんなに久しくないっ!」
挨拶してみたら、素早く噛み付かれてしまった。勢いがいいなあ、やっぱり。
「……で、きみは、どうしてここに?」
「それは……あいつが……いや、それは……やっぱりその」
「怪我は、大丈夫だったか?」
懲りずに、少女の肩に手を置こうとしながら、まつりが聞くと、手を押し退けながら、ヒビキちゃんは頷いた。
彼女が来るまでの間に聞いた、まつりの話では、ヒビキちゃんが、ぼくの家に預けられたのは、保険金がかけられていたから、そして、大事な意味があるから、らしい。
(ぼくには意味がよくわからなかったが、ぼくが『居なくなった理由』に、気付いた人がまだ、いた、ということだと言われてしまった。余計にわからない)
それから、ヒビキちゃんは、亡くなったケイガちゃんの代わり、同一の存在として生活してきていたようだ。(ぼくに聞かれたら説明が面倒だなあと思ったみたいだが、聞かれなくて良かった、と言う)
彼女は、長い間色んなものに縛られていた。
それはもうそっくりに、両親によって整えられてきたのだそうだ。《その子》を見たことがないので、なにがかわからないが。そう呼ばれ続ける生活をしていた彼女の心のなかに、居続けていたのが『双子の姉』だった。
どこにも、居ない。
実在はしたけれど、居ない。お嬢様と、呼ばれた少女に、自分を重ねたまま生きていた。ある日、突然その縛りが無くなってしまう。《母親》が居なくなったから、らしい。母親は、結構参ってしまっていて、娘が存在しないと知ると《取り乱してしまう》ので、それまではどうにもならなかったようだ。
お屋敷がとっくに、無くなっている現在、一緒に暮らしていたメイドさんが、その娘ではないのに、同じような扱いを強要するのはどうか、とその父に(頼むようにと、まつりに)言ったのだという。どんなに、昔の娘が可愛くても。あの状態には耐えられない、と。
暗示にかかったままの彼女には、家で聞いた《その会話》の内容が、そう聞こえていなかった。《拠り所が無くなってしまう》と思ったのだろうと、まつりは言う。寂しそうに。それはまるで──なにかを、重ねているみたいだった。
過去に触れさせること、それは、終わりに触れることで、終わったことを、理解すること。『あの人は、あの子は死んだ。《あなた》なんて知らない』
《あなた》に向ける答えはない、と、そう暗に示し続けて、それぞれの元々あった罪のために、帰っていったらしい。ばっさりと、まるで切り落とすような解決。
つまり、話に乗っかる形で現実に連れてきて、そのまま、現実として見せた話、なんだろうか? 少女は、最終的には、何に、最も納得していたのだろう。
───ちなみに彼女たちもまた、一度「やっぱり帰らない」と言い出して、ぼくがいなかった間に、いろいろややこしいことがあったらしい。
(ぼくが居ないぶんマシだったとも言っていた)
結局、なんとかなったらしいが。……あ、そういえば、最後の最後に縛られた方も、あれから少しして、迎えが来たのだっけ。
《彼》には、娘の暗示を解くことが難しかったので、まつりは《仕事》を増やすことになった。
あまりやりたくなかったようだが、見つかってしまったので(まさかそこまで真剣に探されているとは思ってなかったよ、だそうだ)、諦めたらしい。
兄も、よくわからないがその関係で駆り出されていたようだった。自己暗示を《かけさせた側》から、否定されてしまう恐怖なら、ぼくもよく知っている。必死になって、守ろうとしてしまう。
彼女の父は、機関から勝手に保護して雇っていた《当時》の生存者のメイドさんを、機関にもう一度差し出すことを決め、引き換えに、少女にかかったままの暗示を解くことを、まつりに求めた。あとは他にも、いくつか仕事だったりがあったのだという。
──あの手紙は、結局、誰が出したのだろう。どうして、彼女の家に。これも、まつりが、ヒビキちゃんを救うために必要な何かだったのだろうか?
やはり、ぼくは、覚えていないのではなく、彼女を知らない。《まだ生きている》彼女のことは。あのときの、ぼくへの執着は、ぼくに本当のことを指摘して欲しかった、ということなのだろうか。
「まあ、なんとか……」
大丈夫かと聞かれて、ヒビキちゃんは複雑そうに呟いているが、なんとなく顔が紅潮している。みるみるうちに、ゆで上がって俯いてしまった。以前には無かった反応だ。いったいなにがあったんだよ。
まさか、とまつりを見ていたらすごく睨まれた。まだ何も言ってない。
「そこまでゲスじゃないよ?」
「睨むなよ、なんにも言ってないって! っていうかやっぱり、怪我して……」
あわててヒビキちゃんを見ていると、彼女はやっぱり俯いていた。どこか幸せそうだった。
うーん……よくわからない。まつりがぼんやり答えてくれる。
「さすがに首を跳ばしたくないからな。あそこで下手に喋ると厄介なんだ。見た目よりは深く無かったから、軽く手当てして帰ってきただけ」
あれも、過剰に嘘っぽくした、しかし本当の、怪我だったのか。《彼女》は、そういえば、あの子に、『生きていたのか』と言っていたな。
もしかしたら──いや、やめておこう。
おまえって、やっぱり全くわかんねぇよ、と言おうかと思ったが、相変わらず気ままに、露店のクレープを買いに行ったので、やめておく。
「平和だなあ……」
──と、しばらくぼんやりしていたら、突然何か、口に詰め込まれた。ゆっくり咀嚼しながら、表示を見たところ、トロピカルなんとかってやつだった。一度食べたことがある。クリームとか、よくわからないがフルーツがいろいろ入っている。
──っていうか、やっぱりすごく甘い。よくこんなに甘いのを食えるよなと、関心してしまう。血糖値とか、大丈夫か。
って、あれ。なぜぼくは買ってもいないのに食べているんだ?
お店のスキンヘッドおじさんと目が合う。意味ありげに笑われてしまった。
なにがなんだかわからず焦っていたら、まつりが、気付けば既に後ろの、遠くの方にいて、ちゃんと持ちなよ、と言っていた。
……奢りらしい。
なにか紙のようなものが口に当たって、包みから取りだしてみると、カードだった。
『かばってくれてありがとう』
それは拙い、習いたての小学生らしい字のメモだった。
(あれ。なにか、したっけ……?)