丸いサイコロ
<font size="5">01.おわれないおしまい</font>
ヒビキちゃんたちと別れて、少ししてから、家に帰ってきた。やっぱり家は落ち着く。リビングのソファーに座ったままのぼくは、ぼんやりと、まつりに聞いた。
「──それにしても、兄とぼくは、そんなに似てたのかなあ……。そんなに《間違えられる》ほどには見えないんだけどな。いくら、暗かったからって」
おそらく、《これ》が本来の一番のヒントだったのだろうが、ぼくは見事にスルーしていた。気付かなかった。ヒントを、ヒントだと言うようなやつじゃないことは、よくわかっていたつもりなんだけれど……
もしかしたら、あの子は、当時、知っていたなら間違う筈がない、兄と、ぼくの情報を間違えたことを、最後の最後に、遠回しに指摘されたと思ったのか──?
「そういう格好をしてみたらわかるんじゃない?」
面白そうに言われてしまった。何を思ったのかは知らないが、こっちに来ようとするのでとりあえずクッションを身代わりに渡しておく。それから言う。
「いいや、遠慮しとく」
まつりは、ぼくの回答に興味がないのか、はたまた予想出来ていたのか、突然また、ぼくが話始めた瞬間にふらっと立ち上がって、ちょっと前に切って、冷蔵庫に入れられていたカステラを持ってきた。片手に持ったクッションを軽くこちらに投げられたので、とりあえず掴んで、置いた。
「ひどい家だ、とか、あいつと会うな、とか言われたような気がするけど……あれってもしかして、ぼくがしょっちゅう怪我するタイプに見られてただけ、ってことかなあ」
ぼくは言った。不可解な点は、いくらかあった。
彼女が《ぼくにしか》説得しなかったこと、とか。
もしかすると、あれも思い違いで、兄と間違われて、捕まって、《彼女》から離れろと説得されて、嫌だと言ったから、強制的にそうされたのだろうか。改めて考えると、もしかしたら『家』は、ぼくの家のことじゃ、なかったのかもしれない。考えながら、カステラ(一口サイズ)を口に運ぶ。
全部の可能性を考え出したら、全部が合わない気がしてくる。過去なんて考えたいところだけ、考えた方が、健全なのだろうか。
──だけどそれなら《あれ》は何を意味するんだろう。
「たぶん、きみの家の事情は、誰も知らなかったよ?」
何か察したのか、まつりは言った。
「だよな……お前以外」
まつりは笑わなかった。カステラに興味も示さず、考えるような顔をしていた。ぼくは何か言おうとした。だけど、出来なかった。
「それにあれはこの話じゃ無いものだよ。──まあ、思い出せないなら、いいよ。無理しなくても」
ふと、こいつはいつからこんなに優しくなったのだろう、と思った。なんとなく、寂しかった。
「って、言ってもさ──」
ぼくは、いろいろと、思い出してしまった。だけど、言わなかった。一度、再び帰ろうとしていた。あそこに、逃げようとしたことがあったのだ。
中に入ることは、さすがに一人では出来なかったけれど、代わりに、近くにどこかの地下室に通じる、誰かの手で掘られてきたらしい、狭い階段があったことを、思い出す。
彼女たちの顔を、思い出す。突き落とされた──記憶を──
ある日、すっかりその姿が消えてしまっていたせいで、うまく頭の中と噛み合わなくなくなっていたのだが。
忘れ物があったこともあって、ぼくはそこまで行ったのだが、それがいけなかったのだ──ぼくの、自業自得の話。あの実験の、あの子の話。だがそれは、またいつかにするとして、ぼくはそれの代わりに、聞いた。
「……気になったことが出てきたんだけど、ヒビキちゃんがあの性格だったってことは──」
「聞かない方がいいことって、存在するんだよ。少なくとも、疑問点の上から5つくらいは」
まつりは言った。笑わなかった。ぼくは首を傾げた。ぼくの疑問点を知ってるのか、こいつは。
「……なーんか、誰かが居た気がするんだよ、あのテーブルの下くらいに」
「ふうん」
カステラを食べているぼくの横で、まつりは適当に答えた。昼に寝ていたせいで、どうも眠くないらしい。ぬいぐるみを3つ放り投げていたかと思えば(よくわからないが、女子高生からの、もらいものらしい)キャッチして、だけど一個取り忘れて頭に当たっている。
なにがしたいかまったくわからない。
「うーん……まだなにか、忘れてるんだよな、ぼくは」
「いろいろあったからね」
まつりは、ぬいぐるみを放って、こっちに少し、やって来た。
「なんとなくだけど、お前って、変わった?」
ぼくは聞いた。まつりは頷かない代わりに、答えた。
「一度リセットして、そこからもう一度更新することを、覚えただけだよ」
「何を?」
「記憶。整頓するために、少し眠くなるけれど」
頭に引き出しがあるなら、まつりはすべてをごちゃごちゃに入れて、ほとんど分類していない、んだそうだ。
あれがここに入っている、とか、普段はよくわかるし、全体が見えていて沢山を、一気に取り出せるけれど、ぶつかってひっくり返してしまうとか、スペースを作るために、それを一度片付けてみることを考えるとか、ちょっと気を緩めると、管理出来ない、んだそうだ。
『仕切り』が無いぶん思考範囲を広げられるが、領域を、分けられないことには、《これが、こうである》と頭が明確に思えていない。
……らしい。
わかるような、わからないような、話だ。
「ただの例え話だから、そんなに考えないで。きみのことは、まだ、だいたい覚えてる。補完も、たぶん出来たんだと思う。だから、思い出すの、早くなったでしょ」
ちょっと時間があればいいのだと、言う。
たぶん、彼女たちのことを、ちゃんと《取り戻してから》別れる、という意味もあったのだろうか。一度は、同じ家に居たのだ。たとえ彼女たちの目的や、愛着と、噛み合わないものだったとしても、思うところがあったんだろう。
まつりは、なにか気付いたように、こちらに歩いてきて──かと思えば、なにか、考えたまま、微妙な距離に立って、固まる。
「んー……」
唸って、それからはぐるぐる歩き回っていた。なんだか面白い。とりあえず、好奇心で撫でてみようとしたら、視線さえ合っていないはずなのに、何気なく、腕を取って、捻られかけた。
「いたたたたた」
相変わらずの、徹底した反応に、関心する。なめられるのが、本当に嫌なようだった。
見た目だとか、いろいろで、子ども扱いされることが多かったらしい反動で、随分と……なんていうか現在のような性質に、なってしまった、らしいが。
「なにするんだよ!」
「ん? ああ、手を離して」
「掴んだのはお前だ」
反対側に腕を回転させて、なんとか腕が捻れるのを防ぐ。誰であれ容赦がないなあと、思った。
ふいに、なんともなしに、ぼくから腕を離して「そうだなあ……」と、呟く様子からして、なにかを迷っていた様子に見える。
なにがだよと聞くのも面倒で、ぼくはソファーに仰向けに倒れてみた。横向きの、座るためのものなので、頭と腰だけが乗った形だ。
「──うん。破格なことを、してみようかな。それも、悪くない」
ぼくの視線が外れた辺りで、ようやく、首を傾げながらまつりは言った。
何かが決まったらしい。なぜ疑問そうなんだ。思わず起き上がる。
目の前に、立っていた。
破格ってなんだよ、と聞こうとした。聞かなかった。
「ああ。やっぱり」
まつりは、それだけ言って、それ以上は言わずに近くに座り、さらに距離をつめてきた。
(顔が近い……)
まっすぐに、こちらを見つめている。
「──や、やっぱりって……?」
聞いてみたが、まつりはそれには答えずに、片手で、ゆっくりとぼくの顎を包むように押さえてきた。親指が首の辺りに食い込み、痛い。もう片方の手をぺたぺたと頬に添えている。
うーん……遊ばれているんだろうか。相変わらず、なにがしたいんだか。
とりあえず突き飛ばすことは出来なくもない。だけど、なぜだか、出来なかった。違う、ぼくは、そうしなかった? たぶん、逃げたら、敗けだ、とか思った。
「……なあ、どうか、したのか?」
戸惑いを隠そうと、聞いてみるが、平然と、むしろ不思議そうに、まつりは返した。
「どうも、していないけど?」
いつもよりとろんとした目が、静かにこちらを見ている。
(眠いのかな……)
そのうちだんだん、こっちまで、ぼんやりしてきてしまい、瞼がゆっくり降りて、ついそのまま目を閉じていた。
──のだが、急に力が、ぼくの意思と反対に働き、ぐらりと頭が傾いた。後ろに倒れる。
たぶん、あいつが倒れてきたんだろう。ぼくを巻き込むなよ……
(……重たい)
ふわふわした思考で、重力はいつからこんなに増えたんだ、と、訳のわからないことを、ぼくは思っていた。気がした。
──それからなにがあったのか、よくわからない。しばらくの、記憶が曖昧だ。気が付いたら体が軽くなっていて、すごくそばにあったような気配が消えて、なんとなく閉じていた目を開けた。
起きる瞬間は、ああ、やっとこれで、呼吸ができる、と思った。よくわからないけれど、ようやく息苦しさから解放されたなと、ぼんやり思った。
鼓動を、柔らかい感触を、緩やかな圧迫を、溶けていくような、熱を、誰かを、なにかを、それまではずっと感じていて、ずっと……なにか、頭の中を埋め尽くしていたような気が、した、ような。
「んん……」
(なんだか、だるい……)
目を開けて、しばらくしてから静寂に気付いた。騒がしいのは、頭の中だけだったのか? 虚しかったから、軽く、咳をしてみた。うまく、出来なかった。
余計に、虚しい。
夕方にクレープなんて食べたからなのか、口の中が今頃になって、変に甘くなっているような気がして、どうにも、落ち着かない。
「はあ……」
じんわりと、全身が痺れているのを自覚する。力が抜けてしまっていて、うまく立てない……気もする。なんだか今ならソファーと一体化出来そう。ソファー人間みたいな。
──わけ、ないよな。なんで。
(熱い……)
なんで、なんだよ。お前は。
「……畜生……だから──」
だから、ぼくにどうしろっていうんだって。いったいあいつが何を求めたかったのか、よくわからない。
なにかリアクションを求められていたのだったら、さすがに……これは、難しすぎる。
「ああ……もう──」
口を、擦ってみた。乾燥している。頭がうまく働かない。今何時だ。そういえばと、見渡してみる。あいつはまたしても、やっぱり、そばにはいなかった。
一人で、大混乱状態のぼくを残して、ふらっと、どこかに行ってしまったらしい。……まったく、いつも、そういうやつだけれど。結局、逃げないところで既に、ぼくは、敗けてしまったような気がする。たぶん、なにかに。
夢の中で、まつりは言った。
『やっぱり、きみはそれでもだいぶん、《治って来ているところ》があるような、気がしたから、合わせて試してみていたんだ』
と。意味が、わからない。いや、いつも、何を考えているかわからないけれど。平然と、まっすぐに、ぼくを見ていた。
なにが、治るのだろう。
ぼくは、今もなにも変われないのに。過去を捨てないから現在に、向き合えずにいるのに。
──きっと、もうすぐ向き合える、なんて、言った。そのことを、確かめようとしてみた、だけなのだろうか。
「わかんねぇよ……なんにも」
なぜだか火照ってきた頬を冷やすように、ふらふら立ち上がり、後ろにあったタンスに寄りかかってみる。
(今までは強く避けてしまっていたものが──いつの間にか、減っているって、無意識下で、本当は、少しずつ治って来てるって、そういうこと、なのか……?)
ああ、もう、酸素が、足りない。なんだっていいや。
ひとまず、そこからも立ち上がろうとして、なんでか指が震えた。
「本当に、なんなんだよ──」
大した預言者、か。声を出して、もやもやした何かを振り払う。まったく本当に、破格だよ。
ふと気が付いて壁の時計を見ると、18時だった。一時間くらい、寝ていたようだ。夕飯には少し早い、かもしれない。
「夏々都」
どうしようもなくて、ぼんやりしたままでいたら、ふいに、後ろから、声がかかる。あいつに呼ばれるのが、実は結構、好きだ。だからぼくは振り向かなかった。なんとなく、そうしたい気分だった。
「はあ、聞いてないな……」
あきれた声がかかった。
しばらく無視していたが、聞いてよ、くらいしか言われなくなった。
「もう一度、名前呼んでよ」
「いやだよ、気持ち悪い。聞いてたならさっさと答えろ」
……全力で拒絶された。
瞬殺だった。やっぱり、変わらないなと思った。
なんだか笑えてくる。なんとなく。唐突に吹き出してしまい、堪えきれなくなった。まつりは、不思議そうに、きょとんとしていた。
ひとしきり笑ってから、ぼくは立ち上がる。
ふいに、あ、そーだよ、とまつりは言った。やっぱり切り替えが突然だった。
「なにか、用?」
「いや、雨が降るって予報、見てなかったのー? 干してたの知らなかったけど、服、雨で汚れてたよ」
不思議そうに言われた。なんてこった。
「まじかよ……」
困った顔になったぼくに、まつりは笑う。なにが楽しいんだよ。やっぱりこいつは悪趣味だなあと思った。どうでも良い。
たぶん、まつりは、ぼくにとっての、生きているために必要な環境そのものなのだろう。初めて、ぼく自身を、ぼくの存在を信じて、承認して、唯一、あのとき、ぼくだけを必要としてくれた人。
その事実だけが、あるのなら、それだけは変わらないのだったら、その存在があるなら──それでいい。だって、『過去』は、事実で『変わらない』。
いつまでも、大切に持っておけるそんな宝物みたいな、記憶がひとつあるなら、それを大切に思っていられるなら、 ぼくは、ぼく自身が存在している価値を、やっと、認めることができるだろう。
あいつがいるから、だからぼくは、まだ生きていようと、思えている。
「あれ?」
いつのまにか、またしても、あいつが居なかった。背後の、どこかから、びっくりしたような声が聞こえる。
「どうやったら壊れるんだよ。 ねぇ! 乾燥機動かないんだけど! なにしたの! 次こそ絶対壊れないようにって報酬2割くらい使っちゃう額のなんだけど、びっくりだよ! こんなことがあっていいの!? ボタンを押すっていう動作以外に、なにかしたんだったら──」
あ、そういえば、いつか壊したままだった……と思った。やばい。
声がする方に向かいながら、もうどうしようもないほどに、あいつに依存してしまっていることくらいは、せめて、認めてもいいのかもしれない……と、なんとなくだけど、ぼくは思ってみた。
まあ、絶対、言わないけれど。
<font size="5">02.身代わりの休息</font>
##IMGR12##
さっきまで、散々にぼくを、あることと、ないことを含めて、罵倒していたのだが──しかし突然、まつりは両腕で、ぼくをまるで、ぬいぐるみにするように抱き込んで、そのまま眠ってしまった。
えーっと……
「とりあえず、今日は、よく寝るなあと思えばいいのか?」
重たい。生きている、体。呼吸を感じる。穏やかだった。
もしかしたら誰かの体温を感じながら眠ることが、気に入ったのかもしれないし(よく、唐突に、何かを気に入ることがある)、悪夢を見ないお守り……みたいな感じなのかもしれない。そういう、決まりじみた、強迫じみたお守りを、あいつはいつも、欠かさないから。
きっと、そういうふうに自分を縛らないと、生きていられない。感情を保つのに、必要な武装。
思考の速さに、発達しきれない精神だけが置き去りにされ、追い付けていないらしい。
それぞれは別のもので、そのずれに、いつだって苦しんでいる。埋まらない溝を無理に埋めようとして、誰にも噛み合わずに、たくさんのものを壊してきたのだと、思う。今でも、気に病むほどに。
(……で、とりあえず、とうとうそのお守り的な項目に、ぼくが入ってしまったのか?)
よく、うなされているのを知っている。夜中に、涙目で起き出してきたのを、見たこともある。(ぼくはそのとき、課題をしていた。ちなみに今は冬休みだ)声は、かけられなかったけれど。
あいつがいくつ、何を、どれだけ抱えているのか、ぼくには計り知れない。
そこに触れられたくも、無いのだろうから、こうして、一方的にでも、頼ってくれるなら、それはそれで、いいのだろう。たぶん。
「ん……」
身じろぎして、そのまま全体で乗っかられてしまった。動くに動けない。抱えたら怒るんだろうか。いや、でも、邪魔なんだけれど……
ため息をつきたくなったが、やめた。
「奔放なんだよなあ……相変わらず」
人を振り回すことを生き甲斐にしているんじゃなかろうか。なんて。
ぼくが、もう、少しは大丈夫なんだとしたら、たぶん──
「な……と」
呼ばれた、気がした。指に、力が入っていた。ちょっと、痛かった。腕が。
「……ぼくは、お前には壊せないよ」
呟いてみる。
「簡単には壊れないし、望まれるならどこにも行かない。ぼくのこと、お前の好きにすればいい。これは……ぼくが、自分で選んだことだ」
それは宣言で、決意だった。返事はなかったけれど。頭を、軽く撫でてみる。眠いからか、抵抗されなかった。
しばらくして、一瞬、ぱち、と目を開けたので「退いてくれ」と言おうとしている間に、再び眠り始めた。安心したように、微笑んでいる気がした。
もしかしたら、ずっとこうしてみたかった、わけは──ないか。さすがに。
「……確かに、そうかもな」
ぼくは、呟く。そうかもしれない部分はある。だけど、たぶん、あいつの予想は、少し違うかもしれないと、考えてみて思った。
こちらの意思を、理解を求めていない場合のみ、ぼくは、安心して他人の体温を受け入れるように、なってきたのだろう。そして、たぶんそれは、まだ──限られる。
「意味なんて、いらない……」
求めてまで得るような『意味』なんて、『理解』なんて、ただの建前だと、ぼくは思う。それが、ときどき、ぼくには苦しい。
一方的に、自分がそうしたいからと、それだけで、いい。
そのときに、ぼくに、なんとなく感じてくれたものだけで、ぼくがなんとなく感じたものだけで、充分だ。想っていてくれるのなら。言葉じゃなくても、嬉しいのだから。
ただ、わからないままで、そこには触れないままで、そばにいて欲しかった。理解し合おうとしても、出来ないと、知っているから。
そうやって、傷付けてしまうから。たとえそれが無茶苦茶でも。
どうして違うのか、なにが違うのか、どこまで違うのか、嘘なのか。本当なのか。
そうまでして、ぼくを知ろうと、理解しようと、してくれた人が、かつては、僅かでもいたのだと思う。
だけど、そういうことじゃなかった。居場所がなかった。自分から逃げた。
なんにもわからなくても、そんなことは、そもそも、どうでも良いのだと。
わかり合える部分が、最も見失ってはならない部分が、少しでもわかり合えれば、それでいいのだと。
(言って欲しかったんだな……ぼくは、ただ、それだけを)
嫌なことを思い出した。
それ以上続かないようにと、思考を切り替える。
「……まあ、いいや。寝室に放り込もう」
適当に、腕を剥がし、抱えあげてみる。なんだろう。人を抱えるのに慣れてきた……抵抗されなかった。──いや、でも勝手に部屋に入ると、いけないんだったか。
無意識になのか、加減せずにしがみつかれた。だから、痛い。やめろ、殺す気なのか。落ちるぞお前。ぼくも転ぶぞ。細腕で地味に頑張ってるんだからそういうことは本当、危ないってば。
「ん……」
しがみついたまま、すりよられる。猫みたいだ。くすぐったい。起きてるときに聞かせたら、または思い出させたら、悪い意味で大変なことになりそうな、甘えられかただった。うーん。やっぱりこいつ、どうかしていると思う。
よくわからないけれど、アルコールが抜けてない……わけじゃないよな?
──いや、もしかして、最近なにか、嫌なことでもあったのだろうか。不安でたまらないような、なにかが。こいつが、記憶に引きずられて幼くなってしまうくらいの、思い出に、関わること?
(幼少期……)
「……っていうか、本当にやめろ」
さすがに、そろそろぼくも、怒るぞ。落としたらどうしよう。手が、辛くなってきたし。
「もう、いっそのこと投げていいか?」
「だめ」
聞いてみたら驚くことに、返事が返ってきた。おお、なんだ、やっと起きたのか。
抱えたまま廊下辺りまで来ていたのだが、すごく眠そうなまつりが、ぼくの腕からするっと降りて、ふらふらと階段をのぼり、部屋に戻って行った。
内心、階段はさすがにキツいと思っていたから、良かった。
──と、思っていたら、戻ってきて腕を引っ張られた。なんなんだよ、わかんねぇ……
「寒いから」
極端な理由だった。
お前常に厚着じゃないか。あの頃から、ずっと──
「はあ……ぼくは寒くないかな」
反抗してみると、まつりは困ったような、微妙な顔をした。そして嫌そうに、チッ、と舌打ちされる。
……さっきとは、まるで釣り合わない態度だった。目覚めた途端に勇ましいというか……なんて、いうんだ?
かと思えば、うう、と少し唸ってから、まつりは結局腕を引っ張ったまま、言った。
「……よくわかんないけどそうじゃないと、なんだか、うまく眠れないんだよ!」
すごく嫌そうに言われた。言いにくそうに。目を反らしている。あんまり迫力がない。
うーん……そんなことで、いちいち、ぼくがからかったりすると思っているのだろうか?
睡眠は大事だろうに。
眠れないなら、さらに一大事だろうに。それで落ち着けるなら、別に構わないのだが。
「はいはい。わかったよ」
とりあえず、そばに行こうとしていたら、なにか用事を思い出したらしい。
またしても唐突だった。
「あああすっかり忘れてたー! まだ連絡があったんだった。うう、面倒だなあもう……」
──と、言って、無理矢理眠気を覚まそうと目を擦りながら、ばたばたと階段を降りていく。
「うん。慣れては、いるけれど」
……勝手に寝ていよう。おやすみなさい。