丸いサイコロ
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「──はい。そうでした。それから……眼鏡など《直線的な物》を顔に付けている場合の人物の見分けが、思った通り、曖昧なようでした。よって恐らく、あれは信憑性に乏しいと思いました。彼は、事件のことも、恐らくはよく覚えていません。きっかけを与えても、聞き出せなかっ」
気が逸れて、ふと時計を見る。通話に飽きたし、話していたい相手じゃない。19時くらいだった。
『おい、どうした?』
お腹がすいた、気がする。なるほど、だから眠かったのか。エネルギーが足りないのか。
「……そういえば、ご飯食べなきゃならないので、失礼します。もう少し明確な証拠が無ければ、こちらもどうともしかねますし、もしそんな状態で勝手なことをされたら──あなたたちを赦しません。残らず葬るつもりでいますので」
切ろうとしたが、通話相手が笑っていたのを聞いて、つい、タイミングを逃した。挑発されている。
『お前に、果たしてそんなことが出来るのかね? いくら、かつてお前が、出来損ないながら、神童などと、似合わぬ名前で呼ばれ』
「黙れ。二度とそれを口にするな」
しまった、さっき切っておくんだった、と軽く後悔する。冷静さを欠いたら、調子に乗られるだけだ。相手は、嬉しそうだった。
『おや、口が悪くなったな。嬉しかっただろう? 親に感謝しろ。優秀で誰からも──』
思わず、唇を噛み締めた。バカにされている気分にしか、ならない。きっとわかっていて、言っている。
お前らの、優秀ってなんなんだよ。勝手に押し付けて崇めて、隔離して、誰の視野にも入らない生活に、感謝なんて、するのか。
誰からも評価されるなんてわけ、ないだろ。足並みを乱したって、やっぱり恐ろしいからって、やっぱり自分たちには、こんなやつは扱えないって、勝手に排除したのは、誰だ。
「そんなわけ、ないだろ。お前らの自己満足が押し付けたものなんて!」
なにひとつ、いいことはなかったのに。
通話を無理矢理切り、充電器にコードレスの受話器を置いた。
ああ、まったく大嫌いだ。大人なんて。勝手に作って、勝手に遠ざけた、あいつらなんて。地位とか、世間体とか、知るか。
結局、違ったら、違うだけで、それだけじゃないか。
思わず、泣きそうになった。今日は余裕がないのかもしれない。これだから、身内は嫌なんだ。でも、下手に逆らえない。
通話相手に聞かれたくなくて、さすがに、泣かなかった。怒鳴ってしまったが、上の階まで聞こえただろうか。今降りてこられたら、少し気まずい。
静かなリビングに、残された。なんとなく、気が緩んだ。視界がぼやける。上着を、頭にかけた。少し肩が震える。
「──なあ、いつまで、こうしてなきゃならないんだよ……どうして、こんなことに縛られて生きなきゃなんないんだよ……違う生き物と、同じ生き物みたいに生きることを、強制されてるみたいで……」
真面目になんて生きたら、わかってしまう。素直になんて生きたら、違いが、バレる。理解なんて、鬱陶しい。同じには、なれない。息が、苦しい。
「名誉なんて、誰も頼んでない! 下らないことばかりに利用されて。それさえも……」
『自分』とは、一体なんなのだろうか。自分と周りの認識がずれた、異世界に置き去りにされたような感覚のままで、どうやったらうまく生きられるのだろう。
(──違ったら、怖いのは、知っている)
それでも、同じ部分は、どうなるんだよ。
この石は、丈夫だからどんなに強く叩いても割れない、というような扱いだった。誰も、少しずつ入るヒビには、気付かなかった。疲れても、わからなかった。倒れても、気付けなかった。
「もう役に立たないのか」としか、言われて来なかった。それは誰であったって、同じだった。ずっと。
風邪を引いても「今日こいつは使えない」と、周りに報告が回るだけの、世界。道具。生きていても、それだけだった。
確か、初めて彼にあったとき、ああ、この人も勝手な都合に、排除されようとしているのだな、と、思った。それは直感だった。だからせめて、少しでも、彼の精神を、守ることが、できないのだろうかと思った、気がする。もう一人の自分のように。
──まだ、生きてほしいと。
それだけで、自分も救われる気がしたから。
「けて……助けてよ──」
滴が、床に溢れる。
苦しかった。頭が痛い。しゃがんだまま、しばらく床をにらんでいた。