丸いサイコロ
□
「夕飯ー食べてないよー食べよー」
部屋でぼんやりしてたら、まつりが、入ってきた。……今度はニット風な上着を着ていた。室内用と、外用があるらしい。
ぼくの部屋は、主に図鑑と教科書と地球儀くらいしかないので、殺風景だが、特に何かしたいわけでもないので、何を飾ればいいかわからない。
ベッドの上で、全然眠れないなあと、とりあえずさっきまでのことを考え直していたので、少しびっくりした。
「ああ、うん」
「なに、固まってるの?」
不思議そうに、聞かれる。そういえば、こいつはだいたい、誰かを不思議そうに見ている気がする。
自分以外の生き物は、謎だ。自分と同じくらいに。
「……別に。お前って、そういえば、夕方くらいに、ぼくに──いや、いい」
さっき、そこまで、思い返したところだったので聞こうかと思ったが、それだけ言い、聞くのをやめた。こいつは、特に、常に、わからないのだから。
まつりは、なにか、考えるようにしていた。よくわからないらしい。まあいいやと切り上げようとした頃になって、やっと思い当たった顔になる。
「……んー? ああ!」
「ああ。ってなんだよ」
「……いや。あの程度のが、そんなに夏々都とっては、考えるようなことなんだとは、思っていなかったんだよ。そうか、配慮が、足りなかったんだなあ……もう少し、やり方を考えるべきだったのか。気付かなくてごめん」
まったく悪気がない、きょとんとした顔をしていた。何か言いたかったが、言葉が出ない。
「実はちょっとは考えてみていたんだけど、やっぱり他にいい確かめかたが浮かばなかったんだよー」
……まあ、そういうやつだ。
変なところで極端で、特に名案が思い付かなくても出来る限りは実行するという、信念なのかもしれなかった。
やっぱり確かめただけなのだと思うが、しかし、そういう問題なのだろうかと、思う。違う。
そうじゃなくて『あの程度の』って、なんだよ。価値観がわからない。
(……いや、聞かないことにしよう)
「──っていうか今現在の発言への配慮のが、確実に足りない」
「足りないって……もっと、構って欲しい?」
首を傾げられた。じー、とこちらを見ながら愛しそうに近寄ってくる。いや、そんなわけねーだろ……呆れたまま、枕を投げつける。
ひょい、と、頭を横にし、腹が立つほど気軽に、ほとんど体勢を変えずに避けられた。にらみつけてみる。
「わざと最後だけ取るな。怒るぞ」
「さすがに冗談だよー。可愛いなあ……怒りたければ、好きに怒ってみて? ほらほら、おいでー」
からかって遊ぶのが、楽しいらしい。にこにこしていた。機嫌がいいのか悪いのか、わからない。少し、目の端が赤くなっている気がしたけれど、触れなかった。たぶん、そうしたら壊れてしまう気がするから。
「だから! お前の冗談はたちが悪いから、いい加減やめろって言ってるんだよ……」
危ない、好きに怒ってしまったら思うつぼじゃないかと、怒りを納める。
ぼくの反応が楽しくて、この癖は治す気がないらしい。って、ぼくのせいなのかな……
ちなみに、まつりの『可愛い』のカテゴリーは広すぎるので、あんまり嬉しくない。サボテンだったり石だったり葉っぱだったり小動物、人間に至るまでに、いくつあるんだかわからないのだ。
『癒し成分が足りないと、死んじゃう生き物なんだよー』だそうだから、癒し成分を連れ帰ることが、たまにある。人間についてだけは、自重しているらしいが。
とにかくその、あいつ的な癒し成分が、足りていないとだんだん機嫌が悪くなるのだけは確かだから、まあ、それよりはいいのだけど。どうでも。
(っていうか、ぼくはあいつの癒し成分の中に入っているのだろうか……思考がさすがに、かなり、理解出来ない)
──ずっと、変わらない。あいつになら、何をされても、もし、殺されそうになろうと、それはどちらも『そうだった』以上の意味は持たない。
勝手に死なれたら、誰かに勝手に傷付けられてしまったら、それは困るけれど、それ以外は、どうでもいい。自分のことなんて、知らない。
あいつの意思の問題でしかないし、ぼくの意思の問題でしかないのだ。独占なんて、するまでもなく、そうされていないと、どちらみち生きられないのだから。
それは、呪縛で、きっと、それが、果てしない、依存なのだろう。
理解は求めず、疎通も求めず、合意も求めていない。そんなものは、いらない。ぼくらには。
意図を持って名前をつけ、言葉として、強制的に縛りつけてしまったら、きっと容易く壊れてしまうくらいの、依存状態。かもしれない。
(なんて、考えてみると、なかなかに、末期的だな……)
「ロールキャベツだよー」
ぼんやり考えていた間に、そう言い、いつものように、さっさと階段を降りていってしまった。
「うーん……」
ちなみに、料理担当なのは、過去にぼくが不器用過ぎて大惨事になったので、ということでもある……ので、申し訳ないとは思う。あ、壊すことにかけては器用という称号をもらった。
「言うべきか、言わないべきか……」
ぼくは、考える。でも今日はまだやめておこうと、もう一度、思った。思い出したことを。あの話、を。そうだ、あの兄貴に、とりあえずメールしてみよう。と、考えてから、あれ?
と思った。
「ああ、携帯、壊れてたっけな……」
生きづらい世の中だ……
電化製品って、なんであんなに、ボタンや数字や記号だらけなんだろう……
とりあえず、階段を降りてくると、まつりは、あ、来たんだねー、と、言った。このまま、今日は食べるのをやめるのかと思ったよ、と。
別に、一緒に食べる決まりなどないのだが、放って置くと食べるのを忘れるので、気にかけてくれる、らしい。
──この家は、なぜかどこかの輸入品が多い。備え付けだったテーブルも、どこかの輸入品。持ち主がまつりの知り合いらしいから、その関係なのだと、思う。たぶん。
木目がどうとか、磨きかたがどうとかで、よくわからないが高いらしい、黒い、そのテーブルに、そんなに食えない、というくらい、なぜか今日はいろいろなものが並んでいた。
席につく。まつりは、ぼくの正面に座ったまま、楽しそうにしていた。珍しく。今日は、もしかしたら、本当に、なにかあったのだろうか。機嫌が悪いときなら「うるさい」以外、喋らないし。
テーブルには、サラダが5種類あって(シーザーサラダとポテトサラダしか、名前がわからない)、肉類が4種類。漬物が2種類、汁物が3種類。みたいな感じだった。
「──あ。お前さ、どこでわかったんだ? ぼくがだいぶん、人に慣れてきたって」
聞いてみたが、きょとんとされた。
「んー? 食べる?」
そのまま、口に、なんだっけ……なんかの白い漬物、みたいなのを、詰め込まれかけたのを(これもマイブームかなにかなのか?)、無視して、ご飯を掻き込んだ。
飲み込む。普段はしないけれど、まあ今日くらいは行儀が悪くてもいいやと思った。なんとなく。
まつりは諦めたように、小さく息を吐いてから答える。拒否された漬物をかじって。こいつ、やっぱり誤魔化してたのか。
「おとつい? の朝ー。近づいても、日に日に、警戒する距離が無くなってきていたからね」
「ああ……あれ」
そこから、もう既に計算に入っていたのか。それとも、ふと思い出して入れてみたのかはわからないが、相変わらず、いくつ考えてるか、何を《考えないで》いるのかわからないやつだった。
日に日に、というのは──つまり、いつも、警戒されない距離や範囲を、計っていた、のだろうか。
極端で、手っ取り早いものを選ぶやつだと思っていたが、そんな気の長いことも、するのだなと、なんにも知らないくせに、思ってみた。
「わざと、なのかよ……いつもの、あれら、全部は」
「うん」
まったく悪びれないやつだった。楽しそうに、器用に、ロールキャベツを切っている。その、切っているナイフを見て、ふとあの、悲惨なほどの解体癖を、思い出してしまった。
──だけどもし『あの事件』を起こした側だったなら、ああいう《血のかかりかた》はしないはずだし、あいつは、そもそも腕以外は、汚さないでやるはずだった。服なんてあんなに汚すようなこと、あいつならしない。
頭に映像が浮かぶ。ちらつきすぎて、ロールキャベツの赤が、直視出来ない。食事は、だから、苦手なんだよ。音が、色が、記憶が、結び付いたら、味なんて、よくわからなくなる。
なかなか脱ごうとしなかった、真っ赤な、白いワンピース。かぶるだけだから楽だし着替えがそもそも面倒、と言って、夏場だけ、よくそうしていたのだ。あの頃は。衣類に、特にこだわりがあるわけじゃないようだった。
反動のように、今は、特に、腕を、極力、人に見せない。
たぶん、その下も、包帯か何か巻いていた──ような気がする。
あれから、拾えた限りの《何か》の破片を並べて、埋めて、まつりは狂ったように『ごめんなさい』と言っていた。守れなくて、不甲斐なくて、悪くて、背負えなくて、耐えられなくて……耐えられなく、してしまって。
「どうしたの? 悲しいことでも、あった?」
不安そうに覗き込まれた。こいつが変なところで優しいから、なんだか少し、腹が立つ。なにかに。たぶん、自分に。
「いや。キャベツが喉に詰まりそうになったんだよ……」
「んー。首を締めてあげようか?」
ご飯を飲み込んでから、特に考えずに、まつりは言った。たぶん、ぼくのために。
「殺す気か!」
「冗談だよ」
まつりは言った。
「知ってるよ」
ぼくは、目を伏せた。
(……だめだ、なんだか感傷的になる)
──落ち着こうと深呼吸しかけた……ところで、なんだか気配を感じたので、目を伏せたまま、ぱしっと、それを、片手で受け止める。目を伏せたところで、それくらいするには、なんの支障もない。危害には、これまで散々、慣らされてきたから。気配には、敏感だった。
掴んだのは、やはりまつりの右腕で、それはこちらに伸ばされたまま、静止していた。もちろんぼくが止めたから。
(……っていうか、こいつはなにを勘違いしているのか)
「……けち」
不満そうに言われた。少しだけ身を乗り出してもいたが、戻った。取り合わない。あいつの都合など、どうでもいい。
「ぼくに構わず、食ってろよ。飯」
腕を掴んだまま言った。
まつりは、あまりぼくの食事が進んでいないのを見て、聞いた。
「美味しくない?」
「いいや、味って、まだ、よくわかんないだけだよ、ぼくは。塩くらいは、わかるけど」
「ふうん」
聞いたわりにやっぱり興味が無さそうに、腕を振り払って自分の食事を再開しはじめた。ご飯をつぎ足して、黙々とポテトサラダを食べている。
ロールキャベツはいつの間にか食べ終わっていた。
そしてさらにそのわりに、ぼくが黙って席を立とうとしたら、一応ちゃんと見ていたらしく、腕を掴まれる。いつだって見ていないようで、見ている。
「こらー、残さないでくださいー」
「ふっ、希望は、いつだって残しておくものさ」
「……ごめんすごくつまらない。いっそ言わない方がまだ希望があったと言えるよ。ちゃんと食べないとだめですー」
よくわからないことを言われたり言ったりしつつ、無駄な攻防に疲れていたら、まつりはぼくを捕まえた。片手で丸く抱えるように固定して、無理矢理、口の中に唐揚げを入れた。動けないし厄介だ。
──体温は、慣れない。目が回る。寝ているときならともかく、起きていると、与えられるダメージが増加するような気がした。口のなかは、肉と塩コショウの味がする。不安で吐き出しそう。
っていうかさすがにもう調子に乗りすぎじゃないのか。構うなと訴えようとしたが、なんだか嬉しそうだったので、やっぱり言えなかった。
なにが嬉しいんだろう。まあ……いいや、どうだって。
正常を認めたくないのかもしれない。過去の自分の認識がいつの間にか塗り替えられたら、今まで大切だった何かを失いそうで。
「──不眠症気味だったのも、重なってたんだよね。こう、眠るのってなんだか苦手だから。出来ることなら起きていたいし。やれることは全部やりたいし」
2個目の唐揚げを、ぼくに押し込みながら、突然、まつりはそんなことを言った。3個目を押し込まれる前に、さすがに、もうやめろと言って席について、改めてご飯を、食べる。ああ食べ物だなあ、と思った。
「……ふうん。夜更かしじゃなくて、本当に、眠りたくなかったのか」
なんとなく言うと、まつりは苦笑いしながら、複雑そうに答えた。
眠れなかったんだよと。
「眠れなかった。うまく、眠れないんだ。不安で、すぐに起きてしまう。《あの日》から、ずっと、夢を見て……眠るのが怖い」
「ずっと……?」
あの日から──ずっと一人で、闇の恐怖を抱えたまま、うなされて眠っていたというのか。それは、どれだけ、怖いことだったのか、ぼくにだって、わかる。
──だから、少し、後悔した。
「もっと早く言えよ、馬鹿! ちゃんと寝ないと本当に」
本当に死んでしまってもおかしくない。今のまま脳を、体を酷使させて、うまく眠れないまま癖になってしまったら。
「言えないよ、そんなの」
どこか驚いたように、言う。ぼくは確認した。
「でも──つらかったんだろ?」
そうだね、とだけ、まつりは言った。ぼくは、気付いていなかった。なんにも。八つ当たりだ。
きっとずっと、言わないで、ぼくを気遣っていてくれたのだろうと、本当はわかっていたのに……ぼくは──
「衝動的に襲っちゃうかもしれないし」
「わかった、今日も一人で寝ろ。近づくな」
台無しだった。最低だ。
「えー……」
なんなんだか、まったく意味がわからない。まあ、実際はあいつなりに茶化そうとしただけで、プライド的にも、言い出せなかったという感じなのだろうか……
──まつりは笑っていた。幸せそうに。
それは、壊れたような、あの、カラカラと意識を置き去りに、音だけが鳴っているような――人形のような、笑顔ではなかった。
思わず泣きたくなった。だけど泣けなかった。
いったい、いつまで背負えば、考え続けていれば、どこかが違う生き物と、どこまでも同じふりをしていれば、痛みから解放されるのだろうか。
痛みを誤魔化すための麻酔なんてのもきっといつかは慣れて、効かなくなると、ぼくは知っている。結局は、幻だから。
──過去は、事実は、変わらない。たとえ、自分以外の誰が覚えていなくても、それは存在し続けて、縛り続けるのだから。
だからこそ。いつも、願う。
ぼくなんて、どうなったっていいから──ずっと、ひとつだけを。
丸いサイコロ END.
「夕飯ー食べてないよー食べよー」
部屋でぼんやりしてたら、まつりが、入ってきた。……今度はニット風な上着を着ていた。室内用と、外用があるらしい。
ぼくの部屋は、主に図鑑と教科書と地球儀くらいしかないので、殺風景だが、特に何かしたいわけでもないので、何を飾ればいいかわからない。
ベッドの上で、全然眠れないなあと、とりあえずさっきまでのことを考え直していたので、少しびっくりした。
「ああ、うん」
「なに、固まってるの?」
不思議そうに、聞かれる。そういえば、こいつはだいたい、誰かを不思議そうに見ている気がする。
自分以外の生き物は、謎だ。自分と同じくらいに。
「……別に。お前って、そういえば、夕方くらいに、ぼくに──いや、いい」
さっき、そこまで、思い返したところだったので聞こうかと思ったが、それだけ言い、聞くのをやめた。こいつは、特に、常に、わからないのだから。
まつりは、なにか、考えるようにしていた。よくわからないらしい。まあいいやと切り上げようとした頃になって、やっと思い当たった顔になる。
「……んー? ああ!」
「ああ。ってなんだよ」
「……いや。あの程度のが、そんなに夏々都とっては、考えるようなことなんだとは、思っていなかったんだよ。そうか、配慮が、足りなかったんだなあ……もう少し、やり方を考えるべきだったのか。気付かなくてごめん」
まったく悪気がない、きょとんとした顔をしていた。何か言いたかったが、言葉が出ない。
「実はちょっとは考えてみていたんだけど、やっぱり他にいい確かめかたが浮かばなかったんだよー」
……まあ、そういうやつだ。
変なところで極端で、特に名案が思い付かなくても出来る限りは実行するという、信念なのかもしれなかった。
やっぱり確かめただけなのだと思うが、しかし、そういう問題なのだろうかと、思う。違う。
そうじゃなくて『あの程度の』って、なんだよ。価値観がわからない。
(……いや、聞かないことにしよう)
「──っていうか今現在の発言への配慮のが、確実に足りない」
「足りないって……もっと、構って欲しい?」
首を傾げられた。じー、とこちらを見ながら愛しそうに近寄ってくる。いや、そんなわけねーだろ……呆れたまま、枕を投げつける。
ひょい、と、頭を横にし、腹が立つほど気軽に、ほとんど体勢を変えずに避けられた。にらみつけてみる。
「わざと最後だけ取るな。怒るぞ」
「さすがに冗談だよー。可愛いなあ……怒りたければ、好きに怒ってみて? ほらほら、おいでー」
からかって遊ぶのが、楽しいらしい。にこにこしていた。機嫌がいいのか悪いのか、わからない。少し、目の端が赤くなっている気がしたけれど、触れなかった。たぶん、そうしたら壊れてしまう気がするから。
「だから! お前の冗談はたちが悪いから、いい加減やめろって言ってるんだよ……」
危ない、好きに怒ってしまったら思うつぼじゃないかと、怒りを納める。
ぼくの反応が楽しくて、この癖は治す気がないらしい。って、ぼくのせいなのかな……
ちなみに、まつりの『可愛い』のカテゴリーは広すぎるので、あんまり嬉しくない。サボテンだったり石だったり葉っぱだったり小動物、人間に至るまでに、いくつあるんだかわからないのだ。
『癒し成分が足りないと、死んじゃう生き物なんだよー』だそうだから、癒し成分を連れ帰ることが、たまにある。人間についてだけは、自重しているらしいが。
とにかくその、あいつ的な癒し成分が、足りていないとだんだん機嫌が悪くなるのだけは確かだから、まあ、それよりはいいのだけど。どうでも。
(っていうか、ぼくはあいつの癒し成分の中に入っているのだろうか……思考がさすがに、かなり、理解出来ない)
──ずっと、変わらない。あいつになら、何をされても、もし、殺されそうになろうと、それはどちらも『そうだった』以上の意味は持たない。
勝手に死なれたら、誰かに勝手に傷付けられてしまったら、それは困るけれど、それ以外は、どうでもいい。自分のことなんて、知らない。
あいつの意思の問題でしかないし、ぼくの意思の問題でしかないのだ。独占なんて、するまでもなく、そうされていないと、どちらみち生きられないのだから。
それは、呪縛で、きっと、それが、果てしない、依存なのだろう。
理解は求めず、疎通も求めず、合意も求めていない。そんなものは、いらない。ぼくらには。
意図を持って名前をつけ、言葉として、強制的に縛りつけてしまったら、きっと容易く壊れてしまうくらいの、依存状態。かもしれない。
(なんて、考えてみると、なかなかに、末期的だな……)
「ロールキャベツだよー」
ぼんやり考えていた間に、そう言い、いつものように、さっさと階段を降りていってしまった。
「うーん……」
ちなみに、料理担当なのは、過去にぼくが不器用過ぎて大惨事になったので、ということでもある……ので、申し訳ないとは思う。あ、壊すことにかけては器用という称号をもらった。
「言うべきか、言わないべきか……」
ぼくは、考える。でも今日はまだやめておこうと、もう一度、思った。思い出したことを。あの話、を。そうだ、あの兄貴に、とりあえずメールしてみよう。と、考えてから、あれ?
と思った。
「ああ、携帯、壊れてたっけな……」
生きづらい世の中だ……
電化製品って、なんであんなに、ボタンや数字や記号だらけなんだろう……
とりあえず、階段を降りてくると、まつりは、あ、来たんだねー、と、言った。このまま、今日は食べるのをやめるのかと思ったよ、と。
別に、一緒に食べる決まりなどないのだが、放って置くと食べるのを忘れるので、気にかけてくれる、らしい。
──この家は、なぜかどこかの輸入品が多い。備え付けだったテーブルも、どこかの輸入品。持ち主がまつりの知り合いらしいから、その関係なのだと、思う。たぶん。
木目がどうとか、磨きかたがどうとかで、よくわからないが高いらしい、黒い、そのテーブルに、そんなに食えない、というくらい、なぜか今日はいろいろなものが並んでいた。
席につく。まつりは、ぼくの正面に座ったまま、楽しそうにしていた。珍しく。今日は、もしかしたら、本当に、なにかあったのだろうか。機嫌が悪いときなら「うるさい」以外、喋らないし。
テーブルには、サラダが5種類あって(シーザーサラダとポテトサラダしか、名前がわからない)、肉類が4種類。漬物が2種類、汁物が3種類。みたいな感じだった。
「──あ。お前さ、どこでわかったんだ? ぼくがだいぶん、人に慣れてきたって」
聞いてみたが、きょとんとされた。
「んー? 食べる?」
そのまま、口に、なんだっけ……なんかの白い漬物、みたいなのを、詰め込まれかけたのを(これもマイブームかなにかなのか?)、無視して、ご飯を掻き込んだ。
飲み込む。普段はしないけれど、まあ今日くらいは行儀が悪くてもいいやと思った。なんとなく。
まつりは諦めたように、小さく息を吐いてから答える。拒否された漬物をかじって。こいつ、やっぱり誤魔化してたのか。
「おとつい? の朝ー。近づいても、日に日に、警戒する距離が無くなってきていたからね」
「ああ……あれ」
そこから、もう既に計算に入っていたのか。それとも、ふと思い出して入れてみたのかはわからないが、相変わらず、いくつ考えてるか、何を《考えないで》いるのかわからないやつだった。
日に日に、というのは──つまり、いつも、警戒されない距離や範囲を、計っていた、のだろうか。
極端で、手っ取り早いものを選ぶやつだと思っていたが、そんな気の長いことも、するのだなと、なんにも知らないくせに、思ってみた。
「わざと、なのかよ……いつもの、あれら、全部は」
「うん」
まったく悪びれないやつだった。楽しそうに、器用に、ロールキャベツを切っている。その、切っているナイフを見て、ふとあの、悲惨なほどの解体癖を、思い出してしまった。
──だけどもし『あの事件』を起こした側だったなら、ああいう《血のかかりかた》はしないはずだし、あいつは、そもそも腕以外は、汚さないでやるはずだった。服なんてあんなに汚すようなこと、あいつならしない。
頭に映像が浮かぶ。ちらつきすぎて、ロールキャベツの赤が、直視出来ない。食事は、だから、苦手なんだよ。音が、色が、記憶が、結び付いたら、味なんて、よくわからなくなる。
なかなか脱ごうとしなかった、真っ赤な、白いワンピース。かぶるだけだから楽だし着替えがそもそも面倒、と言って、夏場だけ、よくそうしていたのだ。あの頃は。衣類に、特にこだわりがあるわけじゃないようだった。
反動のように、今は、特に、腕を、極力、人に見せない。
たぶん、その下も、包帯か何か巻いていた──ような気がする。
あれから、拾えた限りの《何か》の破片を並べて、埋めて、まつりは狂ったように『ごめんなさい』と言っていた。守れなくて、不甲斐なくて、悪くて、背負えなくて、耐えられなくて……耐えられなく、してしまって。
「どうしたの? 悲しいことでも、あった?」
不安そうに覗き込まれた。こいつが変なところで優しいから、なんだか少し、腹が立つ。なにかに。たぶん、自分に。
「いや。キャベツが喉に詰まりそうになったんだよ……」
「んー。首を締めてあげようか?」
ご飯を飲み込んでから、特に考えずに、まつりは言った。たぶん、ぼくのために。
「殺す気か!」
「冗談だよ」
まつりは言った。
「知ってるよ」
ぼくは、目を伏せた。
(……だめだ、なんだか感傷的になる)
──落ち着こうと深呼吸しかけた……ところで、なんだか気配を感じたので、目を伏せたまま、ぱしっと、それを、片手で受け止める。目を伏せたところで、それくらいするには、なんの支障もない。危害には、これまで散々、慣らされてきたから。気配には、敏感だった。
掴んだのは、やはりまつりの右腕で、それはこちらに伸ばされたまま、静止していた。もちろんぼくが止めたから。
(……っていうか、こいつはなにを勘違いしているのか)
「……けち」
不満そうに言われた。少しだけ身を乗り出してもいたが、戻った。取り合わない。あいつの都合など、どうでもいい。
「ぼくに構わず、食ってろよ。飯」
腕を掴んだまま言った。
まつりは、あまりぼくの食事が進んでいないのを見て、聞いた。
「美味しくない?」
「いいや、味って、まだ、よくわかんないだけだよ、ぼくは。塩くらいは、わかるけど」
「ふうん」
聞いたわりにやっぱり興味が無さそうに、腕を振り払って自分の食事を再開しはじめた。ご飯をつぎ足して、黙々とポテトサラダを食べている。
ロールキャベツはいつの間にか食べ終わっていた。
そしてさらにそのわりに、ぼくが黙って席を立とうとしたら、一応ちゃんと見ていたらしく、腕を掴まれる。いつだって見ていないようで、見ている。
「こらー、残さないでくださいー」
「ふっ、希望は、いつだって残しておくものさ」
「……ごめんすごくつまらない。いっそ言わない方がまだ希望があったと言えるよ。ちゃんと食べないとだめですー」
よくわからないことを言われたり言ったりしつつ、無駄な攻防に疲れていたら、まつりはぼくを捕まえた。片手で丸く抱えるように固定して、無理矢理、口の中に唐揚げを入れた。動けないし厄介だ。
──体温は、慣れない。目が回る。寝ているときならともかく、起きていると、与えられるダメージが増加するような気がした。口のなかは、肉と塩コショウの味がする。不安で吐き出しそう。
っていうかさすがにもう調子に乗りすぎじゃないのか。構うなと訴えようとしたが、なんだか嬉しそうだったので、やっぱり言えなかった。
なにが嬉しいんだろう。まあ……いいや、どうだって。
正常を認めたくないのかもしれない。過去の自分の認識がいつの間にか塗り替えられたら、今まで大切だった何かを失いそうで。
「──不眠症気味だったのも、重なってたんだよね。こう、眠るのってなんだか苦手だから。出来ることなら起きていたいし。やれることは全部やりたいし」
2個目の唐揚げを、ぼくに押し込みながら、突然、まつりはそんなことを言った。3個目を押し込まれる前に、さすがに、もうやめろと言って席について、改めてご飯を、食べる。ああ食べ物だなあ、と思った。
「……ふうん。夜更かしじゃなくて、本当に、眠りたくなかったのか」
なんとなく言うと、まつりは苦笑いしながら、複雑そうに答えた。
眠れなかったんだよと。
「眠れなかった。うまく、眠れないんだ。不安で、すぐに起きてしまう。《あの日》から、ずっと、夢を見て……眠るのが怖い」
「ずっと……?」
あの日から──ずっと一人で、闇の恐怖を抱えたまま、うなされて眠っていたというのか。それは、どれだけ、怖いことだったのか、ぼくにだって、わかる。
──だから、少し、後悔した。
「もっと早く言えよ、馬鹿! ちゃんと寝ないと本当に」
本当に死んでしまってもおかしくない。今のまま脳を、体を酷使させて、うまく眠れないまま癖になってしまったら。
「言えないよ、そんなの」
どこか驚いたように、言う。ぼくは確認した。
「でも──つらかったんだろ?」
そうだね、とだけ、まつりは言った。ぼくは、気付いていなかった。なんにも。八つ当たりだ。
きっとずっと、言わないで、ぼくを気遣っていてくれたのだろうと、本当はわかっていたのに……ぼくは──
「衝動的に襲っちゃうかもしれないし」
「わかった、今日も一人で寝ろ。近づくな」
台無しだった。最低だ。
「えー……」
なんなんだか、まったく意味がわからない。まあ、実際はあいつなりに茶化そうとしただけで、プライド的にも、言い出せなかったという感じなのだろうか……
──まつりは笑っていた。幸せそうに。
それは、壊れたような、あの、カラカラと意識を置き去りに、音だけが鳴っているような――人形のような、笑顔ではなかった。
思わず泣きたくなった。だけど泣けなかった。
いったい、いつまで背負えば、考え続けていれば、どこかが違う生き物と、どこまでも同じふりをしていれば、痛みから解放されるのだろうか。
痛みを誤魔化すための麻酔なんてのもきっといつかは慣れて、効かなくなると、ぼくは知っている。結局は、幻だから。
──過去は、事実は、変わらない。たとえ、自分以外の誰が覚えていなくても、それは存在し続けて、縛り続けるのだから。
だからこそ。いつも、願う。
ぼくなんて、どうなったっていいから──ずっと、ひとつだけを。
丸いサイコロ END.