ノート


side秋弥

 自分が何をしているかはよく覚えてない。
逃げるように部屋から出て降りたつもりが、知らない部屋に居た。
テーブルがあり、そこに水が見えてなぜだか飲もうと思った。
もはや自宅だと錯覚している。

 予想していた味ではなく口の中が苦くて辛くて、いたい。
強烈な苦味と酸味の混ざる味にむせて吐き出す。泡とともに、それが床にこぼれた。

泡?
手にしたものを見たら食器用洗剤だ。

なんで洗剤を飲んだんだろう?
俺は洗剤が好きだっけ?
頭が回らなくなっている。
 前も、絵の具を食べたことがあったけれど、なぜこんなの食べたんだろう?
洗剤には独特の渋味とえぐみがある。
しばらく舌の上にその感触が残り、咄嗟に唾液が口を満たす。
あまり美味ではない。

水を……水、を。
ふらふら歩いていたら、流しを見つけた。蛇口を捻って出てきた水を飲む。
しばらく余韻が続きそうだが、すぐ吐いたからさほど飲んではいないだろう。

口をぬぐって、冷静にあたりを見たら知らない場所だった。こんな部屋、知らない。俺の部屋は? あちこち見渡して、続いている廊下を見つけた。持ってたハンカチで周りを拭いてから立ち去る。

 歩いている間は、ひとりぼっち。
 なんだか悲しくて、腕を引っ掻きまくると腕や首から血がだらだら伝ってきた。身体がぽかぽかする。
「う……ふぇ……」

嗚咽ににたなにかが零れた。苦しい。

「あはははははは」

すぐに、笑いに変わった。
「あはははははははは!!!!!」

ふと、周りを見ると「好きだー」「受け止めてくれー」と、叫ぶお化けが沢山あたりに広がっていた。
ぞろぞろ溢れてまとわりつく。

スキダ、スキダ、と不気味な言葉。理解できない言葉を俺に押し付けてくる。

「好き、怖い……嫌だ……嫌だ、好き、嫌、だ」


 俺は好かれるために生きてるわけじゃない。

「スキダ、スキダ、スキダ!」
「オレノモノ……」
「オレノモノ」

恐ろしい顔をした、ゾンビみたいな怪物が、ぞろぞろ俺を囲むから、廊下から動けなくなった。
表情がひきつるようになり、恐怖で心臓がバクバクと暴れる。

「オマエハオレノモノ」
「ユルサナイ」
「ドコニモイカセナイ……」
「来ない、で、来ないで……」

泣きそうになりながら訴える。

「メイヨナコトデショ?」
「スキナンダ」

「シカタナイ」

 町中にある迷惑な広告たちが、頭にちらついて重なる。
まるで、それの具現化が、このゾンビたちの言葉だ。

「仕方なく、ない、帰って、来ないで、名誉なんか望まないから、来ないで……」


頭が痛く、熱を持ち、呼吸が苦しくなってくる。怖い……
なんで俺が好きなのかもなぜこんなに居るのかもわからない、けれど、この化物は人の話が聞けない。

輪になって囲まれると、沢山の腕が俺に絡み付いてきた。
そして「スキダヨ」と不気味に笑って一斉に首や腕をひねり上げてくる。
どたばたと足音を響かせ、数がどんどん増えていく。

そのぶん、さらに腕や首に巻き付く手が増えていく。
身体が重たい。
ぎゅうぎゅうと力の入るそれらに、動くことすらままならない。

少しずつのし掛かってくる重量が増えて、骨がキシキシと悲鳴をあげ始めて、俺も悲鳴をあげる。ゾンビたちは怒りを露にした。

「オビエルナンテ、ユルサナイ……!」
「カンジョウヲダスナ」

怒るのも怯えるのも許されなかった。
笑顔を要求されて、無理矢理笑顔をつくる。

「アハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハアハハハハハハハハハハアハハハハハハハハ」
「ああああー!!
わああああああああ!!ああああああああああ!!」

頭をガンガンと床や壁に打ち付けながら無我夢中でもがく。
世界が歪む。
毒キノコ、お花畑、暴れる牛たち。
いろんなものが見えた。
心の奥が、痙攣している。ドキドキというより、ひくついている。
ひくついた鈍い、振動が続いていて、それが鈍く、身体中に血をめぐらせる。

無理だ。
もう無理だ。
未練なんかない。

怖かっただけなんだ。
いきる楽しさを知りたかった。
だけど、未練なんか、

いきればいきるだけ
見つかる。
なんて不毛なんだろうか。
こんなときですら誰のことも思い浮かばなかった。そこに「恋」なんかなかった。

――結局俺は 沢山の好意から逃げるために、都合が良い相手を探しただけなんだろう。

助けてほしかった。

誰かが好きなふりをすれば、

あのゾンビを一掃できたのに。

たった一人を我慢すればいいんだから。

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