ノート



Side 秋弥

 どこをどう歩いたかもわからない。気づいたら外をふらふら歩いて家の近くまできていた。
母が立っていた。
紙を……いや、『別のノート』を持って怖い形相だった。

「読んだわ! 遺書なんか書いていたのね!!」

『これ』が読まれていた……

「私を置いていくなんて許さない、許さない、許さない」

 『彼女ら』は平気で俺の心に踏み入る。心配だとか理由をつけて。
俺は昔から、何をしたのかわからないことでこうやって怒られ過ぎて、もうよくわからない。

「勝手に読んでごめんなさいだろ……? なんでキレるんだ?」

「あんたがこんなの書いてるから心配で見はっているんじゃないの!」

俺は、心を持つことも。現実で生きていくことも許されないんだ。

「カンベって人からも聞いたあの人もあんたのせいで苦労してるんでしょ。あんたが死ねば苦労することなんかないのに!」


 そうだ、もともとアイツが俺のふりなんかするから、そのせいで目立っているのに。
ガクガクと揺さぶられながら、ぼーっと考える。
「あの人、仕事がなくなっちゃうから必死に、いろんな会社に頭をさげてお情けをもらってるんですって……そんな惨めになったのよ、かわいそうに」


「寒いから、部屋に、はいる」


わかるのは、外が寒いってことくらいだ。

思えば、俺のことが好きだという人が俺を幸せにしたことは、生涯で一度もない。
なのに国は、恋愛を持ち上げ、しない相手を斜めに構えて見下ろすと、人権さえ認めない。
だから俺が幸せになる日はこないのだ。

 こんなだから同性であっても恋愛ができるならマシだろうとすら思う。

 部屋に籠ると、悲しくて辛くて、たまらなくてよくわからない涙が出た。

好かれたくない。
ほんとの愛なんて、形だけならいくらでも手に入る。でも、そんなのゴミだ。
 俺が好きなやつはみんなへんな毒されかたをしてて、頭がおかしいのしかいないと思うから嬉しくもない。

欲しいのは……
俺のことがさほど好きじゃないけれど義理があるからと手を伸ばしてくれるようなやつで。

 案外、枕営業をしてる人が手にするのは『そういう』コネなのかもしれない。本物ではない義理が積み重なる。
信用がなくなれば崩れるけれど数だけ得るにはいいだろうな……

考えてみたら羨ましくて、でも浅ましく身体は売りたくないし……
 なんて思いながら、ぼんやりと手首に刃を当てた。

「……も、やだ、よ」

 自傷やセルフネグレクトが止まないのは、愛情から逃げる唯一の手段だから。横にスッと動かすと簡単に皮膚はさけて、赤い血が流れる光景はもう見慣れた。

心が痛いと、さほど痛くならない。
血がうまく出てくる日と切り方が浅かった日があって、それは気分によった。今日はそこそこ血が出てきた。

「痛い? 痛い?」

嫌だとか、つらいとか考える頭の片隅を裏切るようにして、俺は自分を痛め付ける。
跡になると後に面倒となにかで昔聞いていたからか、治癒しそうな深さを保つ理性があって、なんだかかなしい。
 だけど、唯一の現実逃避。
誰も守れない。
少なくとも俺の心は誰にも守ることができなかった。
本当に欲しいものは、誰もくれないんだ。
「まだ部屋に居るの? 私今、手が離せないから代わりにシチューを作って!」

 階段のそばから、母さんの声がする。血がある程度止まったら早く降りようと思った。
俺はホームレスになる技能なんかないから此処にいるだけでもマシかもしれない。

「牛乳つかってしまいたいから、グラタンでもいいわよ!」

「はい、わかりました」

返事だけ投げておいて、ティッシュに軽く血を染み込ませる。
傷口は絆創膏を何枚か貼って袖に隠した。


なんのために生きてるんだろう?

誰のために生きていくんだろう?

どうでもいい。
いつか死ぬんだと思えばあらゆることがどうでも良いのに。
次の日は、ひたすら部屋でぼーっとしていた。外はひっきりなしに車が走っていたけれど、俺のなにかはそれらの活発さと真逆に、ただ停止しつづけている。

 カーテンの向こうは、誰かの楽園で、誰かの戦場。そんなことを考えたら不思議と愉快にもなれた。

河辺からメールが来る。
「あのノートお前の姉が見てるけど、止めようにも、止めてくれない」

うーん。
ノートってなんだっけ。
「俺は止めているんだ。ただ名前があれば良いから。でもあいつ自制が効かないみたいで俺にまで文句を言うし」

 ぼんやりした頭が少し覚醒する。
そうだ。
カンベに利用されて……
 文面を読んで、また胸がずきずき痛んだ。
俺があのバカ姉に見せたくなかった一番の理由は此処にある。

あいつは周りの心情を読み取れないし、やめろと言ったって聞くことが出来ないのだ。

こちらから避けて、触られたくないものはみんな自主的に隠しておいてさりげなく接することでしかあのバカ姉から逃げる手段は無い。

「なんで……なんで見せたりするんだよ」


メールを打った。
 姉は精神年齢がかなり低い。
ダメだと言ったことでも自分の勝手で押し通してしまう。
泣けば我が儘が通じる子どものままだ。
だから、一回でも捕まればアウトなのだった。




「使えると思ったから」

返信にはそうあって、俺は唖然とした。
会話はすぐに電話に切り替えて続いた。

「は? なに、それ」

「だから、お前の身代わりにしておいて、騒ぎが落ち着いた後でお前と……」

 俺がどんな思いで隠してきたかも知らずに、しかもわがままに巻き込んだのか?
信じられない。
こいつはどれだけ身勝手なんだ。

「本当はお前が大事なだけで!!」


めまいがした。
苛立ちしか沸いて来ない。
俺はなによりも『そういう』手が嫌いだ。
河辺が汚いやつだとしか感じられない。

「俺が大事なものを全部壊す行為がか?
お前がやってきたのは全部、ただの破壊行為だ。ストーカーの癖に、そういう身勝手が一番吐き気がすることも知らないのかよ」
河辺は、気がついたときには逆鱗製造機になっていた。それ以外に、ない。
一挙一動が全て俺の逆鱗に触れる存在だなんて、珍しいにも程があるくらいに、彼の好意というのはひたすら俺の大事なものを一つずつ潰す行為だった。

「……やり直せないのか?」
彼が言ったのはそれだけで、まるで自分以外の家族を殺されたあとの部屋のなかで、血まみれで聞いてくるかのような不気味さがあった。

「お前が、人間としてやり直せ」

 悲しいくらいに、ただただひたすら彼には許せない、だとか死ねばいいのにという感情しか沸かない。

いったいどうやったら、そんなに間違いしか選べないんだ?

なんだか悲しい反面、戸惑ってもいた。
 俺を怒らせるだけしか出来ない人間なんていうのが居ると思わなかった。嫌がらせしてた、って言ったら許せたかもしれないのに。震える声で、俺はただ、叫ぶように告げた。

「お前がしたことは……周りの人の侮辱と利用、あと冒涜、破壊行為、犯罪。それだけだ、一生許さない」

河辺には、俺をひたすら不幸にする才能があるらしい。

嫌だ、とか要らない、とか、これだけはやめてほしいということを的確に掘り下げて無理矢理渡してくる。

さよならすれば、そばに居ない間は幸せになれると思えた。
 生きている間、まだ河辺に触れられていないものだけをかきあつめて、それを抱き締めていよう。
それだけが救いだ。
俺の希望は、河辺が居ないこと。

 彼は逆鱗に触れる以外をしない。


だから……河辺さえいなければ、その時間を幸せと呼べるような気さえしてきていた。

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