ノート
フロランタン
その後着替えて少しだるい身体に鞭を打ち、近い図書館に行った。
広いフロアに、ふかふかのマットがしいてある。
『ようこそ図書館へ』

の看板をくぐる。

 こういうところあまり来ないから、緊張するな……


 ふらふらとしながら奥へ奥へ歩き、俺は人気がない目的の本のある棚にたどり着く。熱が上がっていた。
毒の本や、人が死ぬとどうなるかという本を手にして近い椅子に座った。
中身は興味深いもので、俺はすぐ夢中になった。
 中身はミステリーを読むときによく死体の気持ちになるのと似ていて、
こんな風に死んだら悲しいだろうなと想像して泣いてしまいそうになった。
借りると履歴でバレるのでなるべく記憶することを心がけて、どうしても無理そうなところは、メモ帳に記録した。

「隣、いいですか?」

ぼそっと、女の人みたいな声がして俺は顔をあげる。
いけない、つい集中してた。

「席、空いていなくて……」

 その人は、白い肌に対比するような黒髪、引き締まったジーンズを履いていた。
華奢でなんだか、目が離せない、不思議な人。

俺の両脇の席を見たら確かに空いている。

「どうぞ」

やばい。死体の本ばかり読んでると思われる。俺は慌てた。
慌てて背後に隠そうとしていると、その人は、あっ、と子どもみたいに目を輝かせた。

「それ、いいですよね」

指さされたのは、さっき読んでいた本。
 ただの肺炎だと思ったら刺されたことによるものだったというのがメインの内容。

「事実は多角的に見ないとなあ、と思わされた気がします」

しかし、初対面のやつとこの本の感想でウキウキしていいのだろうか。なんだか不安になる人だ。
 俺じゃなきゃ引いてるなと思ったが、人恋しかったことと周波が合いそうだったからか俺も話をしていた。

「口から泡が出るかどうかで、保険金の絡む争いにもなる。なんかこういうの読んでたら自分がどんな死に方していいかわかんなくなりますね」
思わずの言葉に、その人の目が大きく見開かれた。
 その人の少し長めのショートといった感じでさらさらした髪。
やけに艶かしいなんて考えていた俺に、その人は薄く二重な目をぱち、と動かして「死ぬご予定なんですか……」

と言った。
へんな聞き方だな。
フッ、と笑った俺に、その人は慌てる。

「はい。その予定です」

「えぇ。今じゃなくても、いいんじゃ」

 わたわたと慌てるその人の肩にかけていたトートバッグからパスケースがとさっと落ちる。
そこには保険証が入っていて、彼、の名前があった。

ばっ、と慌てて目をそらす。
細かいとこは見てない。見てないから知らない。ただ、
男って書いてあって。
それだけは確実で、こんなきれいな人も居るのかと思った。

「ごめんなさい忘れますし悪いこととかしません」

ふふっ、とその人は笑って、つぎににやっとした。

「秘密を知られた以上は、従ってもらおうかな?」

小芝居が挟まれた。
図書館の横の小さな飲食店で話をすることになった。
話を聞いてほしいという誘いに乗ってみたのだ。どうせ死ぬ予定だから、もし彼が悪い人だろうとどうだっていいという気持ちも抱えて。

「僕は木瀬野 蘭多、きみは?」

「秋弥……」

名字は言わなかった。
愛着がないから。

「きれいな名前です」

喜瀬野さんは柔らかく笑って、俺はなんだかそわそわと落ち着かない気持ちになった。
人とまともに話すなんて、5日ぶりでもきつい。
「あの」

平らげられないからなかなか注文が決まらない俺は、メニューを熱心に見つめていた。
急に声がかかって、びっくりする。

「僕にも秋弥さんのその予定が、突発的なものじゃないってこともわかります」

 彼は困った顔をしながらそんなことを言う。

推理は簡単で、季節が季節なだけに、普通に半袖を着ていたので俺の腕が絆創膏だらけなのは、すぐに見つかったのだ。
余計目立つから貼りたくなかったが、一つ二つ、深くしてしまったのがあって血が止まらなかった。この流れは「話してくれませんか」だろうと俺は予想した。
苦手な流れだった。
抱え込む癖があるので、 よく大人に言われたことだけど、俺は単に信用できないか意味がないと思うときに抱え込むだけで話すときは話す。
だから偽善者のようで、むかむかするときもあって、困った。

しかし、彼が言ったのは。

「僕と楽しそうにしてくれる時間が、もしその予定までに沢山あるなら、嬉しいと思ったんです」

なんていう、馬鹿げたことだったからか。
人目も憚らず泣いてしまった。
覚悟を否定する気は無いというのをはじめて言われた。

「そうだ、秋弥さんは、何一つの未練もないのですか。僕が出来る範囲のこととかあったら」

「……っ、話」

涙を拭って俺はまっすぐ彼を見つめて言った。

「話します、だからっ。聞いて、ください」
いろいろなことを話した。
 家にも、周りにも馴染めなかった俺は何事にも無関心で死ぬことばかり考えてて、友達が出来てもすぐに飽きてしまって誘われても行かなくなるようなやつだった。

立ち直らせてくれた人がいて、その人から、自分を救う人がいないなら、その人になるつもりでノートを書いて欲しいと言われた。
それから俺はちゃんと毎日それを続けた。

とても、宝物にしていたこと。

生き甲斐みたいなもので、どこにも売ってないものだった。
河辺の書いた話のこと。台詞や、一文字ずつに、俺が苦しんでいたこと。発売されると、他にもにた作品が溢れ始めて、我慢するしかないこと。人生がまるごと、プロットだったんだと思ってから自我が保てなくなっていったこと。
どうにかしようと思ってとりあえず本人に近づいたけど、余計に虚しくなることしかなくて、裏切られるようなことばかりだったこと。

「ものに、なりたかった」
俺は涙を抑えてから言う。ちょうど、紅茶とケーキが運ばれてきて一旦腕をどかす。

「ものに、なれば楽だって思うのに、気がついたら俺はものじゃないって何回も繰り返してました。
そしたら次の日『性格が悪いし、正直重い』って連絡が来た流れです」


「そっか、頑張ったね」

「あのメールだってっ……
俺がもうわけわかんなくなってて、部屋のものとか、倒したりしたときもどこかで見てたみたいで」

性格が悪いと書いてあるメールについても話した。彼はただ話す俺にあきれることなく、ひたすらうなずいている。

「そしたら

『全部録音してた。
家だとあんな風にキツイんだな。
普段、外じゃねこかぶってたんだ。
あんな性格だと思わなかった』って」


「週刊誌に変な記事とられたみたいな話だね、なんか」

それ自体は、どうでもいいのだ。

彼が、真面目に俺自身を見てなかったからこそ信頼できず、すぐに態度が変わった。お金だと呼んでいたことともつじつまが合う。

「それは、辛かったね」

木瀬野さんは本当に辛そうな顔をした。

「自分がなんだったのか完全に見失っているときに『自分が誰かのもの』
なんて、それはパニックだったでしょう」

 冷静に会話を分析するような的を射た返事に驚いた。ノートと重なってしまったことも見抜かれているのかもしれない。
「酷いよ、それは」

なぜか俺より怒っていたので、びっくりしてしまった。

「お、怒る話。ですか」

「怒るよ」

真顔で言ってるのに、なぜだかそれがほんとにそんな感じで、俺はなぜだかなごんだ。

「ふふ……っ」















姉が頻繁に家に来るようになったのは、すぐだった。

「あー。また部屋散らかして。きったない!」

誰かに聞かせるように、姉は俺への注意を強く言った。
……というか。誰かなんてわかっている。

図書館にいく以外、
自失のままふらふらしていた俺の前で、姉はよく動き回っていた。

「はい、お土産ー」

よく姉は、河辺からもらったチョコレートの残ったのとかをくれた。
新手の嫌がらせだろう。

 そういえば今まで気にしてなかったことを思い出した。

月日が流れていった間、つまり俺が倒れるより前にも実は、最初は何度か河辺に会う機会があって、そのときの待ち合わせ場所に向かおうとすると不思議なことが必ず起きた。
姉が部屋に帰って来て、着替え始めるのだ。
そして、目の前で俺が使っているのと同じ携帯のアプリで情報をチェックする。

 まるで誰かに頻繁に何かを言いつけられているようだった。なぜならこの人はこれまで自主性とは縁のない典型的なタイプだったからだ。
言われたらやる、言われたからやる指示を待って指示がなければキレる。誰かを常になぞっているような。小中といじめられて義務教育からほぼ逸脱していたせいもあるのだろうか。

こんなに能動的になることなどひとつの例外を除いて、これまで見たことがない。

嫌いな理由として「足を引っ張ってくる」というのもいままであった。たとえばどこかに俺だけ出掛けるだとか友達と滅多にないイベントに行くような特別なときに、決まって攻撃的な口調で当たってきたり、こいつは怠けているのにとよくわからない主張で泣きわめいた。
俺がちょっとでも優遇されたり自分より上な立場を得ていることが本人は我慢ならないのだ。

「よしっ、今日は公園ね!」

 だからなのだろうか。
何かで知って、邪魔してやろうとして……そう考える気持ちと、カンベか誰かが脅していると考える気持ちの間で揺さぶられる。ちょうどそこに行こうと思う日に限って同じ行き先に行くと張り切る姉が家にやって来る。俺のアプリに示されたのと同じようなことを言いながら。

「あの、俺も……」

そこに行く予定があると言うと「あんたは留守番!」と言ってさっさと向かってしまう。
それでは意味がないのだが、優越感を得ているようなときのその人はなんというか関わると厄介だった。


 あのアプリを使うと姉を思い出して、なんとなく憂鬱になりはじめた俺は、普通にメールだけで会話をすることを頼んだのだっけ。

だけど、そういえばそう。
「ラーメン屋がいいかな」
とメールに書いた日も。姉が急に部屋に来ていて。
「今から友達とご飯食べてくるから!」

と、帰るなり出掛けたのだった。

 きょうだいがシンクロすることはあるだろうなんてまた楽観していたけど、あれはフラグだったのだ。

メールの内容とかは河辺が姉にも言いふらしていたのだろう。 帰ってくるなり、行った博物館のチケットとか、誰かと買ったポテトチップスとかのお土産を置きにくる。

「はい、あげるー」

と上機嫌で部屋に戻って、通話を始める。
姉は俺とは正反対に明るくなっていっていた。
こんなに明るくなるなら、利用されているというよりは、本人が自ら望んで敵に回ったらしいとわかる。洗脳されている可能性を考えないでもなかったが、もとより、小中除け者にされてきた身が特別であることが何よりの幸せとなり抜けられないのだろう。


 常に、カンベに今日は無理だったと連絡すると、彼は「はあ?」という態度を見せた。
不思議なのが、なぜ姉は辿り着けるのかだ。俺が居るときは絶対に彼は姿を現さない。
姉が居るときはほぼ必ず会うことに成功し、食事などできているのだ。

これで毎回嫌な顔をされるのがこちらだけとはどういうことだろう。まるで会いたくは無いが付きまといたいという感じだ。コソコソ、コソコソと、彼は何をやってるのだろう?
 そういうときすぐに連絡を取ろうとするが、なぜか必ず連絡がつかなかった。

(なんだか不気味だな……)


 つきまといは結局やめていないし、自分はあちこち出回るわ、理不尽に責め立てる。なんだか寝付けなくてドアを開けて、道を歩いた。
ぼーっと寝不足の間は、 なにも辛いことを考えなくていいから、わざわざ夜中まで起きるようになってしまったんだろう。
好きな人がいても、友達が出来ても、やっぱり俺は一人なのだ。

 秋って弱さを見せないんだよねとフラれたり妬まれることがあったけど、俺としてはなぜ見せないとならないかわからないから、わざわざ見せることもない。
だからそれが弱さだと思う。




 途中、なんとなく風を浴びたくて高台に上った。遠くに見える、シンと静まった夜の海は、なんだか黒々していて滑るようにうごめいていて、昼間とは別もののようだ。

 夜は涼しいだろうと勝手に思っていたけれど、この日の気温は30度を越えていて、とてもそんな風ではなかった。
 図書館で木瀬野さんと話をしたのがなんだか夢みたいに感じるなぁ……
だって、こんなに苦しい想いははじめてで、誰にも言わないのも初めてで、知り合いにだけは相談したくないのも初めて。
今の俺を救ってくれるのは、余計な先入観の無い、見ず知らずの誰かだけだった。
あの人のような。
まったくの無関係なヤツじゃないと。俺は、俺が物であるのか不安になってしまうだけだからだ。

「まったく。やくざみたいなことをするよね……」

 背後で、ため息と共にそんな声が聞こえて、ぎょっとした。近くの道を誰かがのぼってくる。通話してるらしくて片手には白い携帯が握られていた。

「……あ」

その人物と目が合うと同時に、俺らはそれぞれを呼びあった。

「秋弥くん」

「木瀬野さん」

たたっ、と走ってきた彼は、白い薄手のパーカーをひらひら揺らしていてなんだか幼く見える。

「わー。なに、天体観測」
「いえ、近所なので。その、気晴らしに。
あの、ごめんなさい断片的に聞こえたんですが」

「あぁ、秋弥くんがあったことについてを、知り合いと愚痴ってたんだよ。少し乱暴だよねーって。ごめん、嫌だったかな」

ドキドキ、と心臓がやけにうるさい。

「……えっと、ですね」

俺は少しあることに迷った。どうしよう、聞いてみるか否か。


「うん。なに? おにぎり食べる? マヨカツオしかないけどいい?」

「くださいっ」

思わず、反応してしまったが気を取り直し……あ、うまい。これ。
コンビニの200円くらいのやつで、大きさもあって小腹をそこそこ満たしてくれた。

「なにか、言おうとしてたよね」

お茶も持っていたらしくぐびっと水筒から飲みながら彼は俺に向き直る。
「あの……引かないで聞いてもらえますか、質問があるんですが」

「ん、なにー。あ。うまーい!」

口いっぱいにおにぎりを頬張りながら、木瀬野さんが俺と同じ景色を眺めてる。

 夜の海と、明かりがわずかに灯るだけの、小さな町。シーンとしているようでいて、時おり車の音が聞こえてくる。
それは、なんだか波の音にも聞こえた。

「あの。よそも尚更なんですが、

この国の歴史にさえ、ほぼ詳しくなくてですね」

「うん。それで?」

後ろから猪とか出ないよなと、一瞬振り向いてから、向き直って俺は言う。慎重に……!

「やくざってそもそも何ですか?」

彼は、一瞬目を丸くしたけどすぐに落ち着いて微笑んだ。

「そうか、そこからか」

「ごめんなさい、俺、なんだか、その。ある意味、社会の何かからは、
切り離されたみたいに育てられたというか……
ちいさな田舎の奥で、本当基本的な生活理念と義務教育以外から遠ざかってそだったというか」

俺は知らないことが多い。
 もう大人になるのに、これじゃあ会話にならないから学校などがないときにあれこれと本を読んだりしているけど、まだまだわからないことばかりあった。

「一般的なイメージでは、怖ーい人、かな。地域で顔が利いたりするんだ」

 彼なりに気を遣って説明してくれたのだと思う。曖昧だったけれど、なんとなくイメージ出来た。つまり彼は、俺への誰かの態度があまりに強引なんじゃないかと言いたかったのだろう。
「ありがとうございます。大体わかりました」


俺は丁寧に礼を言った。それから、さっき一般的な、と言われたけれど。
「こういうのって、なんとなくくらいは知っておかないと、マズイん、です、よね」

「だめだよ」

ぐっ、と腕が掴まれる。真剣な目をした木瀬野さんが、俺を見ている。

「今、僕への劣等感にしようとしたでしょう」

「えっと、その」

戸惑う俺に、彼は続けた。

「不思議だったよ。

頭は良い方だろうし、見た目も。
でも、年相応の調子にのる感じじゃないというかやけに落ち着いてる子だなって、どこから、それが来るのか」

気になってた、らしい。そう言われましてもと焦っていたら彼は軽く背伸びをしながら言った。

「この前、今と話してて、やっぱり、その大きすぎる劣等感がきみを作っていると思うんだ」

「まぁ、そうですね」

俺はなげやりに言った。今この瞬間もなんだか醜態をさらしていないかと焦っていた。

「大体、なにか話すときはみんなそれを知っている前提で会話を進める。
でも俺は何がなんだかわからないことが多いので」
「三枚ガルタも知らないかな」

「カルタですか」

三枚ガルタは、三枚カルタを引いて 総計の末尾が9に一番近い数を勝ちにする昔ながらの遊びらしい。

「それで、8と9と3が出るところからついた名前なんだって」

なんだか妙なことを知っているなと思ったけど、もしかして俺が無知過ぎるだけかもしれない。
判断がつかないので、へぇー、と相づちを打った。

「こういうのって、一般常識なんでしょうか」

アハハと木瀬野さんは笑う。

「いや別にこれはそんな知らなくても構わないと思うよ」
人は自分に足りないものを他人の感情から求めるらしいが、俺もたぶんそれなのだろう。

もう少しこの人のいろんな話を聞いていたいと思った。

「もっと、いろんなことを聞いてもいいですか」

俺が勇気を振り絞って言うと、彼は目を細めて言った。
「それが、次のお願い?」
冷たい風と、靴に擦れる砂利の乾いた音。

「はい」

前方の、100万ドルには満たなさそうな夜景。
それからこの人。

「いいよ。僕が、出来る範囲ならやります」

いまあるすべてが俺を緊張させて高揚させるようで、今ここで刺されたら、このまま時間が止まって幸せだろうかなんて考えた。

「じゃ。明日は図書館で会おう」

彼はそう言って、携帯を見せてくる。
首を傾げていたら、番号教えてと言われたので慌てて伝えた。


「また連絡するね」

 そういえば、少しずつ、敬語ではなくなったなと思ったのは、打ち解けている証拠だろうか。







明け方、河辺にメールを打った。


「どうして姉と付き合うことにしたの」


という直球な内容だ。
やがてすぐに返事が来た。


「俺と似ていたからだよ」

にていたとは、姉が、だろう。
ボタンを押しながら、読み進める。

「お前はいじめられても、すぐに抵抗したり、友達を作ろうとしたから平気だったと書いていた。
でも、俺には出来なかったから耳に栓をして泣くだけだった」


 会話、助言、何もかもがプライドに染みてくるようで辛かったという。

「お前を見ているとみっともないきもちになる」


意外な内容でもなかったが、重荷になっていたというのは、知らなかったので何度か読み返してしまった。

「出来なかった同士で、気が楽なんだ」

 俺のトラウマの一部と言うのは、姉が昔部屋にこもりっきりで暴力を振るうようになってい殺そうとされたこともある。
 苦しむ被害者が、なぜ加害者になろうとするのかが幼い俺にはわからずそれだけの勇気があるならやり返せば解決なのにと思っていたものだった。
 同時に。どこか空しい気がした。
姉はもしかしたら、カンベに脅されていたのかもしれないとどこか思いたかったのだろう。
二人ともが反逆者だ。もう戻れない。
気が楽なのはわかったけれど、自分だけ気が楽になっていて俺はいじめられたままだというのはやっぱり自己中心的な気がしてしまって、なんで俺の痛みはわからないのだろうかと、どうしようもない気持ちになった。


 河辺の思い込みが、勘違いが、どれだけ人を巻き込んだのか。

どれだけ、俺をあの地獄に戻らせたのか。

彼が語っているのは、ただ弱い自分から逃避するためにいじめ を利用しているだけに見えた。
パフォーマンスなんじゃないかとさえ思えた。
傷を受けたわりには他人の痛みがこれっぽっちも理解出来ないのだから、なにも生かせてない。

違う……彼は、元からああだったんだ。

 今も孤立している原因を周りに求めて、周りを僻んでいるだけで、あれじゃあずっとかわりはしないのに。

今この時点のことも変えられやしないものを、明日できるわけがないのにな。
かわいそうな人に見えた。

 だから少し、冷静になる。
俺の心はあいつと居たってなんの成長もしないんだろう。
彼はずっとあのまま。
俺を満たしてくれることは永遠にない。






 翌日は跡がマシになったので学校に行った。


「なっちゃん、やくざって知ってる?」

俺が登校するなりこの台詞。
先に席に着いていたなっちゃんはエェッ!?
という感じで驚いたまま見つめてきた。

他のクラスメイトもちらちらとこちらを見ていたが、気にしない感じを装いだした。

「知ってるけど、つか、なに、もう元気? 大丈夫か」

 俺の心配をなんとなく疎ましく感じたので適当に頷きながら、「で。知ってるんだ?」と続きを促した。

「どの町にもあるだろ、なんかヤバイやつとかさ、踏みいらない方がいいとことか」

「そうなの?」


なっちゃんに腕を引かれて屋上の方まで向かう。相変わらずここは誰もいない。
息を切らしながら彼は、俺に確認した。

「お前、まさか知らないのか」

「昨日、聞いた」

誰にとも何からとも言わなかった。
「まぁ、あの母さんだからな。危険な物も、危ないものも、全然触らせなさそうだ」

俺の家族を知っているなっちゃんは、納得したように頷く。

「おまけに俺がグレることもなかったから」

「平和だな」

と、言われてそうだろうかと思った。
そうかもしれない。
自分の問題が多すぎて、周りに目を向ける間もなく、育ったのかもしれない。

「何もわからないならわからないで、そういうやつに騙されたりしたときに困るだろうけど」

なっちゃんが言ったのは図星で、ギクッとなった。

「あと、その話題。あんまり大っぴらに聞かない方がいい」

「どうして?」

「世の中にはいろんなのが居るから!」

少し呆れたような目で、彼は俺に言う。親みたいだな。

「まぁだからこじらせたのかもしれないけどさ。

今度そういう漫画でも貸してやろうか。犯罪、スパイもの、刑事もの、いろいろあるけど」

なんだろう、自分がとてもガキだと言われた気分だ。「で。何があった」

なっちゃんが両方の腕を掴んできた。

「離せよ」

「離さない。話すまで」

真剣な目が、いつになく怖いと感じるし別に言うことなどない。

「なにって、なにが」

「いきなり会うなりあんなこと聞いてくるし、腕とかもやけに傷だらけだし、お前なんか少しやつれてるし、気にならないわけがないだろ。
一週間近く休んでおいて」
「河辺とは別れたよ」

「それで」

少し苛立ったような声だ。まさか妬いているのだろうか。

「俺、なっちゃんが思っているよりずっと、何も分からないから。

だから、やっとわかったんだ。
自分のことひとつわからないのに、他人を想うなんて烏滸がましいってな」
きっとあの調子じゃ、なっちゃんが優しくしてくれても、いつか受け付けなくなるだろう。
誰のこともわからなくて何もかもを傷つける自分を想像したら、フツーにあり得た。

「で。なにが言いたい」


まぁ今、ここで引かせるのもいいか。

「俺は、今、やばいんだ」
「は?」

呆然とする彼に腕を見せた。あまり引いてなかった。

「傷も自分でやった。
今はまだ、跡がきれいに消える深さを自分でコントロールできるくらい冷静。
この傷もあと三日くらいで完治すると思うし目立たなくなると思う。
でも、いつまで、この深さを計算して続けられるかはわからない。
いつか、もっと深みにはまるかもしれない」

「それで?」

 なっちゃんは少し驚いたみたいだけど、冷静だった。

「同情して欲しいのか? 別れたから」

冷たく言われて、俺は少し驚いた。
俺に普段は温厚だったから。

「違う。こうなったのは、そういうことじゃなくて」
言うか迷った。

でも最初は俺は言えなかった。

「じゃあなんだよ、なんかあったら頼るんじゃないのか、そんなに信用ないか」

「ない」

ノートを見られていたことや、俺が昔から気にしてきたこと、ストーキング、心の中が空っぽになってしまったせいで自我がわからなくて苦しいこと、全部話したくなかった。

もしも話してしまったら河辺が俺の人生を歪めたんだと、全部なくしたと認めることになってしまう。

あんなやつの身勝手のせいで今俺は苦しめられて死のうとしているんだとか、

当人は愛があれば許されるとか、バカみたいなことを口にし、単に自分を許すためのオプションで付き合おうとするだけ。俺を、人生を笑っちまうようなその「愛」で侮辱しているだけ。

「信用なんかねぇよ」
嫌われるが、これでいいやと立ち去ろうと背を向けようとした俺だったが……

「ほーお。この前宿題やりに家に来といてかっ。うちで出された飲み物とか飲んだ口で言うのかお前はー!!」

頭を鷲掴みにされて、茶化すようにして言われる。
「い、いででで、まって。ギブ、ギブ」

そんなんしたら髪型が変わるよとか思いつつ、予想外の反応だとかになんだか涙が出そうだった。
「なにがあったかは、知らないけど」

俺から手を離したなっちゃんが、まっすぐ俺を見て言う。

「お前の意思とは関係なくただ俺は、秋弥を大事に思ってる。
俺が困らせたなら謝る、
誰かに困っているなら愚痴くらいは聞いてやれると、思う……しさ」

だから、何かさせてくれよと俺より泣きそうに言うから、俺は戸惑ってしまった。

「なっちゃん」

「何」

「好きだよ」

「……あぁ」

「でも、俺今、知ってる誰かと居たらおかしくなりそうなんだ。怖いんだ。今の俺には誰も大事にできないと思った」

なっちゃんは、とても静かに聞いてくれていた。
「なんかいま、驚くくらい不安定でさ。
選んだ誰かと居ても、今自分のことしか考えられない。
いつも怖くて片時も不安にならないようなことにすがってしまうと思う」

 遊びに行こうと言われても、フラッシュバックで全部嫌になって急にやめるかもしれない。

相手から片時も離れられなくなって、ずっと迷惑をかけるかもしれない。
たぶん一度そうなると、居ない時間が耐えられないから、ある意味、余計一人のときより苦しい時間が増す。

「楽しいぶんだけ、きっと反動に苦しめられる。だから、怖いんだ」




放課後、図書館に着いたけれどどこで待てばいいかわからず入り口をうろうろしていた。

 目のまえでは、小さなマイ、と呼ばれてる女の子が小さくて塵みたいだとからかわれていた。
「おい、チリ」
男の子がそんな風にからかっている。
「舞い散りそうだよな。マイって」
違う女の子たちが、やめなよーと言い聞かせている。
ほほえましくそんな様子を眺めていたら、マイという名前なのに気がつくとチリと呼ばれるように変わっていた。
子どもはそういうものだ。
「チリって名前なら私よりも、サトウの方がふさわしいよっ。だって……えと。やきそば好きだし」

マイという子が必死に違う子に持っていっていた。
「由来をわかるようにきちんと言ってみろ。
それから決めれば良い。場合によってはいじめだからな」

そうだそうだ、と声があがっている。これはいじめとはちがうのだろうか。

それで10分くらいの間の出来事。10分、入り口の前に立ってる俺は、彼らにどう映るだろうなんて考えながら、携帯をいじった。

「だーれだ」

後ろから声がして、振り向くと木瀬野さんが居た。
「あ、こんにちは」

「こんにちは、なにみてたの?」

彼は昨日と同じような格好をしていた。なんだか爽やかで似合っている。
「子どもを見ていました」
「あぁ……」


 彼も、ちらりとそちらを見た。
「なんか、懐かしいよね、ああいうの」

何か答えようとしていたら、「あ、やば……」
と呟きが聞こえ、何らかを見つけたらしい木瀬野さんの顔が急に、焦りに変わっていた。

「え?」

彼は俺の腕を掴んでさっさと中に入っていく。

「行こう」

「あ、はいっ」

慌ててついていった。

 中はひんやりとクーラーがきいてて涼しい。俺は、少し落ち着いた木瀬野さんに質問した。

「あの。どうかしたんですか」

「軽い気持ちで、落とし物を探してあげたことがあって。さっきその人が見てたから」

「それが、何か」

さっきまでの穏やかさとうってかわった彼が、不思議でならなかった。

「あのね。人生におけるアドバイス」

「はい」

「人に、むやみに優しくしたりしない方がいい」

これは、僕の経験から言えることだよと言われてなんとなく察した。

「今は大変だけど自立心がありそうな人か、もともと癖みたいに困っては頼るどうにもならない人なのか。
後者に憑かれると、大変なんだ」

 僕らみたいなのは特に、目を惹くからねと彼は言ったが、俺はそんなことはないだろう。

「他の人にまで、目をつけられたらもう、ややこしいのなんのって感じです」

「いい人なんですね」

「そうでもないけど。自分の考えを持てないタイプの子はちょっと、トラウマなんだ」

話をしながら、カウンターを過ぎて、本棚。最初に出会った、あの椅子のところまで来た。

「トラウマ?」

波長があったのだろう。俺たちの話は止まらなかった。小さな声で話す穏やかな空間が好きだ。

「そう。周りが見えなくなったその子は、他の友達と話をしていても割り込んだりするようになってね。もう、めちゃくちゃだったんだ。あれからあの手のタイプは、あまり関わらないように気をつけてる。優しくしたくても、したら駄目だから」

あははと木瀬野さんは笑う。この人にもいろいろあるのだと、改めて感じる。
「それって、男の人? 女の人?」

俺が聞くと木瀬野さんはうーん、と困る顔をした。
「どちらも」

どちらもだった。

「俺にはどちらも同じだよ。
男でも女でもバカな人は沢山いるじゃない。
そして、そうじゃない人もいる。
自分の中に芯があるどうかだと思うんだ。じゃなきゃ、どっちも変わらないって俺は、そう思うよ」

どちらにも、ろくな人はあまり居なかったから、偏見はよくないよと彼は苦笑いした。

「そうですよね。
頭で考えない人って、
結局どっちだろうと同じ、ですよね」

俺はどうだろう。
今こうやって考えるのはただ単に時間をもて余すのが怖いからで言葉を紡いでいるのも、ノートの内容に向き合うことが怖いからだった。

「きみは、自分で沢山考える人だね」

木瀬野さんがふっ、と目を細めて笑った。


 今こうして隅っこにある椅子に座ってる。
今日はあまり人気がなくて二人だけの図書館みたい。
そんなことをぼんやり考える。

「気が合うかなと思ったんだ」

 天使みたいな柔らかい笑顔が、淡く日差しに照らされて俺にだけ向けられる。
なぜか、なっちゃんのことを思い出した。
なぜか、死のうと強く考えたときのことを思い出した。

「嬉しい、です」

なぜか、苦しかった。




穏やかで静かな時間は、しかしそのぶんたちが悪い。

俺の心のなかの空洞に余計なものをあれこれと入れ込もうとしてきた。

誰かの足音や、遠ざかる気配。誰かが本を選ぶ音。いろんなものが気になり始めるとパニックになりそうになる。

はぁっ、はぁっ……

荒い息を幾度となく繰り返した。意識がなんだか酩酊したようになっていく。

自分が何かも、わけがわからないのに知らない場所で知らない人間の視線に晒されることがどれだけ無謀だったか、出掛けてから知った。

「いやだ、助けて、助けて。俺は物じゃない、俺は誰なんだよ何処にいるんだ。何処だよ俺は何処にいるんだよ俺は物語じゃない、俺はっ、ものじゃないんだ物語じゃないんだ!」

いろんなことが頭の中を乱した。
ぶつぶつと言い聞かせる。
隣では木瀬野さんが慌てたような顔をしていた。

「ごめん。僕のせいだね。待ち合わせにわかりやすいと思ったんだ。
深く考えて居なかった」

本棚にある物語たちを横目に見て、必死に申し訳なさそうにする。
何を謝っているのだろう。彼は悪くないのに。

「俺は、生きてる、生きてる、生きて、っ……」

騒ぎになると思ったのか腕を掴まれて引っ張って行かれる。
別に、普通の音量で呟いていたし叫んだわけではないけど、それでも迷惑だっただろう。

「もう、生きていけない……」

泣きじゃくる俺を、外に連れ出した木瀬野さんは必死に声をかけてくれた。何を言っていたかところどころわからなかった。
中庭のベンチに座らされて、ぼんやり空を見上げた。
「絵の具をこぼしたみたいで、綺麗だ」

俺ももうすぐあそこにいく。楽しみだった。
にこにこ笑っていると、木瀬野さんがごめんねと言ったけど何を謝るのかわからないので聞かなかったことにした。

「なんで。きみは、何もしてないのに」

 彼はそんなことを言った。なぜ図書館から出されたか忘れたが、とにかく今あるこの時間を大事にしようと思う。





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