ノート
しばらく二人でコーヒーを飲んでぼんやり空を見ていたのだが、やがて「あ、秋ー!」と、突如声がしたかと思うとクラスメイトに見つかった。
「なにか?」
「また面白い話聞かせてねっ」
名前を忘れた女子がにこにこしながら言って、俺は首をかしげた。
「秋ってさ、カンベ先生なんでしょ?」
いつの間に、誰がそんな話を。
いろいろと考えてみたがルートならいくらでもありそうだ。
それに、河辺がなにか言ったのかもしれない。
「え……違うけど」
「でも、主人公の性格とか考えとか、家族構成とか。秋っぽいとこが沢山ある。絶対、秋だよね、これ」
この聞かれかた。
どれだけ残酷だろう。
「違うよ。たまたまにていただけ」
「嘘だぁー。またまたそうやって隠してー。カンベ先生こっちの出身らしいし? この辺りの学校に居たらしいし?」
隣に居た違う女子が、あ、それそれ。
と言って、また俺を囲んだ。
「秋にしか書けないもん。すごいね、小説家なんて」
俺の頭の中は既にフリーズしていた。
こいつらが何を言っているのかわからないと、思った。
カンベって、誰。
誰。
俺じゃないのに、俺にしかかけないって、なんだ。
今、トラウマと対峙させられ、ひとつずつみんなの前で読み上げられながら。
俺は、人生を踏み潰されている。
「俺、あの、帰らなきゃ」
ぼーっとした頭で、なんとか言葉を紡いだら、一人が俺の前を塞ぐようにした。
「カンベ先生だって白状するまで帰さないよ!」
「今のうちにサインもらっとこうかな」
知らないやつが、ぞろぞろ5人くらい追加された。
「だーかーら、人違いだ!」
俺は強く主張する。
頭が追い付かない。
「『包丁を向けた』シーンが好き」
「私も。あと
転んだときに、突き刺さっていた破片を一気に抜いたシーンとか。痛そうだけど、迎えに来てくれるからよかったよね」
やめろ。
勝手に盛り上がるな。
息が出来なくなりそうで、必死にベンチの隣に居た木瀬野さんを見上げようとしたら、居なかった。
あれ。俺、一人?
心細い中で、どうにか平静を保つ。
「今度から先生って呼ぶね。先生!」
頼むからそんな風に呼ばないでくれ。
俺はあらゆるものを無視して反対方向に駆け出す。
「ああああああああーっ!」
なんでこんなに俺を襲ってくるんだ。
空に行きたい。
そのまま溶けてしまいたい。
中途半端な優しさならいっそのことゼロの方が苦しくならないから、
知り合いとは話せない。
誰も俺を知らないところは無いのだろうか。
誰も俺に何もしないところは無いのかもしれない。
どこかもわからない茂みに紛れて、鞄に入れていた鋏で、皮膚に何度も傷を付ける。
別に痛いとは思わない。それは、甘くヒリヒリしていて、恋ににていた。カッターよりハサミの方が切りやすいと思った。
俺が死んだらニュースになるのかなと、ふと、思う。たぶん、ならない。隠蔽されて、世間には何事もないみたいに揉み消されていくんだろうな。
「あ、見つけた」
血をだらだら流した左手を見つめていたら、木瀬野さんが駆け寄ってきた。
「俺。帰ったかと。思った」
「居たよ。ただ着信があって。すぐ終わると思ってすこし席をはずした。
申し訳ないことをした。本当にごめん。
きみの支えになりたかったはずなのに、ヘマしてばかりいるな」
「悪くない。ですよ」
「ありがとう」
悲しそうに微笑むから、なんでだろうと思った。
そういえば、逃げ出してしまったクラスメイトのことを思い出した。
「俺、謝らなきゃ」
そう口に出して、涙をぬぐっていたら木瀬野さんが、何がと聞いてきた。
「いつも友達だ、て名乗って来るやつのこと、覚えていない。他人に興味がなかったから」
だから、前みたいに接することが出来なくて、いきなり沢山来て、みんな知らないやつだと思ったから怖くなった。
それに、勝手に盛り上がるから。
「さっきも知らないやつに会ったんだけど、友達扱いしたらそれこそ、ボロが出て傷つける」
空は変わらず広くて、俺とは真逆だった。
「自分が誰かも、何かもぐしゃぐしゃになっているんだ。
そんなときに友達なんて言ってられない。
みんなで遊んだりしたら、俺があいつらを覚えてないって全部バレちまう」
「昔の友達に、会ったの?」
「友達かはわからない。クラスメイトだったなってことしかわからない……」
木瀬野さんは、苦い顔をした。
「そういえば、気力がなくなって遊びに誘われても、だんだん行かなくなったって言っていたね」
頷く。
俺をまだ友達と言っているやつは、きっとその、気力が無くなって関わりを切ってしまった誰かなんだろう。
俺のなかでは既に、なにも思い出せない存在なのに話しかけたりされるから幽霊に会ったような気分で、怖い存在だった。
「もう捨てたはずのものを、まだ持っていられたみたいで感情が追い付かなくって。
それに誰なのかももう全くわからないやつばかり。
友達だなんて、その上で名乗るやつになりたくない。だけどわかってもらおうとせずに逃げ出してしまった」
自分を勘違いされていることと上乗せされて胸を締め付ける。
どちらも恐ろしかったせいで俺は逃げ出してしまった。
友達は、わかってくれるやつが少し居ればいいと思うから、沢山作るのは不誠実だと思う。
だからあいつらが俺を嫌ったなら、それでももういい。
不誠実な友達になる気はない。アドレスだけで繋がったつもりでいるのはきっと失礼だし、もう、俺も思い出せないままだろうから。
「これから、どうする?」
木瀬野さんが聞いた。
俺は、憔悴してぼんやりした頭で、どうするとは何のことかを考えた。
「僕は、お腹すいちゃったんだ。きみは」
そういえば夕飯はまだだと思った。
柱時計を見ると5時になりかけているところ。
「そろそろ、帰る?」
申し訳なさそうにされて、なぜこの人がそんなに申し訳なさそうにするのだろうかと思う。
なにか、俺が元気なところを見せなくては。
「じゃあ、た、食べましょう、どこかで」
思いきって言うと、手を繋がれた。またあのお店に行くのだろうかと思っているうちに、しかし道は遠ざかっていく。
「あの、木瀬野さん」
ぐっ、と肩を掴まれる。それから頬に柔らかい感触。
「……っ?」
ばっ、と俺から離れた彼は、ごめん、と気まずそうにした。
「つい勢いで……なんだか、すごく、愛しくなって」
「い、いと? あの。悪くはない、です、が、びっくりしました」
顔が熱い。
混乱したまま、隣を歩く。彼はもう平然とした調子になっていた。
「やっぱり今日は、送るから帰ろう」
そう言われて、
俺はまだ元気だと主張したくなった。
でも、迷惑はかけられない。
「迷惑だからじゃないよ。」
思考をなぞるように言われて、びくっとなる。
「今のきみを、人目の多いところに晒すなんて、僕は、また繰り返すところだった。不甲斐ないから、また傷つけそうで、だから。せめて家まで送る。
ごめんね」
「謝らないで、ください」
俺が悪いのに。
俺が、悪いのに。
一緒に歩きながら、そういえば、まだ左腕が赤い絵の具だらけだと気がつく。
半袖じゃ目立つから早く洗わなくちゃいけないと思う。絆創膏は今日に限って持っていなかった。
百貨店のそばを通ったらドラマのポスターが沢山はってあった。
俺の体験をもとにした、あの小説のポスターや、その作品に影響を受けたっていう違う映画のポスターが並んでいる。
木瀬野さんが渡してくれたハンカチで、俺は腕をぐるぐる巻かれた。
それは少し大袈裟で、この方が目立つ気がするけど嬉しくてなにも言えない。
ポスターを目にして、なんだかわからなくなる。
「わあああああああー!」
俺には、もう、ほとんど自我がなかった。
「大丈夫」
木瀬野さんは、根拠のないことを言って強く手を握っていた。
「あはっ。笑ったよ。笑ったよ」
「うん……笑っているね」
みんな、俺に笑って欲しがっていた。だから。
「木瀬野さんだけでも俺が笑っているとこ、いっぱい見てください!」
よくわからないけど、俺はまた笑えるようになっていた。
家に帰るときにはなんだか気分が落ち着いていた。
彼のおかげだ。
誰もいない部屋で夕飯を作ることにした。
ハンバーグにしようと、まずは玉ねぎを細かく刻むために包丁を取り出す。
テーブルに置いていた携帯が震えたので、慌てて手にしたら、メールだった。河辺から。
「お前やっぱり性格悪いよな。女みたいなところあるし。
要は顔がよければ誰でもいいんだろ」
なんのことかと思ったら、木瀬野さんと笑顔で歩いていたところを見ていたらしい。
「俺、他人の顔覚えるの苦手なんだよ。
大体、顔だけのやつって単に目立つだけだからそんなにいいと思わない」
正直なことを書いて送った。
つーか、女子の顔だの身体だの定める遊びが趣味みたいな男もわんさかいるだろうに、見下すような態度はどっちもどっちだと俺は思う。
思って、考える。
メールは楽だ。
俺の声音もわからないし、態度も、泣いてもばれない。
実は身体を傷つけて血を流しながら書いてるかもしれない。
なのに笑顔の文字を送れば相手はそのまま受けとるだろう。
返信が来た。
「じゃあ、俺のどこが好きだったんだ」
にっこり、笑って俺は返信。
「付き合うって
『もっと、好きになるため』
にやることだろ?」
文字だけならまだ制御出来るけど、俺自身の何かはもう残っていないみたいだった。
状況に芸能人かなにかが絡むなら、きっと表沙汰になることも無いだろう。このことを遺書にしたらきっと隠滅されるだろうし、書くときがあってもそれは書かないことにしよう。
玉ねぎを刻みながら、俺は今度やるドラマについて考えた。
映画もいっぱいあったし俺の本もいっぱいある。フラッシュバックから逃れるのは不可能だろう。
学校で出される宿題みたいに答えがあればいいのに、これにはきっとない。
包丁を向けられたことを思い出した。
鏡を見ながら、俺は包丁を手にして自分に向けるようにして言う。
「死ね! 死ねよ!」
それから、吹き出した。なんだろう、こんなことでトラウマだなんて面白い。にたような作品が沢山あるんなら、俺の悩みじゃない。
皆同じ経験をしているってことなんだ。
「映画化するかなぁ……」
今俺がこうやって、鏡の前で包丁を向けてるのも誰かが本にしているんじゃないだろうか。
そしたら、俺が映画化するかなあと、つぶやいたのも、台詞というものになるのだ。
俺は、映画のなかにすんでいる。
やがて窓の外がだいぶん暗くなっていた。
ハンバーグを人数分作り終えて盛り付けていた頃になっちゃんからも電話があった。今日はよく、着信が来るなと思う。
「なっちゃん、どうかした」
「いや、お前生きてるかなと思って」
「生きてるよ。俺が生きてるから、この空間は生きているんだよ」
「え……なに、何言ってんの」
なっちゃんは、少し驚きながらも困ったように笑った。俺も少しそのまま言い過ぎたと思った。
エンドロールを見るのが楽しみだった。
「いや、なんでもない。ねぇ、なっちゃん」
「ん?」
「ちゃんと笑えるようになったんだよ。
もう心配要らないから」
自分がだんだん空に近づいていくのを想像した。テレビがついていた。
俺にとっては怖いシーンだったから面白くて消した。
「あはは!」
「なに、いきなり笑ってるんだ」
「いま、面白い番組だったんだ、あははっ。あぁ、あぁーおかしい! ひひっ、ほら。笑ってるだろ? 俺、笑うんだよ、もう」
誉めてほしかった。
なっちゃんに
「良かった、笑ってるな」と言ってもらえると思う。
「お前……大丈夫か?」
返って来たのは、心配の声。
なんで??
パニックになって切った。
「俺は平気! ほら、えがお!」
夕飯を食べながら、ぼーっとしていた。
なっちゃんが、とにかく明日話そうと言ったのが不安だ。
河辺も、俺を、重くて気持ち悪いと言ったから、なっちゃんもきっとそう感じたんだと思う。
でも俺自身は空っぽで、軽くて気持ち悪いんだ。なぜ、逆に見えるんだろうか。
これも、本にされるかもしれない。俺は物語のなかに生きてるみたいだから、はっと周りを見渡したら、母さんに変な顔をされた。
「どうかしたの?」
「……なんでもない」
手作りの夕飯は美味しくて、ご飯を二杯目をおかわりした。
けれど頭の中は上の空だ。
どんなときも、あまり悩まないように、周りに目を向けて頑張ろうとしてきた。頑張る前から騒ぐのは中身が子どもだと思う。
でも今はなんにも浮かばなくて周りの心配する声も、自称友達も、テレビのラブソングも、町でかかる失恋ソングも、全部余計な世話な気がする。