ノート
夜中に外に出た。今日は空気がひんやりしていると思う。
外で、誰かが俺を指差して笑っている気がして不愉快だったけど、これもセットか何かなんだろう。
連絡をしたら、木瀬野さんがすぐに、高台に来てくれた。
安っぽい夜景を背景に、俺は飛び付いた。
「おっと。どうしたの」
木瀬野さんが困ったように笑うが、構わずにそのまましがみついた。
俺のことをよく知らない人は落ち着く。
「笑います。俺、ちゃんと笑えるから、誉めてください」
「そうだね。笑えているよ。よかった」
木瀬野さんがよしよしと頭をかきみだして、俺は心地よさに目を細めた。
「こんなに笑ってるのに、大丈夫か聞かれました。俺は大丈夫なんです」
「そうだよね? こんなに元気いっぱいだからね」
なんだか気を遣わせている気がしてきて、俺は急に不安になった。
「お、重い、気持ち悪い?」
さっ、と距離をあけると、ふっと表情が緩んで木瀬野さんが笑う。
「ううん。違うんだ。きみは、気持ち悪くない」
嬉しくて、俺はまた笑った。
「ドラマ観ましたっ。
はははっ! あははっ!面白っ、くて、あはは!」
「うん、笑ってる。ちゃんと、笑ってるから。
でも、今、僕のところでは泣いてもいいんだよ?」
俺より広い肩幅とか、柔らかそうな髪とかが、しがみついてみたら、安定感があった。
泣けると思ってそうしたのに、俺からは乾いた笑いしか出てこなくなっていた。
「あははは!あははははっ! ひぃっ……、ふふ、ああ、くくっ、あっ、ははははははは!」
ばし、ばし、と彼の背中を叩きながら俺はひたすら笑った。
「が、はっ、あ……、ははは! ぁ。げほっ、ははは!」
笑いすぎて、たまにむせてしまったくらいに。木瀬野さんは、ただ俺の背中をさすっていた。
「そうだ、夕飯、何食べた? 僕はねぇ。おひたしと、サケのホイル焼き」
俺が笑い続ける間、木瀬野さんが質問した。
少しして収まってから俺は言う。
「ミンチを、ぐしゃって、丸めた。焼いた、んです」
「ハンバーグ? いいね。美味しそう」
「木瀬野さん、は、心配されないですか」
そういえば気になることだったから、聞いた。
聞いてからハンバーグの話題を忘れていたと気がついた。
「僕は、独り暮らしだから。誰もいないし大丈夫」
木瀬野さんは合わせてくれた。なんだか申し訳ない。
「っ、俺。笑う、笑う」
「笑いたいの? 笑ってるのも可愛いけど」
「笑うよ。ほら。誉めてください。俺元気だから、元気だから、おめでとうって、元気だから」
「うん、元気で良かった!」
ぎゅーっと抱き締められて、目の前がちかちかした。
「僕が心配になるのは、別に君が悪い子だからじゃない。単にね、癖なんだ。安心して欲しい」
安心?
『安心して欲しい』
それを聞いたときに、感情が決壊したみたいに急に涙が溢れてきた。
更に強く抱き締められて、さらにわけがわからなくなってくる。
「笑うよ。俺、っ、笑う」
笑顔を見せないと、重くなってしまうだろう。
焦って涙をぬぐう。
「いいよ、笑わなくても元気なところを見せなくても、大丈夫だから」
「俺、笑うよ」
他の言葉が、思い付かなくて、笑うという宣言を繰り返した。木瀬野さんはそのたびに俺を抱き締めたり撫でたりしている。
寒いのだろうか。
着ていたパーカーを脱いで、肩にかけてあげた。
「温かくなりましたか?」
聞いたら、これはきみが着てと返される。
要らなかったのかもしれない。
ポケットからなにか転がった。丸い形の育成ゲーム。
「あ、なんでこんなの入れたんだろう」
電池は切れていた。
「そういえば、ハンカチありがとうございました」
洗って返そうと俺は言う。
「あぁ、良いんだ」
彼はどうでも良さそうに言ったまましばらく俺を抱き締めていたが手を見た。
「だんだん、酷くなるね」
腕を見ながら、困ったように言われて、俺もそんな気はしていた。
何が現実だったのか、俺とは何だったのかが、ぐしゃぐしゃになっていて、もうわからなかった。
「なんだって、頑張ってきたつもり、なのにっ」
頑張る方向が見えないようなことは、はじめてで、それは一度死んでから生まれ変わらないと人生は変えられないと言われるような感じがした。
「本当なら、あんなことになるはずはなかった。
河辺が持ち出さなかったら、あんな大衆に晒される予定さえなかったんだから」
もともと、こうなる原因は俺がやったんじゃない。何度も何度も、思う。
河辺の思い込みと嫉妬が勝手な行動に走らせた結果があるだけ。
でも、あのノートが存在していなかったら。
俺が居なかったら。
何度も何度も思う。
そもそもあいつが読まなければ、良かったのだから、存在しなかったらよかった。
「きみが、見せようとしたわけじゃないことは、わかってる。
そういう治療の意図で書いたものを、普通わざわざ公に晒して見せたくないよね?
それが自分の立場だったら、彼らにもわかるはずだよ。
なのにそれを、利用されて、無責任な責任をおわされただけ。きみは悪くないんだよ」
けれど、その治療が今こうして全部無駄になった。自分がやってきたことが全て、砂の城みたいに波に流れて溶けていった。
いきなり人に見せるような、内容じゃないということは俺が一番わかっている。でも、勝手に使われたらそうなってしまう。
なぜ、気がつかなかったんだろうか。
俺はもう……
「そのことを。
いきなり見せる内容では無いことを不思議だなと、違和感に思っている人も、もしかしたらいるかもしれないよ」
まだ諦めるのは早いと、木瀬野さんは囁いている。
偏見になってしまうのは正しい情報が足りないからか、意図しているから。
正しい情報が足りていないことが既に違和感だと気付く人もいるという。
俺は、どうしていいかわからなくて安っぽい夜景をひたすら視界に映していた。
腕に巻いていたハンカチは今家にある。洗濯して、干してあるから明日には返す予定だった。
「そういえば、今日、ちゃんと帰れたね。安心しました」
木瀬野さんはしばらくして思い出したように言った。
「俺、ガキじゃないんで。帰れます」
だから心配しないでほしくていうと、ごめんねとまた謝られた。
「そうだよね。元気いっぱいだし、ちゃんと笑うことできるもんね」
「そうですよ」
うんうん、と頷く。
ふっと目を細めた木瀬野さんが、俺を見つめながら聞いた。
「僕を、呼んだのは何か、辛いことがあったからなのかな?」
「夜中や明け方くらいに家に一人で居ると、たまに怖い」
俺は、答えともつかないことを言った。
「テレビも、部屋に来るチラシ。
母さんたちの世間話や、
姉のからのお土産。
家には俺を追い詰めるものが、沢山ある。
」
部屋は盗聴されてるかもしれない。
なのに、姉は帰るとすぐに部屋が汚いとか、俺がなにかミスをしたかとかをわざわざわかりやすい声で言う。
「あの家に居たくない……どこでもいいから、逃げ出してしまいたい。
家に、居たくない。
なのに、今の俺には、姉と違って居場所になるところがないんです」
知り合いの居ない、傷や理由に触れられない場所がない。
他の問題ならよかったのだけど、俺のトラウマを一から解説してまで得る場所ならいらない。
「きっと重くて、性格が悪いって広まってるし」
違うと知ってたって、その噂に気を遣う友人を見たくなかった。
ぽたぽたと涙を溢す俺に、木瀬野さんは「それは怖かったね」と言った。
怖いのかはわからない。
「そんな大きなことがあって不安でいっぱいでも家から動けなくて耐えているだなんて、きみは強いな」
外に出たら出たで、自我が歪んでいる俺は、周りの人の目を受け入れられない。
学校に行って帰るという一連のことが無ければ、俺は確実に外に出るのに消極的になっている。
「じゃあさ」
と、急に切り出した木瀬野さんと、目が合う。
「はい?」
「もしも、きみに明確に目的になることがそこにあって、いざ嫌になったら帰れる場所だったら、こられる?」
なにか思い付いたように木瀬野さんが言ったので思わず顔をあげる。
「目的?」
「そ。目的」
目的とは何をさすのだろうかとうまく思い付かないで居ると木瀬野さんは続けた。
「僕はね、きみのお願いを叶えたい。
それが目的」
「どうして、です、か」
「うーん理由になるかはわからないけど、僕は昔、心理学者か、ある特殊なお医者さんになりたかったんだよ。
でも僕が必要とする資格を取るには海外にいかなきゃいけなくて。
周りに大反対されて、僕もそんなに勇気がなかったことやお金のこともあって諦めたけど、きみを見ているとそういうのを思い出すんだ。
目の前の子の感情も、救えないのが嫌で、だから声をかけたのかな」
何をしてるひとだろうって思っていた。どんなことが好きなんだろうって。
少しわかった気がしてなんだか嬉しくなった。
「まぁ、こんなにすんなり話ができるとは思わなかったけど」
それは。俺もそうだ。
自暴自棄にでもなってなかったら、こんな風に会わなかっただろう。
「提案がある。もし嫌だったなら断っても構わないんだけど。目的になれたら嬉しい」