ノート


 いつもはなかなか起きずにすぐには来ない学校だったけど、今日は開いてすぐの6時に来た。

 まだ誰もいない教室の中は貸しきりみたいな気持ちになる。
すー、はー、と深呼吸してから自分の席について机から出した本を開く。

 遺伝子の編集、導入作業で、予期しない変異が起こり問題になっているというテーマの内容はまるで今の俺自身のようでもあって妙な共感を覚えていた。

倫理観は地域により様々だけどその論文は、軽率過ぎるとあちこちの研究者から批判があったのだという。
 俺の記憶は、俺の遺伝子の記録みたいなものなのに編集されまくっていて倫理観があったものじゃないなと思った。
河辺はどうして、俺の痛みがわからないのだろうか。
 もしも、それを彼が描いたって単なるプライバシー侵害であっても、それ以上はない。
俺を苦しめただけだ。
さらに河辺の話は脚色が強くて事実から逸れた斜めな解釈が付け足されている。
とんでもない性格。私生活もだらしがない。……というもので、気力がすぐに尽きて、ノートにしか感情をはかなかった俺とは正反対。 
 彼の負けん気の強さがそうしたのだろうし、その負けん気の強さが手にとるようにわかると同時に空しくもなってしまったりした。なんて、本人に言えばもしかして彼は俺に屈して、その背に背負うタイトルを慌てて変えてしまうだろうな。これについては考えるのをやめて、俺は机に頬杖をついて昨日のことを思い返した。

「目的になれたら嬉しい」
と木瀬野さんに言われたこと。

 何度、思い返してもドキドキする。
木瀬野さんの提案に触れるのが待ち遠しくて、早く授業が終わらないだろうかと思う。昨日渡されたメモを、布筆箱にあるポケットの隙間から、何度も確認する。そこには住所があった。
そこはわりと近所で、歩いていけないこともない場所。
どの辺りなんだろうと地図を見てみた限り、住宅がぽつぽつと立ち並んだ静かな地域にある場所だった。


 ぼーっとしていたらHRも終わって1限の授業中になっていた。
教室の隅に置いてあるホワイトボードに窓から入ってきた蝶が止まっているのが見える。

板書を沢山する先生が、自主的に近くの教室から運んでくるものなのだがマグネットとマグネットの間のスペースで、器用に羽を休める姿をみんなが眺めている。
 なにげなしに後ろを振り向いたら、なっちゃんと目が合ったけれど、つい目を逸らしてしまった。 きっと知り合いとは、あまり関わらない方がいいのだろう。
 俺がどうなるかも、相手がどうなるかもわからない。今、その優しさに触れると、おかしくなってしまいそうだ。


休み時間になって、今度はなっちゃんが話しかけてきた。

「……なに」

「言ったよな、頼らないのかって」

真面目な顔で、俺を、心配してくれているらしくて少しイライラしていた。それが嬉しくて、でも痛かった。

「ごめん」

席から立ち上がって、立っていたなっちゃんと同じ目線で言う。

「信用してないとかじゃない。でも、頼れなくてごめん。俺が昔学校でいじめにあってる姉に、家で毎日のように、死ねって言われ続けてたの、知ってるよな」

結婚した夫が会社では優秀でも、家で妻にだけはDVで会社のストレスをぶつけるというのはよくあることらしい。
同じように、学校では気弱でも、家で自分より幼い相手にはそれをぶつけるというのもある話だったりする。

いじめ対策は多少あれど、こちらの対策は現代に皆無といっていいくらいだ。

「だから……簡単に『いじめられてます』とか『俺は弱いんです』とか、言えなくなっちまったんだ」
「どういう事?」

「わかってくれる、とか、勝手に相手に期待するのが嫌だ。弱音なんか吐いたら俺がされてきたみたいに、なっちゃんに当たってしまうかもしれない」

いじめられたからなんだよ。相手を殴ってくれば良いだけだろ。
そんなに偉いのかよ。

今までそう吐き捨ててきた自分が、その立場になんてなりたくなかった。
「通せなくなるまでは、
自分には筋を通していたいと思ってるだけだった。でも、心配させるって考えてなかった、ごめん」

そう、俺は単に、弱いから、弱いところを見せられない。姉のように、自分の弱さを理解できなくて惨めになって殴り付けてしまうかもしれないから。

なっちゃんは少し迷う表情を見せてから、「いじめられてるのか」と聞いた。何を答えていいかわからなくて、曖昧に微笑んだ。

「家の事情かな。母さんがまたヒステリーっぽくなってるし……」

なにかあったら、とりあえずこれで大体のマナーがある人間には踏み込まれることはない。

「あの人、妬み買いやすいもんな。美人だし、ありえないくらい天然だし」

俺の家族を知ってるなっちゃんが言う。
確かにわけのわからない嫌がらせにあいまくってるけど。

「えぇー美人? お前ああいうのタイプなの」

少し引き気味にリアクションしてしまったら、なっちゃんはお前を義理の兄弟だとかにはしないから安心しろと言った。

「お、おう……」

「やっほっ!」

出入り口の方から声がして、見ると綺羅が立っていた。
相変わらずふわふわした髪型をしている。
一部の生徒がやや嬉しそうにした。
彼女は人気があるのだ。本人に自覚はないらしいが。

「……なにしにきたの、綺羅サン」

「この前集めた貝殻でつくるランプシェードとかのために、ホームセンターいくんだけど、行くよね?」

行く? ではなくて行くよねなあたり、選択肢はないらしい。

「ごめんっ」

またもや俺は謝った。
顔の前に両手をぱしんと合わせる。

「今日は無理。用事あるんだ」

なっちゃんまでもが「え、何なに」と聞いてきたけれど、深くは答えなかった。







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