ノート
俺はバラバラになって意識をなくして、内蔵がなくなって、幸せになるんだ……
それを叶えてもらうために、口封じされそうなことはあちこちに喋ろう。きっと、まずいと思った誰かが刺しにくる。
生き甲斐にしよう。
元気が出てきてなっちゃんにメールした。
「今度遊園地にいかない?」
なっちゃんからはすぐ返事が来た。
「大丈夫か? 怪我とか」
「とかって、なに?
いくの、いかないの」
「いつ」
「こんどの土日とか」
「いいよ」
案外未練なんて言ってる場合じゃないかもしれない。俺は、もしかしたらいつ死ぬかもしれないと、ふと考えたらわくわくした。
新しいノート。それは俺自身という札束だ。
道にいる怪しそうな人が居たら石を投げつけてみたい。すぐ怒って、殴り付けるかもしれない。どうせ誰かに見張られてるなら、近付いて行って「ご苦労様でーす」と挑発して帰るとか。わりと自殺より早いかもしれない。
「おきて」
囁く声。
「おーい」
ゆさゆさ、と身体を小さく揺らされて目を開けたら、ベッドに寝ている俺をなっちゃんが起こしていた。
あれ?
首もとに抱きつきながら寝ぼけたまま俺は言う。
「今なんじ」
「6時。まだ今日のままだよ」
鵜潮が帰って少し寝てたら、来たらしい。
「勝手に……入るなよ……」
眠いまま言うと、なっちゃんが「お前寝ぼけたまま、いいよー、って返事したよ」と言った。記憶にない。
「なにしに来たの」
「いや、なんか、昨日、心配」
だったからさ、を言う前に、口を塞ぐ。
うるさい、聞きたくない。
「んっ」
なっちゃんが目を見開いたまま硬直する。
「心配なんか何もない」
しばらくして離れてから俺は言う。
「でも、お前、いつも一人で抱えて」
「なっちゃんには俺を背負えないだろ!」
思わず強く言うとなっちゃんは目を丸くした。
「たとえば俺が病気だとか聞いたとしても、なっちゃんがそうなるわけじゃない! 背負えない話をしても、誰一人救われないんだよ!」
「そっか、そうだな!」
なっちゃんは納得してくれた。
「背負えないようなことなら、まぁ、元気になるまで待つよ!」
「なっちゃんありがとう」
なんだ最初からこういえばよかったんだ!
俺はようやく気付いたことに脱力したような安心したような気がした。
心配されるのが嫌なんじゃなくて、話したくないのに『話せば楽になる』を強制されるのが嫌なんだ。
でもなっちゃんは待ってくれると言った。
なら、それでいい。
「俺は別に、なにか抱えているわけじゃない。誰だって悲しいときがあると思うしそういう時期だよ!」
安心してほしくて言うと、なっちゃんはほっとした表情になった。
「遊園地ってなんねんぶりかなー、ディズニーとかも3、4回くらいしかいかないし」
なっちゃんがしみじみと言う。
「嘘、俺、ディズニーランドは一回しかいったことない」
人がならびまくってて、正直、アトラクションに乗ったよりも待ってた間のイメージがつよいので、もう何回かいきたい。
外を夜遅くまで歩いてて、部屋に帰ってきた頃にはなっちゃんは居なくて、またな、と書いた紙だけがあった。
あまり眠れないまま、寝た。
朝、目が覚めてすぐに、カレンダーをみる。
遊びに行く日が近づくのを感じるたびに俺は楽しみだなと思えると昨日は信じていた。
「……」
この朝もそのはずだった。
なのに、現実が頭を占め始める。
遊園地は公の場。
図書館ですら行けなくなった俺に、行けるはずがない。昔の調子で明るく提案したものの、それと、今の状態とのギャップは簡単に埋まらないことを、冷静になって理解した。
行く、行かない、どころか。
『休みたい』だけが、沸き上がってくる。
怖い。休みたい。行きたくない。無理だ。
学校に着いても上の空で、俺はひたすらに目を閉じて寝たふりをして、なっちゃんが何か話しかけてくれても避けた。
行けない。
自分で言ったのに。
待ちに待ったはずの当日が来ても、俺は楽しくなれず、着替えもせず部屋に居た。
無気力で、全身から、力が抜けそうなくらい、ぼーとなって布団をかぶってそのまま踞る。
やる気がしない。なっちゃんにも、誰にも会いたくない。遊びに行くなんて言わなきゃよかった。
やがて着替えるだけはしよう、と机の上に用意していた服に手を伸ばす。
けれど着替えたら着替えたで、出掛けなくちゃならないことが、頭を不安でいっぱいにした。
待ち合わせ時刻をとっくに過ぎた頃に携帯の電源を入れたら、着信が20件あった。
「いまどこ」
電話をかけなおしてすぐに、なっちゃんが聞いてくる。
「家だよ」
俺はそのまま答えた。
「はぁ!? 寝過ごしたの」
「……ごめん」
俺は、何を言えばいいかわからない。
早起きした。服も用意した。でもでかけたくはなかった。
「落ち込んでるって言ってたやつか。
俺にできることある?
遊園地は。
待ってるんだけど」
なっちゃんが、返してきたのはそんな言葉。
やっぱり行かないと、と立ち上がる。
もったいないし、申し訳ない、まだ間に合うだろうか。
なるべく、出掛けることを意識しないように靴を履いて鞄を持ち、俺はふらつく足どりでドアを開けた。
歩道を進んでいると、黒いジャージの男子たちがずらっといて、ぴっぴっ、という笛の音に合わせて列になってジョギングして横切ってくる。
「うわ……」
ぴっぴっ、ぴっぴっ、ぴっぴっ。
集団が通りすぎて、道路のそばで信号待ちをしていると、おばあさんが、今日は何曜日かと話しかけて来たりした。
こんな日にかぎって、なんで絡まれるんだろう。
動画サイトの話をする女子高生が、後ろから歩いてくる。
気楽なかんじで、いいな。
前方からは、また黒くて薄い形の車。
中の人がにたっと笑ってクラクションをならす。……なんなんだ。つーか誰だよ。
知らない車だったなぁなんて思いながら、携帯を出して車のマークを検索してみる。
ワシとか鷹みたいな、鳥のマークがエンブレムみたいなやつだった。
「うーむ、それっぽいのが見つからない」
こうして歩いていると、なんだか、歩ける気がしてくる。
なっちゃんは知ってるだろうか。聞いてみようかななんて思いながら、俺は信号が変わるのを待った。
「落としたんで拾ってもらえますかー」
横から何か飛んできたと思ったら自分で拾えるだろって感じのおっさんまで後ろから声をかけてきた。
さっき彼が投げた腕時計を渡す。
その後も、まるで意図的に誰かが邪魔してるかのように、あちこちで人が絡んで来た。
「なんなんだよっ!」
少し走り気味で先へ急いでいると、町並みの風景を撮っていた風なジャケットの男がちらっとこちらを見てくる。
撮られる、と反射的に、なぜか感じた。
俺にはストーカーが居る。
それが誰かは知らないけど、部屋を立ってから戻るとノートに開いた後があったり、誰にも告げなかった買い物先に、同じ時刻に居るやつがいる。
気味が悪かったが、日に日に慣れてしまって、最初のうちは警察にしていた相談も、「侵入が証明できないんじゃあねぇ……」と鼻で笑われてからは、どうでもいい気がしてしなくなった。
なんつーか、疲れた。
芸能人だったとかならわかる気がするが、よりによって、ただの平凡な高校生に、そんなことが起きてても、なんていうか、笑われるだけじゃないだろうか。
気晴らしに河辺にメールしてみた。
「変なのが沢山居るんだけど」
返信は来ない。
なっちゃんにメールしてみた。
「変なのってなに、今どこにいんの?」
「普通に家出てすぐの外。いろんな人が先々で邪魔してきて通れない」
「いや、考えすぎでしょ、芸人のスター気取り?」
考えすぎだったらいいのに。あ、もしかして考えすぎなんだろうか?
外にはちょうどポスターが貼られている。
スマホのアプリのGPS機能を使って、町中を探検してスタンプラリーをしよう! というイベントがやってるらしい。
あれだろうか。
少し、かなり、迷ってから、木瀬野さんにメールした。
「今のやくざって、イベント主催するんですか」
「あるかもしれないね」
どうしたの、最近、連絡なかったけど、と優しい言葉が続く。
嬉しいはずなのに、どこか、表面的なものを感じてしまう。
「人が、沢山、近所で、うろついてて……あれも、その人たちの仕業ですよね」
一方的に、聞きたいことだけが溢れてしまう。なんで、カンベが悪いのに、俺の生活まで邪魔をするんだろう。
「もしかして、そういうのが大変で、連絡とれないの?」
それだけでは、なかった。だけど、まぁそうですねと俺は濁す。
なっちゃんと出掛けるはずだったのに。
あんなに人が居て、しかもみんな、こっちをニヤニヤして見てる気がする。
「図書館や遊園地じゃなくたって、もう、無理かもしれない」
外に出られない自分を想像したら、自己嫌悪が酷くなる。写真を撮られないように、バッと背を向けて逆向きに走る。
『緑の会』とかかれたトラックが2台くらい近くに止めてあって、植木を運んでた。
違和感ありすぎだろ緑の会。絶対演技だ。
……ここまでするだろうか?
なんで、カンベなんとかが話題になるくらいで俺がこんな目に合うんだか。
何も考えたくなくてひたすらに走った。遊園地に行くどころじゃない。
許せない、赦されない。
あんなやつを、なぜ、のさばらせて居るんだろう?売れればなんだっていいんだな。
誰も来ないだろうと走ってきた先に、知った顔を見つけた。
「あ、どうしたの?」
どこかに行こうとしてたのか、外に出てきたばかりといった感じの木瀬野さんだ。
周りを見てこのあたりが、図書館の近くだと思い出す。俺は近づいて行くか少し迷ってから無視して走った。道路に立ち止まる。トラックが近づいてくる。このまま死ねたらいいのに。
誰かが腕を引いて、歩道に戻した。
木瀬野さんだった。
「危なかったね、気を付けて」
「ありがとう、ございます」
「おでかけかな」
「いえ、散歩です」
嘘をつく。
心が痛んだ。
もう無理だ。
どこにもいけやしない。
次の日学校に行ったら、なっちゃんは普通に接してくれて安心した。
学校に居る間は、どこに居るよりも少しだけマシだった。
昨日の夕飯もうまく食べれなかった俺は昼に持ってきた弁当に味が全くしなくて、このときのために持参したカラシを炊いたお米に沢山かけた。
「おい、なにやってる」
なっちゃんが驚いた顔をする。よくわからない。
「それ絵の具だぞ」
俺は無視して食べた。
変わった味はしたけどあまり辛くない。
昼休みになってもなにかする気にならなかった。なっちゃんはなにか用事らしくていなくて、食べ終えた後は、教室の窓から地面を見ていた。
ぼーっと窓を開けて、身を乗り出していたら、そのままどこかに浮いてって、自由になれる気がする。
「ああああああああああああああああああああああああああああー!!」
叫んでいたら、後ろからぐいっと軽く背中を押された。
「おい、ゴリラが叫んでるぞ!」
「ガタイよくないし、サルじゃね?」
「なんでもいいだろ、ゴリラ!」
「ほら、死ぬとこ見せろよ」
数人、わらわら集まってきて、邪魔だなと思いふりきって廊下に出た。
「あ!更新されてる」
女子がスマホを構いながら呟く。カンベのサイトか……
「うわ、主人公自殺未遂って……」
「最近急に病みキャラに変わったよね、前は腕切りそうじゃなかったのに」
なぜキャラが変わるか、その理由は俺だけ知ってる。
あいつ、またか……
気持ち悪い。
いつまで付きまとうつもりだ。
人の不幸は蜜の味というけど、目の当たりにすると腹立たしい。
こんなことまでネタにされるのか。
生きても死んでもネタになるのかと思ったら、俺に何が残るのかわからなかった。
自我が無いなら他人に好かれようがなにしようがなにも考えられない。なにもできない。幸せだのなんだの言えない。
誰と居ても、何をしても、死ぬことしか考えられなくて、身体の中が空っぽな気しかしない。
近くに気配がしたと思ったら、河辺だった。
誰にも目もくれず俺にまっすぐ向かってきた。
「……何か」
「裏切るなよ?」
「は?」
「なにも、言うんじゃないぞ。俺は、お前の家も家族も家族の職業もペットの名前もつきまとったから知ってるんだよ。
お前の親戚とも知り合った。
なにをするかわからないぞ」
今からあなたを脅迫します、か……
さらに、バカ姉と付き合ってるときた。
俺を追い詰めるありとあらゆる手段を持って、俺のノートを人質にとっている。
ゲスを極め過ぎ。
彼が友達がいない理由がよくわかった。
この負けん気の強さと、周りの見えなさは、関わり方を考えないといけない。
住む場所は?
職業は?
と、気になる相手のことならば、なんでも聞いて、周りにも話しまくる……まるで近所のおばちゃんだ。
なんて面白がってたら吐き気が急に込み上げてきて、トイレに駆け込んで吐いた。
ああ、あれ、からしじゃなかったんだ。
カンベのサイトを見ると、確かに自殺しようとしてることまでネタにされていた。
なぜ脅迫されてるんだろう?
俺がネタばらしすることが怖いという意味にもとれるし、どうとでもなるという意味にもとれる。「大丈夫だったか?」
「うん、少し疲れただけなんだ。休んでごめんね」
「俺も浮気なんて言ってごめん」
……。
目が覚めると、地面に顔がついていた。
なっちゃんが、俺に携帯の画面をつきつけている。
「これ、なんだよ」
そこにあるのは写真。
そこに居たのは、木瀬野さんと俺。日付は昨日で隣あって歩いている。
「誰だ、こいつは」
あぁ、意識が戻ってきた。トイレから出てきたくらいで人気のない場所に引っ張られていって。
俺は木瀬野さんのことを聞かれてパニックで、頭が回ってなくて。
ただ謝っていた。
もう生きたくない。
殺してくれ、苦しい。こわい。助けてくれ。
ごめんなさい。
生きててごめんなさい。
「うあああああー」
自分が何をしているかはよくわからない。
腕が赤かったことしかわからない。身体がなんとなく痛かったことも。
「――かはっ、―――あ、アアアアアアア」
口から、飲み込まなかった絵の具が出てきた。
変な味がする。
「アハハハハハハハ!!」
とても楽しい気持ちになった。
遊園地に行こうとしたんだけどいろいろあってね、それで、知り合いにあって、そうそのひとなんだけどさ……
なっちゃんは、俺が話しかけているのに、何も答えてくれない。
青ざめている。
前々から様子がおかしかった秋弥を気にかけていたつもりだった。
けれど、もしかしてそれがプレッシャーにもなっていたのだろうか。
いきなり、遊びに行こうと言った彼を少し安心した俺も俺だ。
まさか状態がその逆だったなんて。
俺が見ていないところでなにがあったのか。
今は、笑いながら崩れた言葉を俺に伝えてくる。
「おれ、ない、しあしてえんいこうとたんだけど」
「なんて?」
「っい、んえちに、ね、ておくれ、あから、ろ、どうに、がけい、てたから」
いつ切ったのか、切ったばかりの傷跡をえぐってしまってて、左腕からは血がだらりとこぼれていたし、突然地面に倒れたから頭を打ったのか、少しふらふらしていた。
なのに、笑顔を向けている。
俺のために笑ってくれているのだと思うと嬉しかった。
ぎゅうう、と抱き締めると、前よりも体重が軽いことを感じた。
少し痩せてきている。
青ざめてしまう。
「ちゃんと、食べてないのか?」
「っ、んだよ、って、た、よ。べて、ゃ、んう、と」
何をいっているのかは、よくわからなかった。
けどたぶんまともに食べようとはしてないだろう。
腕の力を緩めたら自分の首を絞めようとするので、しばらく抱き締めていた。
「お前は、よくやったよ」
壊れたんじゃない。
俺や周りに何も見せないように努力した結果だから、尊重したいと思えた。
ぱくぱく、と、秋弥の小さな口が動く。
目から一筋滴がこぼれた。
「最初から、こうすれば良かったんだな」
疲れたのか、秋弥は俺にしがみついたまま、ゆっくりと目を閉じている。
「俺が、お前の居場所になれないだろうか」
腕の中で安心を探すみたいに、動きを変えてひっついてきている彼を改めて抱き締めて、額に口づけた。
学校に行ってたはずなのに、帰されてしまった。気がつくと、なっちゃんの家の部屋の中で、俺は授業がまだあるっていうことを 彼に訴えた。
さっきまでのことが、なんだかぼんやりにじんでる。
「まだ、じゅぎょ……が」
俺が言うけどなっちゃんは俺を抱き締めたままだった。
そう、昼からずっと。
そんなにそういうコトがしたいのかとあきれたけど違うみたいだ。
「なっちゃ、ん」
カリカリ、と彼の腕を小さく引っ掻く。
「っちゃ、ま、……だ、がっこ、」
なっちゃんは少しして俺に気付いたのか、抱き締めながら言う。
「学校? 今日は早退。俺も許可出たし、お前も」
家になんか帰りたくない。
姉に会うかもしれないし、母も、腫れ物を扱うみたいな目をし始めた。
いづらいよ。
俺、学校にいたい。
「や、だ……」
「今日は、俺としばらくゆっくりしない?」
「っ、ぁあ! やだあ!」
ばたばたと暴れるが、なっちゃんは俺をしっかり抱き抱えただけだった。
「好きだ」
「アアアアアアアアアアアアア――――――」
要らない。要らない、要らない。要らない。
学校に戻る。
自分の物とは思えないようなつんざくような悲鳴を聞きながらなっちゃんを押し退ける。
腕があたって、目についた本棚から、ばさばさと本が降ってきた。
それを見てまた嫌な気分になった。
バカ姉が居なかったらよかったのに。
急に、それが浮かんでくる。せめてあいつさえ居なければよかったんだ。
そしたら、俺が疑われることも殴られることも
まるで『絶望ノート』
を書くこともなかった。
「あいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのに」
俺も居なければよかった。
あいつが死ねばいいのに。
俺が、
「―――――っ―――ぁ」
ずきん、と頭が痛んだ。昔にもあった。
ビリビリと電流が流れるみたいな痛みとかゆみの間みたいなのと、鈍痛が交互にやってきて、数ヵ月身体がつらかったのを思い出す。
景色が歪む。
なっちゃんがどうして抱き締めるのかわからない。
なんで授業にいっちゃだめなのだろう。
中学からなんとも表現できない不調に悩まされ始めて、だんだんと、身体がつらくなっていって、診断してもらう度に、何にも書かれてない紙をもらったあの日々を思い出す。
小バカにしたような目で見下ろした医者から、精神科や心療内科を紹介されて、ぜんぶ俺がわるいみたいで。
妄想ですよ、なんて片付けられて……
俺は、自分自身が妄想かもしれない、と考えることが嫌だった。
だけど『そう』としか誰も見てくれなかった。
『あの人』に会うまで、俺は、
混乱したまま、俺は学校に戻ろうと立ち上がる。
なっちゃんが抱き締めてきてじゃまだから振り払う。
「、い、ぁ、て、が、うっに、」
なにか言おうとしてふと声が、中途半端にしか出ないことに気が付いた。気がついたら、泣きたくなった。
「ああああ……ぁ、あ」
ぼろぼろと涙が溢れてくる。目がいたい。
顎をつかまれ、なっちゃんの方から口を塞がれる。
「ん、ぐ……っ、ぅ」
「好きだ。ごめんな。気付いてやらないふりをしなくて」
「っ、ゃ、」
「俺は、自慢じゃないけど察しはいい方だと思ってた。でもそれがお前には不安だったから、避けてたんだ。そんなことも、わからないなんて」
なっちゃんが、なにか言っている。
右から左に、流れていく。
「っ、て……ぁ、う」
なっちゃんは、何を言っているんだろう。
どうしたんだ?
「ひ、っ……」
ぼろぼろと涙だけが止まらなくなる。
なっちゃんは心配ないよというふうに俺を見ていた。
見下ろされて逆光になり、その大きな影が俺にかかる。
怖い。
「ぁ……お、れ」
「保健室の先生から聞いただけだけど、緘黙(かんもく)症っていうのと失語症っていうのに近いかもしれないって」
精神的なショックからなることもあるとなっちゃんは言った。
吃りとはまた少し違うものだ。
不安があるときはうまく声が出なくて、そうじゃないときは、淀みなくしゃべることが出来るからだ。
……小さい頃も、なったな。
病院には受診しなかったし、病気だと思わなかったけど、たぶんそれだ。
コミュニケーションとしての軽い挨拶とか、事務的な言葉だけはすらすら出てきた。
なのに、他のことは、ほぼ話せなかった。
「……」
なっちゃんに、俺病院行った方がいいかなと言いたかったけれど、なんて表していいかわからなくて、しゃがんだまま、じっと腕を掴んで見上げた。
「い、い?」
「ん。何?」
「俺、あの、みて、えっと、遠いから、じゃなくて……バスが、っ」
単語がまとまらない。
頭の中にはあるのに。
「せんせい、が、……しゃべらない?から」
なっちゃんは、俺が何が言いたいのかとじっと見つめたまま、穏やかな目をしていた。
泣きそうになると、泣くなよ~ と笑いながら背中を撫でてくれる。
「っだ、から、心配。です?」
伝わらなかったようで、なっちゃんが紙の切れ端と、鉛筆を持たせてくれた。
「俺は病院にいった方がいいですか、でも病院は遠いからバスに乗らなきゃいけないから一日では行けないし、あ、予約しなきゃいけないし、電話かけたり何があったか口で伝えるのに不安がある」
しゃべるのがうまくいかないぶん、文字ならすらすらと書くことができた。
なっちゃんから帰ってきたのは、曖昧な微笑みだった。
「たぶん、表沙汰には出来ないんだ」
「おもて、ざた」
「行かない方が良いと思う。お前、前に河辺につきまとわれてただろ?
その付き合いでなんかあったんじゃないか」
俺は頷いた。
間違ってはないのだ。
「噂だが、あいつの家、結構大きな製薬会社とからしい」
「……れは」
なっちゃんはあきれたように続けた。
「帰る途中、俺らのあとをついてくる人がいた。なんか手慣れててさ、ああいうのに、毎日行動を見張られてるんじゃない?」
「なん……で」
たぶん、俺に気を遣って『本』には触れずに話してくれているんだとわかった。
なっちゃんはカンベと俺の関係にどこかで気がついて、それでついてくる人にも気がついた。
だからもし圧力をかけられているなら、下手に病院にも行けない、手が回ってるかもしれない、そう心配してるんだ。
病院関係の人が、データをあちこちに回すときも場合によってはあるのだろうし……
「少し、疲れただけなんだろ? ちょっと休もう」
俺は、でも、どこにも行けないんだろうか?
通院も、就職も、圧力をかけられてままならないまま、個人情報だけ握られるんだろうか。
病院が好きなわけでもないし、学校が好きなわけでも、忙しく働きたいわけでもない。だけど、行く先々で妨害するつもりだったら……『口止め』が出来ないからと、代わりに常に監視し続けるのだったら。
生きたしかばねだ。
俺が別の関係ない、仕事についたって、常にそいつの弱味を握ることになる……
だから、カンベを守るために、そいつのために動く利益を守るために、俺が名を出すようなことは全部邪魔するだろう。
もはや、ノートだけじゃなく俺自体があいつの障害なんだ。
常に見張っておいて、常に邪魔をして、常に嫌がらせを続けないと気が済まないだろう。
やくざみたいだと言った木瀬野さんの言葉を思い出す。
群れは、強いときは強くて、弱味があればドミノ倒し。どこかで割りきった自立した部分も持っていないと組織に飲まれてしまうし、それはごく僅かだから他人のせいにするだろう。
その彼らからも逆恨みされるのを考えたら、途方もなかった。
それを叶えてもらうために、口封じされそうなことはあちこちに喋ろう。きっと、まずいと思った誰かが刺しにくる。
生き甲斐にしよう。
元気が出てきてなっちゃんにメールした。
「今度遊園地にいかない?」
なっちゃんからはすぐ返事が来た。
「大丈夫か? 怪我とか」
「とかって、なに?
いくの、いかないの」
「いつ」
「こんどの土日とか」
「いいよ」
案外未練なんて言ってる場合じゃないかもしれない。俺は、もしかしたらいつ死ぬかもしれないと、ふと考えたらわくわくした。
新しいノート。それは俺自身という札束だ。
道にいる怪しそうな人が居たら石を投げつけてみたい。すぐ怒って、殴り付けるかもしれない。どうせ誰かに見張られてるなら、近付いて行って「ご苦労様でーす」と挑発して帰るとか。わりと自殺より早いかもしれない。
「おきて」
囁く声。
「おーい」
ゆさゆさ、と身体を小さく揺らされて目を開けたら、ベッドに寝ている俺をなっちゃんが起こしていた。
あれ?
首もとに抱きつきながら寝ぼけたまま俺は言う。
「今なんじ」
「6時。まだ今日のままだよ」
鵜潮が帰って少し寝てたら、来たらしい。
「勝手に……入るなよ……」
眠いまま言うと、なっちゃんが「お前寝ぼけたまま、いいよー、って返事したよ」と言った。記憶にない。
「なにしに来たの」
「いや、なんか、昨日、心配」
だったからさ、を言う前に、口を塞ぐ。
うるさい、聞きたくない。
「んっ」
なっちゃんが目を見開いたまま硬直する。
「心配なんか何もない」
しばらくして離れてから俺は言う。
「でも、お前、いつも一人で抱えて」
「なっちゃんには俺を背負えないだろ!」
思わず強く言うとなっちゃんは目を丸くした。
「たとえば俺が病気だとか聞いたとしても、なっちゃんがそうなるわけじゃない! 背負えない話をしても、誰一人救われないんだよ!」
「そっか、そうだな!」
なっちゃんは納得してくれた。
「背負えないようなことなら、まぁ、元気になるまで待つよ!」
「なっちゃんありがとう」
なんだ最初からこういえばよかったんだ!
俺はようやく気付いたことに脱力したような安心したような気がした。
心配されるのが嫌なんじゃなくて、話したくないのに『話せば楽になる』を強制されるのが嫌なんだ。
でもなっちゃんは待ってくれると言った。
なら、それでいい。
「俺は別に、なにか抱えているわけじゃない。誰だって悲しいときがあると思うしそういう時期だよ!」
安心してほしくて言うと、なっちゃんはほっとした表情になった。
「遊園地ってなんねんぶりかなー、ディズニーとかも3、4回くらいしかいかないし」
なっちゃんがしみじみと言う。
「嘘、俺、ディズニーランドは一回しかいったことない」
人がならびまくってて、正直、アトラクションに乗ったよりも待ってた間のイメージがつよいので、もう何回かいきたい。
外を夜遅くまで歩いてて、部屋に帰ってきた頃にはなっちゃんは居なくて、またな、と書いた紙だけがあった。
あまり眠れないまま、寝た。
朝、目が覚めてすぐに、カレンダーをみる。
遊びに行く日が近づくのを感じるたびに俺は楽しみだなと思えると昨日は信じていた。
「……」
この朝もそのはずだった。
なのに、現実が頭を占め始める。
遊園地は公の場。
図書館ですら行けなくなった俺に、行けるはずがない。昔の調子で明るく提案したものの、それと、今の状態とのギャップは簡単に埋まらないことを、冷静になって理解した。
行く、行かない、どころか。
『休みたい』だけが、沸き上がってくる。
怖い。休みたい。行きたくない。無理だ。
学校に着いても上の空で、俺はひたすらに目を閉じて寝たふりをして、なっちゃんが何か話しかけてくれても避けた。
行けない。
自分で言ったのに。
待ちに待ったはずの当日が来ても、俺は楽しくなれず、着替えもせず部屋に居た。
無気力で、全身から、力が抜けそうなくらい、ぼーとなって布団をかぶってそのまま踞る。
やる気がしない。なっちゃんにも、誰にも会いたくない。遊びに行くなんて言わなきゃよかった。
やがて着替えるだけはしよう、と机の上に用意していた服に手を伸ばす。
けれど着替えたら着替えたで、出掛けなくちゃならないことが、頭を不安でいっぱいにした。
待ち合わせ時刻をとっくに過ぎた頃に携帯の電源を入れたら、着信が20件あった。
「いまどこ」
電話をかけなおしてすぐに、なっちゃんが聞いてくる。
「家だよ」
俺はそのまま答えた。
「はぁ!? 寝過ごしたの」
「……ごめん」
俺は、何を言えばいいかわからない。
早起きした。服も用意した。でもでかけたくはなかった。
「落ち込んでるって言ってたやつか。
俺にできることある?
遊園地は。
待ってるんだけど」
なっちゃんが、返してきたのはそんな言葉。
やっぱり行かないと、と立ち上がる。
もったいないし、申し訳ない、まだ間に合うだろうか。
なるべく、出掛けることを意識しないように靴を履いて鞄を持ち、俺はふらつく足どりでドアを開けた。
歩道を進んでいると、黒いジャージの男子たちがずらっといて、ぴっぴっ、という笛の音に合わせて列になってジョギングして横切ってくる。
「うわ……」
ぴっぴっ、ぴっぴっ、ぴっぴっ。
集団が通りすぎて、道路のそばで信号待ちをしていると、おばあさんが、今日は何曜日かと話しかけて来たりした。
こんな日にかぎって、なんで絡まれるんだろう。
動画サイトの話をする女子高生が、後ろから歩いてくる。
気楽なかんじで、いいな。
前方からは、また黒くて薄い形の車。
中の人がにたっと笑ってクラクションをならす。……なんなんだ。つーか誰だよ。
知らない車だったなぁなんて思いながら、携帯を出して車のマークを検索してみる。
ワシとか鷹みたいな、鳥のマークがエンブレムみたいなやつだった。
「うーむ、それっぽいのが見つからない」
こうして歩いていると、なんだか、歩ける気がしてくる。
なっちゃんは知ってるだろうか。聞いてみようかななんて思いながら、俺は信号が変わるのを待った。
「落としたんで拾ってもらえますかー」
横から何か飛んできたと思ったら自分で拾えるだろって感じのおっさんまで後ろから声をかけてきた。
さっき彼が投げた腕時計を渡す。
その後も、まるで意図的に誰かが邪魔してるかのように、あちこちで人が絡んで来た。
「なんなんだよっ!」
少し走り気味で先へ急いでいると、町並みの風景を撮っていた風なジャケットの男がちらっとこちらを見てくる。
撮られる、と反射的に、なぜか感じた。
俺にはストーカーが居る。
それが誰かは知らないけど、部屋を立ってから戻るとノートに開いた後があったり、誰にも告げなかった買い物先に、同じ時刻に居るやつがいる。
気味が悪かったが、日に日に慣れてしまって、最初のうちは警察にしていた相談も、「侵入が証明できないんじゃあねぇ……」と鼻で笑われてからは、どうでもいい気がしてしなくなった。
なんつーか、疲れた。
芸能人だったとかならわかる気がするが、よりによって、ただの平凡な高校生に、そんなことが起きてても、なんていうか、笑われるだけじゃないだろうか。
気晴らしに河辺にメールしてみた。
「変なのが沢山居るんだけど」
返信は来ない。
なっちゃんにメールしてみた。
「変なのってなに、今どこにいんの?」
「普通に家出てすぐの外。いろんな人が先々で邪魔してきて通れない」
「いや、考えすぎでしょ、芸人のスター気取り?」
考えすぎだったらいいのに。あ、もしかして考えすぎなんだろうか?
外にはちょうどポスターが貼られている。
スマホのアプリのGPS機能を使って、町中を探検してスタンプラリーをしよう! というイベントがやってるらしい。
あれだろうか。
少し、かなり、迷ってから、木瀬野さんにメールした。
「今のやくざって、イベント主催するんですか」
「あるかもしれないね」
どうしたの、最近、連絡なかったけど、と優しい言葉が続く。
嬉しいはずなのに、どこか、表面的なものを感じてしまう。
「人が、沢山、近所で、うろついてて……あれも、その人たちの仕業ですよね」
一方的に、聞きたいことだけが溢れてしまう。なんで、カンベが悪いのに、俺の生活まで邪魔をするんだろう。
「もしかして、そういうのが大変で、連絡とれないの?」
それだけでは、なかった。だけど、まぁそうですねと俺は濁す。
なっちゃんと出掛けるはずだったのに。
あんなに人が居て、しかもみんな、こっちをニヤニヤして見てる気がする。
「図書館や遊園地じゃなくたって、もう、無理かもしれない」
外に出られない自分を想像したら、自己嫌悪が酷くなる。写真を撮られないように、バッと背を向けて逆向きに走る。
『緑の会』とかかれたトラックが2台くらい近くに止めてあって、植木を運んでた。
違和感ありすぎだろ緑の会。絶対演技だ。
……ここまでするだろうか?
なんで、カンベなんとかが話題になるくらいで俺がこんな目に合うんだか。
何も考えたくなくてひたすらに走った。遊園地に行くどころじゃない。
許せない、赦されない。
あんなやつを、なぜ、のさばらせて居るんだろう?売れればなんだっていいんだな。
誰も来ないだろうと走ってきた先に、知った顔を見つけた。
「あ、どうしたの?」
どこかに行こうとしてたのか、外に出てきたばかりといった感じの木瀬野さんだ。
周りを見てこのあたりが、図書館の近くだと思い出す。俺は近づいて行くか少し迷ってから無視して走った。道路に立ち止まる。トラックが近づいてくる。このまま死ねたらいいのに。
誰かが腕を引いて、歩道に戻した。
木瀬野さんだった。
「危なかったね、気を付けて」
「ありがとう、ございます」
「おでかけかな」
「いえ、散歩です」
嘘をつく。
心が痛んだ。
もう無理だ。
どこにもいけやしない。
次の日学校に行ったら、なっちゃんは普通に接してくれて安心した。
学校に居る間は、どこに居るよりも少しだけマシだった。
昨日の夕飯もうまく食べれなかった俺は昼に持ってきた弁当に味が全くしなくて、このときのために持参したカラシを炊いたお米に沢山かけた。
「おい、なにやってる」
なっちゃんが驚いた顔をする。よくわからない。
「それ絵の具だぞ」
俺は無視して食べた。
変わった味はしたけどあまり辛くない。
昼休みになってもなにかする気にならなかった。なっちゃんはなにか用事らしくていなくて、食べ終えた後は、教室の窓から地面を見ていた。
ぼーっと窓を開けて、身を乗り出していたら、そのままどこかに浮いてって、自由になれる気がする。
「ああああああああああああああああああああああああああああー!!」
叫んでいたら、後ろからぐいっと軽く背中を押された。
「おい、ゴリラが叫んでるぞ!」
「ガタイよくないし、サルじゃね?」
「なんでもいいだろ、ゴリラ!」
「ほら、死ぬとこ見せろよ」
数人、わらわら集まってきて、邪魔だなと思いふりきって廊下に出た。
「あ!更新されてる」
女子がスマホを構いながら呟く。カンベのサイトか……
「うわ、主人公自殺未遂って……」
「最近急に病みキャラに変わったよね、前は腕切りそうじゃなかったのに」
なぜキャラが変わるか、その理由は俺だけ知ってる。
あいつ、またか……
気持ち悪い。
いつまで付きまとうつもりだ。
人の不幸は蜜の味というけど、目の当たりにすると腹立たしい。
こんなことまでネタにされるのか。
生きても死んでもネタになるのかと思ったら、俺に何が残るのかわからなかった。
自我が無いなら他人に好かれようがなにしようがなにも考えられない。なにもできない。幸せだのなんだの言えない。
誰と居ても、何をしても、死ぬことしか考えられなくて、身体の中が空っぽな気しかしない。
近くに気配がしたと思ったら、河辺だった。
誰にも目もくれず俺にまっすぐ向かってきた。
「……何か」
「裏切るなよ?」
「は?」
「なにも、言うんじゃないぞ。俺は、お前の家も家族も家族の職業もペットの名前もつきまとったから知ってるんだよ。
お前の親戚とも知り合った。
なにをするかわからないぞ」
今からあなたを脅迫します、か……
さらに、バカ姉と付き合ってるときた。
俺を追い詰めるありとあらゆる手段を持って、俺のノートを人質にとっている。
ゲスを極め過ぎ。
彼が友達がいない理由がよくわかった。
この負けん気の強さと、周りの見えなさは、関わり方を考えないといけない。
住む場所は?
職業は?
と、気になる相手のことならば、なんでも聞いて、周りにも話しまくる……まるで近所のおばちゃんだ。
なんて面白がってたら吐き気が急に込み上げてきて、トイレに駆け込んで吐いた。
ああ、あれ、からしじゃなかったんだ。
カンベのサイトを見ると、確かに自殺しようとしてることまでネタにされていた。
なぜ脅迫されてるんだろう?
俺がネタばらしすることが怖いという意味にもとれるし、どうとでもなるという意味にもとれる。「大丈夫だったか?」
「うん、少し疲れただけなんだ。休んでごめんね」
「俺も浮気なんて言ってごめん」
……。
目が覚めると、地面に顔がついていた。
なっちゃんが、俺に携帯の画面をつきつけている。
「これ、なんだよ」
そこにあるのは写真。
そこに居たのは、木瀬野さんと俺。日付は昨日で隣あって歩いている。
「誰だ、こいつは」
あぁ、意識が戻ってきた。トイレから出てきたくらいで人気のない場所に引っ張られていって。
俺は木瀬野さんのことを聞かれてパニックで、頭が回ってなくて。
ただ謝っていた。
もう生きたくない。
殺してくれ、苦しい。こわい。助けてくれ。
ごめんなさい。
生きててごめんなさい。
「うあああああー」
自分が何をしているかはよくわからない。
腕が赤かったことしかわからない。身体がなんとなく痛かったことも。
「――かはっ、―――あ、アアアアアアア」
口から、飲み込まなかった絵の具が出てきた。
変な味がする。
「アハハハハハハハ!!」
とても楽しい気持ちになった。
遊園地に行こうとしたんだけどいろいろあってね、それで、知り合いにあって、そうそのひとなんだけどさ……
なっちゃんは、俺が話しかけているのに、何も答えてくれない。
青ざめている。
前々から様子がおかしかった秋弥を気にかけていたつもりだった。
けれど、もしかしてそれがプレッシャーにもなっていたのだろうか。
いきなり、遊びに行こうと言った彼を少し安心した俺も俺だ。
まさか状態がその逆だったなんて。
俺が見ていないところでなにがあったのか。
今は、笑いながら崩れた言葉を俺に伝えてくる。
「おれ、ない、しあしてえんいこうとたんだけど」
「なんて?」
「っい、んえちに、ね、ておくれ、あから、ろ、どうに、がけい、てたから」
いつ切ったのか、切ったばかりの傷跡をえぐってしまってて、左腕からは血がだらりとこぼれていたし、突然地面に倒れたから頭を打ったのか、少しふらふらしていた。
なのに、笑顔を向けている。
俺のために笑ってくれているのだと思うと嬉しかった。
ぎゅうう、と抱き締めると、前よりも体重が軽いことを感じた。
少し痩せてきている。
青ざめてしまう。
「ちゃんと、食べてないのか?」
「っ、んだよ、って、た、よ。べて、ゃ、んう、と」
何をいっているのかは、よくわからなかった。
けどたぶんまともに食べようとはしてないだろう。
腕の力を緩めたら自分の首を絞めようとするので、しばらく抱き締めていた。
「お前は、よくやったよ」
壊れたんじゃない。
俺や周りに何も見せないように努力した結果だから、尊重したいと思えた。
ぱくぱく、と、秋弥の小さな口が動く。
目から一筋滴がこぼれた。
「最初から、こうすれば良かったんだな」
疲れたのか、秋弥は俺にしがみついたまま、ゆっくりと目を閉じている。
「俺が、お前の居場所になれないだろうか」
腕の中で安心を探すみたいに、動きを変えてひっついてきている彼を改めて抱き締めて、額に口づけた。
学校に行ってたはずなのに、帰されてしまった。気がつくと、なっちゃんの家の部屋の中で、俺は授業がまだあるっていうことを 彼に訴えた。
さっきまでのことが、なんだかぼんやりにじんでる。
「まだ、じゅぎょ……が」
俺が言うけどなっちゃんは俺を抱き締めたままだった。
そう、昼からずっと。
そんなにそういうコトがしたいのかとあきれたけど違うみたいだ。
「なっちゃ、ん」
カリカリ、と彼の腕を小さく引っ掻く。
「っちゃ、ま、……だ、がっこ、」
なっちゃんは少しして俺に気付いたのか、抱き締めながら言う。
「学校? 今日は早退。俺も許可出たし、お前も」
家になんか帰りたくない。
姉に会うかもしれないし、母も、腫れ物を扱うみたいな目をし始めた。
いづらいよ。
俺、学校にいたい。
「や、だ……」
「今日は、俺としばらくゆっくりしない?」
「っ、ぁあ! やだあ!」
ばたばたと暴れるが、なっちゃんは俺をしっかり抱き抱えただけだった。
「好きだ」
「アアアアアアアアアアアアア――――――」
要らない。要らない、要らない。要らない。
学校に戻る。
自分の物とは思えないようなつんざくような悲鳴を聞きながらなっちゃんを押し退ける。
腕があたって、目についた本棚から、ばさばさと本が降ってきた。
それを見てまた嫌な気分になった。
バカ姉が居なかったらよかったのに。
急に、それが浮かんでくる。せめてあいつさえ居なければよかったんだ。
そしたら、俺が疑われることも殴られることも
まるで『絶望ノート』
を書くこともなかった。
「あいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのにあいつさえいなければよかったのに」
俺も居なければよかった。
あいつが死ねばいいのに。
俺が、
「―――――っ―――ぁ」
ずきん、と頭が痛んだ。昔にもあった。
ビリビリと電流が流れるみたいな痛みとかゆみの間みたいなのと、鈍痛が交互にやってきて、数ヵ月身体がつらかったのを思い出す。
景色が歪む。
なっちゃんがどうして抱き締めるのかわからない。
なんで授業にいっちゃだめなのだろう。
中学からなんとも表現できない不調に悩まされ始めて、だんだんと、身体がつらくなっていって、診断してもらう度に、何にも書かれてない紙をもらったあの日々を思い出す。
小バカにしたような目で見下ろした医者から、精神科や心療内科を紹介されて、ぜんぶ俺がわるいみたいで。
妄想ですよ、なんて片付けられて……
俺は、自分自身が妄想かもしれない、と考えることが嫌だった。
だけど『そう』としか誰も見てくれなかった。
『あの人』に会うまで、俺は、
混乱したまま、俺は学校に戻ろうと立ち上がる。
なっちゃんが抱き締めてきてじゃまだから振り払う。
「、い、ぁ、て、が、うっに、」
なにか言おうとしてふと声が、中途半端にしか出ないことに気が付いた。気がついたら、泣きたくなった。
「ああああ……ぁ、あ」
ぼろぼろと涙が溢れてくる。目がいたい。
顎をつかまれ、なっちゃんの方から口を塞がれる。
「ん、ぐ……っ、ぅ」
「好きだ。ごめんな。気付いてやらないふりをしなくて」
「っ、ゃ、」
「俺は、自慢じゃないけど察しはいい方だと思ってた。でもそれがお前には不安だったから、避けてたんだ。そんなことも、わからないなんて」
なっちゃんが、なにか言っている。
右から左に、流れていく。
「っ、て……ぁ、う」
なっちゃんは、何を言っているんだろう。
どうしたんだ?
「ひ、っ……」
ぼろぼろと涙だけが止まらなくなる。
なっちゃんは心配ないよというふうに俺を見ていた。
見下ろされて逆光になり、その大きな影が俺にかかる。
怖い。
「ぁ……お、れ」
「保健室の先生から聞いただけだけど、緘黙(かんもく)症っていうのと失語症っていうのに近いかもしれないって」
精神的なショックからなることもあるとなっちゃんは言った。
吃りとはまた少し違うものだ。
不安があるときはうまく声が出なくて、そうじゃないときは、淀みなくしゃべることが出来るからだ。
……小さい頃も、なったな。
病院には受診しなかったし、病気だと思わなかったけど、たぶんそれだ。
コミュニケーションとしての軽い挨拶とか、事務的な言葉だけはすらすら出てきた。
なのに、他のことは、ほぼ話せなかった。
「……」
なっちゃんに、俺病院行った方がいいかなと言いたかったけれど、なんて表していいかわからなくて、しゃがんだまま、じっと腕を掴んで見上げた。
「い、い?」
「ん。何?」
「俺、あの、みて、えっと、遠いから、じゃなくて……バスが、っ」
単語がまとまらない。
頭の中にはあるのに。
「せんせい、が、……しゃべらない?から」
なっちゃんは、俺が何が言いたいのかとじっと見つめたまま、穏やかな目をしていた。
泣きそうになると、泣くなよ~ と笑いながら背中を撫でてくれる。
「っだ、から、心配。です?」
伝わらなかったようで、なっちゃんが紙の切れ端と、鉛筆を持たせてくれた。
「俺は病院にいった方がいいですか、でも病院は遠いからバスに乗らなきゃいけないから一日では行けないし、あ、予約しなきゃいけないし、電話かけたり何があったか口で伝えるのに不安がある」
しゃべるのがうまくいかないぶん、文字ならすらすらと書くことができた。
なっちゃんから帰ってきたのは、曖昧な微笑みだった。
「たぶん、表沙汰には出来ないんだ」
「おもて、ざた」
「行かない方が良いと思う。お前、前に河辺につきまとわれてただろ?
その付き合いでなんかあったんじゃないか」
俺は頷いた。
間違ってはないのだ。
「噂だが、あいつの家、結構大きな製薬会社とからしい」
「……れは」
なっちゃんはあきれたように続けた。
「帰る途中、俺らのあとをついてくる人がいた。なんか手慣れててさ、ああいうのに、毎日行動を見張られてるんじゃない?」
「なん……で」
たぶん、俺に気を遣って『本』には触れずに話してくれているんだとわかった。
なっちゃんはカンベと俺の関係にどこかで気がついて、それでついてくる人にも気がついた。
だからもし圧力をかけられているなら、下手に病院にも行けない、手が回ってるかもしれない、そう心配してるんだ。
病院関係の人が、データをあちこちに回すときも場合によってはあるのだろうし……
「少し、疲れただけなんだろ? ちょっと休もう」
俺は、でも、どこにも行けないんだろうか?
通院も、就職も、圧力をかけられてままならないまま、個人情報だけ握られるんだろうか。
病院が好きなわけでもないし、学校が好きなわけでも、忙しく働きたいわけでもない。だけど、行く先々で妨害するつもりだったら……『口止め』が出来ないからと、代わりに常に監視し続けるのだったら。
生きたしかばねだ。
俺が別の関係ない、仕事についたって、常にそいつの弱味を握ることになる……
だから、カンベを守るために、そいつのために動く利益を守るために、俺が名を出すようなことは全部邪魔するだろう。
もはや、ノートだけじゃなく俺自体があいつの障害なんだ。
常に見張っておいて、常に邪魔をして、常に嫌がらせを続けないと気が済まないだろう。
やくざみたいだと言った木瀬野さんの言葉を思い出す。
群れは、強いときは強くて、弱味があればドミノ倒し。どこかで割りきった自立した部分も持っていないと組織に飲まれてしまうし、それはごく僅かだから他人のせいにするだろう。
その彼らからも逆恨みされるのを考えたら、途方もなかった。