ノート

side 木瀬野

 彼は、俺とやや距離を開けて隅の方にちょこんと座った。
突然連絡が来たかと思うと、今度は不安があるらしい。

いつも楽しそうにしているように見えたけれど、彼はとてつもない不安定なものを抱えている。


 そのギャップには僕ととても近いものを感じた。

人は常になにかルーティンを作る。
物の位置が同じでないと、パニックを起こしてしまうとか、必ず朝はこれを食べるとか、そうすることが心を守る。

彼は、いつも通りにニコニコしていつも通りに周りと話したり話さなかったり、その精神状態を産み出すこと自体がそれなんだと思う。


少し席を立ち携帯を開いた。

「カンベ」と書かれたアドレスからのメール。
僕が送った質問の答えがある。
友人と話をしたあと、
それと別に送ったのだ。
「いつもと違う彼が、俺にしか見せない姿が見たかった」

それが、書いてあった。
しかし恐らくそれは、存在しないのだろう。
彼の『本当の』心、それはノートの話を聞かせてもらった限り、もう粉々で使いようがないものの感じがした。

だから、今のようになっていったのだろう。
無関心で無気力で、たまに自分だけの楽しみがあるような。

『みんなに見せている姿が、本当の彼なんだよ。ああやって笑って誰とでも関わることが彼を保っているんだ』

僕は率直に書いて送った。ばかだな。と思う。
心を保っていたものを根こそぎ奪ったから、

彼は『本当の』、『もともと』、『誰にも見せない』今のぼろぼろの残骸みたいな心で過ごさなくてはならなくなった。

目は虚ろだし、ときどき、しゃべったつもりで口だけしか動いてなかったり、何か、話してくれてるらしいが、
文法が、時おりぐちゃぐちゃになっていた。

見ている限り、
言われていることなどは理解しているし、恐らくはストレスにより、気持ちが言葉となるための信号が乱れてしまったのだろう。
それに、ときどき、答えやすそうな会話にはちゃんと話している。
やはり会話が成立するかは負担の割合らしい。

「俺、みたい、にてる、で、……ひどい?」

彼が聞いてくる。
よくわからなくて、僕は微笑んでいた。

「ゆっくり、言ってくれるかな」

 彼が話す内容を丁寧に聞いて頭の中で噛み砕いて理解する。

怖いから、誰かを繋ぎ止めてしまう、愛想よくしようとする心理はまるで誘拐犯と過ごすような心境で、常に他人といるという想像すると悲痛なことだった。

「あ。 それから、ですね」

今日も外を歩いていて知らない男子高校生たちに囲まれた彼は「知的障害者!」と言われたらしい。すぐ、そういうからかいかたをする輩がいる。
恐らくカンベか誰かが金銭を渡して仕向けたのだろう。
本来あるべきでない邂逅。いわば、『間違い』である『状況』を認めることは彼の心を深く傷つけることは想像ができた。
責任者でもなんでもない相手が会いになんか来たら罵倒して、殴り付けて二度と近づきたくなくなるようにしたくなる自分が怖い、と彼は語った。
 著者のことには近づかないで気持ちを吐露する場だから、彼はそれが大事だったのだろう。
それが、自由な自分の姿を、リアルで知られた途端にどこか汚されたような落ち着く空間でなくなる。

だからこそ、ネットなどでも匿名というものが流行ってきたことにたいして、最近、その風潮は乱され、汚れつつある。

匿名の相手とは距離感がわからない、気持ちを制御出来ない、
顔が見えないぶん自由に発言してしまう。
 というのは、『現代病』なのだとテレビでやっていた。
『他人との距離がわからない』ことのトラブルも増えているらしい。
 彼はまさにちょうど、他人との距離を無くされその『わからない』相手の餌食なのだ。
「匿名、なら、いい、です」

え? と僕は彼を見上げる。不安そうな目をしていた。

「俺、今、現実、まざってしまって、話、と、架空が、リアルすぎてその境目、が、同じになったら、心、ぜんぶなくなる、気がする」

現実にいると自覚して、切り離すためには、現実と架空に確かな落差をもうけなければならない。それが彼は歪みきっていた。
毎日鏡の前で『お前は誰だ』と問い続けると精神崩壊するという話があったが、周りがしたのは実質それなのだ。

ひとつひとつは大したことなくても、世界中に散らばれば、至るところに目につく。
なんて惨いのだろう。


「えっと……」

ネットとかからなら、名前とか、使わないで、できるんですよね?
というようなことを、彼は言った。
秋弥って名乗らなくていい場所、ここから切り離してくれる『現実』がほしい。

ぽろぽろと涙をこぼして彼は訴えた。

――それで俺を秋弥って呼ばない人から、その名前だけで呼ばれてみたい。




死ぬ前に、もう充分だと一瞬感じられるくらい『普通に』生きとおして、誰からも俺がわからない、なのに、たしかに俺だとわかる形で生きてみたい。

「ゲームのなかでは最強の勇者でも、

家では地味な服で地味にゲームをしてる。

そういう、落差をふたつもつのに、憧れる、です」


どちらかに疲れたら、どちらかになって休み、また両方をこなす。


それが、生きてるという本質。

『現実にいる』なのかもしれない。

彼は周りが当たり前にやっている、現実と架空、の二つをことなるかたちをどうにか、差別化をはかり、もつことを、今強く必要としていた。
自我を守るにも、それしかない。


そのために匿名で、『たしかに自分が書いた話だ』と他人にもわかるのをつくりたい。いまの経験を、発表したい、と彼は言った。
そのために僕にできるのは何なのだろうかと聞いた。

聞かれたこと、否定されることをただ、証言して、正しいことを保証して欲しいと彼は言った。
 そんなのは嘘だと否定されても、確かに見てたよと、自分が落ち着けるように。
あの場に居たのも、そのときをしっているのも、木瀬野さんくらいだからだ、と。

「自分をどう保ってたか、わからなくて、嘘だって吹き込まれたら、たまに、本当にそうだった気がしてしまって」

現実だったのか嘘だったのか正しいはずなのに、わからなくなりそうだという不安定な状態。

「もちろんまちがってたら、それはそれで教えて欲しいんですけど、なんか、もうなにが、どこまで現実だったかも、俺がだれだったのかも。


たまに、ふっと翼が生えて飛んでいきそう。

俺飛べたよ! って。

全部、嫌なこと捨てて、
なんだか楽しそうに、あたりを走り回ったりするんじゃないかって」
「それと」

急だった。
ガッ、と胸ぐらを掴まれる。

「……俺は、ネタじゃない! 漫画も小説もアニメも要らない! 要らない! 要らないー!」

ボコボコと僕を殴ろうとする彼を、慌てて止める。
「落ち着いて」

「いい加減にやめろ! 著名だろうがなんだろうが他人を食い物にしてんだろ! 全部ゴミだろ!! なんでそんなのの保証しなきゃならないんだよ!! 太ももの打撲なんかどうだっていいだろうが! ちょっと殴られたくらいで事件になるなんて羨ましい身分だな死ねよ。

俺はそのくらいで心配されたことない!
だったら、殴られたい。
恵まれてるって、わかるから! 殴れば済むんなら簡単だろ」
僕は土下座をした。
彼はずっと殴っていたが別に構わなかった。

「すまなかった。きみは、知っているんだね。
僕が、漫画を書いててネタにしていたこと」

彼は何も言わなかった。混乱しているようで、どこか冷静なようでもあった。

「でも、あのままじゃ誤解されたままになるから……」

「だから? 誤解されたままなのなんか今に始まったことじゃない。

それより、なんでゴミがまたひとつ増えるんですか」


立場を利用した搾取だ。 それは永遠に変わらない。
「なにをネタにしていいかも、なんにも、知らされずに勝手に誤解を解く?

それは、単なるプライバシーの侵害に、正当そうないいわけしてるだけ」


もっともだ。
了承を得ずにやった。
誤解を解くなんて、
誤解されたままの方がバラされるよりマシなことだって、現実にはあるだろうに。

「本当は、もとネタとしての、価値が下がるからなんだ」
僕は、世間体と保身しか考えてなくて。
きみのプライバシーや、思い出の重さ、何をネタにしていいかって分別よりずっと、

誤解を解くことしか頭になかったんだ。

彼のことを思うようで、本当は自分のことしか頭になかった。
批難されて当然だ。



「推測で誰かが、適当なこと、言うくらいなら、自分で、言えます」

怒っていて、さらにめちゃくちゃな語彙ではあったが、彼はそんなことをはっきり言った。


「余計なこと、誰にも言われたくない、これからも俺は、ネタにされ続けていくなんて耐えられない!!」


そう。
みんな保身がしたいだけなんだよ。

君をネタにする西金だって、跡川だって、カンベだって、知らない誰かだって。
誰一人、君自身には何も言いに来ない。
当人からすれば似たり寄ったりだろう。
けれど、僕だけはせめて唯一、誠意を見せる存在でいようと思った。

「カンベとは、知り合いで彼から、回って来たんだ。
面白い『読み物』だって。
そのときはまさか、そのまま使うとは思わなかったけれど、許可があるって言っていた」


残念ながら彼の周りの誰一人として、本当の意味で彼について考えている人はいない。

「カンベは、きみのことは、仲良しだと」


「そんなやつ知らない。結局はみんな、俺を裏切ったんです」

彼は、ただ冷静に答えた。冷ややかな目をしていた。

「復讐する気かな」


「復讐?」

意味的に正しくないといっているのか、彼の目が軽蔑したようになった。
「へぇー、ちょっと気分を害したら復讐って騒ぐのが、やりかたなんだ」
「ずっと、謝ってください。他の人のぶんまで」

ガッ、と突き飛ばされて畳に投げ出される。
僕は仰向けになっていた。
「謝って、謝って、謝ってください、他の人はなにも言わないんだ。

でも、それを木瀬野さんなら叶えてくれるだろうから、これは甘えているんですよ? 誰も言わないのに、木瀬野さんは代表してくれる。嬉しいなぁ!」


あははははははははは!
あははははははははは!
あははははははははっ!

彼は高い声で大笑いした。自我が半分くらい乱れていた。だけど仕方がない。ここまでしたのは、僕たちなんだから。


 彼は、僕に足を伸ばして甘えた。
拳を突き立てて甘えた。ときどき、ぼろぼろと泣き、たまにあはははと笑い転げて甘える。
僕は、知った。
いや、思い出していた。

ああ、誰かに甘えるって、痛みを伴うんだ。
甘えられながら、甘やかしながら、僕は考えていた。
 素人がなにか言えば、全部演技と言われてしまうこと。何もしていないなんて言う気なのだ。
万が一プロにならないようにと妨害が酷くなるということ。

それは、つまり、とてつもなく邪魔が入る棘の道だろう。

「きみはどうやら、カンベの、今は山口県に居る友人ってことになっているけれど、証言するならそこからかい」

「……?」

彼は首を傾げた。
山口?

「それはたぶん、姉です」
彼は、いつだったか思い出したらしいことを告げる。




「山口に行くって言ってたし。姉の発言を、俺と混ぜたんだと思います」

それか、何か適当に、彼が誤解したんだろうか。
それか、近所に住む、安田っておばさんか。外で話してたし、山口って単語だけ盗み聞きされ取り違えて何かあやふやな噂をしてしまったのかも。
と彼は僕に甘える手を止めて不思議そうにした。
手が止まったすきに、
僕は、彼を見つめた。
傷ついた顔。

誤った。


と思った。頼まれずとも、何度も僕は、誤ってしまったんだ。

「ごめんね」

こんなに傷付くとは、こんなに身近だとは、思ってもみなくて、
ひたすらに、誤ってしまったことばを、重ねていた。


「ごめん、なさい」

これからきっと何度も、何度も誤るのかもしれないのに、僕は、秋弥君に許されたかった。
許されなくたって、もう少しだけ、話をしたかった。



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