ショウワな僕とレイワな私
数日後、清士はいつも通り大学に向かっていた。戦争の影響で講義が縮小されているとはいえ、全てを削られたわけではないし自主的に勉強することもできるので、何事もなく講堂を目指して歩いていた。ただ、気持ちは晴れ晴れとしない。咲桜のことが心配だが、何かできるわけでもなく、むしろこんなことを考えている自分が嫌になる。そして日に日に近くなる「その日」の足音を感じるのであった。
「清士、何だか浮かない顔をしているなあ」
隣にやってきたのは同級生の正治であった。少しお調子者で愉快なところのあるこの男は、清士の姿を見て小走りで構内に入った。
「何かあったかい」
「別に、何でもないよ」
短い言葉がポツリポツリと清士の正治の間を流れる。
「何だよ、その顔は絶対に何かあったと思ったのに、僕に言ってくれないんだな」
「何でもないったら何でもないんだよ」
清士は若干距離の近い正治が鬱陶しくなった。今は誰とも話したい気分ではなかった。講堂に入ると、すでに教室には6割ほどの学生が座っていた。何だか今日はざわついている。
「騒々しいな、何かあったのか」
正治はキョロキョロと辺りを見渡した。
「─昨日、赤紙が来た奴がいるらしいぞ」
講堂にいる誰かの囁き声は、清士の耳にはっきりと届いた。ついにその日が来てしまった、終わったと思った。筋肉が緊張して体が強張るのが分かる。鉛筆を持つ手が震えた。
その日の講義は全く耳に入らなかった。ただ、頭の中には「ついに来てしまった」ということだけが渦巻いて、勉強に身が入らなかった。普段はどこかの教場を借りて自主勉強をする清士だが、この日は講義が終わるとすぐに家に帰った。
家に戻ると女中のふみが出迎えてくれる。
「お客さんが来ていますよ」
「僕にですか」
清士は誰が来たのか見当がつかなかったが、ふみに促されるまま応接間へ進む。
「清士兄さん、お邪魔してるわ」
部屋にいたのは、上品な紺のワンピースを着た若い娘であった。成田家と古い付き合いを持つ松原家の令嬢で、清士にとっては幼馴染であり最早親戚のような存在だ。
「やあ、春子ちゃん」
さっと立ち上がった春子を見て、清士はすぐにその人が誰か、どうして家に来たのかが分かった。
「今日は一体どんな用事だい、まさか縁談話じゃあないだろうな」
春子はアッと驚いたような顔をした。
「あら……私、清士兄さんの出征が近いと聞いてお訪ねしたのよ。昨日お父様から聞いたのだけれど縁談を前倒しするとか」
清士はため息をつきながら力なく笑った。あの親父、縁談は断ると言ったのに他の人に言ってやがる。これからこんな人が何人も自分を訪ねてくるのだろうか。
「僕は断ったのだがね。結婚せずに征くつもりだよ」
「どうして……清士兄さんはこの家の跡取じゃないの。きっと戦争に行く前に結婚した方が良いわ。私でよければ、お嫁に貰ってくれても……」
春子は清士にすっかり惚れてしまっていた。端正な顔立ちにすらっとした姿勢、謙虚なところ、真面目なところに惹かれていた。しかし、そのようなことをつゆ知らない清士は、突然に気が引けた。
「良いかい、僕は誰とも結婚しない。春子ちゃんには悪いが、誰一人として嫁に取るつもりはないから、もう帰ってくれ」
「……酷いわ」
春子は涙ながらに帰っていった。
「清士、何だか浮かない顔をしているなあ」
隣にやってきたのは同級生の正治であった。少しお調子者で愉快なところのあるこの男は、清士の姿を見て小走りで構内に入った。
「何かあったかい」
「別に、何でもないよ」
短い言葉がポツリポツリと清士の正治の間を流れる。
「何だよ、その顔は絶対に何かあったと思ったのに、僕に言ってくれないんだな」
「何でもないったら何でもないんだよ」
清士は若干距離の近い正治が鬱陶しくなった。今は誰とも話したい気分ではなかった。講堂に入ると、すでに教室には6割ほどの学生が座っていた。何だか今日はざわついている。
「騒々しいな、何かあったのか」
正治はキョロキョロと辺りを見渡した。
「─昨日、赤紙が来た奴がいるらしいぞ」
講堂にいる誰かの囁き声は、清士の耳にはっきりと届いた。ついにその日が来てしまった、終わったと思った。筋肉が緊張して体が強張るのが分かる。鉛筆を持つ手が震えた。
その日の講義は全く耳に入らなかった。ただ、頭の中には「ついに来てしまった」ということだけが渦巻いて、勉強に身が入らなかった。普段はどこかの教場を借りて自主勉強をする清士だが、この日は講義が終わるとすぐに家に帰った。
家に戻ると女中のふみが出迎えてくれる。
「お客さんが来ていますよ」
「僕にですか」
清士は誰が来たのか見当がつかなかったが、ふみに促されるまま応接間へ進む。
「清士兄さん、お邪魔してるわ」
部屋にいたのは、上品な紺のワンピースを着た若い娘であった。成田家と古い付き合いを持つ松原家の令嬢で、清士にとっては幼馴染であり最早親戚のような存在だ。
「やあ、春子ちゃん」
さっと立ち上がった春子を見て、清士はすぐにその人が誰か、どうして家に来たのかが分かった。
「今日は一体どんな用事だい、まさか縁談話じゃあないだろうな」
春子はアッと驚いたような顔をした。
「あら……私、清士兄さんの出征が近いと聞いてお訪ねしたのよ。昨日お父様から聞いたのだけれど縁談を前倒しするとか」
清士はため息をつきながら力なく笑った。あの親父、縁談は断ると言ったのに他の人に言ってやがる。これからこんな人が何人も自分を訪ねてくるのだろうか。
「僕は断ったのだがね。結婚せずに征くつもりだよ」
「どうして……清士兄さんはこの家の跡取じゃないの。きっと戦争に行く前に結婚した方が良いわ。私でよければ、お嫁に貰ってくれても……」
春子は清士にすっかり惚れてしまっていた。端正な顔立ちにすらっとした姿勢、謙虚なところ、真面目なところに惹かれていた。しかし、そのようなことをつゆ知らない清士は、突然に気が引けた。
「良いかい、僕は誰とも結婚しない。春子ちゃんには悪いが、誰一人として嫁に取るつもりはないから、もう帰ってくれ」
「……酷いわ」
春子は涙ながらに帰っていった。