黒歴史小説 冬の蝉
第三章 「恋情」
3-1
バレンタインデーから三日が経った。
由香は同じ学校の先輩にチョコを渡そうとして拒否されたが、何故か、落ち込むこともなく胸を弾ませていた。
「おはよう、一ノ瀬君」
「ああ、おはよう」
下駄箱で上靴に履き替えていた守は気まずそうに由香の方を見た。
だが、決して目をあわせようとはしない。
「あ、一ノ瀬君……」
由香は目を見開き、驚いたという顔で守の顔を見つめている。
「ど、どうかしたのか?」
「今、『おはよう』って言ったよね?」
「え、ああ、言ったけど……」
「一ノ瀬君、初めてだよ! 『おはよう』って言ったの……スゴーイ! わらわは嬉しいぞよ!」
由香は嬉しそうに守の背中をポンポンと軽く叩いた。
「そんなに喜ぶことか?」
「当たり前だよ! 一ノ瀬君が朝のあいさつをするなんて卵一パック八十八円より、嬉しいことだよ!」
守は由香の威勢に圧されていた。
ここまではいつもと変わらない状景だが、守はかなり気まずかった。
というのも、三日前のバレンタインデーでの出来事で由香の不発に終わったチョコを自分が食べたことにあった。
チョコを食べた事というよりも、その行動から自分が由香に対し、異常なまでに心配していたというか、チョコを渡そうとした相手に嫉妬していたことを彼女に感づかれるのではと恐れていた。
いつも目を光らしている由香のことだ。
守は由香の目をまともに見ることすらできなくなっていた。
これが恋というものなのかと思ったりもしたがそのような発想はすぐに頭の中から排除する。
時折、鏡で自分の顔を見ると赤くなっているということがしばしばあった。
由香がニコニコ笑っていると口を大きく開けて、あくびをしている史樹が二人の前に現れた。
「ふぁぁ……よう、守に由香ちゃんとやら、どうかしたのか? ニコニコ笑ってよ」
由香が得意げに言う。
「ふふ~ん、知りたい?」
「え、なになに? 知りてーよ。もったいぶらずに教えてくれよ」
「ヘヘヘッ、実はね。一ノ瀬君が『おはよう』って言ったんだよ」
「は?」
史樹は事態がよくつかめない様子で首を傾げた。
「もう一度言ってくれねぇか。よくわかんねぇよ」
「だから、一ノ瀬君が『おはよう』って朝のあいさつをしたんだよ」
「な、なに! なんてこった……守が朝のあいさつをしただと! 切ない……いや、悲しすぎる! こりゃ、清純アイドルが歳とって、熟した女性とかいってヌード写真集を出すより、悲しいぜ!」
史樹はグッと拳を作って悔しそうに言った。
「な、なにを言っているんだ。お前は……」
呆れかえっている守を無視して由香は史樹に激しく反論した。
「違うよ。悲しくないよ! 嬉しすぎるってば!」
「いや、悲しいぜ……これだけは譲れないな!」
「なんで? 嬉しいよ!」
くだらない話題で由香と史樹の間に激しい口論が始まった。守はどうすることもできず、ため息をついた。そんなところに朝の日直の仕事を終えた夕貴が現れた。
「あ、由香ちゃん、おはよう。史樹もおやっさんも、みんな一緒でなにをやっているんですか?」
夕貴は目をパチパチとさせている。
守は焦った。こいつもこのくだらない話題に入ってくるかと思うと頭が痛くなる。
「赤穂さん、聞いてよ。相場君ったら一ノ瀬君が初めて『おはよう』って言ったのに悲しいっていうのよ。絶対、嬉しいことだよね!」
「いいや、悲しいことだよな!」
由香と史樹は夕貴に迫っていった。追いつめられた夕貴は困った顔で答えた。
「まあ、その……嬉しくも悲しい不思議な出来事ってとこかな……」
夕貴の曖昧な答えに由香と史樹は不満そうに顔をしかめた。
「なにそれ? 赤穂さん、一ノ瀬君があいさつをしたのよ。喜ばしいことでしょ? もっと真面目に考えてよ」
「そうだぜ、夕貴。マジに考えろよ!」
「そ、そんな真面目に考えることではないと思うんだけど……」
夕貴がそう言うと二人は更に激しく迫る。
「赤穂さん! 彼を更生させるチャンスなのよ!」
「夕貴! 俺達の渋いイメージの守が崩れちまうぞ!」
「そ、そんな……おやっさん! 助けてくださいよ!」
「知らん。後はまかせたぞ。俺は先に教室に行く……」
守は逃げるようにその場を去って行った。
「ちょ、ちょっと、おやっさん!」
「赤穂さん、まだ、話は終わってないわよ」
「そうだぜ、夕貴」
二人の気迫に夕貴はただ、頷くことしかできなかった。
*
放課後、守は廊下で有里 慶吾に出くわした。
「よう、コック殿。ご機嫌麗しゅう」
相変わらずの口調で守に話しかけてきた。
慶吾に気がついた守だったが、見て見ぬふりをしてその場を去ろうとした。
「おい、逃げるなよ。この前のハンカチのお礼でもしようと思ったのによ」
「フン、お前のお礼などいらん……ん? お前、怪我したのか?」
慶吾の右目には眼帯が着けられていた。
「ああ、これか? ちょっと、ケンカでな」
「ほう、さすがに不良は物騒だな」
「なんだよ。そりゃ、差別だぜ」
「まあ、気長に治してくれよ」
守は気を使いもせず、どうでもいいといった感じで言った。
「ひでーな。ああん、殿方の胸で癒されたいわ」
「気味が悪いからその口調はやめろ!」
「え、そうか? 俺の得意技なのに……じゃあ、俺はこれでな」
慶吾はなぜか、慌しく去って行った。気のせいか、いつもの彼らしくない。
ボーッと慶吾の後ろ姿を見ていると背後に人の気配を感じ、振り返ると三人の男子生徒がこっちを睨んでいた。
「おい、お前。二年の一ノ瀬守だろ? ちょっと、顔貸してくれよ」
その男子生徒達はかなり高圧的な態度で守に言った。
守はなにか企んでいると悟ったがここで素直に頷かないと後で色々と面倒だなと思い、素直に従った。
「ついて来い」
男子生徒達は守をどうやら、ひと気のない場所へと連れて行こうとしているらしい。
守はなぜ、連れて行かれるのか、様々な疑念を頭に張り巡らせていた。
(有里慶吾と話していたのが悪かったのだろうか? それとも……まさか、この連中、マザーの追手か? いや、そういう風には見えない)
三人の後ろ姿からは制服ごしにたくましい筋肉が見える。どうやら体育会系の人間らしい。
「よし、ここだ」
守が連れてこられたのは本当にひと気のない場所で、学校の裏庭にある今では使われなくなった古ぼけた焼却炉の裏側だった。
「で、俺に何の用だ?」
「何の用だと? ふざけやがって! てめぇ、三日前に同じクラスの品田由香が俺に渡そうとしたチョコを食ったそうだな。しかも、クラスの人間が見ている前で」
その男子生徒は額に血管を浮き上がらせ、焼却炉を蹴った。
「ああ、あのことか。それがどうかしたのか? だってあんたは品田が渡そうとしたチョコを拒んだのだろう? だったら食べてもいいんじゃないのか?」
「そういう問題じゃねぇんだよ! いいか、品田は俺に渡そうとしたんだ。俺が断ったとしてもそのチョコも、品田も、俺の所有物なんだよ。しかも、てめぇはクラスの人間達の目の前で食ったんだろが? いい恥さらしだぜ」
「あんたの言っている事は矛盾している。所有物なら、なぜ、断った? おかしいじゃないか」
由香はこんな嫌な奴にチョコを渡そうとしていたのかと思うと守は段々、腹が立ってきた。
嫉妬のせいか感情的になり、口調が強くなっていく。
「どうでもいいが、あんたは品田が好きなのか? 大事に思っているのか? ハッキリしろよ!」
守は言い切った後に少し後悔した。
この学校では極力、もめ事は避けてきたというのに、よりにもよって自分で自分の墓穴を掘るとは。
「あ? てめぇ、誰に向かって言ってんだ? 完璧、キレたぜ。どっちにしろ、てめぇをボコるつもりだったんだ」
三人の男子生徒達は事前に用意していた、バットやメリケン、角材などを焼却炉の中から取り出した。
「普通に殴ってると自分の手がイカれるからよ。道具でやらしてもらうぜ」
守はしまったと心の中で舌打ちをした。
常人である彼らの攻撃などはかわせるが全部、避けてしまってはまた後の報復があるかもしれない。
彼もこの学校で一年間、暮らしてきているのでこういうことも幾度かあった。
だいたい、男という生き物は女よりも圧倒的に競争心が激しい。
その分、弱者にはなんだかんだ言っても見下ろしたがる。
逆に言えば、いろんな意味で自分より位が下の人間がいれば、落ち着くのだ。
これもまた、人間の生に対する執着からくるものだろう。
だから、彼は因縁をつけてきた相手には一発か二発、殴らせておくのだ。
そうすれば、自分より弱い相手だと認識して満足するのだ。
だが、今回は違う。因縁なんてもんじゃない。
怨みに妬みも混じっていそうだ。これは一発、二発では満足しそうもない。
ましてや、相手は武器を所持している。
いくら、鍛えぬかれた守の体でも、三人で〝フクロ〟にされてしまってはそれなりのダメージを負ってしまう。ここはどうにかして、脱け出さねばならない。
(まいったな……どうすればこの場を逃げられる。三人を相手にするか? いや、ダメだ! 人間に手を出したくはない。それこそ、後々面倒になる……)
守が悩んでいるうちにもう攻撃は始まっていた。
バットを持った男が勢い良く、バットを振り下ろしてきた。
すかさず、左手でブロックした。
(くっ! あまり、防御はできない……どうする?)
次に自称、由香の所有者と名乗った男が角材をブンブン、振り回して守に襲いかかる。
「ボーッとしてんじゃねぇよ! スケコマシ野郎!」
「ちっ、どうして、こうも人間はケンカが好きなんだ!」
守は思わず、条件反射で攻撃を避けてしまった。
「てめぇ、避けやがったな! おい、お前ら。こいつを捕まえろ!」
守の背後に二人の男がつく。
(くそっ! 逆に怒らしてしまったか。仕方がない。あきらめるか……)
守は覚悟をして、その場に胡坐をかいた。
「もういい……好きにしろ。ただし、顔はやめてくれ。目立つからな」
三人は守の行動に目を疑った。
「な、なに? 好きにしろってことはボコボコにしてくれっていうことか……こいつはいいや! よし、武士の情けで顔だけはやめてやろう。お前ら、いいな」
「ああ、いいぜ」
三人の男達は不気味な笑みを浮かべて、守を囲んで、武器や手足によるリンチを始めた。
「このスケコマシ野郎が! 澄ましてんじゃねぇよ!」
「うぜぇんだよ! てめぇ!」
「俺のテリトリーに二度と入ってくるなよ」
激しい暴行は一向に止まらず、守の体力を奪っていく。
そんな時だった。思わぬ来客が訪れた。
「い、一ノ瀬君! なにをやっているの! 君達!」
そこには血相を変えた由香が立っていた。
「や、やべぇ! 品田だ。どうするよ?」
男は手を止め、首謀者である自称、由香の所有者に聞いた。
「ちっ、めんどくせぇ! 品田も一緒にやっちまうぞ!」
「へっ、マジかよ?」
舎弟的存在の二人の男達は由香を無理矢理、焼却炉の裏まで引っ張ってきた。
「な、なにするの! 放してよ!」
「品田! おい、品田は関係ないだろう!」
「ヘヘヘッ、大有りだぜ」
自称、由香の所有者は取り押さえられた由香の頬を手の平で嫌らしげに触った。
「元はと言えば、品田。お前が尻軽だから悪いんだぜ。俺からこいつに乗り換えやがって」
「な、なにをいっているんですか! 北条先輩!」
「なあ、品田。俺のこと好きだったんじゃないのか?」
「こんなことをする人は大っ嫌いです!」
由香は北条の顔をじっと睨んだ。
「ほう、よく言い切ったじゃねぇか。だったらもっと嫌いにしてやるよ。おい、お前ら。一ノ瀬を動けないようにしろ」
舎弟達は予め用意していたロープを取り出し、守を焼却炉の隣にあった金網にロープで二重三重にして縛り付けた。
「や、やめろ……品田は関係ないと言っているだろう!」
守は思った以上にダメージが大きかった。
平常時ならこんなロープ、直ぐに脱け出せるというのに。
「一ノ瀬君、大丈夫! ここは私にまかせて。こんな奴ら直ぐにやっつけちゃうから」
そう言いながらも由香の足はガタガタ震えている。
「強がりだな。いじめがいがあるってもんだな。おい、お前ら。こいつの上着を脱がせ」
「ええ! もしかしてやっちまうのかよ? そいつはマズイんじゃねぇのか?」
「うるせぇな! 女なんてもんはやっちまえば終わりよ。案外、黙ってるもんさ」
男達の話は段々、エスカレートしていく。
それに反応して由香の震えは激しくなっていく。
「怖がらなくてもいいぜ。な~に、直ぐに終わるって。おい、お前ら。早く、脱がせろ」
舎弟達はほぼ、ロボットのように北条の命令に従っている。
「い、嫌だ……嫌だよ……」
由香は抵抗する力も失せ、すすり泣きをしている。
心底、恐怖を味わっている様子だ。
「俺達のことを悪く思うなよ」
そう言って北条の舎弟達はうつむいたまま、震える由香の上着に手をかけた。北条、舎弟達共に生唾を飲む。
既に由香には恐怖心のせいで意識がない。
舎弟が由香の上着を脱がそうとしたその時だった。
背後から物凄い雄叫びが聞こえた。憎しみに満ちたその叫び声の主は一ノ瀬守であった。
増幅する怒りを抑えきれず、縛られたロープを引きちぎったその姿は北条達にはさながら柵を打ち破った猛獣に見えただろう。
「な、なんだお前は! バ、バケモンか!」
北条達が恐怖のあまり、後退りした。
それがスイッチとなったのか、守は声も出さずに、無言のまま一瞬にして北条の舎弟の立っていたところまで間をつめ、舎弟の喉をすばやく突いた。
一瞬のことで何が起こったか分からぬまま、舎弟の一人は倒れた。
全ては静かに行われたことで、誰もが目を疑う光景であった。
「ど、どうした? お、お前。なにをした!」
「女に触れるな……」
守の顔は心ここにあらずといった放心状態でそれがまた、北条達には不気味に見える。
「何なんだ。こいつ……」
戸惑う北条であったが、守の攻撃は容赦なく続く。舎弟の男の右腕をひねり上げ、それを天に掲げると握力をかけ、その男の骨を圧し折った。
「ぎゃあああああ!」
舎弟は激痛のあまり、手をブラブラと垂らしながらその場を走り去って行った。
「お、おい、ちょっと、待ってくれよ! 俺は本気で品田をやっちまおうなんて思っていなかったよ。あれは冗談つーかイタズラだよ……な、分かってくれるよな?」
北条は半泣き状態ですがるように守に尋ねた。
「………………」
守は黙り込んでいて、一向に口を開かない。未だに放心状態が続いているのだ。北条にはそれが怒りだと勘違いしてしまう。
「なあ、もういいだろう? 許してくれよ。品田には今後、一切、手を出さないからよ」
守がしばらく黙っていたので北条はそれを自分の要求を呑んでくれたのだと思い込み、忍び足でその場を逃げようとした。
「女に触れるなと言っただろう!」
いきなり、守は怒り狂ったように叫んだ。
「ヒィィィィ! す、すいませんでした!」
北条は怒り狂った守を前にして、あまりの恐怖に己を忘れ、地面に座り込み股を全開にして失禁してしまった。
「ううう……ご、ごめんなさい。ごめんなさい。どうか許してください!」
北条は地面を濡らしながら、泣きじゃくっている。
「女に触れるな……」
守は夢遊病にかかったように意識がなかった。
ただ、同じ言葉を繰り返している。その言葉は追憶の彼方からよみがえったものであった。
由香は同じ学校の先輩にチョコを渡そうとして拒否されたが、何故か、落ち込むこともなく胸を弾ませていた。
「おはよう、一ノ瀬君」
「ああ、おはよう」
下駄箱で上靴に履き替えていた守は気まずそうに由香の方を見た。
だが、決して目をあわせようとはしない。
「あ、一ノ瀬君……」
由香は目を見開き、驚いたという顔で守の顔を見つめている。
「ど、どうかしたのか?」
「今、『おはよう』って言ったよね?」
「え、ああ、言ったけど……」
「一ノ瀬君、初めてだよ! 『おはよう』って言ったの……スゴーイ! わらわは嬉しいぞよ!」
由香は嬉しそうに守の背中をポンポンと軽く叩いた。
「そんなに喜ぶことか?」
「当たり前だよ! 一ノ瀬君が朝のあいさつをするなんて卵一パック八十八円より、嬉しいことだよ!」
守は由香の威勢に圧されていた。
ここまではいつもと変わらない状景だが、守はかなり気まずかった。
というのも、三日前のバレンタインデーでの出来事で由香の不発に終わったチョコを自分が食べたことにあった。
チョコを食べた事というよりも、その行動から自分が由香に対し、異常なまでに心配していたというか、チョコを渡そうとした相手に嫉妬していたことを彼女に感づかれるのではと恐れていた。
いつも目を光らしている由香のことだ。
守は由香の目をまともに見ることすらできなくなっていた。
これが恋というものなのかと思ったりもしたがそのような発想はすぐに頭の中から排除する。
時折、鏡で自分の顔を見ると赤くなっているということがしばしばあった。
由香がニコニコ笑っていると口を大きく開けて、あくびをしている史樹が二人の前に現れた。
「ふぁぁ……よう、守に由香ちゃんとやら、どうかしたのか? ニコニコ笑ってよ」
由香が得意げに言う。
「ふふ~ん、知りたい?」
「え、なになに? 知りてーよ。もったいぶらずに教えてくれよ」
「ヘヘヘッ、実はね。一ノ瀬君が『おはよう』って言ったんだよ」
「は?」
史樹は事態がよくつかめない様子で首を傾げた。
「もう一度言ってくれねぇか。よくわかんねぇよ」
「だから、一ノ瀬君が『おはよう』って朝のあいさつをしたんだよ」
「な、なに! なんてこった……守が朝のあいさつをしただと! 切ない……いや、悲しすぎる! こりゃ、清純アイドルが歳とって、熟した女性とかいってヌード写真集を出すより、悲しいぜ!」
史樹はグッと拳を作って悔しそうに言った。
「な、なにを言っているんだ。お前は……」
呆れかえっている守を無視して由香は史樹に激しく反論した。
「違うよ。悲しくないよ! 嬉しすぎるってば!」
「いや、悲しいぜ……これだけは譲れないな!」
「なんで? 嬉しいよ!」
くだらない話題で由香と史樹の間に激しい口論が始まった。守はどうすることもできず、ため息をついた。そんなところに朝の日直の仕事を終えた夕貴が現れた。
「あ、由香ちゃん、おはよう。史樹もおやっさんも、みんな一緒でなにをやっているんですか?」
夕貴は目をパチパチとさせている。
守は焦った。こいつもこのくだらない話題に入ってくるかと思うと頭が痛くなる。
「赤穂さん、聞いてよ。相場君ったら一ノ瀬君が初めて『おはよう』って言ったのに悲しいっていうのよ。絶対、嬉しいことだよね!」
「いいや、悲しいことだよな!」
由香と史樹は夕貴に迫っていった。追いつめられた夕貴は困った顔で答えた。
「まあ、その……嬉しくも悲しい不思議な出来事ってとこかな……」
夕貴の曖昧な答えに由香と史樹は不満そうに顔をしかめた。
「なにそれ? 赤穂さん、一ノ瀬君があいさつをしたのよ。喜ばしいことでしょ? もっと真面目に考えてよ」
「そうだぜ、夕貴。マジに考えろよ!」
「そ、そんな真面目に考えることではないと思うんだけど……」
夕貴がそう言うと二人は更に激しく迫る。
「赤穂さん! 彼を更生させるチャンスなのよ!」
「夕貴! 俺達の渋いイメージの守が崩れちまうぞ!」
「そ、そんな……おやっさん! 助けてくださいよ!」
「知らん。後はまかせたぞ。俺は先に教室に行く……」
守は逃げるようにその場を去って行った。
「ちょ、ちょっと、おやっさん!」
「赤穂さん、まだ、話は終わってないわよ」
「そうだぜ、夕貴」
二人の気迫に夕貴はただ、頷くことしかできなかった。
*
放課後、守は廊下で有里 慶吾に出くわした。
「よう、コック殿。ご機嫌麗しゅう」
相変わらずの口調で守に話しかけてきた。
慶吾に気がついた守だったが、見て見ぬふりをしてその場を去ろうとした。
「おい、逃げるなよ。この前のハンカチのお礼でもしようと思ったのによ」
「フン、お前のお礼などいらん……ん? お前、怪我したのか?」
慶吾の右目には眼帯が着けられていた。
「ああ、これか? ちょっと、ケンカでな」
「ほう、さすがに不良は物騒だな」
「なんだよ。そりゃ、差別だぜ」
「まあ、気長に治してくれよ」
守は気を使いもせず、どうでもいいといった感じで言った。
「ひでーな。ああん、殿方の胸で癒されたいわ」
「気味が悪いからその口調はやめろ!」
「え、そうか? 俺の得意技なのに……じゃあ、俺はこれでな」
慶吾はなぜか、慌しく去って行った。気のせいか、いつもの彼らしくない。
ボーッと慶吾の後ろ姿を見ていると背後に人の気配を感じ、振り返ると三人の男子生徒がこっちを睨んでいた。
「おい、お前。二年の一ノ瀬守だろ? ちょっと、顔貸してくれよ」
その男子生徒達はかなり高圧的な態度で守に言った。
守はなにか企んでいると悟ったがここで素直に頷かないと後で色々と面倒だなと思い、素直に従った。
「ついて来い」
男子生徒達は守をどうやら、ひと気のない場所へと連れて行こうとしているらしい。
守はなぜ、連れて行かれるのか、様々な疑念を頭に張り巡らせていた。
(有里慶吾と話していたのが悪かったのだろうか? それとも……まさか、この連中、マザーの追手か? いや、そういう風には見えない)
三人の後ろ姿からは制服ごしにたくましい筋肉が見える。どうやら体育会系の人間らしい。
「よし、ここだ」
守が連れてこられたのは本当にひと気のない場所で、学校の裏庭にある今では使われなくなった古ぼけた焼却炉の裏側だった。
「で、俺に何の用だ?」
「何の用だと? ふざけやがって! てめぇ、三日前に同じクラスの品田由香が俺に渡そうとしたチョコを食ったそうだな。しかも、クラスの人間が見ている前で」
その男子生徒は額に血管を浮き上がらせ、焼却炉を蹴った。
「ああ、あのことか。それがどうかしたのか? だってあんたは品田が渡そうとしたチョコを拒んだのだろう? だったら食べてもいいんじゃないのか?」
「そういう問題じゃねぇんだよ! いいか、品田は俺に渡そうとしたんだ。俺が断ったとしてもそのチョコも、品田も、俺の所有物なんだよ。しかも、てめぇはクラスの人間達の目の前で食ったんだろが? いい恥さらしだぜ」
「あんたの言っている事は矛盾している。所有物なら、なぜ、断った? おかしいじゃないか」
由香はこんな嫌な奴にチョコを渡そうとしていたのかと思うと守は段々、腹が立ってきた。
嫉妬のせいか感情的になり、口調が強くなっていく。
「どうでもいいが、あんたは品田が好きなのか? 大事に思っているのか? ハッキリしろよ!」
守は言い切った後に少し後悔した。
この学校では極力、もめ事は避けてきたというのに、よりにもよって自分で自分の墓穴を掘るとは。
「あ? てめぇ、誰に向かって言ってんだ? 完璧、キレたぜ。どっちにしろ、てめぇをボコるつもりだったんだ」
三人の男子生徒達は事前に用意していた、バットやメリケン、角材などを焼却炉の中から取り出した。
「普通に殴ってると自分の手がイカれるからよ。道具でやらしてもらうぜ」
守はしまったと心の中で舌打ちをした。
常人である彼らの攻撃などはかわせるが全部、避けてしまってはまた後の報復があるかもしれない。
彼もこの学校で一年間、暮らしてきているのでこういうことも幾度かあった。
だいたい、男という生き物は女よりも圧倒的に競争心が激しい。
その分、弱者にはなんだかんだ言っても見下ろしたがる。
逆に言えば、いろんな意味で自分より位が下の人間がいれば、落ち着くのだ。
これもまた、人間の生に対する執着からくるものだろう。
だから、彼は因縁をつけてきた相手には一発か二発、殴らせておくのだ。
そうすれば、自分より弱い相手だと認識して満足するのだ。
だが、今回は違う。因縁なんてもんじゃない。
怨みに妬みも混じっていそうだ。これは一発、二発では満足しそうもない。
ましてや、相手は武器を所持している。
いくら、鍛えぬかれた守の体でも、三人で〝フクロ〟にされてしまってはそれなりのダメージを負ってしまう。ここはどうにかして、脱け出さねばならない。
(まいったな……どうすればこの場を逃げられる。三人を相手にするか? いや、ダメだ! 人間に手を出したくはない。それこそ、後々面倒になる……)
守が悩んでいるうちにもう攻撃は始まっていた。
バットを持った男が勢い良く、バットを振り下ろしてきた。
すかさず、左手でブロックした。
(くっ! あまり、防御はできない……どうする?)
次に自称、由香の所有者と名乗った男が角材をブンブン、振り回して守に襲いかかる。
「ボーッとしてんじゃねぇよ! スケコマシ野郎!」
「ちっ、どうして、こうも人間はケンカが好きなんだ!」
守は思わず、条件反射で攻撃を避けてしまった。
「てめぇ、避けやがったな! おい、お前ら。こいつを捕まえろ!」
守の背後に二人の男がつく。
(くそっ! 逆に怒らしてしまったか。仕方がない。あきらめるか……)
守は覚悟をして、その場に胡坐をかいた。
「もういい……好きにしろ。ただし、顔はやめてくれ。目立つからな」
三人は守の行動に目を疑った。
「な、なに? 好きにしろってことはボコボコにしてくれっていうことか……こいつはいいや! よし、武士の情けで顔だけはやめてやろう。お前ら、いいな」
「ああ、いいぜ」
三人の男達は不気味な笑みを浮かべて、守を囲んで、武器や手足によるリンチを始めた。
「このスケコマシ野郎が! 澄ましてんじゃねぇよ!」
「うぜぇんだよ! てめぇ!」
「俺のテリトリーに二度と入ってくるなよ」
激しい暴行は一向に止まらず、守の体力を奪っていく。
そんな時だった。思わぬ来客が訪れた。
「い、一ノ瀬君! なにをやっているの! 君達!」
そこには血相を変えた由香が立っていた。
「や、やべぇ! 品田だ。どうするよ?」
男は手を止め、首謀者である自称、由香の所有者に聞いた。
「ちっ、めんどくせぇ! 品田も一緒にやっちまうぞ!」
「へっ、マジかよ?」
舎弟的存在の二人の男達は由香を無理矢理、焼却炉の裏まで引っ張ってきた。
「な、なにするの! 放してよ!」
「品田! おい、品田は関係ないだろう!」
「ヘヘヘッ、大有りだぜ」
自称、由香の所有者は取り押さえられた由香の頬を手の平で嫌らしげに触った。
「元はと言えば、品田。お前が尻軽だから悪いんだぜ。俺からこいつに乗り換えやがって」
「な、なにをいっているんですか! 北条先輩!」
「なあ、品田。俺のこと好きだったんじゃないのか?」
「こんなことをする人は大っ嫌いです!」
由香は北条の顔をじっと睨んだ。
「ほう、よく言い切ったじゃねぇか。だったらもっと嫌いにしてやるよ。おい、お前ら。一ノ瀬を動けないようにしろ」
舎弟達は予め用意していたロープを取り出し、守を焼却炉の隣にあった金網にロープで二重三重にして縛り付けた。
「や、やめろ……品田は関係ないと言っているだろう!」
守は思った以上にダメージが大きかった。
平常時ならこんなロープ、直ぐに脱け出せるというのに。
「一ノ瀬君、大丈夫! ここは私にまかせて。こんな奴ら直ぐにやっつけちゃうから」
そう言いながらも由香の足はガタガタ震えている。
「強がりだな。いじめがいがあるってもんだな。おい、お前ら。こいつの上着を脱がせ」
「ええ! もしかしてやっちまうのかよ? そいつはマズイんじゃねぇのか?」
「うるせぇな! 女なんてもんはやっちまえば終わりよ。案外、黙ってるもんさ」
男達の話は段々、エスカレートしていく。
それに反応して由香の震えは激しくなっていく。
「怖がらなくてもいいぜ。な~に、直ぐに終わるって。おい、お前ら。早く、脱がせろ」
舎弟達はほぼ、ロボットのように北条の命令に従っている。
「い、嫌だ……嫌だよ……」
由香は抵抗する力も失せ、すすり泣きをしている。
心底、恐怖を味わっている様子だ。
「俺達のことを悪く思うなよ」
そう言って北条の舎弟達はうつむいたまま、震える由香の上着に手をかけた。北条、舎弟達共に生唾を飲む。
既に由香には恐怖心のせいで意識がない。
舎弟が由香の上着を脱がそうとしたその時だった。
背後から物凄い雄叫びが聞こえた。憎しみに満ちたその叫び声の主は一ノ瀬守であった。
増幅する怒りを抑えきれず、縛られたロープを引きちぎったその姿は北条達にはさながら柵を打ち破った猛獣に見えただろう。
「な、なんだお前は! バ、バケモンか!」
北条達が恐怖のあまり、後退りした。
それがスイッチとなったのか、守は声も出さずに、無言のまま一瞬にして北条の舎弟の立っていたところまで間をつめ、舎弟の喉をすばやく突いた。
一瞬のことで何が起こったか分からぬまま、舎弟の一人は倒れた。
全ては静かに行われたことで、誰もが目を疑う光景であった。
「ど、どうした? お、お前。なにをした!」
「女に触れるな……」
守の顔は心ここにあらずといった放心状態でそれがまた、北条達には不気味に見える。
「何なんだ。こいつ……」
戸惑う北条であったが、守の攻撃は容赦なく続く。舎弟の男の右腕をひねり上げ、それを天に掲げると握力をかけ、その男の骨を圧し折った。
「ぎゃあああああ!」
舎弟は激痛のあまり、手をブラブラと垂らしながらその場を走り去って行った。
「お、おい、ちょっと、待ってくれよ! 俺は本気で品田をやっちまおうなんて思っていなかったよ。あれは冗談つーかイタズラだよ……な、分かってくれるよな?」
北条は半泣き状態ですがるように守に尋ねた。
「………………」
守は黙り込んでいて、一向に口を開かない。未だに放心状態が続いているのだ。北条にはそれが怒りだと勘違いしてしまう。
「なあ、もういいだろう? 許してくれよ。品田には今後、一切、手を出さないからよ」
守がしばらく黙っていたので北条はそれを自分の要求を呑んでくれたのだと思い込み、忍び足でその場を逃げようとした。
「女に触れるなと言っただろう!」
いきなり、守は怒り狂ったように叫んだ。
「ヒィィィィ! す、すいませんでした!」
北条は怒り狂った守を前にして、あまりの恐怖に己を忘れ、地面に座り込み股を全開にして失禁してしまった。
「ううう……ご、ごめんなさい。ごめんなさい。どうか許してください!」
北条は地面を濡らしながら、泣きじゃくっている。
「女に触れるな……」
守は夢遊病にかかったように意識がなかった。
ただ、同じ言葉を繰り返している。その言葉は追憶の彼方からよみがえったものであった。