黒歴史小説 冬の蝉

5-3


「じゃあ、私は本部に戻るわ」
「待ってくれ、あんた俺を残して黙って帰るのか?」
 冬の蝉は疑わしげに江崎の顔を見つめた。
 すると、江崎は鼻で笑った。

「私はただの学者よ。あなたを力ずくで止めようとしても無駄でしょ?」
「それはそうだが……」
 冬の蝉はどうも腑におちない様子で頭を掻いた。

「私はハイ・エンドとあなたとの対決を目に収めに来たの。それと赤の剣の回収、もっとも回収は不可能だけど」
 江崎はロボットのように無機質な喋り方で言った。
「PX‐0082及び、冬の蝉はFX‐0987、ハイ・エンドと刺し違え、共に消滅。同時に赤の剣も回収不可能……こんなところね」
 江崎は眼鏡を光らせて笑った。


「博士……あんた……」
「せめてもの罪滅ぼしよ……」
 江崎は俯いたまま、ボソボソッと呟いた。
「あの子はマザーのせいでかなり歪んでしまったけど、根はいい子だったの……私は何もできずにいた……自分の息子が目の前で死ぬのを……」
 気がつくと江崎の眼鏡の下には涙が流れていた。

「あんた、まさかハイ・エンドの……」
 冬の蝉が哀れむように話しかけようとすると彼女は気丈に振る舞い、涙を拭いてその場を立ち去ろうとした。
 ホールを歩き始めると何かを思い出したらしく、立ち止まって振り返った。

「言い忘れたわ。あなた、早く、〝二人〟に別れなさい。短い寿命が縮むわよ……」
 そう言い残し、肩を落として立ち去っていく江崎の後ろ姿を見た冬の蝉は哀愁を感じられずにはいられなかった。

   *

 体育館を出ると外はもう、夕日が沈もうとしていた。冬の蝉は久しぶりの外界の空気を堪能している。
 それを由香は不思議そうに見つめている。

 冬の蝉は体育館の中で見つけた赤色のジャージを着ている。
「う~ん」と背伸びをする。

 プラチナブロンドが夕日と重なってキラキラと輝いている。
 冬の蝉は本当に美しい。
 白いラインの入った格好の悪いジャージを着ていてもさまになる。
 その姿はもし男が見ても魅せられるものだ。

「ねえ、さっきの女の人が言ってた短い寿命って……なに?」
 由香の質問に冬の蝉はため息をもらす。
 そして、しばらく間を置いてから言った。

「知っているか? セミは脱皮してから二週間しか生きられないんだ。その短命にも関わらず、飛び回ってミーンミーンって鳴くんだ……俺の名にはそういう意味も込められているんだ」
「え……どういうこと?」
「俺達はマザー直系にあたる。マザー直系は人間でいう成人年齢になるとその巨大な力をコントロールできなくなって……やがて死ぬ。だから、俺は夕貴という女と史樹という男に別れた。そうすることによって少しだが寿命が延びるんだ」

 彼の目は生まれつき青い。
 それがまた、彼の悲しい生い立ちを連想させるのだ。

「俺は一度、マザーの外の世界を見てたかった、感じてみたかったんだ。初めて触れてみた人間社会は自由ではあったけど、いろんな感情が渦巻いていた。憎しみ、悲しみ、怒り、喜び、それらが俺にはとても新鮮に見えた。なんせ、マザーの中じゃ、感情は絶ちきられていたからな。でも、一番、人間達と触れ合って良かったところは暖かさだよ。マザーでは感じられなかった……愛という名の焚き火、俺はそこで冷たくなった体を暖めたよ。とても気持ちが良かった。守には感謝している……俺のわがままに付き合ってもらったからな」

 由香は黙って彼の話を聞いていたがそのうち、身を震わせて怒りを露にしていく。
「さっきから勝手なことばかり言って……いい加減にしてよ!」
 由香は冬の蝉の頬を思いっきり、引っ叩いた。

「あなた、命をなんだと思っているの? そりゃ、あなたも冷たい世界で歪んだ大人達の命令に従ってきたと思う。私には想像もつかないよ。悲しい人達だと思う……あなたも、あの死んだ男の人も、でもね、私達は生きてきた環境や住む世界は違っても、一つだけ共通点はあるの。それは生命だよ。ちゃんと、生き物は生きているんだよ」
 由香は冬の蝉の右手を引っ張り、自分の胸に当てた。

「ほら、聞こえるでしょ……ドクンッ、ドクンッて。それをあなたはおもちゃのように動かしていたのよ!」

 冬の蝉は由香の悲痛な叫びに圧倒されていた。自分の手から由香の熱い鼓動が伝わってくる。
 彼女の悲しみがちゃんと、俺にも伝わってくる。これが命……。それを俺は簡単に振り回していた?

「俺は……」
「あなたも生きているのよ……そして、一ノ瀬君だって生きていたの。それを忘れないで……」
「忘れるわけないさ」
 由香は涙を目にいっぱい、浮かばせて冬の蝉に口づけをした。
 冬の蝉は目を開いたまま、由香の瞼を見つめた。

 由香は彼から離れると腕で涙を拭って笑った。
「あなたにじゃないわ。あなたの中で眠っている一ノ瀬君によ」
 それを聞いた冬の蝉は口を全開にして大笑いした。

「ハハハッ、お前には負けたよ。こりゃ、守もお前に圧倒されるはずだ。負けだよ。完敗だ。俺たちの」
 尚も笑い続ける。由香もつられてクスクスと笑い始めた。
 二人は夕日を浴びて笑い続けた。


「じゃあ、俺は行くよ」
「行く当てはあるの?」
 そう言われて肩をすくめた。
「ああ、スイスだ」
「スイス?」と顔をしかめる。
「そう、マザー研究所にあった『妖精シルフィ』っていう絵本でスイスの話なんだが、妖精シルフィが人間の少年と数々の困難を乗り越えて旅をするといったものだ。それが俺のお気に入りだったんだ。シルフィを探しにいざ、出発だ」
 由香は思わず、プッとふきだした。
「あなたってけっこう子供ね」
「フン、言うがいいさ。俺は信じているんでね」
「ハハハッ、いや、でもいい夢ね」
 そう言いつつも笑いが止まらない。


「言っとくがこれはずっと前に守が提案したものだ。今頃、俺の中で守が怒っているぞ」
「え? 一ノ瀬君がそれはまた笑っちゃうよ!」
 由香はそう言って腹を抱えて笑う。小さなえくぼが可愛らしい。
「フッ、やはりお前には笑顔が似合っている。守ならそう言うだろう……だが、本当に安心してくれ。守は必ずお前のもとに帰ってくる。必ずだ」
「うん。信じているから、待っているから」
 冬の蝉は由香に見送られて沈む太陽の方へと歩いていく。
 もう彼の顔に寂しさや悲しみなど残っていなかった。
 外界に来て本当に良かった。
 もう一人、親友が出来た。
 よく笑う友達が、よく笑わせてくれる友達が……。

 由香はしばらく彼の後姿を見送った。
 遠ざかる一つの影はやがて二つになった。

「さようなら。赤穂さん、相場君、セミさん、そして……そして、一ノ瀬君」


 蝉は鳴く、その小さな灯火を燃やして。
 蝉は鳴く、悲しげに。
 蝉は鳴く、誇らしげに。
 蝉は鳴く、友のために。
     
   了
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