もどかしいくらいがちょうどいい

 よっしゃぁああああああ、ミッション成功だぁああ! 
 よし、逃げようすぐさま逃げよう今すぐ逃げよう!

 そのまま踵を返して、脱兎のごとく駆け出した私の足は──しかし、何かに引っ張られて足が止まる。
 
 私は、恐る恐る振り返った。
 ぴん、と張った後髪の毛の一束が絡まっていた。成瀬くんのブレザーのボタンに。

 ナッ、ナンデダーーーーーーーーーーーー!? 
 なんで今少女漫画のテンプレみたいなことが起こるん!!?? 今じゃない、それ絶ッ対今じゃない!!


「ひゃいいいい、ごめんなさいごめんなさい! 今すぐぶち切るので許してくださいぃいいい!」


 慌てて引っかかった髪へ手を伸ばしたが、がっと横から出てきた手がそれを阻む。


「動くな」


 ……あ、死んだ。
 私の手首を掴んだ成瀬くんが、ギロリと血走った瞳で睨みつけてくる。怖すぎて失神しそうだった。

 慌てて取ったリーチは成瀬くんが一歩踏み出したことで、すぐさま埋められて、再び私の前に立ちはだかる。私の顔にだんだんと影が差す。

 成瀬くんの顔が迫り来ている。思わず私は固く目を瞑った。

 ああ……グッバイ私の頭皮。根こそぎ成瀬くんにぶち抜かれるんだ……。

 数秒、数十秒経っても痛みがやってこないことに気が付いて、私はうっすら目を開ける。

 飛び込んできたのは、白い首筋だ。次に見えたのはピアスがいくつもついた耳。ド近距離にそれはあった。
 思わず声をあげそうになって私は、何とか堪える。すぐ横で癖の付いた黒髪がもぞもぞと動いているのが辛うじて見えた。

 あばばばばば。何だこの状況は……わあ、首筋にほくろだぁ……。点と点繋げたら、夏の大三角できるなぁ……はっ、駄目だ駄目だ現実逃避してる場合か!


「おい」

「ひゃい!」

(ほど)けた」


 顔を上げた成瀬くんが、ボタンに絡まっていた私の髪を指先で掬い上げた。
 私は目を白黒させながら、後頭部を手で押さえて確認する。

 ちゃんと繋がってる。引き抜かれてない。どうやら、成瀬くんが絡まった髪を解いてくれたらしかった。

 緊張で縮こまっていた肩から力が抜ける。と、同時に私は目にも止まらぬ速さで成瀬くんから距離を取った。目線が合わないように下を向きながら私は勢いよくお辞儀する。


「どどどどうもありがとうございました! じゃあ私はこれで、」

「待て」


 失礼します、の言葉を半強制的に遮られた。今まさに踏み出そうとしていた足が踏み出せないまま御座なりにさせられる。
 なんか本当に泣きそうだった。というかもう半べそかいてた。 


「……はひ」


 振り返った私の視界に映ったのは、これでもかというほど眉間に皺を寄せた苦渋の表情を浮かべる成瀬くんだった。
 低く唸るような声音で、成瀬くんが口を開く。


「なあ」

「……はい」

「涼森、お前──」


 成瀬くんが何かを言いかけたその時だった。


「──涼森さん、探したよー」


 見計らったかのような絶妙なタイミングで、綿菓子みたいに甘い声音がして、私は弾かれた様に声のする方へ振り返る。
 ミルクたっぷりの紅茶みたいに淡い茶色の瞳がすうっと細くなった。


「な、夏目くん……!」


 もう、夏目くんの後ろから後光が差しているような気さえする。推しを超えて神だった。

 私を背中に隠すみたいに成瀬くんと私の間にさりげなく立った夏目くんが、愛想よく笑う。


「ごめんね。ちょっと、涼森さん借りてもいい? 急ぎの用事なんだ」

「……はあ。どーぞ」

「ありがとう。ほら、行こ涼森さん」

「へ!? あ、うん」


 私の右手を引いて、夏目くんは歩き始める。私は何度かちらりと後ろを振り返りながら、その背中を追いかける。


「あの、用事って」


 前を向いて合わなかった視線が、不意にこちらを向く。


「ああ。あれ、嘘」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて、夏目くんはさらりとそう言った。


「……うそ?」

「だって、涼森さん、泣きそうだったからさ。見てらんなくて」


 余計なお世話だった? と問いかけられて、私は慌ててかぶりを振った。


「そう。なら、よかった」


 優しく掴まれた手首に少しだけ力が入る。
 少し冷たいくらいの体温がじんわりと伝わってきて、それを超える熱さに溶かされそうで、私はもう、何も言えなくて俯いた。

 その時、ちらりと後ろを振り返った夏目くんが一体どんな表情をしていたのか、知りもせず。

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