もどかしいくらいがちょうどいい
深い海の底に沈んだ様な浮遊感に包まれている。
夢が覚める直前の、混沌とした意識の中で、何かが、頬を触れる。優しく、優しく。まるで、愛おしいものを撫でるように壊れ物を扱うような慎重さで。
少し冷たいくらいの体温が心地よくて、私はそれに頬を摺り寄せる。
「……ん」
私は少し擽ったくて、むっと口を噤む。
「──ぎ、」
声がした。頬に触れる優しい手つきと同じくらい、優しい声音だった。
ああ、駄目だ。頭がふわふわして、何も考えられない。目を開けたいのに、身体が言うことを聞いてくれない。
「むぎ、」
私を呼ぶその声が、ふっと薄く笑う。そして私の頬に触れた指先が名残惜しそうに離れる寸前、顔も知らない誰かは、こう言った。
「……好きだよ」
*
「──はっ!」
がばっと私は勢いよく、身体を起こした。
その瞬間、ばさり、と何かが落ちる音がして下を見れば、男子のブレザーが落ちている。状況からして、私の肩に掛けられていたのが、落ちてしまったのだろう。
……ん? でも、誰の? さっきまで人なんていなかったのに。
それを拾い上げて、何気なく視線を横に巡らせると、椅子に腰かけて文庫本のページをめくる人影があった。
「……な、夏目くん?」
私が名前を呼ぶと、本に落とされていた視線がこちらを向く。シャツと薄手のセーター姿の夏目くんが、くすりと笑って頬にかかった髪を耳にかけた。
「おはよ、涼森さん」
「……なんでここに?」
体育祭の打ち合わせがあったはずなのに。
文庫本をぱたりと閉じた夏目くんが、頬杖を突きながら薄く笑った。
「涼森さんと一緒に帰りたくて、途中で抜けちゃった」
何も言わず私はただ胸を押さえて、顔を逸らす。
……っぶねぇ~~~~~、今完全に落ちかけるとこだった……なんつー破壊力だ。油断も隙もないイケメンだけしからん。はあー……落ち着け、落ち着け私! 夏目くんのペースに呑まれたら、絶対に駄目だ!
ましてまだそれが恋だって確定してもないのに、勝手に舞い上がったら痛い目をみ、……ん?
あれ……待てよ? さっき私、起きる前に……誰かに、すごいこと言われた気がするような?
私は恐る恐る夏目くんの方を振り返って、片手をあげる。
「……あ、の」
「ん?」
「私が寝てる間に、夏目くん以外に誰か……来てなかった?」
「俺以外に? ううん、来てないけど」
「……スゥーー……そっかぁー……」
冷静さを装うように、すまし顔で頷いた私は即座に顔を伏せる。
はい、それはもう確定演出ですゥ!! ガチャでSSRが出る演出と一緒なんよ!!
じゃ、じゃあ、私が寝ぼけて聞いたあの告白が、もし、私の夢じゃないとするなら……告白の相手は……。
ちらり、と夏目くんには悟られぬよう横目で盗み見る。が、夏目くんが私の方を見ていたせいでガッツリ視線が合わさって、夏目くんは柔らかく微笑んだ。
それだけで、自然と私の体温は上昇していく。
……顔が熱い。
私はそそくさと視線を明後日の方向へ向ける。こんな顔見られたら、一貫の終わりだ。
「ねえ。なんでこっち見ないの?」
「べ、べつに……」
「ふうん。……そのブレザー、ちょうだい?」
「……あ、はい」
私は夏目くんの方に向かって拾ったブレザーを突き出す。もちろん、視線は逸らしたまま。
数秒経っても、一向に受け取る気配がない。気になった私が振り返る寸前──がっと、手首ごと掴まれた。抵抗する暇もなく、私は掴まれた腕ごと引き寄せられ、見上げた私の視界に影が差す。
私をじいっと見つめる、ぐちゃぐちゃに溶かしたカラメルみたいなふたつの瞳が、すっと細まった。
嗜虐心に似た仄暗い感情が、優しげな瞳の中に見え隠れしているような気がして、私は息を呑む。
薄い唇の端がほんの少し吊り上がって、愉しそうに笑った。
「……あは、真っ赤だ」
「っ、ちが、」
「違うの? こんな、期待してる顔して?」
「き、きた!? そそそそれは、だって、夏目くんがっ──」
好き、とか言うから! と、口に出そうになって私は言葉を詰まらせる。
待て待て、この状況でそんなこと言っていいの? だって面と向かって言われたわけでもないのに!
わっかんねーーーーーー、言っていいのか分かんねぇええええ!
思考が行き来を繰り返して、私の許容量は既にオーバーしていた。酸欠になったみたいに頭がくらくらする。
「俺が?」
「……な、夏目くんが、」
他に何か、上手い言い訳を考えないと! なんか考えろ考えろ私ィ!
私は勢いに任せて、声を張り上げた。
「おおおお思わせぶりなことばっかりするから! 夏目くんはちゃんと自分の顔の良さ自覚して!? 言っとくけど、私めちゃくちゃ単純だからすぐ勘違いするの! これ以上、勘違い女に好かれたくなかったら自重してください!!!!」
図書室に私の声が響き渡って、痛いほどの沈黙が訪れる。
そこでようやく私は、顔に上った熱が、すっと一気に冷めていくのを感じた。
……あれっ、なんか私、勢いに任せて告白まがいなこと口走ってない!? 馬鹿!? 馬鹿なの!?
もちろん、夏目くんからの反応はない。私は伺うように夏目くんの顔を覗き見る。
夏目くんは、ぽかん、と目を見開いて──それから、ううん、と唸り声みたいなものを上げて、へにゃりと眉を下げて頬を赤らめながら言った。
「いっぱい勘違いしてくれなきゃ……、困る」
「……え?」
夏目くんは、さらに言葉を紡ぐ。
「ここまで言っても……まだ、分かんない?」
フリーズ、フリーズ、フリーズ。
数秒の間を置いて、再起動した私は──勢いよく立ち上がった。
「かっ、」
「か?」
「──帰る!」
気が付いたら、私は駆け出していた。机に置いた鍵をおもむろに掴んで。