もどかしいくらいがちょうどいい
「…………か、解像度の高い夢だ……」
じゃーっと、流れっぱなしの蛇口の音。
冷たい水が頬を伝う感触。
どことなく、全身を包む風邪を引いた時のような倦怠感。
でかすぎるTシャツ一枚のあられもない恰好。
この場に立つ私の感覚は、今まで見たどの夢よりも鮮明で現実めいていながら、どこまでも非現実的だ。
ふと、顔を上げれば、手垢一つない綺麗な鏡に私の顔が映る。
「……髪色ちがう……」
ストレート黒髪で、胸程まであった私の髪が、ミルクティーブラウンっぽい髪色になっているし、何より前髪が無い。毎朝ケープで絶対崩れないようにしていた前髪が。それだけで、私の顔は随分と大人っぽく見える。
「……それに、」
そのまま視線を下にずらす。
あられもない恰好をしたその服の上の膨らみを見て、私はぐっと口元に手をやって声を抑える。
バチクソ胸おっきくなっとるッーーーーーーーーーーーーーーー!!!
中学からずっと毎日毎日毎日牛乳飲んでそれでも全く全然うんともすんとも変わらなかった私の貧乳が!
めちゃめちゃおっきくなっとるッーーーーーーーーーーーーーーーー!!
多分これ私の夢だけどそれでもなんかもう嬉しい! ありがとう夢! 一瞬の夢でも私の夢を叶えてくれて! 欲を言えば出来れば未来はこれくらいおっきくしてくださいよろしくお願いします!
「……あ、れ?」
もう一度鏡に映った私の顔を確認して、気づく。
首筋辺り、何か赤い斑点みたいなものがいくつもついていることに。
ん、ん~? と、何度も首を捩じって確認する。
なんだろう、虫刺され? 別に痒くもない……けど……。
そこまで思考を巡らせて、私の身体は硬直する。
恐る恐る、私はぶかぶかのTシャツの胸元を指で引っ張って視線を落とす。
「…………スゥーーー……」
ふかーく、ふかーく、深呼吸を繰り返して、私はうん、と軽く頷いた。
……えぐいほど体中にキスマークっぽいものが付いてるけど、見なかったことにしよう。そうしよう。
言われてみればなんかすっごい身体の怠さがあるし、私の趣味ではない男物の香水の匂いがするし、そもそもこのTシャツは絶対男物だけど、うん、多分夢だから。ヨシッ!
って、よくねぇええええええええええええええええええええええええええええ!!!
なんもよくねぇえええええええええええええええええええええええええええええ!!
何!? 何なのこの状況!? なんで!? ドユコト!? そもそもここ何処!?
ななななななななんでわた、私ッ、ななな──
「むぎ」
突然上から降ってきた低音。
ぞぞ、と背筋を何とも言い難い痺れのようなものが走る。
「ひょえ」
情けない悲鳴とともに弾かれた様に振り返ると、背後に立つ大きな影が、私を覆い隠すみたいに立っている。
「……水、流しっぱ」
きゅ、と音を立てて、私の後ろから伸びてきた手が蛇口を捻る。
穴が開く程その横顔をガン見していると、ふと、その瞳と目が合う。
見ているこっちが飲み込まれそうなほど、底の見えない真っ黒な瞳だ。どろりと砂糖を溶かしたみたいに甘く、それでいでどこか翳りのある背筋がぞくっとするような視線だ。
私は借りてきた猫みたいに背を丸くして小さくなりながら、問う。
「……な、成瀬……くん」
彼は、きょとん、と目を丸くしてから、愛おしそうに目を細める。
「ふ、変なむぎ。かわい」
ちゅ、と軽くリップ音をつけて、頬に優しく何かが触れる。
ばしん、と触れられた部分を手で押さえて私は、もう、何も言えないまま固まる。
「今日のむぎ、なんか高校ンときみたいだ。……なあ、それって構ってアピール?」
「ひ……」
「はあ、可愛い。なんでそんな可愛いの?」
私のお腹の前に回った腕が、ぎゅうっと私の身体を抱き締める。
私の身体はすっぽりと彼の腕の中に納まってしまった。背中にあたる体温が、耳元を掠める掠れた声が、じれったいくらいに優しく包む腕が、私の頭をフリーズさせる。
だ、だ、誰!? 誰この人ッ!?
知らないッ、私、こんな成瀬くん知らないんですがーーーーーー!?
何処産の成瀬くんなの!? 砂糖生まれスイーツ育ちみたいな成瀬くんなんてもう別人よ!?
別側面の成瀬くんですか!? 成瀬くんオルタですか!?
混乱する私を他所に、だんだんとお腹に回った手が下に下がっていく。
防御もクソもないむき出しの太ももに、大きな手が触れる。形容しがたい感覚に私は粟立つ。
熱いのか冷たいのかもはや分からないほど、頭がぐるぐる回って、思考が纏まらない。
その間にも、太ももに触れた手は悪戯に肌を滑って、徐々に上へと──
「──ちょちょちょちょちょちょちょ待て待て待てぇーーーい!!!」
私は慌てて彼の手を掴んで制止する。
手を止められた成瀬くん──の大人バージョンは、可愛くお目目をぱちくりする。
え、なんで……? みたいな顔してんだ!? それはこっちの台詞だわ!!!
むう、と口を尖らせた成瀬くんは、いじけた子供みたいにあざとい表情で私を見上げる。
「……だめか?」
「ぐっ……い……だ、だめですゥ!!」
あっぶな、顔がよすぎて頷くとこだったわ……!
「とりあえず……は、離れてください成瀬くん」
なるべく顔を見ないように逸らしながら、胸を押し返すが、びっくりするぐらいびくともしない。
「嫌だ」
子どもか?
「……いつもみたいに、名前で呼べよ」
「エ?」
成瀬くんの胸元にあった私の左手に自分の手を重ね合わせ、私の薬指の辺りをかり、と痛くもない強さで引っ掻く。
「だって、むぎも『成瀬』だろ?」
私の薬指にあったそれが、きらりと鈍く光った。