もどかしいくらいがちょうどいい
駄目だ。
この夢、ぜんっぜん、醒めない。
私はいい具合に焦げ目の付いたトーストの耳を齧りながら、慎重に横を盗み見た。
思いのほか豪快に口を開けて、同じくトーストにかぶり付く成瀬くんの横顔がよく見える。
二口目をかぶり付こうとしていた成瀬くんの目線が、ふとこちらを向く。コーヒーに死ぬほど砂糖を溶かしたみたいな甘い瞳が、きゅうっと細くなった。
「……むぎ、クリームついてる」
反射的に左頬を拭う。
「違う。こっち」
私の口元辺りに長い指が触れた。そのまま成瀬くんはクリームの付いた指を、ぺろりと舐めた。
ええええええええ、えっち~~~~~~~~~~~~~~~!
伏せた瞳がこちらに向くと、成瀬くんは頬杖をついて薄く笑う。
「……すけべ」
「すっ!?」
エスパーか!?
さらに笑みを深めた成瀬くんが、意味深に問いかけてくる。
「昨日の、思い出しちゃった?」
「きっ!?」
昨日の……、昨日のって、何!!?? 昨日一体何があったの!!?? 読者のご想像にお任せしますってことですか、そうですか!!!!
あたふたする私なんてお構いなしに、成瀬くんは追い打ちをかけるみたいに砂糖を吐く。
「なあ、分かってる?」
「な、なにが……」
頬にかかった私の髪を骨ばった人差し指が掬う。
「そういう顔されると、」
髪を耳に掛けるように回した指が、悪戯に耳朶の辺りを指の腹でなぞる。
「また、歯止め効かなくなるけど……いいの?」
腹の底の見えない黒い瞳が、すうっと細くなった。
「………………ヴッ(昇天)」
私は両手で顔を覆い隠して、許容量を超える甘さを耐え忍ぶように口を噤む。
……もう、降参だ。
もう、もう、本当に耐え切れない。これ以上、心臓が持たない。
この成瀬くん、私よりも1枚どころか100枚くらい上手だ。手に負えない。
数秒間を置いて聞こえてきたのは、くくく、と噛み殺したような笑い声だった。
私は少しだけ開けた指の隙間から覗き見れば、成瀬くんが小刻みに肩を震わせながら、笑っている。完全に悪戯が成功した時の子供のそれだ。
「じょーだん、今日は勘弁しといてやるよ」
ほっと肩を撫で下ろす。
明後日の方向を向いて、成瀬くんはバツが悪そうに小声で言った。
「……昨日いっぱい無理させたし」
「だっ、」
だから、昨日何があったんだッーーーーーーーーーーーーーー!!??
その答えを得る術は、私には無かった。ここは大人しく黙っておくのが吉だ。
藪をつついて蛇を出す、なんて展開それこそ目も当てられない。
いくつかの冷静を取り戻した私は、食べ残したパンに再びかぶり付こうとしたその時だ。
テテテテテテン、と軽快に通話音が鳴り響く。
ぱちぱち、と瞬きをして成瀬くんの方を向く。
「むぎのが鳴ってる。ほら、そこ」
「へ? ふぁい」
私の真後ろを指さす直線状を辿り振り返ると、高そうなソファの上に見覚えのないスマホがぶるぶる震えている。さっきまで抱きかかえていたまろ眉の黒猫ぬいぐるみも転がっていた。
行儀悪く、上半身だけ捻ってソファに乗り上げて、私はそのスマホを手に取る。
えっと、通話相手は……、ん?
スマホ画面を目にしたその瞬間──私の背後から影が差した。
見上げるように振り返る間に、私の後ろから伸びてきた手は躊躇なく、スマホ画面の×ボタンをタップする。
しーん、静まり返ったリビング。
暗闇よりもどす黒い何かを帯びた眼が二つ、こちらを見下ろしている。
「……あーあ」
ぽつりと呟いたその声は、背筋がぞくっと悪寒が走る程冷たい。
「なる、ぜ、善……くん?」
「ちゃんと、昨日教えたばっかなのに。むぎは、もう忘れた?」
「え、えっと……?」
全く現状理解が追いつかない。
けれど、おそらく、これが、割とまずい状況なのは馬鹿な私も分かる。
これが俗に言う、地雷を踏みぬいたって奴なのだと。
「むぎは、もう少し自覚した方がいい」
迫り来る狼に似た獰猛な捕食者の眼光が、逃がさんとばかりに私の手首を押さえつける大きな手のひらが、背後に感じる有無を言わさない圧が、成瀬くんの感情の全てを物語っている。
「──俺にどんだけ愛されてるのかを、さ」
強引で噛みつくようなキスは、セカンドキスにしては余りに乱暴で、愛欲に溺れすぎていた。
暗転。