もどかしいくらいがちょうどいい
「──涼森さん、昨日は本当にごめんなさい!」
晴れ晴れとした爽やかな朝にふさわしくない死んだ魚の如く虚ろな目で、下駄箱の前で靴を履き替えていると後ろからそう声を掛けられた。
振り返るとそこにいたのは、隣のクラスの女の子だった。
何度か見かけたことはあるけど、名前は知らない。
しばらくぽかん、と下げられた頭の旋毛を見下ろして、私ははっと我に返る。
察するに、昨日階段でぶつかったのがこの子だったのだろう。
「……アッ……いや、そんな」
「け、怪我とかは……」
「えっと……、病院には行って問題なしって診断されたから、全然大丈夫……です」
その時の記憶、何故か私には全く無いけど。
「そっ、そっかぁーーよかったぁ……本当にごめんね。これ、お詫びの印です」
「あ、そんなそんな。お構いなく」
「大したものじゃないから、ぜひ受け取ってください」
「んん、じゃあ……ありがたく、」
ずいっと、可愛らしいデザインの紙袋を差し出された私は、遠慮気味にその紙袋を受け取ろうとした、その時。
「──涼森」
「ひゃいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
後ろから降ってきた声に、私の全身から筆舌尽くしがたい悪寒にも近いものが背筋を駆け巡る。
コンマ一秒にすら満たない一瞬で、私は思わず名も知らない女の子の背を盾に身を隠した。
3人の間に流れる痛いくらいの沈黙。
「えっ、えっ、あの? す、涼森さん……?」
慌てふためく女の子の後ろから、私は慎重に覗き見る。
今、一番顔を合わせたくなった人物──成瀬くんが、そこに立っていた。
「……昨日、大丈夫だったか?」
「えっ、このままわたしを挟んで会話する気ですか?」
私は盾にした女の子にそっと耳打ちする。
「あ、うん……? え、それをわたしが伝えるの? えっと……、大丈夫だったそうです」
「そうか」
「……」
「……」
「……あのさ、」
言い惑うように視線を横にずらした成瀬くんは、眉をぎゅうっと寄せて固く結んだ口を開いた。
「昨日の、悪かった」
……昨日の、ってなんだ?
「……お前受け止めんので、頭いっぱいになってたから……、」
雪みたいに白い成瀬くんの頬が、少しだけ朱色に染まる。
……ああ、なんだ事故チューのこと?
成瀬くんって意外と律儀だ。あれは不可抗力なんだから、わざわざ謝る必要なんてないのに。
まして、無理やりしたわけでもないんだ……か、ら……?
ぴしり、と私は石像みたいに固まる。
成瀬くんの顔が次第にクローズアップ、アップ、アップして、私の目線はある一点に釘付けになってしまう。
『──俺にどんだけ愛されてるのかを、さ』
嗜虐心に満ちた薄い唇が三日月に歪んでいる。
がぶり、と噛み付くようなキスをされた感触が、低く唸るような有無を言わさない声音が、指に絡んだ茹だるような熱が私の思考を支配する。
足のつま先から、頭のてっぺんまで薬缶が沸騰するみたいに、制御しようがないほど身体が熱くなっていく。
「……の……、えっ……」
「……涼森?」
「成瀬くんの、えっちぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
気が付いたら私は走り出していた。
小学生5年の同級生の男にお風呂を覗かれた女の子ばりの捨て台詞を残して。