もどかしいくらいがちょうどいい
「あら、麦乃ちゃん。いいところに」
その日のお昼休み。
私はそそくさと教室から逃げ出して、人気のない裏庭でひとり紙パックのいちご牛乳を飲んでいると、見知った人に声を掛けられた。
穏やかな笑みを浮かべた司書の荻原さんが、軽く手を振っている。私も答えるように手を振り返しながら、立ち上がって荻原さんの元まで行く。
「こんにちは、荻原さん」
「ええ。こんにちは。今、ちょっといいかしら」
「はい。大丈夫ですよ」
荻原さんは手にした一枚の貸出カードを私の前に差し出した。つい最近入荷したばかりのミステリー小説の文庫本の貸出カードだ。今度、私も読んでみようと思ってたやつの。
「昨日が貸出期限だったんだけど、まだ返却されてないの。次の人の予約が入っているから、早めに返却して欲しくてね。麦乃ちゃんの同じクラスの人みたいなんだけど、伝えてくれるかしら?」
「いいですよ。教室戻ったら伝えます。えーと、貸出の人の名前は……」
貸出カードの名前を指先で辿る。そして、一番最後の行に記入された名前を見て、私は固まった。
成瀬善。
思いのほか整った綺麗な字体で、そこには、そう書かれていた。
*
「はぁー……」
私は手に持った貸出カードを前にして、盛大にため息をつく。
教室へ向かう足取りは、鉛の鉄球でも足首に括り付けられているのかと錯覚するほど重い。
このまま、見なかったふりしよっかな……と、一瞬そんな悪い考えが頭を過るが、私は頭を左右に振ってその考えを打ち消す。
本返してって、言うだけだ。それだけいって本を回収してすぐさま退散しよう。そうしよう。
あっ、なんかやれる気がしてきた。今ならいける気するぞ~~? よし、それでいこう!
私はそう意気込んで、自分の教室のドアを開け──どん、と何かにぶつかった。
固めの感触と、見慣れた制服。何気なく視線を上げた私を見下ろす、底の見えない真っ黒な瞳。降りかかった前髪の隙間からじっと覗いている。
成瀬善だった。
だあれだ今行けるって言った無責任な奴ァーーーーーーー!! 私だーーーークソバカァ!! ひいいいいいい、バチクソ睨んでるよ怖いよぉおおおおおおお!!
大量の冷汗を垂れ流しながら、私は蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
いつもは座っているから、気が付かなかったけど、向かい合って立ってようやく気づく。成瀬善は巨人だ。そのせいで威圧感が普段の50倍はある。
普通に怖い。もうすでに泣きそうだ。
私は回らない舌を必死に動かしながら、何とか声を絞り出す。
「ななななな成瀬くん!」
「あ゛?」
「ヒッ」
「ンだよ」
「あっ、あっ、あ、あの……あの……!」
どどどどどどどうしよう、言おうとしていた台詞が全部吹っ飛んでしまった。
なななな何言えばいいんだっけ!? 本返せこのタコ! 延滞料金取んぞ! いやいや、馬鹿かそんなん言ったら私の命危ういて!
言葉を詰まらせる私を見下ろす瞳が、だんだんと険しくなっていく様を目の当たりにしてさらに私の頭は混乱する。涙で滲んで歪む視界の端で、何か見覚えのあるものが映り込んだ。
「あ……あっー!」
私は思わず指さす。彼の手の中にある、それを。
「そ、そそそれ」
「は?」
「その本は……!」
「借りてるやつだけど」
「わわわわ私が預かります! 図書委員なんで! 返しておくんで! どうもありがとうございます!」
「あ、おい」
怪訝な顔した成瀬くんから半ば奪う形で、私は彼の手にあった文庫本をしゅばっと引き抜いた。