翠も甘いも噛み分けて
 プリントアウトした文書を見直して問題ないことを確認すると、翠はパソコンの電源を落とし、帰り支度を始めた。周囲の人たちは、そんな翠を「今日は彼氏とデート? 羨ましいね」などと冷やかすけれど、幸成を待たせる訳にはいかない。

「じゃあすみません、お先に失礼します」

 ちょうど定時のチャイムが鳴り、翠は席を立つとロッカーへと向かった。荷物を取り、幸成に今から会社を出るとメッセージを送ると、ロッカー室を後にする。足早に階段を下りて、通用口へと足を運んだその時だった。

「伊藤ちゃん!」

 背後から翠を呼ぶ声が聞こえた。振り返らなくても誰かはわかる。翠は立ち止まると深呼吸をして振り向くと、声の主である浜田が追いかけてきた。

「ちょっと待って。伊藤ちゃん、そんなに急いで帰らなくてもいいじゃないか」

 浜田の言葉に、翠は内心イラっとした。業務時間は終わったし、頼まれた仕事もきちんと終わらせているのだから、引き留められる筋合いはない。でも、ここはまだ会社の中で人の目もある。できるだけ平静を装いつつも、話は手短に済ませたい。

「すみません。彼が迎えに来てくれるって言うので、待たせちゃ悪くって」

 いけしゃあしゃあと惚気をわざと口にする翠に、浜田は顔を引きつらせながらも笑顔を崩さない。でもその目は笑っていない。

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