貴方の残り香〜君の香りを狂おしいほど求め、恋しく苦しい〜
 譲は毎朝、真梨子が作った朝食を食べ、必ずキスをしてから出勤していく。夕食の有無についても必ず連絡があるし、二人分の食事を作ること、食べてくれる誰かがいること、帰ってから二人でのんびりと過ごす時間が心地良かった。

 たったこれだけのことだけど、二人で暮らす中での他愛もない会話や、目と目が合うこと、『ありがとう』や『ごめんなさい』をきちんと伝え合うことの大切さをひしひしと感じる。

 誰かと一緒に暮らすことは、一人とは違って気遣いが必要になる。それは結婚生活の中で十分実感していた。だけどそれが出来れば、二人の生活はより安定したものになる。

 晃とはどこですれ違い始めたのかしら……。

 晃の好みの女性であろうとして、どこかで自分を押し殺していた。だから私も限界が来てしまったんだ。もっと素の自分を出すべきだった。

 譲とは出会った時からそのままの自分だった……いや、むしろブラックな真梨子が出ていたかもしれない。彼に隠したものといえば、好きという感情だけだった。

* * * *

 四時間の後半になると、生徒たちの集中力が切れ始める時間だった。

 クラスの半数以上の視線が時計に向かい、チャイムが鳴るのを今か今かと待っている。

 わかるわよ、私だってそうだったもの。

「……今言ったところ、試験に出すから。ちゃんと復習しておきなさいね」

 真梨子が言うと、クラスからブーイングが飛ぶ。

「先生! 出すって言ったからには、そのままストレートに出してください!」
「はぁ? 意味がわからないんだけど」
「この間だって、出すって言うから頭に叩き込んだのに、応用問題で出したじゃないですか!
応用まで頭がついていかないんです!」

 クラス全員が賛同したため、真梨子は目を細めて鼻で笑う。

「応用だろうが何だろうが、出してることには変わりないでしょう? 解けるくらい勉強してらっしゃい。それが試験勉強ってものよ」

 高笑いをした真梨子だったが、生徒たちが頭を抱え始めたのを見て、ため息をついた。

 ただでさえ真梨子の問題は難しいと言われている。これ以上難しくしたらかわいそうかしら……。

「じゃあ仕方ない。この問題はストレートに出してあげるわ。そのかわり、全員正解しないと許しませんからね!」
「やった!」
「約束だよ、先生!」
「はいはい、あなたたちも約束守りなさいよ」
「はーい!」

 私も随分と柔らかくなったものだわ。昔はこんなふうに折れたりしなかったもの。

 黒板を消しながら、背中越しに生徒たちのひそひそ話が聞こえて来る。

「最近の先生、ちょっと優しくなった気がしない?」
「わかるわかる。あんまり怒らなくなったし」
「あとさ、なんか可愛くなった気がする」
「私も思ってた!」

 真梨子は恥ずかしくなり、思わず頬を染めた。

 もし理由があるとしたら、あれしかないじゃない……。

 年甲斐もなくって思うけど、私は譲に恋してる。
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