貴方の残り香〜君の香りを狂おしいほど求め、恋しく苦しい〜
 エレベーターで上の階まで昇りながら、真梨子の心臓は早鐘のように打ち続ける。怒り、悲しみ、悔しさ、様々な感情が入り乱れていた。ただ譲に手を握られていることだけが、唯一の心の拠り所だった。

 一人じゃない。大丈夫。そう言い聞かせる。

 エレベーターを降り、かつての家のドアの前に到着する。もしかしたらこの奥では最悪の光景が広がっているかもしれない。

「譲はここにいて。私だけが行く」

 それでももう黙っていることなんて出来ない。真梨子は意を決して鍵穴に差し、勢いよくドアを開けた。

* * * *

 真梨子は言葉を失った。覚悟はしていたが、まさか想像通りの展開になるとは思っていなかったのだ。

 暗闇の中、電気もつけずに晃は女を玄関先で押し倒し、もつれ合うようにキスをしていた。女の甘ったるい声が聞こえてくると、まだ行為に及んでいないとはいえ吐き気がした。

 ようやく真梨子の存在に気付いた二人は、まるで化け物と対峙したかのような目で彼女を見ると、慌てて離れた。

「ま、真梨子……⁈ なんでお前がここに……」

 挙動不審になり、目を逸らす。女の方は晃の影にパッと隠れた。

 二人を見下ろし、案外冷静でいられることに驚いた。むしろ二人の方が怯えきっている。

「……そうやって私を裏切り続けていたわけね。十年の結婚生活の中で、八年もセックスレス。でもあなたはそうやって外で女を抱いていた」

 晃は苦し紛れに口を開く。

「お、お前が子ども子どもってうるさいから、やる気が失せたんだよ。それに彼女とは離婚してからの付き合いだ。何も悪いことはしてない!」
「……へぇ、悪いことはしてないのか。じゃあこれはどういう意味かな?」

 真梨子の背後から姿を現した譲が、二人に向かってスマホをゆらゆらと見せた。

「お、お前……! な、何のことだ!」

 晃が食ってかかるように反論すると、譲は画面をタップする。

『悪かったね。いつもホテルばかりになってしまって』

 それは先ほどの会話だった。晃の顔色がみるみるうちに青ざめていくのがわかった。

『仕方ないですよ。先生は結婚してたわけだし。ホテルもリッチで素敵だったけど、やっと先生のお家に来られて嬉しいな』

 その後に女の声がし、二人は完全に黙り込んだ。譲はその音声をもう一度流して追い打ちをかける。

「……今の会話、完全にあんたが離婚する前から関係しているって証明してるよな」

 見下したように二人を睨みつける譲に、晃は必死に声を押し出す。

「……何だ、慰謝料か?」

 まるで吐き出すように話す晃を、真梨子はピクリとも表情を変えずに見ていた。

 この人って、こんなにクズだったんだ。その男のために十年も無駄にしてしまった。どうしてもっと早く気付けなかったんだろう。

「慰謝料なんかいらないわ。子どもも居なくてよかった。あなたと早く別れられてせいせいしているの。いえ、本当はもっと早く別れるべきだった」

 私は何を執着してたのかしら。馬鹿みたい。

「ねぇ、どうしてあなたは別れようとしなかったわけ? その女と一緒になれば良かったのに」
「そ、それは……世間体というか……親にも説明が出来ないだろ……」

 なんてクズな男。こんな奴と十年も一緒にいただなんて虫唾が走る。

 真梨子はため息をつくと、背後にいた譲の体にしがみつく。そして晃を振り返り、持っていた鍵を投げつけた。

「さよなら《《先生》》」

 真梨子が部屋から出た後、譲は晃に向かって不敵な笑みを浮かべる。

「俺はあなたには感謝しているんだ。あなたがクズだったおかげ真梨子をようやく取り戻すことが出来たからね」

 晃は悔しそうに唇を噛み締める。

「慰謝料はいりません。何しろ私はあなたとは社会的身分が違うのでね。真梨子は私が幸せにします。あなたたちは真梨子の不幸の上に成り立った幸せを、どうぞ噛み締めてください。あぁ、そうだ。今後真梨子を傷つけるようなことがあれば……」

 そう言った後、譲は冷ややかな視線を二人に向け、スマホを再びチラつかせる。

「どうなるか覚えておいてくださいね。それでは失礼します」

 そしてゆっくりとドアを閉めた。
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