私だけはあなたが好きだから大丈夫
自分だけの世界
博士は町内の図書館で少女を待っていた。館内には人が少なく、また透明な博士には誰も気が付かない。窓から外を見ると、先ほどまで晴れていた空には雲がかかっている。この図書館の近くにはバス停があり、この日はお父さんを迎えに行くまでの時間をここで過ごしていたことを、博士は覚えていた。

――『事故にあってからは、いつもここに来ていたわね』

博士は懐かしい気持になって館内を見回す。博士が中学生の頃には、友達と呼べる人はほとんどいなくなっていた。おそらくその原因は当時の博士にもある。クラスメイトが話しかけてきても、同情されてるのではないか、内心では見下されているのではないかと疑って、彼らと素直に向き合うことができなかった。また、相手に拒絶されることが怖くて、自分から話しかけることもなかった。

人から心を傷つけられることが多すぎて、少女には他人に何かを期待することが難しくなっていた。少女は、時間をかけて自分と他者との間に壁を作っていった。体の表面を透明な殻で覆って、他人の言葉が自分の心に届かないように、心が傷つかないように気をつけた。

人に傷つけられないため、自分を人に認めさせるために、少女は必死で勉強をした。学校という場所では成績が良い事はある程度のステータスであり、それは彼女を守る手段になった。少女は学校が終わるとすぐこの図書館に来て勉強をしていた。ここにいればクラスメイトに会わないし、人と話をしなくてもよいので楽だった。

「ここは、私の避難所だったけれど、生きがいを見つけた場所でもあるのよね」

館内に置かれている本を見て回っていた博士が、小さな声でつぶやく。事故にあう前は、勉強をしなければいけない理由がよく分からなかった。学校の先生たちは勉強を頑張りなさいというけれど、図形の角度の求め方など、なんの役に立つのか? ずっと昔にあった出来事を覚えることに、どんな意味があるのだろうか?

お母さんは、事故の後とても厳しくなった。特にテストの点数が低いととても怒られた。「あなたは顔のハンデがあるから、せめて勉強は必死にやりなさい」と、お母さんにいつも言われていたことを博士はよく覚えている。

「学校の成績が良ければいい大学に行けるの。一流の大学に入って、人から一目置かれるようになれば、顔に傷があっても、人にからかわれることもきっとなくなるわ。それに会社に就職する時も有利になるから、1人で生きていく力にもなるの」

というのが、お母さんの言い分だった。

お母さんは勉強を、〈娘を守るための手段〉と捉えていたが、それはある程度正しかったと博士は今でも思う。博士が中学や高校で、深刻ないじめにあわなかったのも、彼女の成績が良かったことが大きいと思う。それに学校の先生たちがよく気にかけてくれた。明らかなハンデを抱えながらも努力する子供に対して、彼らも何かをしてあげたいと思っていたのだろう。

当時はお母さんに自分の顔のことを言われるのがとてもつらかったし、厳しくされる理由もわからなかった。けれどそれは私を守るための愛情だったんだなと、博士は最近になってようやく感じることができるようになった。

しばらくして少女が図書館にやってきた。外では雨が降り始めたのだろうか、少女の服が少し濡れている。少女は窓際の席に座ると、カバンから少年にもらった小さな小箱を取り出し、中の指輪を嬉しそうに眺めている。今日はここで勉強をする気はないようだ。

お父さんは勉強する意味について、「どんな事でも、学ぶこと自体が楽しい事なんだよ。ただ、それに気がつける人は少ないかもしれない」と話していた。はじめはお父さんの言葉の意味が良くわからなかった。勉強の必要性は理解できても、それは決して楽しいものではなかった。

博士が学ぶことが楽しいと思えるようになったのは、この図書館で多くの時間を過ごすようになってからだ。毎日のようにここに来ていた少女は、ある時ふと一冊を手に取り読んでみた。それは海外で書かれた子供向けの本で、小さな女の子が人々を救おうと奮闘する物語だった。なんとなく手に取っただけなのに、読んでいると楽しくなって、その日のうちに全て読んでしまった。

それまでずっと本は退屈でつまらないものと思っていたし、自分から進んで読んだことはなかった。そのときに感じたことは、世界はとても広くて深いのかもしれないということ。そして自分の見てきた世界は、実はまだすごく小さくて、全てではないかもしれないということだった。

時間は十分にあったので、それからいろいろな種類の本を読んだ。それは、競争や自分を守るための勉強とは違う、自分の喜びのためだけの学びだった。例えば物語を読んだときには、主人公と一緒に喜んだり悲しんだりして、自分も同じ出来事を体験できた。世界地図や旅行記は、自分の住んでいる町の外にはとても大きな世界が広がっており、そこには多様な文化や価値観をもつ人々がいることを教えてくれた。歴史の本は、過去の出来事の積み重ねで現在ができていること、そしてその過程から多くを学べることを教えてくれた。

博士はここで自由に学ぶことの楽しさを知った。自分の生き方を見つけたような気がして心が躍った。自由な学びを手にしたことは、彼女に現実世界で生きる手段も与えてくれた。科学の不思議で奥深い世界に興味を持った彼女は、現在は物理学者として宇宙空間の物理法則に関する研究を行っている。

――『本の楽しさや学ぶ喜びを知ったことは、この顔の傷をきっかけに見つけた、私だけの世界だ。そう、怪我をしたことで手に入れたものは、他にもきっとある。顔に傷のない私は、この世界を見つけられるだろうか?』

博士は自分がこの日しようとしていることに対して不安を感じた。

博士はしばらく館内を歩きながら考えていたが、ふと机の上においた指輪をいつまでも眺めている少女を見た。その姿はとても幸せそうで、博士の胸を打つ。それは自分が失ってしまった光景だ。明日からは25年間、自分の姿を鏡で見るたびに、重いため息をつくことになる。

――『私はこれまで生きてきた自分を褒めてあげたいし、認めてあげたい。けれど、やっぱり私は誰かに愛されたいし、自分を好きになりたい』

「そう、私はもう一度自分を好きになりたい」

博士は自分の願いを小さな声でつぶやいた。それは博士にとって、今まで手にした何よりも大切なことだった。

――『一度、あの子と話をしてみよう。今の私を見て、あの子は何て思うだろう。過去の自分と向き合えば、この迷いも消えるかもしれない』
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