造花街・吉原の陰謀
05:悪意の種類
「それ、作り話だよね……?よくある吉原の根拠のない怪談話……」
もう海はあてにしない。さらに酷い怪談話を聞かされたら堪ったものじゃない。明依は救いを求めて恐る恐る空に問いかけた。
「その一件があって、大門には遊女が通ると管理室にアラートが鳴るシステムが導入された。あれには足抜け防止の他にも、遊女を守る役割がある。松ノ位への昇格は妓楼の行事として遊女の評判を当てにしていた主郭も、素質があるかどうかを本格的に査定をするようになったって話だ」
つまり事実という事だ。
あっけなく切り捨てられた明依は、どうすることも出来ずに二人の顔を交互に見た。
「じゃあ、私たちは帰るから」
「待って待って待って。なんで?なんで今、帰るの?」
海はあっさりそう言って踵を返そうとする。明依は思わず、海の腰に腕を絡めて抱き着いた。
どんな手を使っても返すわけにはいかない。あんな話を聞いて一人で眠れるはずがないんだから。
「と、泊っていきなよー。布団、準備するから」
「遠慮します。人がいると眠れない質だから」
そう言うと、海は明依がまとわりついている事も気にせずに一歩踏み出した。明依は引きずられながらも海の腰に絡めている腕に力を込めた。
「急に怪談話し始めたの海ちゃんじゃん!責任取ってよ!!お願いだから!!」
「あなたはもともと手遅れなくらい弛んでるのに、今日は特に酷かった。身を引き締めるいい機会」
明らかに意図的な悪意だ。
そんな殺生な。というセリフの様な言葉が危うく口から出そうになる程、明依は切羽詰まっていた。
これは本当にまずい。空と海の性格は何となくわかっているつもりだ。これは本当に一方的に恐怖心だけを与えて去っていくつもりに違いない。
何とかこの現状を打開しなければと思っているのに、切羽詰まったこの状況で出てくる言葉と言えば泣き言ばかりだった。
「私が呪い殺されたらどうするの!?」
「末代まで語り継いであげる。〝満月屋・黎明大夫、黎明より前に死す〟って」
「うまい!!うまいけど、全然嬉しくない!!やだやだやだ。お願いだから!一人にしないで!」
「いい大人がみっともない」
切り捨てる様にあっさりそういう海はもうあてにできないと悟った明依は、海の腰にしがみついたまま顔を上げて空を見た。
「空くん!!空くん、何とか言ってよ!」
「別にお前の行末はどうでもいいし、一人でゆっくり寝たいから何も言う事はない」
終わった。と思った明依はほんの少し腕の力を緩めた。その隙に先を進む海に振り払われて、空の言葉に打ちひしがれながら思いきり額と鼻を畳に打ち付けた。
こうなったらこの手しかないと、明依は畳に額をつけたまま喉元を震わせた。
「うう、酷い……。私、このままだと泣いちゃ、」
明依が言い終わるよりも前に、襖はぴしゃりと音を立ててしまった。
引っ掛けかもしれない。
そう思って一分ほどそのままの体勢で待っていた明依だったが、空と海がこの部屋に戻ってくる様子は見られなかった。
「……クソガキぃ」
そう言いながら、畳に爪を立てる様にして拳を握った。
我慢の限界を迎えてとうとう言ってやった言葉だったが、残念ながら二人には届かなかった。
明依は顔を上げた。シンと静まり返った室内が、妙に恐怖心を煽る。無防備に横になっている事さえ怖かったので、さっと身を起こして立ち上がった。
今日は絶対に一人では眠れないと確信し部屋を出て、意味もなく廊下の壁に触れながら時々背後を確認して人気のない廊下を歩き、雪の部屋の前で立ち止まった。
「お、おーい。雪ー。起きてるー?」
時刻は二十三時を回ったところだろう。小さな声でそういいながら雪の部屋の襖を開けたが、規則的な寝息が聞こえてきた。
明らかな不法侵入だが、こうなれば致し方ない。明日全力で謝るから隣で眠らせてもらおう。と思った明依だったが、残念ながら雪の部屋は以前吉野が雪に送った着物や装飾品で埋もれていて、小さな雪一人がやっと眠れる程のスペースしかなかった。
起こす訳にもいかず、泣きそうになりながら雪の部屋の襖を閉めて、最後の頼みの綱、桃の部屋へ向かった。
「桃ちゃーん。いるー?」
そう声をかけてみるが、桃の部屋から返事はない。
眠っている可能性もあるが勝手に部屋を開けるのは思いとどまった。仕事か休みかもわからないのに、他人の部屋を勝手に開ける事には当然気が引けたからだ。
それを考えると、日奈と自分の関係は本当に特別だったんだと思わぬところで思い知る。側にいて当然だと思っていた。ただ側にいる事がどれだけ特別な日々だったのか、今になってよくわかる。醒めたと思った酒の効果がまだ残っていたのか、なんだか泣きそうになった。それから終夜と身体を重ねかけた事実と、口付けと、終夜へ抱いている感情。心の内で日奈と絡んで、苦しくなった。
しかしすぐに追い立てるような恐怖感を思い出して、とりあえず桃の状況を把握しているであろう宵の元へ行くために、また廊下を歩く。
もし桃が仕事で朝まで座敷の中にいる場合はどうしよう。と思いながらも、なるべくそのことを考えない様に現実逃避をしながら、壁に手を当てて時々背後を確認しながら、やっとのことで階段まで来た。
階段の下からは溢れんばかりの光が漏れている。
助かった、と気を抜いて階段に一歩足をかけた。
「私の目はどこ?」
すぐ後ろから聞こえた、小さくも大きくもない声。たった一言。恨めしそうにも、悲しそうにも聞こえる。
思考も行動も呼吸さえも、全て止まった。それから何を考えるより先に、明依は階段を駆け下りた。もういっそ、転がり落ちてしまいたいと思うくらい急いで。
まだほんの僅かに賑わいを残す妓楼の二階、階段の一番下でぴたりと足を止めた。後ろを振り向くことは出来そうになかった。
「おや、黎明。どうしたんだい、そんなところに突っ立って。顔、真っ青じゃないのさ」
座敷の片付け途中の遣り手が明依に向かって不思議そうにそういう。全て聞いてほしい気持ちになったが、信じてもらえる保障もない。もし信じて貰えたところで、よくある事だから、なんて笑って言われようものなら、今聞いた声の存在を認める事になる。そうなれば金輪際一人で眠れない自信があった。
「……大丈夫です。なんでもないんです」
目も合わせずに、とりあえずその場をやり過ごそうと明依はそう言った。それを聞いた遣り手の女は、不審そうな顔をしたが特に深入りすることもなくその場を去った。
とりあえず妓楼が眠る前に宵の所へ行こうと、明依は小走りで妓楼の中を移動した。その間、数秒に一度は背後を確認したが、やはりそこには誰もいなかった。
「宵兄さん、宵兄さん!」
宵の部屋の前でそう言うと、明依の焦った様子を感じたのか宵はすぐに出てきた。
「どうした?何かあった?」
「あの、桃ちゃんって仕事かな?」
背後を確認しながらそわそわした態度でそういう明依に、宵は同じ方向を確認してそれから首を傾げた。
「そうだけど……」
「今日はもう終わりとか」
「いや、いつも通り。朝まで」
終わった。
根気よく挨拶した事と松ノ位に上がった事で竹ノ位の遊女とある程度打ち解ける事は出来たが、部屋に泊まらせてもらう程仲良くなってはいない。
「ちなみに、霞さんは……?」
霞が部屋に泊まらせてくれるとは思っていないが、こうなったらもう頭を下げてもいい。今日は絶対に、あの部屋で一人では眠れない。一人で眠るくらいなら、今から新規の客を取ったほうがマシだとすら思えた。
雪を起こして自分の部屋に泊まってもらおうかとも考えたが、大人として底辺であり人間の品格が問われるその行動を果たしてとるべきなのかと明依は真剣に考えていた。
「朝までお客様と座敷にいるけど」
本当に終わった。
もういっそ、この場で気絶してしまいたいくらいだ。
「とりあえず入る?」
「お邪魔します」
宵の提案に明依はすかさずそう言うと、もう一度自分の背後を確認してさっと宵の部屋の中に入った。
「それで、何かあった?」
宵は文机の前に座りながらそういう。明依は宵のすぐ前に腰を下ろした。
「あの……こ、怖くて」
「怖い?怖いって、何が?」
「は、剥製の……」
「剥製?」
「剥製の遊女の話」
「ああ。久しぶりに聞いたよ、その怪談話。たしか、昇格した松ノ位が足抜けして剥製にされたって。お取り潰しになった妓楼を今も探してるって話だったよね」
「作り話だよね。その話。ほら、双子の幽霊みたいな」
「時々聞くけどね」
「え……。えっ、聞くって……何を?」
冗談で合ってほしいと願い、無理に作った笑顔でそういう明依を他所に、宵は当たり前のような顔で口を開いた。
「夜な夜な『私の目はどこ?』って言う声がしたって話」
先ほど確かに聞いたその言葉に、さっと血の気が引く感覚がした。宙に浮いている様な感覚。思考以外の全てを閉ざしているような感覚の中で、言葉を口にするために息を吸ったことで、ほんの少しだけ冷静になった。
「め、目って?」
「剥製は皮を剥いで中に詰め物をして作る。だけど目は使えないから、偽物の目を入れるんだよ。だからその声の主は剥製の遊女で、なくなった自分の目を探しているんじゃないかって話らしい。……まあ、噂話だよ」
ゾッとしたと同時に、確かな寒気が明依を襲った。
「ごめん、明依。怖かった?」
「怖い。……本当に怖い……!どうしよう。桃ちゃんの部屋に泊めてもらおうと思ったんだけど……今日はお座敷から帰らないだろうし……。やっぱりもう、謝って雪に起きて、」
「じゃあ、俺の部屋に泊まる?」
「いいの!?……いや、でも……」
そうか、その手があったか。と思ったが、夕霧大夫の言葉を借りるなら、『男と女が二人きりになった末路なんて、どれも似たようなもの』な訳で。
ゆくゆくは一緒になるんだから、部屋に泊まるくらいなんて事はない。というか、外界のカップルなんてこんなこと当たり前にやっているわけだし、何なら以前、一度は覚悟を決めた。
自分はそういう事をする仕事をしているわけで。
ほら、大丈夫だ。なんて事はない。
一人で眠る選択肢はもはやない。宵の言葉に甘えてここに泊まらせてもらおう。
そう思っているのに、無駄に緊張して、〝うん〟とか〝はい〟とか肯定的な返事が喉元で絡まって出てこなかった。
煮え切らない返事をする明依に宵は何を思ったのか、薄く笑って明依の耳元に口を寄せた。
「何もない保障がなくていいなら」
少し声を抑えて、宵はそういう。
顔がいっきに、燃えるように熱くなる。きっと今自分は彼の手中だ、と思った。
恐怖心と羞恥心が大乱闘を繰り広げ、この決断を間違えたら死ぬのかというくらい頭をフル回転させて考えている自分を見て、宵はこの状況を楽しんでいるという確信。
これは明らかに、故意的な悪意だ。
もう海はあてにしない。さらに酷い怪談話を聞かされたら堪ったものじゃない。明依は救いを求めて恐る恐る空に問いかけた。
「その一件があって、大門には遊女が通ると管理室にアラートが鳴るシステムが導入された。あれには足抜け防止の他にも、遊女を守る役割がある。松ノ位への昇格は妓楼の行事として遊女の評判を当てにしていた主郭も、素質があるかどうかを本格的に査定をするようになったって話だ」
つまり事実という事だ。
あっけなく切り捨てられた明依は、どうすることも出来ずに二人の顔を交互に見た。
「じゃあ、私たちは帰るから」
「待って待って待って。なんで?なんで今、帰るの?」
海はあっさりそう言って踵を返そうとする。明依は思わず、海の腰に腕を絡めて抱き着いた。
どんな手を使っても返すわけにはいかない。あんな話を聞いて一人で眠れるはずがないんだから。
「と、泊っていきなよー。布団、準備するから」
「遠慮します。人がいると眠れない質だから」
そう言うと、海は明依がまとわりついている事も気にせずに一歩踏み出した。明依は引きずられながらも海の腰に絡めている腕に力を込めた。
「急に怪談話し始めたの海ちゃんじゃん!責任取ってよ!!お願いだから!!」
「あなたはもともと手遅れなくらい弛んでるのに、今日は特に酷かった。身を引き締めるいい機会」
明らかに意図的な悪意だ。
そんな殺生な。というセリフの様な言葉が危うく口から出そうになる程、明依は切羽詰まっていた。
これは本当にまずい。空と海の性格は何となくわかっているつもりだ。これは本当に一方的に恐怖心だけを与えて去っていくつもりに違いない。
何とかこの現状を打開しなければと思っているのに、切羽詰まったこの状況で出てくる言葉と言えば泣き言ばかりだった。
「私が呪い殺されたらどうするの!?」
「末代まで語り継いであげる。〝満月屋・黎明大夫、黎明より前に死す〟って」
「うまい!!うまいけど、全然嬉しくない!!やだやだやだ。お願いだから!一人にしないで!」
「いい大人がみっともない」
切り捨てる様にあっさりそういう海はもうあてにできないと悟った明依は、海の腰にしがみついたまま顔を上げて空を見た。
「空くん!!空くん、何とか言ってよ!」
「別にお前の行末はどうでもいいし、一人でゆっくり寝たいから何も言う事はない」
終わった。と思った明依はほんの少し腕の力を緩めた。その隙に先を進む海に振り払われて、空の言葉に打ちひしがれながら思いきり額と鼻を畳に打ち付けた。
こうなったらこの手しかないと、明依は畳に額をつけたまま喉元を震わせた。
「うう、酷い……。私、このままだと泣いちゃ、」
明依が言い終わるよりも前に、襖はぴしゃりと音を立ててしまった。
引っ掛けかもしれない。
そう思って一分ほどそのままの体勢で待っていた明依だったが、空と海がこの部屋に戻ってくる様子は見られなかった。
「……クソガキぃ」
そう言いながら、畳に爪を立てる様にして拳を握った。
我慢の限界を迎えてとうとう言ってやった言葉だったが、残念ながら二人には届かなかった。
明依は顔を上げた。シンと静まり返った室内が、妙に恐怖心を煽る。無防備に横になっている事さえ怖かったので、さっと身を起こして立ち上がった。
今日は絶対に一人では眠れないと確信し部屋を出て、意味もなく廊下の壁に触れながら時々背後を確認して人気のない廊下を歩き、雪の部屋の前で立ち止まった。
「お、おーい。雪ー。起きてるー?」
時刻は二十三時を回ったところだろう。小さな声でそういいながら雪の部屋の襖を開けたが、規則的な寝息が聞こえてきた。
明らかな不法侵入だが、こうなれば致し方ない。明日全力で謝るから隣で眠らせてもらおう。と思った明依だったが、残念ながら雪の部屋は以前吉野が雪に送った着物や装飾品で埋もれていて、小さな雪一人がやっと眠れる程のスペースしかなかった。
起こす訳にもいかず、泣きそうになりながら雪の部屋の襖を閉めて、最後の頼みの綱、桃の部屋へ向かった。
「桃ちゃーん。いるー?」
そう声をかけてみるが、桃の部屋から返事はない。
眠っている可能性もあるが勝手に部屋を開けるのは思いとどまった。仕事か休みかもわからないのに、他人の部屋を勝手に開ける事には当然気が引けたからだ。
それを考えると、日奈と自分の関係は本当に特別だったんだと思わぬところで思い知る。側にいて当然だと思っていた。ただ側にいる事がどれだけ特別な日々だったのか、今になってよくわかる。醒めたと思った酒の効果がまだ残っていたのか、なんだか泣きそうになった。それから終夜と身体を重ねかけた事実と、口付けと、終夜へ抱いている感情。心の内で日奈と絡んで、苦しくなった。
しかしすぐに追い立てるような恐怖感を思い出して、とりあえず桃の状況を把握しているであろう宵の元へ行くために、また廊下を歩く。
もし桃が仕事で朝まで座敷の中にいる場合はどうしよう。と思いながらも、なるべくそのことを考えない様に現実逃避をしながら、壁に手を当てて時々背後を確認しながら、やっとのことで階段まで来た。
階段の下からは溢れんばかりの光が漏れている。
助かった、と気を抜いて階段に一歩足をかけた。
「私の目はどこ?」
すぐ後ろから聞こえた、小さくも大きくもない声。たった一言。恨めしそうにも、悲しそうにも聞こえる。
思考も行動も呼吸さえも、全て止まった。それから何を考えるより先に、明依は階段を駆け下りた。もういっそ、転がり落ちてしまいたいと思うくらい急いで。
まだほんの僅かに賑わいを残す妓楼の二階、階段の一番下でぴたりと足を止めた。後ろを振り向くことは出来そうになかった。
「おや、黎明。どうしたんだい、そんなところに突っ立って。顔、真っ青じゃないのさ」
座敷の片付け途中の遣り手が明依に向かって不思議そうにそういう。全て聞いてほしい気持ちになったが、信じてもらえる保障もない。もし信じて貰えたところで、よくある事だから、なんて笑って言われようものなら、今聞いた声の存在を認める事になる。そうなれば金輪際一人で眠れない自信があった。
「……大丈夫です。なんでもないんです」
目も合わせずに、とりあえずその場をやり過ごそうと明依はそう言った。それを聞いた遣り手の女は、不審そうな顔をしたが特に深入りすることもなくその場を去った。
とりあえず妓楼が眠る前に宵の所へ行こうと、明依は小走りで妓楼の中を移動した。その間、数秒に一度は背後を確認したが、やはりそこには誰もいなかった。
「宵兄さん、宵兄さん!」
宵の部屋の前でそう言うと、明依の焦った様子を感じたのか宵はすぐに出てきた。
「どうした?何かあった?」
「あの、桃ちゃんって仕事かな?」
背後を確認しながらそわそわした態度でそういう明依に、宵は同じ方向を確認してそれから首を傾げた。
「そうだけど……」
「今日はもう終わりとか」
「いや、いつも通り。朝まで」
終わった。
根気よく挨拶した事と松ノ位に上がった事で竹ノ位の遊女とある程度打ち解ける事は出来たが、部屋に泊まらせてもらう程仲良くなってはいない。
「ちなみに、霞さんは……?」
霞が部屋に泊まらせてくれるとは思っていないが、こうなったらもう頭を下げてもいい。今日は絶対に、あの部屋で一人では眠れない。一人で眠るくらいなら、今から新規の客を取ったほうがマシだとすら思えた。
雪を起こして自分の部屋に泊まってもらおうかとも考えたが、大人として底辺であり人間の品格が問われるその行動を果たしてとるべきなのかと明依は真剣に考えていた。
「朝までお客様と座敷にいるけど」
本当に終わった。
もういっそ、この場で気絶してしまいたいくらいだ。
「とりあえず入る?」
「お邪魔します」
宵の提案に明依はすかさずそう言うと、もう一度自分の背後を確認してさっと宵の部屋の中に入った。
「それで、何かあった?」
宵は文机の前に座りながらそういう。明依は宵のすぐ前に腰を下ろした。
「あの……こ、怖くて」
「怖い?怖いって、何が?」
「は、剥製の……」
「剥製?」
「剥製の遊女の話」
「ああ。久しぶりに聞いたよ、その怪談話。たしか、昇格した松ノ位が足抜けして剥製にされたって。お取り潰しになった妓楼を今も探してるって話だったよね」
「作り話だよね。その話。ほら、双子の幽霊みたいな」
「時々聞くけどね」
「え……。えっ、聞くって……何を?」
冗談で合ってほしいと願い、無理に作った笑顔でそういう明依を他所に、宵は当たり前のような顔で口を開いた。
「夜な夜な『私の目はどこ?』って言う声がしたって話」
先ほど確かに聞いたその言葉に、さっと血の気が引く感覚がした。宙に浮いている様な感覚。思考以外の全てを閉ざしているような感覚の中で、言葉を口にするために息を吸ったことで、ほんの少しだけ冷静になった。
「め、目って?」
「剥製は皮を剥いで中に詰め物をして作る。だけど目は使えないから、偽物の目を入れるんだよ。だからその声の主は剥製の遊女で、なくなった自分の目を探しているんじゃないかって話らしい。……まあ、噂話だよ」
ゾッとしたと同時に、確かな寒気が明依を襲った。
「ごめん、明依。怖かった?」
「怖い。……本当に怖い……!どうしよう。桃ちゃんの部屋に泊めてもらおうと思ったんだけど……今日はお座敷から帰らないだろうし……。やっぱりもう、謝って雪に起きて、」
「じゃあ、俺の部屋に泊まる?」
「いいの!?……いや、でも……」
そうか、その手があったか。と思ったが、夕霧大夫の言葉を借りるなら、『男と女が二人きりになった末路なんて、どれも似たようなもの』な訳で。
ゆくゆくは一緒になるんだから、部屋に泊まるくらいなんて事はない。というか、外界のカップルなんてこんなこと当たり前にやっているわけだし、何なら以前、一度は覚悟を決めた。
自分はそういう事をする仕事をしているわけで。
ほら、大丈夫だ。なんて事はない。
一人で眠る選択肢はもはやない。宵の言葉に甘えてここに泊まらせてもらおう。
そう思っているのに、無駄に緊張して、〝うん〟とか〝はい〟とか肯定的な返事が喉元で絡まって出てこなかった。
煮え切らない返事をする明依に宵は何を思ったのか、薄く笑って明依の耳元に口を寄せた。
「何もない保障がなくていいなら」
少し声を抑えて、宵はそういう。
顔がいっきに、燃えるように熱くなる。きっと今自分は彼の手中だ、と思った。
恐怖心と羞恥心が大乱闘を繰り広げ、この決断を間違えたら死ぬのかというくらい頭をフル回転させて考えている自分を見て、宵はこの状況を楽しんでいるという確信。
これは明らかに、故意的な悪意だ。