造花街・吉原の陰謀
08:明か時におぼつく後悔
「吉原を解放したいと思っております」
「理由は?」
明依の言葉に暁は驚いた様子も見せず、間髪入れずにそう言った。
「社会の仕組みの中で吉原が必要な理由は、終夜から聞いて理解しました。この街の裏側は一見すると物騒ですが、人の命を救っている。……しかしこの街には、子どもでいる事を許されない子どもも、許されなかった大人もたくさんいます。夢も希望も捨てて自分が何かわからないままただ同じ日々を繰り返す事が、人間のあるべき姿とは私は思いません」
旭と日奈が死んだ絶望。自分が幸せ者だと気づいたあの日から、今までの事。
〝遊女〟と呼ばれる女が見ていたこの街の景色が、あんな風に色褪せていたなんて知ずに甘えてばかりいた、浅はかな自分への戒め。
暁は黙ったまま、負けん気だけを原動力にして成り上がった遊女の言葉の続きを待っていた。
「せめて、希望くらいは。その先の選択肢くらいはあっていいのではないでしょうか」
「旭も同じことを言っていたな。……それから私のせがれも」
そう言うと暁はゆっくりと深く息を吐いた。
今度は明依が、暁の言葉の続きを待っていた。
「その意見には賛成する」
「失礼ですが。……吉原の解放でご子息様と揉めていらっしゃったのではないのですか」
「当時は今よりも、もっと吉原に敵が多かった」
暁は懐かしむように、少し目を細めた。
しかしそれは触れてみたいと思う様な美しい思い出ではなく、解くと痛みが生じる思い出に触れている表情。
まるで、自分自身への戒めにすら感じた。
「吉原は今と違って外に気をやっていた。我が子の言動を、ただ感情で動いているだけだと決めつけていた私の落ち度だ」
態度も口調も先ほどと何一つかわらないのに、後悔なんて言葉では到底片付けられない程、強く何かを思っている事がよく分かった。
裏の頭領は、実の息子が〝吉原解放〟を唱えたから吉原から追い出した。
たくさんの人間がそう認識している。時々聞く昔の頭領の様子。〝過激派〟だったという言葉。当たり前の顔をしてそういう事をする人、だったのかもしれない。
例えば、終夜のような。
いつどうなってもおかしくない頭領が、今も生きている理由。
それは暮相への想いから来る吉原の行末への不安なのかもしれない。
もし本当にそうなら、人間という生き物の〝気力〟というのは底知れない。
吉原を解放すれば、頭領も息を抜くことが出来るんだろうか。
「本当に大切なことは、言葉にしないと伝わらないものだ。ただ時に、言葉は欺く。態度は嘘をつかない。意図して態度に嘘を混ぜるヤツも中にはいるが、そんなひねくれものは稀だ」
自分に言われていることを理解しているのか、終夜は飄々と笑っている。
「失礼を承知で申し上げます。この街から暮相さんがいなくなった事、その心の内の葛藤を〝呪い〟と表現している事は、ご存じでしょうか」
「ああ。知っている」
〝知っている〟。
暁の言うその言葉には、そう表現されている事は〝知っている〟。という意味の他にも、その言葉の意味を身を持って〝知っている〟という陰影を持っていた。
「暮相さんを好きであれば好きであるほど、その〝呪い〟は強い様に思います」
似た者同士だった様子の時雨。吉原解放を共に進めようとした高尾。それから、仲たがいしたまま別れた吉野を、それぞれ思い出していた。
他人に甘えていた頃、凛として見える人にも悩みや弱い部分があるなんて事はぼんやりと想像が出来ても、実感は出来なかった。
だからきっと、暁もそうだという確信が明依の中にはあった。
暁は黙って明依の言葉を待っている。それはおそらく、純粋な好奇心だ。
松ノ位に上がった遊女が、わざわざ会った事もない自分の息子を語ろうとする事に対する。
「私には過不足なく、その想いが伝わっております」
目を見てはっきりとそう告げた明依に、暁は目を見開いた。
この人は未来どころか、過去にさえ居場所がない。
見ている景色は、きっと地獄だろう。
罪ばかりを背負って生きるというのは、どれほどの想いだろうと気持ちを巡らせることしかできないけれど。死よりも辛い事があると知っている。
救いなんて大げさなものでも、哀れみなんて押しつけがましいものでもない。
でも、少しだけでもあの感覚を分けてあげたいと思うような、少し傲慢な思い。
自分の気持ちを否定せずに認めてもらえる喜びを、松ノ位に上がった日にもらったから。
暁は目を閉じるとゆっくりと息を吐いて、今度こそ穏やかで、優しい顔で笑う。
「黎明。お前は両親を覚えているか」
予想していない質問に呆気にとられながらも、何とか返事をする。
「はい。……覚えております」
「両親は好きか」
「はい」
「独子か?」
「ひとりご……?」
聞きなれない単語で問われ、明依は思わずその言葉を口にした。
「兄弟いないの?ってこと。ひとりっ子かって聞いてるんだよ」
いつもの態度でそういう終夜に、明依はここが吉原という大きな街を統べる裏の頭領の前という事もすっかり忘れて「ああ」と口にした。
自分の失態には気づいたものの、もう突っ切ってしまえ精神で終夜から暁に視線を戻した。
「はい、そうです」
「それならば尚の事、命ある限り精一杯生きなさい」
諭すような口調で暁は言う。しかし、今までの話からどうしてその結論に至ったのか、よくわからなかった。
「大好きな二人が生きていた証は、この世界でお前しかいないのだから」
心に響く、という言葉の意味を知った。
たったそれだけでまた、世界が違って見える。
両親に愛された記憶が蘇ってくる。たくさんの愛をくれた。世の中には、この街には、親を知らない人も多くいる。
過去にただ、触れるだけ。
でも触れられる思い出があるという事実が、すでに幸せなのだいう事に気が付いた。
「心中に刻んでおきます」
そう言うと、暁は納得したように頷く。
傲慢なだけの人間にはきっと、こんな言葉は出ないだろう。
やはり人に選ばれて人の上に立つ人間にはそれなりの理由があるという事だ。
「さて」
少しの沈黙の後、終夜は仕切り直す様にそう言った。
「頭領も吉原解放に賛成。松ノ位もこうやって支持している。それなら、早速話を進めましょう。外界で行われる会議に、黎明を連れて行きたい。〝松ノ位が選んだ松ノ位〟って、世間の注目を掻っ攫った黎明大夫に、みーんな興味がある」
すらすらと準備していたかの様にそう告げた終夜は、暁に視線を移した。
「って事で。一時的に吉原から出る許可、ください」
こんな感じで頼んでいるのか、フランク過ぎないか。と唖然としたが、いつもの事なのか、暁は全く動じていなかった。
「構わないが、終夜よ。お前はまず、他人の予定を確認する事を覚えてはどうだ」
「大丈夫」
終夜の意味深な呟いた後、一瞬の事。嫌な予感がしたことは確かだった。
そしてこんな時の勘は、よく当たる。
「黎明の今夜の予定は、俺ががもうしっかり押さえてますから」
一瞬で、頭が真っ白になった。
今夜は終夜と話をする約束になっているはずだ。
そうして気が付いた。
また、騙された。
「今更予定があるなんて言わないよね。これはアンタの願いでもあるんだから」
これから先の人生を共に過ごそうとする宵に嘘をついた、空白の時間。それならそうと、最初からそんな風に言ってくれていたら、気持ちは違ったかもしれないのに。
傷付いた先に思ったのは、やっぱり終夜の事が好きなんだという意味のない事。
本当に何も、分かってない。
分かってもらっても困るのに。身動き一つとれないこの状況が、苦しかった。
今朝まで、宵を大切にしようと思っていたはずなのに。
「今夜、御相伴しても構いません」
悔しくて、悲しくて。それなのに、強がっていたくて。
馬鹿正直に傷付いているなんて、思われたくなかった。
「今すぐに、私の前から消えてくれるなら」
明依は終夜を睨みながらそう言った。
想定外の言葉だったのか、終夜はきょとんとした後で笑顔を張り付けて一歩を踏み出した。
「はいはい」
わざとらしく立てた足音が、隣を通り過ぎて段々と離れて行く。
「じゃあ、交渉成立だね」
何も答えずにいると、後ろで襖の締まる音がした。
振り返って確認すると、確かに終夜は部屋の中にはいなかった。
本当に終夜は出て行き、この部屋には暁と自分以外には誰もいない。
腹が立って突発的に口にした言葉だったが、それからふと気づく。
自分は案外、図太い人間なんだと他人事のように思った。
これは願ってもないチャンスだ。
明依は震える喉元を通して息を吐いた後、暁に向き直った。
「暁さま。……まもなく始まるメンテナンスのための吉原全面休園にて、何が行われるかご存じでしょうか」
明依は先ほどよりも少し声を潜めてそう言う。
「終夜の事か」
「はい」
話が早くて助かるというのはまさにこの事だった。
明依は緊張を和らげるために、一度大きく息を吸った。
「……止める事は、出来ないのでしょうか」
「出来ない」
はっきりとそう告げる暁の言葉になるべく心が揺れない様に保ちながら、明依は言葉の続きを待った。
「裏の頭領という立場は、決して独裁ではない。この流れに逆らえば、必ず反発が起きる。そうなれば吉原という街は、激しい生存競争からあぶれる事になるだろう。それがどれだけの損害か、お前には分かるはずだ」
確かにそうだ。吉原には敵が多い。だから吉原の解放も秘密裏に行おうとしているのだ。それに、この街がなければ消える命だってたくさんあるだろう。
そうなればあったはずの希望さえ、無くなってしまう。
「私は吉原の未来の為に、頭領としてこの決断をする」
人の上に立つ者として、最もな意見だと思った。
裏の頭領が自由奔放に動く終夜一人を庇えば、必ず吉原の中に反発が起きる。そうなれば、外からの侵入を許す事にもつながる。
吉原という街は昔から、そうやって内側の結託を強める事で外からの侵入を防いできたのだ。
だから内側が揺らいでいるまさに今、〝外〟である宵が頭領になろうとしているとも言える。
「無力なものだな。松ノ位という称号も、裏の頭領という肩書も」
無責任な言葉なんかじゃない。
暁のその言葉には、自分の無力さを呪うような響きも持っていた。
「暁さま。私は……終夜に生きていてほしいんです」
そう告げた途端、泣きたくなった。
それから堰を切ったように、弱い部分が溢れてくる。今日初めてまともに顔を合わせたというのに、この人なら受け入れてくれるだろう、なんて根拠のない自信があった。
「私は吉原を解放したくて……。いろいろな理由があって松ノ位に上がりましたが……大切な人を守れないなら、成り上がったこの立場さえ何の意味もないのではないかという気がして仕方ありません」
「……私ももうずっと、お前と同じことを考えている」
明依は顔を上げたが、暁は明依を見てはいなかった。
おそらく彼は今、解くと痛みを伴う記憶の糸を解いている。
「友を、家族さえ捨て置いてでも私はこの場所に立つことを選んだ。……結局、人というのは飾られた立場などでは計り知る事はできない。だから人と向き合うのなら立場を利用するのではなく、一人の人間として。〝自分〟の質を磨くしかない。この人の話なら、聞いてみよう。そんな風に思わせなければな。……黎明。お前の見ている終夜は、お前の意見全てを程度の低い事と見下げる人間か」
暁には明依が何を言いたいのかわかってる様子だった。
終夜がどうして、わざわざ明日の予定を嘘をついてまで抑えさせたのかは知らない。
ただ、もし終夜が本当に何も期待していなければ、人の心を踏みにじる様な直接的な言葉で断るか、飄々と論点をずらしているだろう。
自分は案外、終夜という人間を知っている。
そう思ったのは今に始まった事ではないが、いつもマイナスな事ばかりでうんざりしていた。
「ありがとうございます、暁さま。今日の所は、失礼いたします」
暁が頷いた事を確認して部屋を出ると、すぐそばに立っていた案内役の男へ向き直った。
「終夜は、」
「終夜さまから、ご案内するように言い付かっています」
〝どこですか〟と続くはずだった言葉は、案内役の男に遮られた。明依は黙って案内役の男について行く。
「ここで準備を済ませる様に。とのことです」
襖を開けた先には八千代がいて、着物や小物。過去に二度見た景色があった。
「終夜はどこですか?」
「〝俺はアンタみたいに暇じゃないから〟と言付かっています」
「……私だって暇じゃないし。つまり終夜は私と話をするのが怖くて逃げたって事ですか?」
「〝ご都合主義で解釈してる暇があるならさっさと着替えてよ〟と言付かっています」
「……あのクソ男」
「〝可愛気のない女はモテないよ〟と言付かっています」
言いようのない怒りを燃やす明依に、案内役の男は笑顔を作った。
「黎明大夫が自分について聞いてきたら、この順番で言えば大体会話できるって終夜さまに言われたのですが……。いやァ、定型文でも会話ってできるものなんですね」
案内役の男は感心した様に言う。
相手の事を理解しているのはどうやら自分だけではないらしい。
それがほんの少し嬉しいなんて、本当にどうかしている。
どうかしていると本気で思っているから、このすぐお花畑を経由しようとする思考回路を、誰か閉ざしてほしい。
「理由は?」
明依の言葉に暁は驚いた様子も見せず、間髪入れずにそう言った。
「社会の仕組みの中で吉原が必要な理由は、終夜から聞いて理解しました。この街の裏側は一見すると物騒ですが、人の命を救っている。……しかしこの街には、子どもでいる事を許されない子どもも、許されなかった大人もたくさんいます。夢も希望も捨てて自分が何かわからないままただ同じ日々を繰り返す事が、人間のあるべき姿とは私は思いません」
旭と日奈が死んだ絶望。自分が幸せ者だと気づいたあの日から、今までの事。
〝遊女〟と呼ばれる女が見ていたこの街の景色が、あんな風に色褪せていたなんて知ずに甘えてばかりいた、浅はかな自分への戒め。
暁は黙ったまま、負けん気だけを原動力にして成り上がった遊女の言葉の続きを待っていた。
「せめて、希望くらいは。その先の選択肢くらいはあっていいのではないでしょうか」
「旭も同じことを言っていたな。……それから私のせがれも」
そう言うと暁はゆっくりと深く息を吐いた。
今度は明依が、暁の言葉の続きを待っていた。
「その意見には賛成する」
「失礼ですが。……吉原の解放でご子息様と揉めていらっしゃったのではないのですか」
「当時は今よりも、もっと吉原に敵が多かった」
暁は懐かしむように、少し目を細めた。
しかしそれは触れてみたいと思う様な美しい思い出ではなく、解くと痛みが生じる思い出に触れている表情。
まるで、自分自身への戒めにすら感じた。
「吉原は今と違って外に気をやっていた。我が子の言動を、ただ感情で動いているだけだと決めつけていた私の落ち度だ」
態度も口調も先ほどと何一つかわらないのに、後悔なんて言葉では到底片付けられない程、強く何かを思っている事がよく分かった。
裏の頭領は、実の息子が〝吉原解放〟を唱えたから吉原から追い出した。
たくさんの人間がそう認識している。時々聞く昔の頭領の様子。〝過激派〟だったという言葉。当たり前の顔をしてそういう事をする人、だったのかもしれない。
例えば、終夜のような。
いつどうなってもおかしくない頭領が、今も生きている理由。
それは暮相への想いから来る吉原の行末への不安なのかもしれない。
もし本当にそうなら、人間という生き物の〝気力〟というのは底知れない。
吉原を解放すれば、頭領も息を抜くことが出来るんだろうか。
「本当に大切なことは、言葉にしないと伝わらないものだ。ただ時に、言葉は欺く。態度は嘘をつかない。意図して態度に嘘を混ぜるヤツも中にはいるが、そんなひねくれものは稀だ」
自分に言われていることを理解しているのか、終夜は飄々と笑っている。
「失礼を承知で申し上げます。この街から暮相さんがいなくなった事、その心の内の葛藤を〝呪い〟と表現している事は、ご存じでしょうか」
「ああ。知っている」
〝知っている〟。
暁の言うその言葉には、そう表現されている事は〝知っている〟。という意味の他にも、その言葉の意味を身を持って〝知っている〟という陰影を持っていた。
「暮相さんを好きであれば好きであるほど、その〝呪い〟は強い様に思います」
似た者同士だった様子の時雨。吉原解放を共に進めようとした高尾。それから、仲たがいしたまま別れた吉野を、それぞれ思い出していた。
他人に甘えていた頃、凛として見える人にも悩みや弱い部分があるなんて事はぼんやりと想像が出来ても、実感は出来なかった。
だからきっと、暁もそうだという確信が明依の中にはあった。
暁は黙って明依の言葉を待っている。それはおそらく、純粋な好奇心だ。
松ノ位に上がった遊女が、わざわざ会った事もない自分の息子を語ろうとする事に対する。
「私には過不足なく、その想いが伝わっております」
目を見てはっきりとそう告げた明依に、暁は目を見開いた。
この人は未来どころか、過去にさえ居場所がない。
見ている景色は、きっと地獄だろう。
罪ばかりを背負って生きるというのは、どれほどの想いだろうと気持ちを巡らせることしかできないけれど。死よりも辛い事があると知っている。
救いなんて大げさなものでも、哀れみなんて押しつけがましいものでもない。
でも、少しだけでもあの感覚を分けてあげたいと思うような、少し傲慢な思い。
自分の気持ちを否定せずに認めてもらえる喜びを、松ノ位に上がった日にもらったから。
暁は目を閉じるとゆっくりと息を吐いて、今度こそ穏やかで、優しい顔で笑う。
「黎明。お前は両親を覚えているか」
予想していない質問に呆気にとられながらも、何とか返事をする。
「はい。……覚えております」
「両親は好きか」
「はい」
「独子か?」
「ひとりご……?」
聞きなれない単語で問われ、明依は思わずその言葉を口にした。
「兄弟いないの?ってこと。ひとりっ子かって聞いてるんだよ」
いつもの態度でそういう終夜に、明依はここが吉原という大きな街を統べる裏の頭領の前という事もすっかり忘れて「ああ」と口にした。
自分の失態には気づいたものの、もう突っ切ってしまえ精神で終夜から暁に視線を戻した。
「はい、そうです」
「それならば尚の事、命ある限り精一杯生きなさい」
諭すような口調で暁は言う。しかし、今までの話からどうしてその結論に至ったのか、よくわからなかった。
「大好きな二人が生きていた証は、この世界でお前しかいないのだから」
心に響く、という言葉の意味を知った。
たったそれだけでまた、世界が違って見える。
両親に愛された記憶が蘇ってくる。たくさんの愛をくれた。世の中には、この街には、親を知らない人も多くいる。
過去にただ、触れるだけ。
でも触れられる思い出があるという事実が、すでに幸せなのだいう事に気が付いた。
「心中に刻んでおきます」
そう言うと、暁は納得したように頷く。
傲慢なだけの人間にはきっと、こんな言葉は出ないだろう。
やはり人に選ばれて人の上に立つ人間にはそれなりの理由があるという事だ。
「さて」
少しの沈黙の後、終夜は仕切り直す様にそう言った。
「頭領も吉原解放に賛成。松ノ位もこうやって支持している。それなら、早速話を進めましょう。外界で行われる会議に、黎明を連れて行きたい。〝松ノ位が選んだ松ノ位〟って、世間の注目を掻っ攫った黎明大夫に、みーんな興味がある」
すらすらと準備していたかの様にそう告げた終夜は、暁に視線を移した。
「って事で。一時的に吉原から出る許可、ください」
こんな感じで頼んでいるのか、フランク過ぎないか。と唖然としたが、いつもの事なのか、暁は全く動じていなかった。
「構わないが、終夜よ。お前はまず、他人の予定を確認する事を覚えてはどうだ」
「大丈夫」
終夜の意味深な呟いた後、一瞬の事。嫌な予感がしたことは確かだった。
そしてこんな時の勘は、よく当たる。
「黎明の今夜の予定は、俺ががもうしっかり押さえてますから」
一瞬で、頭が真っ白になった。
今夜は終夜と話をする約束になっているはずだ。
そうして気が付いた。
また、騙された。
「今更予定があるなんて言わないよね。これはアンタの願いでもあるんだから」
これから先の人生を共に過ごそうとする宵に嘘をついた、空白の時間。それならそうと、最初からそんな風に言ってくれていたら、気持ちは違ったかもしれないのに。
傷付いた先に思ったのは、やっぱり終夜の事が好きなんだという意味のない事。
本当に何も、分かってない。
分かってもらっても困るのに。身動き一つとれないこの状況が、苦しかった。
今朝まで、宵を大切にしようと思っていたはずなのに。
「今夜、御相伴しても構いません」
悔しくて、悲しくて。それなのに、強がっていたくて。
馬鹿正直に傷付いているなんて、思われたくなかった。
「今すぐに、私の前から消えてくれるなら」
明依は終夜を睨みながらそう言った。
想定外の言葉だったのか、終夜はきょとんとした後で笑顔を張り付けて一歩を踏み出した。
「はいはい」
わざとらしく立てた足音が、隣を通り過ぎて段々と離れて行く。
「じゃあ、交渉成立だね」
何も答えずにいると、後ろで襖の締まる音がした。
振り返って確認すると、確かに終夜は部屋の中にはいなかった。
本当に終夜は出て行き、この部屋には暁と自分以外には誰もいない。
腹が立って突発的に口にした言葉だったが、それからふと気づく。
自分は案外、図太い人間なんだと他人事のように思った。
これは願ってもないチャンスだ。
明依は震える喉元を通して息を吐いた後、暁に向き直った。
「暁さま。……まもなく始まるメンテナンスのための吉原全面休園にて、何が行われるかご存じでしょうか」
明依は先ほどよりも少し声を潜めてそう言う。
「終夜の事か」
「はい」
話が早くて助かるというのはまさにこの事だった。
明依は緊張を和らげるために、一度大きく息を吸った。
「……止める事は、出来ないのでしょうか」
「出来ない」
はっきりとそう告げる暁の言葉になるべく心が揺れない様に保ちながら、明依は言葉の続きを待った。
「裏の頭領という立場は、決して独裁ではない。この流れに逆らえば、必ず反発が起きる。そうなれば吉原という街は、激しい生存競争からあぶれる事になるだろう。それがどれだけの損害か、お前には分かるはずだ」
確かにそうだ。吉原には敵が多い。だから吉原の解放も秘密裏に行おうとしているのだ。それに、この街がなければ消える命だってたくさんあるだろう。
そうなればあったはずの希望さえ、無くなってしまう。
「私は吉原の未来の為に、頭領としてこの決断をする」
人の上に立つ者として、最もな意見だと思った。
裏の頭領が自由奔放に動く終夜一人を庇えば、必ず吉原の中に反発が起きる。そうなれば、外からの侵入を許す事にもつながる。
吉原という街は昔から、そうやって内側の結託を強める事で外からの侵入を防いできたのだ。
だから内側が揺らいでいるまさに今、〝外〟である宵が頭領になろうとしているとも言える。
「無力なものだな。松ノ位という称号も、裏の頭領という肩書も」
無責任な言葉なんかじゃない。
暁のその言葉には、自分の無力さを呪うような響きも持っていた。
「暁さま。私は……終夜に生きていてほしいんです」
そう告げた途端、泣きたくなった。
それから堰を切ったように、弱い部分が溢れてくる。今日初めてまともに顔を合わせたというのに、この人なら受け入れてくれるだろう、なんて根拠のない自信があった。
「私は吉原を解放したくて……。いろいろな理由があって松ノ位に上がりましたが……大切な人を守れないなら、成り上がったこの立場さえ何の意味もないのではないかという気がして仕方ありません」
「……私ももうずっと、お前と同じことを考えている」
明依は顔を上げたが、暁は明依を見てはいなかった。
おそらく彼は今、解くと痛みを伴う記憶の糸を解いている。
「友を、家族さえ捨て置いてでも私はこの場所に立つことを選んだ。……結局、人というのは飾られた立場などでは計り知る事はできない。だから人と向き合うのなら立場を利用するのではなく、一人の人間として。〝自分〟の質を磨くしかない。この人の話なら、聞いてみよう。そんな風に思わせなければな。……黎明。お前の見ている終夜は、お前の意見全てを程度の低い事と見下げる人間か」
暁には明依が何を言いたいのかわかってる様子だった。
終夜がどうして、わざわざ明日の予定を嘘をついてまで抑えさせたのかは知らない。
ただ、もし終夜が本当に何も期待していなければ、人の心を踏みにじる様な直接的な言葉で断るか、飄々と論点をずらしているだろう。
自分は案外、終夜という人間を知っている。
そう思ったのは今に始まった事ではないが、いつもマイナスな事ばかりでうんざりしていた。
「ありがとうございます、暁さま。今日の所は、失礼いたします」
暁が頷いた事を確認して部屋を出ると、すぐそばに立っていた案内役の男へ向き直った。
「終夜は、」
「終夜さまから、ご案内するように言い付かっています」
〝どこですか〟と続くはずだった言葉は、案内役の男に遮られた。明依は黙って案内役の男について行く。
「ここで準備を済ませる様に。とのことです」
襖を開けた先には八千代がいて、着物や小物。過去に二度見た景色があった。
「終夜はどこですか?」
「〝俺はアンタみたいに暇じゃないから〟と言付かっています」
「……私だって暇じゃないし。つまり終夜は私と話をするのが怖くて逃げたって事ですか?」
「〝ご都合主義で解釈してる暇があるならさっさと着替えてよ〟と言付かっています」
「……あのクソ男」
「〝可愛気のない女はモテないよ〟と言付かっています」
言いようのない怒りを燃やす明依に、案内役の男は笑顔を作った。
「黎明大夫が自分について聞いてきたら、この順番で言えば大体会話できるって終夜さまに言われたのですが……。いやァ、定型文でも会話ってできるものなんですね」
案内役の男は感心した様に言う。
相手の事を理解しているのはどうやら自分だけではないらしい。
それがほんの少し嬉しいなんて、本当にどうかしている。
どうかしていると本気で思っているから、このすぐお花畑を経由しようとする思考回路を、誰か閉ざしてほしい。