造花街・吉原の陰謀
09:行く当てのない恋心について
「もう身を引いていらっしゃるのに、いつもありがとうございます」
「私も楽しいのよ。たまには呼んでちょうだいね」
八千代には雰囲気を造り上げる力がある気がした。八千代がいるだけで、主郭の味気ない部屋の中さえ、雰囲気が柔らかくなる。
「あなたは本当に、終夜くんから大切にされているのね」
どんな言葉を返したらいいのか、分からなかった。もしそうなら嬉しいと思ってしまったから。
だけど終夜という男はいつもギリギリになって裏切る事を知っているし、利用できるものはとことん利用する性格のはずだ。きっと終夜は今、黎明という遊女に利用価値を見出している。
大切にされている様に見えるのなら、その答えは決まっている。
自分にとってその方が、都合がいいから。だ。
「八千代さん。よかったらどうしてそう思うのか、教えてください」
そんな事、自分の気持ちで決めたらいい。自分の価値観に沿って、終夜という人間を評価したらいい。
それなのにどうしてそんなに、他人から見た終夜という男と黎明という女の関係が気になっているんだろう。
「終夜くんは誰かにモノを頼む人じゃないからよ。こんな風に素直に他人を頼ることも珍しい。その終夜くんがもう二度、私に頼むんだもの。そう思わない方がおかしな話よね」
八千代は明依の髪を結う手を止めず、楽しそうに声を弾ませながらそういう。
「これは想像だけれど、あなたに綺麗でいてほしいからなんじゃないかって私は思うのよ」
「終夜が私に綺麗でいてほしい……?どういう事ですか?」
「こんな閉鎖的な街でも、外の世界とは完全に遮断する事は出来ない。お客様は外に出て、吉原で見聞きした事や、その感想をすぐにネットに書き込む。愛想がいいとか、悪いとか。それは遊女の身に着ける着物や小物一つとってもそう。センスがいいとか、悪いとかね。松ノ位はとくに、たくさんの人から注目を浴びる。……終夜くんはきっと、人の前に出るあなたに恥をかかせない様にしているのね」
恥をかかせないようにしている。はたしてあの男は、本当にそこまで人の気持ちを考える事が出来るヤツだろうか。と明依は思ったが、八千代が言うのならそうなのかもしれない。
八千代の見ている〝終夜〟という人間はきっと、凄く優しい人間なのだろう。
「素敵ね。恋というのは」
「……そんな綺麗なものじゃありません」
そう言った自分の声が、なんだか穏やかに響いて聞こえた。もうけじめをつけたいと、あきらめると思っていたのに。内側からにじんだ感情が穏やかな音をして外に漏れだしている。
それもついさっき、また裏切られたばかりの男に対して。
それは悔しいなんて言葉では到底語りつくせはしなければ、虚しいなんて言葉だけでも表現ができない。
「一緒になろうと決めた人がいます」
「まあ、そうなのね」
「私の目で見たその人は、凄く優しい人です。多分心を開けば受け入れてくれるし、大切にしてくれると思います。私には勿体ないって、つくづくそう思ってる」
八千代は手を止めることなく、明依の言葉の続きを待っている。
八千代の造る優しい雰囲気に触発されているだけかもしれない。でも、明らかに心にはぽつりと影が落ちていた。
「それなのに私はどうして……」
言葉に詰まった。どんな風に表現していいのか、どんな言葉なら伝わるのかわからなくて。
悲しい事なんて何もない。むしろ、愚かだ。宵に嘘をついて、終夜を今度こそと信用した。当然の報いと言われればそれまで。
「……どうして、私」
悲しい事なんて、何もないはずだ。それなのに、目には涙が溜まっていく。
八千代に施してもらった化粧が崩れない様にするなんて配慮が出来ない程、心が揺れている。
「終夜の嘘に、傷付いているんだろう」
とうとうぽたぽたと涙が落ちた後、自分は終夜という人間を信じたかったのだと思った。そして身勝手だと思った。終夜という人間がどんな人物なのか知っているくせに、都合のいい時だけ信用しようとする自分が。
「自制が利くものを〝恋〟なんて呼ぶものですか」
八千代は鋭く、それでいて優しく空気を裂くようにそう言った。勿論、髪を結う手は止める事なく。
「ダイエットをしていれば、食べる事を我慢するでしょう。でもお腹は空くの。何も言い返さず笑顔で往なしても、酷いことを言われれば腹は立つでしょう。それと何も変わらないわ。理性が働いて自制が利くものを〝恋〟とは呼ばない。表面上の事実なんかではないの。もっともっと深くにあるもの。自分がわからないくらい深い場所で誰かを慕う事。それを〝恋〟というの」
死んだ友達の好きな人を好きになるなんて、倫理的にありえないと思った。宵に嘘をついてまで終夜との約束を優先したことにも確かな罪悪感があった。どれもこれも、その都度しっかりと理性が働いたから。
ただ、本当に理性がしっかり働いていて自制されているなら、この気持ちはとっくに収束しているはずで。
終夜は最低な男なんだと心の底から諦めて、納得しているはずだ。
髪を結い終わったのか、八千代は明依の前に座る。それから何を言う事もなく穏やかな顔で明依の涙を拭った後、化粧を直し始めた。
終夜に恋をしているという結論以外、見当たらない。
今までだって何度も思った。しかしどこかおぼついていて。理解したつもりになっていて、いつか息を潜めるものだと決めつけていた。
この瞬間に定まったそれはなんだか温かい気がして。それと同時に焦りがあって。悲しい気がして。
きっとこの気持ちに、収まる場所なんてないと理解した。
「納得のいく答えが出るといいわね」
化粧の出来栄えを確認した後、八千代は明依の目を見て優しい表情で笑う。
礼を言う明依にまた優しい顔で笑って、八千代は手早く片付けを済ませて部屋を出て行った。
明依は深く息を吐いて、考える事をやめた。
終夜について行く先にどんな人がいるのか知らないが、吉原という街を背負っている事には違いない。気持ちを切り替えなければ。そう思って明依は、鏡の前に立つ。
そして八千代の腕の良さを再確認した。こんなのほとんど詐欺じゃん。と思ったあたりで、自分らしさが少し戻ってきた様な気がした。
気持ちが沈んだ時には、無理にでも笑顔を作ったほうがいいと誰かに聞いたことがある。
本当かどうかは知らないが、明依はまずすっと背筋を伸ばした。それからゆっくりと息を吐いて、鏡に向かって笑顔を作る。大きく息を吸ってから、明依は座敷の外に出た。
「なんで俺まで」
明依のいる部屋から少し離れた廊下で、うんざりだ。という気持ちを余す事なく出して主郭の案内役の男にそう言ったのは時雨だった。
「ご承諾ください、時雨殿。終夜さまからの折り入っての頼みですから」
「なーにが折り入っての頼みだ。こういうのは脅しって言うんだよ。覚えとけ」
明依が時雨の元に歩くと、彼はそれに気が付き呆れた様な表情を作った。
「明依。お前も外界拉致コースか」
「そう。時雨さんも?」
「ああ。俺らはいつもセットで被害者だな」
「本当にね」
また時雨と花魁道中でもさせるつもりかと思ったが、外界ならそんなはずがない。自分は注目を浴びているからという理由で納得できるが、どうして終夜は時雨まで外界に連れて行くのか。
「外界なんて久しぶりだろ、時雨。楽しもうよ」
そう言いながら廊下を歩いてこちらに向かってくるのは、この短時間で両極端に感情を揺さぶっている張本人、終夜だった。
「聞いた?俺からの愛のこもったメッセージ」
終夜は立ち止まると、笑顔を張り付けて明依を見た。
出たなクソ男。
人との約束を守れない人間の底辺め。
と、とりあえずありとあらゆる悪口を内側で吐き捨てて心の平穏を保った。
「楽しむ暇があると思うなよ」
廊下の向こうから炎天がそう言って終夜を睨みながら歩いてくる。
終夜はいつもの薄ら笑いを張り付けていたが、炎天の隣に晴朗がいる事に気が付くと、出た、とでも言いたげに少し表情を変えた。
「嬉しそうですね、終夜」
「そう見える?目、腐ってるんじゃない?眼科行けよ」
「僕も終夜に会えて嬉しいです」
晴朗は笑顔を張り付けて、終夜の返答から一ミリも成り立たない会話を無理やり繋げる。
ざまぁ。
普段お前が人にやってる事だぞ。
今の気持ち感想文に書いてみろよ。
読んでマル付けしてやるよ。
という煽り感満載の言葉を直接お届けしたくなった。
しかしそれはさすがに意地が悪いのでやめておいてやるかと上から目線でそう思って心が晴れかけた所だったが、終夜はニコニコ笑顔を張り付けて振り返ると、片手で明依の首から顎にかけて掴んだ。
「バレてないと思ってる?利用価値がなかったらない命だからね」
笑顔を張り付けて圧をかける終夜に、叢雲とは違った威圧感を感じた明依は、この状況を打開するためにプライドを捨てて〝ごめん〟と口にしようかと思ったが、まだ一歩この男への恨みが勝っていたようだ。
「おいおい。お前、女の準備がどれだけ大変か知ってるか、終夜。誰の頼みでわざわざ手間かけてこんだけ綺麗に着飾ってると思ってんだ。崩れんだろーが。はなしてやれよ」
時雨は呆れた口調でそう言う。
さすがは時雨だ。頼りになる。終夜は時雨の方へと視線をやっていたが、彼の話を聞き終えると明依へと視線を移した。
しかしその表情はといえば、目の前にいる人間を見ている様子ではない。
自分自身と向き合っている様な表情をしていた。
「じゃあ、俺のこのモヤモヤした気持ちはどうしたらいいの?」
「知らねーよ。いいか、終夜。女の着物を崩していいのはなァ、抱く覚悟のあるやつだけだって決まってんだわ。お前、『抱いて』って言われたら責任取る覚悟で触ってんだろうな」
時雨がそう言うと、終夜は間髪明けずに明依から手を離して、観念するように両手のひらを顔の横で開いた。
おい、お前。その手の離し方は誤解が生まれるだろ。
と口にしたかったが、それもそれでややこしい事になりそうなので、明依は複雑な気持ちを口にすることも出来ず、一方的に損した気持ちになっていた。
「小春楼、時雨」
晴朗がそう呟くと、時雨は終夜から晴朗に視線を移した。
「どうして、あなたがここに?」
「俺が聞きてーんだわ」
笑顔を張り付けたままそう言う晴朗に、時雨は不服な気持ちを隠さずにそう言った。
接点が無さそうな二人だが、以前から知り合いなのだろうか。と思った明依だったが、明依が口を開くより前に終夜が言った。
「アンタが知る必要はない。黙って言いつけ通り、俺から吉原守ってなよ」
終夜は挑発的に晴朗にそう言うと、歩き出した。
「気が乗らねェな」
「ねえ、時雨。たまには洋服着た美人もいいと思わない?」
やはり不服そうにそういう時雨に、終夜は背を向けて歩きながらそう言った。
「……悪くねーな。行くか」
そう言うと、終夜に追いつこうと足早で歩いて行く。
明依は若干というか、盛大に呆れながらも時雨の後に続いた。その後ろには炎天と晴朗。それから一緒に行くであろう見覚えのない主郭の人間が三人。
「炎天さん。満月屋に寄りたいんですが。何も言わずに出る事になっているので」
「そうか。それなら、」
「ちゃんと遣いをやってるから大丈夫」
明依の言葉を肯定しようとした炎天の発言を遮って、終夜が言う。明依は終夜の背中を睨んだ。
「アンタに聞いてないんですけど」
「何か理由をつけて旦那様に会いたいなら、素直にそう言ったら?」
「ひねくれものは黙ってて」
感情的にならない様に注意をしながらそう言うと、その様子を見ていた晴朗が口を開いた。
「仲がいいですね」
「仲よくありません」
「でもさ、喧嘩する程なんとやらって言うよね?」
明依の否定に終夜が言う。
どの口が言ってんだ。という言葉を飲み込んで、それから会話がないまま主郭の一階へと降りる。
「黎明大夫。これに乗ってください」
そう言って主郭の男が見せたのは、質素な造りの駕籠だった。
「ありがとう。でも、大丈夫です。自分で歩けますから」
「そんな恰好で外歩いて貰っちゃ困るんだよ」
終夜にそういわれてはっとした。
好みで派手な着物を着ている女は観光客の中に山ほどいるが、さすがにここまで着飾っている人はいない。つまりこの恰好で主郭の階段を降りようものなら、人の渦に巻き込まれかねないという事だ。
大人しく駕籠に入って揺られた。階段は中に座っている自分に絶妙なバランス感覚が求められるのではないかと思ったが、意外にそうでもなく。駕籠での移動はそれ自体は少し目立つものの、中に座っているだけの明依は快適だった。
こうやってただ歩いているだけなら、平和なのに。
この街はメンテナンスの休園に入ると地獄になるという。それは一体、どんな景色なのだろう。
「着きました」
そう言われて、明依は時雨の手を借りて駕籠から降りた。
てっきり大門から外へ行くのだと思っていたが、明依が立っているのは以前、清澄と吉野と施設に行ったときに来た場所。
子どもを相手に書道教室を開いている建物だった。
「こんにちは。ご機嫌いかがです」
以前と同じように、品のある芸事の師範は明依たちに向かってそう問いかけた。
「私も楽しいのよ。たまには呼んでちょうだいね」
八千代には雰囲気を造り上げる力がある気がした。八千代がいるだけで、主郭の味気ない部屋の中さえ、雰囲気が柔らかくなる。
「あなたは本当に、終夜くんから大切にされているのね」
どんな言葉を返したらいいのか、分からなかった。もしそうなら嬉しいと思ってしまったから。
だけど終夜という男はいつもギリギリになって裏切る事を知っているし、利用できるものはとことん利用する性格のはずだ。きっと終夜は今、黎明という遊女に利用価値を見出している。
大切にされている様に見えるのなら、その答えは決まっている。
自分にとってその方が、都合がいいから。だ。
「八千代さん。よかったらどうしてそう思うのか、教えてください」
そんな事、自分の気持ちで決めたらいい。自分の価値観に沿って、終夜という人間を評価したらいい。
それなのにどうしてそんなに、他人から見た終夜という男と黎明という女の関係が気になっているんだろう。
「終夜くんは誰かにモノを頼む人じゃないからよ。こんな風に素直に他人を頼ることも珍しい。その終夜くんがもう二度、私に頼むんだもの。そう思わない方がおかしな話よね」
八千代は明依の髪を結う手を止めず、楽しそうに声を弾ませながらそういう。
「これは想像だけれど、あなたに綺麗でいてほしいからなんじゃないかって私は思うのよ」
「終夜が私に綺麗でいてほしい……?どういう事ですか?」
「こんな閉鎖的な街でも、外の世界とは完全に遮断する事は出来ない。お客様は外に出て、吉原で見聞きした事や、その感想をすぐにネットに書き込む。愛想がいいとか、悪いとか。それは遊女の身に着ける着物や小物一つとってもそう。センスがいいとか、悪いとかね。松ノ位はとくに、たくさんの人から注目を浴びる。……終夜くんはきっと、人の前に出るあなたに恥をかかせない様にしているのね」
恥をかかせないようにしている。はたしてあの男は、本当にそこまで人の気持ちを考える事が出来るヤツだろうか。と明依は思ったが、八千代が言うのならそうなのかもしれない。
八千代の見ている〝終夜〟という人間はきっと、凄く優しい人間なのだろう。
「素敵ね。恋というのは」
「……そんな綺麗なものじゃありません」
そう言った自分の声が、なんだか穏やかに響いて聞こえた。もうけじめをつけたいと、あきらめると思っていたのに。内側からにじんだ感情が穏やかな音をして外に漏れだしている。
それもついさっき、また裏切られたばかりの男に対して。
それは悔しいなんて言葉では到底語りつくせはしなければ、虚しいなんて言葉だけでも表現ができない。
「一緒になろうと決めた人がいます」
「まあ、そうなのね」
「私の目で見たその人は、凄く優しい人です。多分心を開けば受け入れてくれるし、大切にしてくれると思います。私には勿体ないって、つくづくそう思ってる」
八千代は手を止めることなく、明依の言葉の続きを待っている。
八千代の造る優しい雰囲気に触発されているだけかもしれない。でも、明らかに心にはぽつりと影が落ちていた。
「それなのに私はどうして……」
言葉に詰まった。どんな風に表現していいのか、どんな言葉なら伝わるのかわからなくて。
悲しい事なんて何もない。むしろ、愚かだ。宵に嘘をついて、終夜を今度こそと信用した。当然の報いと言われればそれまで。
「……どうして、私」
悲しい事なんて、何もないはずだ。それなのに、目には涙が溜まっていく。
八千代に施してもらった化粧が崩れない様にするなんて配慮が出来ない程、心が揺れている。
「終夜の嘘に、傷付いているんだろう」
とうとうぽたぽたと涙が落ちた後、自分は終夜という人間を信じたかったのだと思った。そして身勝手だと思った。終夜という人間がどんな人物なのか知っているくせに、都合のいい時だけ信用しようとする自分が。
「自制が利くものを〝恋〟なんて呼ぶものですか」
八千代は鋭く、それでいて優しく空気を裂くようにそう言った。勿論、髪を結う手は止める事なく。
「ダイエットをしていれば、食べる事を我慢するでしょう。でもお腹は空くの。何も言い返さず笑顔で往なしても、酷いことを言われれば腹は立つでしょう。それと何も変わらないわ。理性が働いて自制が利くものを〝恋〟とは呼ばない。表面上の事実なんかではないの。もっともっと深くにあるもの。自分がわからないくらい深い場所で誰かを慕う事。それを〝恋〟というの」
死んだ友達の好きな人を好きになるなんて、倫理的にありえないと思った。宵に嘘をついてまで終夜との約束を優先したことにも確かな罪悪感があった。どれもこれも、その都度しっかりと理性が働いたから。
ただ、本当に理性がしっかり働いていて自制されているなら、この気持ちはとっくに収束しているはずで。
終夜は最低な男なんだと心の底から諦めて、納得しているはずだ。
髪を結い終わったのか、八千代は明依の前に座る。それから何を言う事もなく穏やかな顔で明依の涙を拭った後、化粧を直し始めた。
終夜に恋をしているという結論以外、見当たらない。
今までだって何度も思った。しかしどこかおぼついていて。理解したつもりになっていて、いつか息を潜めるものだと決めつけていた。
この瞬間に定まったそれはなんだか温かい気がして。それと同時に焦りがあって。悲しい気がして。
きっとこの気持ちに、収まる場所なんてないと理解した。
「納得のいく答えが出るといいわね」
化粧の出来栄えを確認した後、八千代は明依の目を見て優しい表情で笑う。
礼を言う明依にまた優しい顔で笑って、八千代は手早く片付けを済ませて部屋を出て行った。
明依は深く息を吐いて、考える事をやめた。
終夜について行く先にどんな人がいるのか知らないが、吉原という街を背負っている事には違いない。気持ちを切り替えなければ。そう思って明依は、鏡の前に立つ。
そして八千代の腕の良さを再確認した。こんなのほとんど詐欺じゃん。と思ったあたりで、自分らしさが少し戻ってきた様な気がした。
気持ちが沈んだ時には、無理にでも笑顔を作ったほうがいいと誰かに聞いたことがある。
本当かどうかは知らないが、明依はまずすっと背筋を伸ばした。それからゆっくりと息を吐いて、鏡に向かって笑顔を作る。大きく息を吸ってから、明依は座敷の外に出た。
「なんで俺まで」
明依のいる部屋から少し離れた廊下で、うんざりだ。という気持ちを余す事なく出して主郭の案内役の男にそう言ったのは時雨だった。
「ご承諾ください、時雨殿。終夜さまからの折り入っての頼みですから」
「なーにが折り入っての頼みだ。こういうのは脅しって言うんだよ。覚えとけ」
明依が時雨の元に歩くと、彼はそれに気が付き呆れた様な表情を作った。
「明依。お前も外界拉致コースか」
「そう。時雨さんも?」
「ああ。俺らはいつもセットで被害者だな」
「本当にね」
また時雨と花魁道中でもさせるつもりかと思ったが、外界ならそんなはずがない。自分は注目を浴びているからという理由で納得できるが、どうして終夜は時雨まで外界に連れて行くのか。
「外界なんて久しぶりだろ、時雨。楽しもうよ」
そう言いながら廊下を歩いてこちらに向かってくるのは、この短時間で両極端に感情を揺さぶっている張本人、終夜だった。
「聞いた?俺からの愛のこもったメッセージ」
終夜は立ち止まると、笑顔を張り付けて明依を見た。
出たなクソ男。
人との約束を守れない人間の底辺め。
と、とりあえずありとあらゆる悪口を内側で吐き捨てて心の平穏を保った。
「楽しむ暇があると思うなよ」
廊下の向こうから炎天がそう言って終夜を睨みながら歩いてくる。
終夜はいつもの薄ら笑いを張り付けていたが、炎天の隣に晴朗がいる事に気が付くと、出た、とでも言いたげに少し表情を変えた。
「嬉しそうですね、終夜」
「そう見える?目、腐ってるんじゃない?眼科行けよ」
「僕も終夜に会えて嬉しいです」
晴朗は笑顔を張り付けて、終夜の返答から一ミリも成り立たない会話を無理やり繋げる。
ざまぁ。
普段お前が人にやってる事だぞ。
今の気持ち感想文に書いてみろよ。
読んでマル付けしてやるよ。
という煽り感満載の言葉を直接お届けしたくなった。
しかしそれはさすがに意地が悪いのでやめておいてやるかと上から目線でそう思って心が晴れかけた所だったが、終夜はニコニコ笑顔を張り付けて振り返ると、片手で明依の首から顎にかけて掴んだ。
「バレてないと思ってる?利用価値がなかったらない命だからね」
笑顔を張り付けて圧をかける終夜に、叢雲とは違った威圧感を感じた明依は、この状況を打開するためにプライドを捨てて〝ごめん〟と口にしようかと思ったが、まだ一歩この男への恨みが勝っていたようだ。
「おいおい。お前、女の準備がどれだけ大変か知ってるか、終夜。誰の頼みでわざわざ手間かけてこんだけ綺麗に着飾ってると思ってんだ。崩れんだろーが。はなしてやれよ」
時雨は呆れた口調でそう言う。
さすがは時雨だ。頼りになる。終夜は時雨の方へと視線をやっていたが、彼の話を聞き終えると明依へと視線を移した。
しかしその表情はといえば、目の前にいる人間を見ている様子ではない。
自分自身と向き合っている様な表情をしていた。
「じゃあ、俺のこのモヤモヤした気持ちはどうしたらいいの?」
「知らねーよ。いいか、終夜。女の着物を崩していいのはなァ、抱く覚悟のあるやつだけだって決まってんだわ。お前、『抱いて』って言われたら責任取る覚悟で触ってんだろうな」
時雨がそう言うと、終夜は間髪明けずに明依から手を離して、観念するように両手のひらを顔の横で開いた。
おい、お前。その手の離し方は誤解が生まれるだろ。
と口にしたかったが、それもそれでややこしい事になりそうなので、明依は複雑な気持ちを口にすることも出来ず、一方的に損した気持ちになっていた。
「小春楼、時雨」
晴朗がそう呟くと、時雨は終夜から晴朗に視線を移した。
「どうして、あなたがここに?」
「俺が聞きてーんだわ」
笑顔を張り付けたままそう言う晴朗に、時雨は不服な気持ちを隠さずにそう言った。
接点が無さそうな二人だが、以前から知り合いなのだろうか。と思った明依だったが、明依が口を開くより前に終夜が言った。
「アンタが知る必要はない。黙って言いつけ通り、俺から吉原守ってなよ」
終夜は挑発的に晴朗にそう言うと、歩き出した。
「気が乗らねェな」
「ねえ、時雨。たまには洋服着た美人もいいと思わない?」
やはり不服そうにそういう時雨に、終夜は背を向けて歩きながらそう言った。
「……悪くねーな。行くか」
そう言うと、終夜に追いつこうと足早で歩いて行く。
明依は若干というか、盛大に呆れながらも時雨の後に続いた。その後ろには炎天と晴朗。それから一緒に行くであろう見覚えのない主郭の人間が三人。
「炎天さん。満月屋に寄りたいんですが。何も言わずに出る事になっているので」
「そうか。それなら、」
「ちゃんと遣いをやってるから大丈夫」
明依の言葉を肯定しようとした炎天の発言を遮って、終夜が言う。明依は終夜の背中を睨んだ。
「アンタに聞いてないんですけど」
「何か理由をつけて旦那様に会いたいなら、素直にそう言ったら?」
「ひねくれものは黙ってて」
感情的にならない様に注意をしながらそう言うと、その様子を見ていた晴朗が口を開いた。
「仲がいいですね」
「仲よくありません」
「でもさ、喧嘩する程なんとやらって言うよね?」
明依の否定に終夜が言う。
どの口が言ってんだ。という言葉を飲み込んで、それから会話がないまま主郭の一階へと降りる。
「黎明大夫。これに乗ってください」
そう言って主郭の男が見せたのは、質素な造りの駕籠だった。
「ありがとう。でも、大丈夫です。自分で歩けますから」
「そんな恰好で外歩いて貰っちゃ困るんだよ」
終夜にそういわれてはっとした。
好みで派手な着物を着ている女は観光客の中に山ほどいるが、さすがにここまで着飾っている人はいない。つまりこの恰好で主郭の階段を降りようものなら、人の渦に巻き込まれかねないという事だ。
大人しく駕籠に入って揺られた。階段は中に座っている自分に絶妙なバランス感覚が求められるのではないかと思ったが、意外にそうでもなく。駕籠での移動はそれ自体は少し目立つものの、中に座っているだけの明依は快適だった。
こうやってただ歩いているだけなら、平和なのに。
この街はメンテナンスの休園に入ると地獄になるという。それは一体、どんな景色なのだろう。
「着きました」
そう言われて、明依は時雨の手を借りて駕籠から降りた。
てっきり大門から外へ行くのだと思っていたが、明依が立っているのは以前、清澄と吉野と施設に行ったときに来た場所。
子どもを相手に書道教室を開いている建物だった。
「こんにちは。ご機嫌いかがです」
以前と同じように、品のある芸事の師範は明依たちに向かってそう問いかけた。