造花街・吉原の陰謀
24:どうか私の知るあなたに
大きな女は、フンと鼻息を吐いて仁王立ちをしている。
上司なのだろう。女の勢いに、帰ろうとしていた男たちが少しずつ大門の方を向く。
昨日の宵の感じや、先ほどの吉原の人達の言い方からして、おそらくそんなに大きな組織ではないのだろう。
それなのに、一度引いた流れを戻そうとする。敵対する組織なのだろうが、その女の度胸を明依は凄いと心から思っていた。
どの国も、やはり女は強い。
立場が違えば、楽しく話が出来たかもしれない。
「やはり一度痛い目を、」
「あれー。アンタ、前にウチに来てくれたよな?」
炎天の言葉を遮ったのは時雨だった。
あっさりした感じでそう言いながら、当たり前のような顔をして自分の隣を通り過ぎる場違いな時雨を、炎天はただただ唖然と見ていた。
着物の袖に手を入れてゆるりと歩く時雨には、松ノ位の様な圧倒的な余裕がある。
時雨は一体、こんな状況で何を考えているんだ。そう思いながら時雨の視線の先、大きな女を見て明依は思わず自分の目を疑った。
女が女の顔をしている。いや、女なのだから当たり前なのだが。
ぽっと赤く顔を染めていた。
「来てくれたって言うか、見世の前だったけど。……ほら。やっぱダーリアだろ?あんな怖い顔して、どうした?」
「何で、何年も前なのに……」
何年も前なのか。
何年も前に見世の前で会った女を覚えているなんて、どんな記憶力だよ。もしかして高尾の様にあった人を忘れない為に記録を残しているのか。と言いたいところだが〝時雨〟が〝女〟を覚えている。という点だけで見れば、なるほどあり得るな。と思うところあたりが、時雨の女好き度合いは病的だと認めている証拠だ。
「忘れねーよ。後から気付いたんだけどさ、あれ、俺に会いに来てくれたんだろ?それなのに声かけたら逃げるみたいに帰ってってさー。せっかく会いに来てくれたのになんにもできなくて、もう会う事もねーのかなって思ってた俺の気持ち、わかる?」
時雨は少し意地悪な言い方、口調でダーリアと呼ばれた女に言う。ダーリアはただ、時雨の言葉に顔を染めてしどろもどろしてるだけだ。
これを意図してやってるなら、やっぱり時雨は女を扱う天才だ。
まさかダーリアのいう〝あの人〟というのは時雨の事だとは思わなかったが、好きな人ごと吉原をいただく。という考えはぶっ飛んでいて嫌いじゃない。
「あ、あっ、あの私……」
「あんまり無茶するモンじゃあねーぞ。この街は底なし沼。怖ェ所だ。……ほら、そこの無駄に顔が綺麗なアイツ見てみろよ。目、据わってんだろ?」
〝無駄に顔が綺麗なアイツ〟は、明依が霞を庇ったあたりから超絶に機嫌が悪い。
おそらくいつでも動ける様にという理由だろうが、拳銃を片手に持っている。
終夜は恐らく、いつも通りの表情を作る余裕がないままただ視線を移しただけだ。しかし、その無機質で何を考えているのかわからない終夜の表情に、ダーリアは息を呑んで一歩身を引いた。
「ほらほら、長居は無用だ。忘れねーって証明はしたぜ。何年先でもいいからさ、次はちゃんと、俺に会いに来てくれよ」
そう言うと時雨は、ダーリアの肩掴んで吉原の大門の方へと押しやった。
「気を付けて帰れよ、ダーリア」
女上司の恋愛劇に付き合いきれなかったのか、大門にいたはずの男たちはもうみんな背を向けて帰っていた。
ダーリアは最初に見せた威勢なんてなかったかのように、数度振り返って頭を下げながら吉原の街から出て行った。
「なんだったんだ……」
終夜を殺しに来たはずなのに急に大門が開いて敵が現れたかと思えば、結局その場から一歩たりとも動かないまま事の顛末を見守っただけの炎天と主郭の人間たちは、やはりただその場にぼんやりと立ち尽くしていた。
「相変わらずおもしろい男だね、時雨」
「おお、俺の〝おもしれ―女〟フラグ立った?勝山大夫」
「どうだい、時雨。私と一晩」
「喜んで。ウチにする?それともそっち?ま、どっちでもいいか。都合次第で決めようぜ」
そんな四コマ漫画みたいな展開でもう一晩の話が決まるの?と思った明依だったが、この状況にちょっと感動している事も事実だった。
天性の男好きと天性の女好きが向かい合って話をしている。どんな光景だよ。と思いながらも、こんな感じなんだ。と思っている事も、また事実だ。
「で。その話は一旦、大事に置いといて」
この場限りの約束ではなく大事に温めておこうとするのがまた時雨らしいなと思っていると、時雨はいつもより少し気を張った様子で炎天を見た。
「ちょっと話耳貸してくれよ、炎天さん」
吉原の窮地を救った男にはさすがに何も言えないのか、炎天は黙って時雨を見ている。
「わかるよな?今回の事。アンタらが気付かなかった事に、終夜は気付いて対策を打とうとしていた。終夜がいなきゃ今頃大事になっていたかもしれない」
「確かに。今回はそうだ」
「今回はじゃねーよ。今回〝も〟、だ。終夜が気付いて警察を止めなかったら、それこそ今頃もっと大事になってたよ」
炎天は俯いて、眉間に皺を寄せる。悔しそうな表情をしていた。無理もない。炎天は以前から終夜の事をよく思ってはいないのだから。
「アンタは叢雲さんじゃない。人間には得手不得手があるんだ。俺はこの街に終夜は必要だと思う」
「お前に何がわかる。……今までどれだけ、この男が独断で動いてきたか!合理性に欠けるだなんだと言い訳を並べて、何度身内を見殺しにしたか!!この街にはまだ、宵がいる。叢雲が死んだ日に誓ったんだ。俺はもう、選択を間違えない」
感情的に声を震わせる炎天と、それを真剣な表情で見つめる時雨をよそに、終夜が呆れた様な溜息をついた。
「俺だって今更、お前らと仲良しごっこする気なんてないね」
どうしてこの男は肝心な時に黙っていられないんだろう。そう思ったのはどうやら明依だけではないらしい。
「終夜。お前が煽ってどうする」
高尾はまるで〝お前が折れてやれ、大人だろう〟とでも言いたげに炎天よりも随分年下の終夜にそう言った。
「まったく。結局、アンタが一番血の気が多いんだから世話ないねェ、終夜」
勝山は呆れたようにそう言って頭を抱える。
それに対して終夜は、我関せずと言った様子で顔を逸らした。
終夜にとって〝精神的に〟年上ばかりの人間に囲まれているからか、なんだか終夜が年相応に、いや少し幼く見える。いつもこんな感じでただ生意気なだけなら、誰からも誤解されずに済むのに。
きっとそんなことは、終夜は微塵も望んではいないのだろうが。
「終夜。俺は本当にお前を凄いヤツだと思ってるぜ」
時雨は何の嫌味な口調もなく、純粋な口調で終夜にそう言った。終夜は何も答えないまま、時雨の言葉を待っている。
「でもさ、お前もわかってるだろ?人間には得手不得手がある。お前にできて俺にできない事なんて山ほどあるが、お前にできなくて俺にできる事もある」
確かにそうだ。先ほど時雨がダーリアにした様な事を、おそらく終夜はできない。
女性の喜ぶ言葉をかけて、気持ちよくその場を終わらせる。一見何でもできそうに見える終夜だが、それをしている終夜を明依は想像ができなかった。
「この辺りでもう終いにしようや、終夜。吉原のこれからを、俺達で冷静に話し合おう」
「話し合いなんかで解決できるなら、こんな事にはなってないね」
終夜は冷静な口調でそう言うと、震える喉元で溜息を吐いた。
「どいつもこいつも、余計なお世話なんだよ」
表情は見えないただその言い方は、感情を必死に抑えつけている様な口調だった。
やっぱりそれは、たまに見る終夜の年相応の様子で。ずっとそうしていればいいのに。そんなことを思ったのも束の間、終夜は明依の方へと歩いてくる。一歩一歩確かめる様に、足音を立てて。
「ほとぼりが冷めたとか思ってない?」
一歩引こうとする明依に手を伸ばして胸ぐらを掴んで引き寄せた終夜は、冷たい目で明依を見下ろしている。
「何考えてんの?」
終夜は明らかに怒っていた。きっと吉原に犯罪組織が来ると言われた時から。いや、もしかするとそのずっと前から、何度も何度も、今日という日を頭の中でなぞったに違いない。
可能性を探った。あらゆる可能性を提示し、打開策を考えてきた。終夜はそういう男だ。
これ以上は二人の問題と思っているからか、それとも何とかするだろうと思っているのか、松ノ位の四人と時雨は、黙ってこの状況を眺めていた。
明依はゆっくりと息を吐いて、頭の中が終夜への恐怖で埋まらない様に努めた。
「人の親切心を無下にするモンじゃないよ。アンタは何もできない。無力な人間だってせっかく教えてあげたのに。……もしかしてまだ、自分が何かできる人間だって思ってたの?」
「思ってるよ。私は何もできない、無力な人間なんかじゃない」
自分の覚悟を確かめる様に、自分にもう一度刻み込むようにそう言って、胸ぐらを掴んでいる終夜の手を掴んだ。
「私はね、決めてるの」
震える喉元で息を吐き切ってから、すっと息を吸った。
「アンタの思い通りには、絶対になってあげないって」
「……そう」
終夜は感情のない口調で、ぼそりと呟く。しかし口調とは相反して、強い力で明依の腕を握る。そこは一昨日、満月屋に行くまでの道で終夜に強く握られて痣が出来た場所だった。
突然走った痛みに、明依は少し顔をしかめて耐えていると、骨のきしむ音がした。
「お願い、終夜。もう一度だけでいいから。私の話を聞いて」
明依の言葉に、終夜は間髪入れずにため息を吐き捨てる。
「時間の無駄だね」
分かっていた。拒絶したのは自分の方だ。だから傷つく権利すら持っていない。終夜にとって自分が特別な存在ではない事くらい、分かっていた。
じゃあ、あの夜は何?
どうして吉原の誰も知らない自分の家に招いて、一緒に眠ったの?
どうしてあの時一緒に吉原を出ようって、一緒がいいなんて言ったの?
そう問いかければ終夜がどんな返事をするのか、明依には手に取る様にわかった。〝アレ程度で期待したんだ?本当にチョロいね〟なんて、バカにしたような口調で言うに違いない。
しかしそれが本心なのか嘘なのか。見分ける術を自分が持っていない事には気付いていた。
「お前らさァ。雛菊死んだ時、誰が後処理したと思ってんの?」
終夜は依然として明依の腕を握ったまま、少し声を張る。主郭の人間は急に向けられた矛先に息を呑んで身構えた。
主郭の方向から、地面が揺れる様な大きな音が鳴った。
誰もがそちらに視線を向ける。向こうから、一人の男が走ってきた。
「大変です!!!主郭に刺客が!!!……至急、応援を!!」
足を止めて息を整えながらそういう男の言葉に、終夜は動揺一つ見せなかった。主郭の人間は動揺を隠しきれない様子で誰かからの指示を待っていた。
宵がもう動いている。早く終夜に説明しなければ。
「力がないって言うのは悲しい事だね、明依。自分を守ることも、牽制する事も出来ない。でも身の振り方さえ間違えなければ、それでいいんだよ。って、前にそう教えたろ?」
相変わらず冷たい終夜の態度が胸を刺す。この関係性はまるで、互いを何も知らなかったころに戻ったみたいだ。
「終夜、」
「施設に入れとけ」
終夜は明依の言葉を遮って、終夜は主郭の人間にそう言うと押し付けるように明依の腕から手を放した。
〝施設〟。雪がいた所だ。
地下を通る細道でしか出入りできない。あの場所を見張られれば、絶対に逃げる事はできないだろう。
「待って、」
「ちゃんと見張っててね。もし逃がしたら、わかるよね?」
終夜は自分の代わりに明依の腕を持った男に圧を賭ける様にそう言う。「はい」とやっとのことで答える男をよそに、終夜はその場を去ろうとする。
「終夜!お願い待って!!」
「おい。やりすぎだぞ、終夜」
明依の叫び声の後、時雨が終夜を止めようとするが、当然終夜が聞く耳を持つはずもなかった。
「どこへ行く、終夜」
「どこって?主郭に決まってるだろ」
「行けると思うのか?」
そういう炎天に、終夜は乾いた笑いを漏らした。
「お前達こそさ、止められると思うの?」
主郭に危険なんて迫ってない。終夜を守る為に宵のしたことだなんてこの状況で口が裂けても言えるはずがなかった。
主郭に近付いたらダメだ。主郭には晴朗がいる。それは終夜が大きく死に近づく事を意味していた。
終夜の方へ近付こうとすると、ふいに強い力で男から手首を握られる。
「行きましょう、黎明大夫」
「放してください!!終夜と話をさせて!!」
「できません。命令ですから」
明依の必死の様子を見てか、松ノ位の四人は時雨の様に終夜にそれぞれ制止の声をかけるが、やはり終夜は聞く耳を持たない。
「終夜、お願いだから!!私の話を聞いて!!」
「じゃ、よーいドンで鬼ごっこスタートね」
強い力で男に腕を引かれている最中にも、明依は必死に抗いながら叫ぶ。しかし終夜は、そもそも耳に入っていないとでも言うように、いたっていつも通りそう言った。
「よーい、ドン」
どこかへ走ろうとする終夜が、人込みに重なって見えなくなる。
絶望感の中で「終夜!!」と彼の名前を呼ぶ。
返事をしてくれない事なんてもう、知っているのに。
上司なのだろう。女の勢いに、帰ろうとしていた男たちが少しずつ大門の方を向く。
昨日の宵の感じや、先ほどの吉原の人達の言い方からして、おそらくそんなに大きな組織ではないのだろう。
それなのに、一度引いた流れを戻そうとする。敵対する組織なのだろうが、その女の度胸を明依は凄いと心から思っていた。
どの国も、やはり女は強い。
立場が違えば、楽しく話が出来たかもしれない。
「やはり一度痛い目を、」
「あれー。アンタ、前にウチに来てくれたよな?」
炎天の言葉を遮ったのは時雨だった。
あっさりした感じでそう言いながら、当たり前のような顔をして自分の隣を通り過ぎる場違いな時雨を、炎天はただただ唖然と見ていた。
着物の袖に手を入れてゆるりと歩く時雨には、松ノ位の様な圧倒的な余裕がある。
時雨は一体、こんな状況で何を考えているんだ。そう思いながら時雨の視線の先、大きな女を見て明依は思わず自分の目を疑った。
女が女の顔をしている。いや、女なのだから当たり前なのだが。
ぽっと赤く顔を染めていた。
「来てくれたって言うか、見世の前だったけど。……ほら。やっぱダーリアだろ?あんな怖い顔して、どうした?」
「何で、何年も前なのに……」
何年も前なのか。
何年も前に見世の前で会った女を覚えているなんて、どんな記憶力だよ。もしかして高尾の様にあった人を忘れない為に記録を残しているのか。と言いたいところだが〝時雨〟が〝女〟を覚えている。という点だけで見れば、なるほどあり得るな。と思うところあたりが、時雨の女好き度合いは病的だと認めている証拠だ。
「忘れねーよ。後から気付いたんだけどさ、あれ、俺に会いに来てくれたんだろ?それなのに声かけたら逃げるみたいに帰ってってさー。せっかく会いに来てくれたのになんにもできなくて、もう会う事もねーのかなって思ってた俺の気持ち、わかる?」
時雨は少し意地悪な言い方、口調でダーリアと呼ばれた女に言う。ダーリアはただ、時雨の言葉に顔を染めてしどろもどろしてるだけだ。
これを意図してやってるなら、やっぱり時雨は女を扱う天才だ。
まさかダーリアのいう〝あの人〟というのは時雨の事だとは思わなかったが、好きな人ごと吉原をいただく。という考えはぶっ飛んでいて嫌いじゃない。
「あ、あっ、あの私……」
「あんまり無茶するモンじゃあねーぞ。この街は底なし沼。怖ェ所だ。……ほら、そこの無駄に顔が綺麗なアイツ見てみろよ。目、据わってんだろ?」
〝無駄に顔が綺麗なアイツ〟は、明依が霞を庇ったあたりから超絶に機嫌が悪い。
おそらくいつでも動ける様にという理由だろうが、拳銃を片手に持っている。
終夜は恐らく、いつも通りの表情を作る余裕がないままただ視線を移しただけだ。しかし、その無機質で何を考えているのかわからない終夜の表情に、ダーリアは息を呑んで一歩身を引いた。
「ほらほら、長居は無用だ。忘れねーって証明はしたぜ。何年先でもいいからさ、次はちゃんと、俺に会いに来てくれよ」
そう言うと時雨は、ダーリアの肩掴んで吉原の大門の方へと押しやった。
「気を付けて帰れよ、ダーリア」
女上司の恋愛劇に付き合いきれなかったのか、大門にいたはずの男たちはもうみんな背を向けて帰っていた。
ダーリアは最初に見せた威勢なんてなかったかのように、数度振り返って頭を下げながら吉原の街から出て行った。
「なんだったんだ……」
終夜を殺しに来たはずなのに急に大門が開いて敵が現れたかと思えば、結局その場から一歩たりとも動かないまま事の顛末を見守っただけの炎天と主郭の人間たちは、やはりただその場にぼんやりと立ち尽くしていた。
「相変わらずおもしろい男だね、時雨」
「おお、俺の〝おもしれ―女〟フラグ立った?勝山大夫」
「どうだい、時雨。私と一晩」
「喜んで。ウチにする?それともそっち?ま、どっちでもいいか。都合次第で決めようぜ」
そんな四コマ漫画みたいな展開でもう一晩の話が決まるの?と思った明依だったが、この状況にちょっと感動している事も事実だった。
天性の男好きと天性の女好きが向かい合って話をしている。どんな光景だよ。と思いながらも、こんな感じなんだ。と思っている事も、また事実だ。
「で。その話は一旦、大事に置いといて」
この場限りの約束ではなく大事に温めておこうとするのがまた時雨らしいなと思っていると、時雨はいつもより少し気を張った様子で炎天を見た。
「ちょっと話耳貸してくれよ、炎天さん」
吉原の窮地を救った男にはさすがに何も言えないのか、炎天は黙って時雨を見ている。
「わかるよな?今回の事。アンタらが気付かなかった事に、終夜は気付いて対策を打とうとしていた。終夜がいなきゃ今頃大事になっていたかもしれない」
「確かに。今回はそうだ」
「今回はじゃねーよ。今回〝も〟、だ。終夜が気付いて警察を止めなかったら、それこそ今頃もっと大事になってたよ」
炎天は俯いて、眉間に皺を寄せる。悔しそうな表情をしていた。無理もない。炎天は以前から終夜の事をよく思ってはいないのだから。
「アンタは叢雲さんじゃない。人間には得手不得手があるんだ。俺はこの街に終夜は必要だと思う」
「お前に何がわかる。……今までどれだけ、この男が独断で動いてきたか!合理性に欠けるだなんだと言い訳を並べて、何度身内を見殺しにしたか!!この街にはまだ、宵がいる。叢雲が死んだ日に誓ったんだ。俺はもう、選択を間違えない」
感情的に声を震わせる炎天と、それを真剣な表情で見つめる時雨をよそに、終夜が呆れた様な溜息をついた。
「俺だって今更、お前らと仲良しごっこする気なんてないね」
どうしてこの男は肝心な時に黙っていられないんだろう。そう思ったのはどうやら明依だけではないらしい。
「終夜。お前が煽ってどうする」
高尾はまるで〝お前が折れてやれ、大人だろう〟とでも言いたげに炎天よりも随分年下の終夜にそう言った。
「まったく。結局、アンタが一番血の気が多いんだから世話ないねェ、終夜」
勝山は呆れたようにそう言って頭を抱える。
それに対して終夜は、我関せずと言った様子で顔を逸らした。
終夜にとって〝精神的に〟年上ばかりの人間に囲まれているからか、なんだか終夜が年相応に、いや少し幼く見える。いつもこんな感じでただ生意気なだけなら、誰からも誤解されずに済むのに。
きっとそんなことは、終夜は微塵も望んではいないのだろうが。
「終夜。俺は本当にお前を凄いヤツだと思ってるぜ」
時雨は何の嫌味な口調もなく、純粋な口調で終夜にそう言った。終夜は何も答えないまま、時雨の言葉を待っている。
「でもさ、お前もわかってるだろ?人間には得手不得手がある。お前にできて俺にできない事なんて山ほどあるが、お前にできなくて俺にできる事もある」
確かにそうだ。先ほど時雨がダーリアにした様な事を、おそらく終夜はできない。
女性の喜ぶ言葉をかけて、気持ちよくその場を終わらせる。一見何でもできそうに見える終夜だが、それをしている終夜を明依は想像ができなかった。
「この辺りでもう終いにしようや、終夜。吉原のこれからを、俺達で冷静に話し合おう」
「話し合いなんかで解決できるなら、こんな事にはなってないね」
終夜は冷静な口調でそう言うと、震える喉元で溜息を吐いた。
「どいつもこいつも、余計なお世話なんだよ」
表情は見えないただその言い方は、感情を必死に抑えつけている様な口調だった。
やっぱりそれは、たまに見る終夜の年相応の様子で。ずっとそうしていればいいのに。そんなことを思ったのも束の間、終夜は明依の方へと歩いてくる。一歩一歩確かめる様に、足音を立てて。
「ほとぼりが冷めたとか思ってない?」
一歩引こうとする明依に手を伸ばして胸ぐらを掴んで引き寄せた終夜は、冷たい目で明依を見下ろしている。
「何考えてんの?」
終夜は明らかに怒っていた。きっと吉原に犯罪組織が来ると言われた時から。いや、もしかするとそのずっと前から、何度も何度も、今日という日を頭の中でなぞったに違いない。
可能性を探った。あらゆる可能性を提示し、打開策を考えてきた。終夜はそういう男だ。
これ以上は二人の問題と思っているからか、それとも何とかするだろうと思っているのか、松ノ位の四人と時雨は、黙ってこの状況を眺めていた。
明依はゆっくりと息を吐いて、頭の中が終夜への恐怖で埋まらない様に努めた。
「人の親切心を無下にするモンじゃないよ。アンタは何もできない。無力な人間だってせっかく教えてあげたのに。……もしかしてまだ、自分が何かできる人間だって思ってたの?」
「思ってるよ。私は何もできない、無力な人間なんかじゃない」
自分の覚悟を確かめる様に、自分にもう一度刻み込むようにそう言って、胸ぐらを掴んでいる終夜の手を掴んだ。
「私はね、決めてるの」
震える喉元で息を吐き切ってから、すっと息を吸った。
「アンタの思い通りには、絶対になってあげないって」
「……そう」
終夜は感情のない口調で、ぼそりと呟く。しかし口調とは相反して、強い力で明依の腕を握る。そこは一昨日、満月屋に行くまでの道で終夜に強く握られて痣が出来た場所だった。
突然走った痛みに、明依は少し顔をしかめて耐えていると、骨のきしむ音がした。
「お願い、終夜。もう一度だけでいいから。私の話を聞いて」
明依の言葉に、終夜は間髪入れずにため息を吐き捨てる。
「時間の無駄だね」
分かっていた。拒絶したのは自分の方だ。だから傷つく権利すら持っていない。終夜にとって自分が特別な存在ではない事くらい、分かっていた。
じゃあ、あの夜は何?
どうして吉原の誰も知らない自分の家に招いて、一緒に眠ったの?
どうしてあの時一緒に吉原を出ようって、一緒がいいなんて言ったの?
そう問いかければ終夜がどんな返事をするのか、明依には手に取る様にわかった。〝アレ程度で期待したんだ?本当にチョロいね〟なんて、バカにしたような口調で言うに違いない。
しかしそれが本心なのか嘘なのか。見分ける術を自分が持っていない事には気付いていた。
「お前らさァ。雛菊死んだ時、誰が後処理したと思ってんの?」
終夜は依然として明依の腕を握ったまま、少し声を張る。主郭の人間は急に向けられた矛先に息を呑んで身構えた。
主郭の方向から、地面が揺れる様な大きな音が鳴った。
誰もがそちらに視線を向ける。向こうから、一人の男が走ってきた。
「大変です!!!主郭に刺客が!!!……至急、応援を!!」
足を止めて息を整えながらそういう男の言葉に、終夜は動揺一つ見せなかった。主郭の人間は動揺を隠しきれない様子で誰かからの指示を待っていた。
宵がもう動いている。早く終夜に説明しなければ。
「力がないって言うのは悲しい事だね、明依。自分を守ることも、牽制する事も出来ない。でも身の振り方さえ間違えなければ、それでいいんだよ。って、前にそう教えたろ?」
相変わらず冷たい終夜の態度が胸を刺す。この関係性はまるで、互いを何も知らなかったころに戻ったみたいだ。
「終夜、」
「施設に入れとけ」
終夜は明依の言葉を遮って、終夜は主郭の人間にそう言うと押し付けるように明依の腕から手を放した。
〝施設〟。雪がいた所だ。
地下を通る細道でしか出入りできない。あの場所を見張られれば、絶対に逃げる事はできないだろう。
「待って、」
「ちゃんと見張っててね。もし逃がしたら、わかるよね?」
終夜は自分の代わりに明依の腕を持った男に圧を賭ける様にそう言う。「はい」とやっとのことで答える男をよそに、終夜はその場を去ろうとする。
「終夜!お願い待って!!」
「おい。やりすぎだぞ、終夜」
明依の叫び声の後、時雨が終夜を止めようとするが、当然終夜が聞く耳を持つはずもなかった。
「どこへ行く、終夜」
「どこって?主郭に決まってるだろ」
「行けると思うのか?」
そういう炎天に、終夜は乾いた笑いを漏らした。
「お前達こそさ、止められると思うの?」
主郭に危険なんて迫ってない。終夜を守る為に宵のしたことだなんてこの状況で口が裂けても言えるはずがなかった。
主郭に近付いたらダメだ。主郭には晴朗がいる。それは終夜が大きく死に近づく事を意味していた。
終夜の方へ近付こうとすると、ふいに強い力で男から手首を握られる。
「行きましょう、黎明大夫」
「放してください!!終夜と話をさせて!!」
「できません。命令ですから」
明依の必死の様子を見てか、松ノ位の四人は時雨の様に終夜にそれぞれ制止の声をかけるが、やはり終夜は聞く耳を持たない。
「終夜、お願いだから!!私の話を聞いて!!」
「じゃ、よーいドンで鬼ごっこスタートね」
強い力で男に腕を引かれている最中にも、明依は必死に抗いながら叫ぶ。しかし終夜は、そもそも耳に入っていないとでも言うように、いたっていつも通りそう言った。
「よーい、ドン」
どこかへ走ろうとする終夜が、人込みに重なって見えなくなる。
絶望感の中で「終夜!!」と彼の名前を呼ぶ。
返事をしてくれない事なんてもう、知っているのに。