造花街・吉原の陰謀
26:無明に幽玄
雪と終夜はお互いの事を知っていた。
そんな様子はあっただろうかと疑問を呈しているのに、肝心の頭は全くもって働いていなかった。
「でも、どうして?知り合いだったなら、教えてくれたら……。雪全然、そんな感じじゃなかった……」
「終夜との約束なの。この施設の外では会っても話しかけないって。誰かに終夜の話をするのもダメだって言うから。なんでだかわからないけど。……でも多分、施設から出た子はみんな、終夜に嫌われたくないからちゃんと守ってると思う。雪もそうだから」
もう驚いて声も出なかった。
しかし、終夜が施設の外で関わりを悟られない様にと言いつける理由は手に取る様にわかった。
将来のある子どもが吉原で評判の良くない自分と関わりがあると分かれば、将来に差し支える可能性があるから。
雪がどこか、懐かしむように笑う。こんな表情もできたのか、いや、できるようになったのか。
明依はその雪の様子に、日奈を重ねていた。知っている。かけがえのない思い出に触れる時、人はこんな表情をするという事を。だって日奈は終夜を思い出す時、こんな表情をしていたから。
雪は今、巻き戻した思い出の中にいて、そこでは〝終夜〟が息をしている。
「雪が今よりももっと小さい時にね、夜眠れなくてこっそり泣いていた事があるんだ。そうしたら終夜が側に来て、眠るまで一緒にいてくれた。この施設を出る時にもね、一回だけだよって言って、高い高いってしてくれたんだよ。凄く、嬉しかった」
雪は本当に嬉しい時、こんなに綺麗な顔をして笑うのか。
その表情をみて、堪らなく泣きたくなった。
思い返せば終夜と雪の距離感は、最初から近かった。
『明依お姉ちゃんと雪で折ったの。明依お姉ちゃんが向こうから叩いて、雪がこっちから体重をかけて引っ張った』
終夜が格子窓をへし折った時、雪は何を示し合わせた訳でもないのに、終夜を庇って宵にそう説明した。
『終夜、雪まだここにいたい。……まだ明依お姉ちゃんと一緒にいたい』
『ダメだ。わがままは聞かない』
満月屋の宴席。人見知りの雪が、終夜には躊躇わずに意見を伝えていた。終夜の雪への態度は、明らかに柔らかかった。
その時に双子の幽霊と関わりを持たせたのも、大人ばかりの空間にいる雪に対する終夜の優しさだったのだろう。
『終夜は?終夜は、死なない?』
終夜と晴朗が戦っている時。雪は目に涙を溜めて着物の袖を握っていた。大して関りがないはずの雪が、終夜を心底心配している様子だった。
『さっきの女将さんの話、終夜の事だよね』
雪が満月屋に戻ってきて、初めて二人で団子屋に行ったとき、団子屋の女将のした終夜の話に食いついていた。その後、『明依お姉ちゃんは、終夜の事が好き?』と聞くから『うん。好きだよ』と答えると、『そっか』と呟く雪はどこか嬉しそうにしていた。
『いつかこのお団子屋さんで明依お姉ちゃんにご馳走する約束をしています。……終夜も誘います。お団子屋さんのおばちゃんも、会いたいって言ってたから』
昨日、確かに雪は吉野にそう言っていた。
雪は本当に終夜の事が好きだなと思って、それ以上考える事はしなかった。
こんなにたくさんの情報があったというのに、どうして今まで気付かなかったのか。
子どもでさえ見破れないのだ。きっと、こんな風に自分の外側で動いていて気付かない事なんて山ほどある。宵が警察官であった事がその最たる例。やはり見破れなくて当然だったな、と明依は改めて感じていた。
誰も彼もが、たくさんのモノを取り上げられてこの街にいる。現在も、未来も。
それだけでもう、充分すぎるはずなのに。それなのに大人はまだ、こんな純粋な子どもから思い出まで奪おうとする。
「雛菊姐さんが死んで施設に戻った時にもね、終夜は雪の事励ましてくれたんだよ」
「終夜が?」
一体何を励ますというのか。元はと言えば、自分が雪を満月屋から引き離すように言及したというのに。
「『大丈夫。どうせそのうち、明依が迎えに来るから』って」
『待たせてごめんね、雪』
松ノ位に上がって、雪が満月屋に帰ってきた時。明依がそう言うと雪は『ううん。寂しくなかったよ。だって……』と口ごもって、何かを言いかけて口を閉じた。
そしてこう言った。
『明依お姉ちゃんが雪の事をお迎えに来てくれるって知ってたから』
あの時雪は、本当は〝終夜が励ましてくれたから〟と言いたかったのだろう。
でも、終夜との約束を守って、言わなかった。
散々、無理だ、諦めろ。と直接的にも間接的にも様々なバリエーションを駆使して言われた記憶があるが、あれはもしかすると自分の被害妄想だろうか。
あの男の本当は、どこにあるんだ。やっぱり終夜は、どうしようもない嘘つきだ。
それに、こんな所でひそひそと子どもたちと関わっているなんて、どんなギャップだ。
そう思っていると同時に、他の事を考えている。鳴海の話した終夜の過去の事。
子どもの頃、大人にありのままの自分を受け入れてもらえない苦しみを知っているから、未来のある子どもに少しでもできる事をと考えたのだろう。
終夜がそんなに思いやりに溢れた優しい人間だなんて聞いていない。
荒波のような悲しみが襲ってくる。明依はそれに耐える様に、唇を噛みしめた。
「終夜、死んじゃうんでしょ?雛菊姐さんみたいに」
雪のその言葉に、明依は目を見開いた。
雪は勘の鋭い子だ。だからこの状況で何かを察しているのだろうとは思っていたが、まさか終夜が死ぬ事まで考えていたとは思わなかった。
小さな女の子は笑顔を浮かべているが、側にいた雪と同じくらいの男の子も暗い顔をして俯いている。子どもの洞察力は本当に恐ろしい。
「ここに居る子達はみんな、終夜との思い出がたくさんあるの。みんな、終夜の事が本当に大好き。だから明依お姉ちゃん、お願い。終夜の事、助けてあげて」
自分の知らない終夜に触れた。
その彼は、とてもとても優しくて、思いやりに溢れた人だ。
いや、知らない事なんてないじゃないか。
最初の所に戻ってきただけだ。
なんて事はない。
旭と日奈の信じたままの〝終夜〟じゃないか。
「大丈夫だよ。絶対絶対、助けるから」
「本当?」
どこか驚いた様子でそういう雪に、明依は頷いて小指を差し出した。
「うん。約束」
「本当に、本当?」
「当たり前だよ。遊女の〝黎明大夫〟が指切りするんだもん。お墨付だよ。……だから、信じて待ってて」
そう言うと雪は、明依の小指に小指を絡めてやっと安心したように笑った。それから明依は、雪から小指を解いて立ち上がった。
絶対に終夜を見つける。そして、子どもに悲しい思いをさせるなんて何考えてるんだ。と説教してやる。
俄然やる気になった明依は、短く勢いよく息を吐いた。
「って言っても、まずはここから出る方法を考えないといけないんだけどね」
そう言いながら高い塀をぐるりと見回す明依の着物の裾を、雪が数回引っ張った。
「こっちだよ。明依お姉ちゃん」
こっちって何。と思った明依だったが、そういえば雪はどこから入ってきたのか。と考えた。
それから間もなく、雪は何も言っていないというのに明依はもう希望を見出した気になった。
「ちょっと狭いけど、抜け道があるの」
雪はそう言って踵を返す。
「終夜をお願い。明依」
男の子はそう言うと、ペコリと頭を下げた。
「うん。任せなさい。……君も立派だったよ。小さい子に優しくしてあげて。本当に終夜みたいだった」
そう言うと男の子は少し顔を赤くして俯きながら「あの……ありがとう」と呟いた。
子どもたちは皆可愛らしい。終夜にもこんな頃があったのだろうか。こんなに素直で愛らしい男の子がどんな経路を辿ったら終夜の様な生意気な人間になるのだろうか。
「明依お姉ちゃん、行こう」
雪に急かされて、明依は雪の後に続いた。明依は男の子の頭を撫でた後、雪の後ろに続いた。
子どもたちが遊びやすい様にという配慮だろう。障害物は何もなく広い庭だが、庭の一端には下草が生え、松の木や低木が植えられている場所がある。日当たりのいい場所と比べると、草木の落とした影で仄暗い。
裏の方でしゃがんでしまえば、建物側から姿を確認する事は出来ない。子どもがかくれんぼをするには最適だろう。
「ここは全部、子どもたちが管理してるの。ずっと昔からそうなんだって」
雪はそう言って草木の間を縫って歩く。不意に立ち止まった雪は、低木の後ろにある塀に沿って置かれていた大きな庭石を転がすように移動させた。
「ここから外に出られるよ」
そこにはやっと一人が何とか通れそうな穴が開いていた。子どもは難なく通れるだろうが、着物を着た大人は難しいかもしれない。
「どうして施設にこんな穴が……」
「掘ったんだって」
「掘ったって、誰が……?」
「終夜だよ。施設にいる時に掘ったんだって。この為に誰もやりたがらない庭の手入れ係になったって言ってた」
やっぱりアイツはろくな子どもじゃなかった。子どもの頃から終夜は終夜だった。
堀ったにしては穴の周り角張ったり飛び出た部分はなく、通りやすそうに丸くなっている。
「掘った後にやすりをかけるのも大変だったって言ってた。調理場のおろし器とかざらざらな石とかいろんなものを使ってみて丸くしたって」
明依は呆れと同時に、笑いが浮かんで来た。
こんなところでまさか、終夜の過去に触れるなんて。
それが嬉しくもあって、やっぱり今はすごく悲しかった。
「雪、ありがとうね」
明依はそう言って雪の頭を撫でると、着物の帯に手をかけた。
「明依お姉ちゃん!ダメだよ!お外でお洋服脱いだら!!そういうのヘンタイって言うんだよ!!」
「どこで覚えたのそんな言葉……。非常事態だから。雪は真似したらダメだよ」
「うん。雪はそんな事絶対にしないけど……」
仕方がない。帯があってはおそらくここは通れない。
姐さんが破天荒だと大変だな、と他人事のように雪を少し哀れに思った。一番に尊敬していたい人物だろうに。いや、もしそうなら遠慮のかけらもなく『雪はそんな事絶対にしない』とか言うんじゃないよ。と頭の中で二転三転する明依だったが、真似してもらっては困るのだから雪のいう事が正解という所に落ち着いた。
「ここまでで大丈夫。待っててね、雪」
そう言うと雪はこくりと頷いて、明依の腰回りに抱き着いた。
「気を付けてね、明依お姉ちゃん。絶対絶対、帰ってきて」
そういう雪の言葉に頷いて頭を撫でた後、雪から離れて外した帯を穴の向こうにやった。手に何かが当たって、帯を手放して腕を引くとカタンという音がした。
大して気にも止めずに穴を潜った。次に頭に何かが当たって、明依は這いつくばったまま穴を通り過ぎた。
立ち上がって振り返ると、色の褪せた竹が隙間なく綺麗に整列している竹垣があった。通ってきた一部分のだけがペットドアの様に開閉するようになっているが、ぱっと見ただけでは全くわからない。
ましてやここは人通りのない薄暗い裏道。よっぽど丁寧に疑わない限り、誰かに気付かれる事はないだろう。
この仕組みも幼いころの終夜が大人の目を盗んで作ったのかと思うと、本当にとんでもない子どもだと思った。多分子どもの頃の終夜の方が今の自分より格段に頭がいいに違いない。
明依は余計な考えを振り払うように、竹垣に背を向けて着物を着直す。それから、終夜を探す為に走った。
今終夜はどのあたりにいるのだろう。
主郭の人間は頭領の危機だと思っている。だから大半は主郭にいると思うが、終夜を主郭に行かせたくないのであれば、相当な人数を終夜殺害に割いているかもしれない。
陰まで含めたら相当な人数になるだろう。そのほぼ全員が、終夜を狙っている。だから簡単に主郭に行けるはずがない。だからまだ街のどこかにいるはずだと明依は考えていた。
終夜があんなところで無駄に挑発さえしなかったら、今頃ガードは薄かったかもしれないのに。
「こっちを探せ」
時々重々しい雰囲気でそういう男たちと出会いながら、物陰に隠れつつ終夜を探す。
探し始めて一時間は経ったが、終夜を見つける事は出来ない。
こんな広い場所で終夜を探すなんて無謀なのではないか。そんな考えが浮かんで、振り払うようにまた走る。
絶対諦めないと決めたんだから。意を決して大通りの端を移動した。本当に誰もいない。不気味な感じがする。
乾いた空気が体にしみる。肺も心臓も痛みに耐えながら、壁に手をついて歩いた。
「さっきから何してんの?黎明大夫」
その声にびくりと肩を揺らして視線を上げた。
男は顔と身体を夜に紛れる様な黒い布で覆っている陰だった。
「終夜サマが施設の中に閉じ込めたはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう?」
男はわざとらしくそう言うと、顔を覆う布を外した。
見た事のない男だ。
嫌な予感に警戒心を強めるが、男はただ笑っていた。
そんな様子はあっただろうかと疑問を呈しているのに、肝心の頭は全くもって働いていなかった。
「でも、どうして?知り合いだったなら、教えてくれたら……。雪全然、そんな感じじゃなかった……」
「終夜との約束なの。この施設の外では会っても話しかけないって。誰かに終夜の話をするのもダメだって言うから。なんでだかわからないけど。……でも多分、施設から出た子はみんな、終夜に嫌われたくないからちゃんと守ってると思う。雪もそうだから」
もう驚いて声も出なかった。
しかし、終夜が施設の外で関わりを悟られない様にと言いつける理由は手に取る様にわかった。
将来のある子どもが吉原で評判の良くない自分と関わりがあると分かれば、将来に差し支える可能性があるから。
雪がどこか、懐かしむように笑う。こんな表情もできたのか、いや、できるようになったのか。
明依はその雪の様子に、日奈を重ねていた。知っている。かけがえのない思い出に触れる時、人はこんな表情をするという事を。だって日奈は終夜を思い出す時、こんな表情をしていたから。
雪は今、巻き戻した思い出の中にいて、そこでは〝終夜〟が息をしている。
「雪が今よりももっと小さい時にね、夜眠れなくてこっそり泣いていた事があるんだ。そうしたら終夜が側に来て、眠るまで一緒にいてくれた。この施設を出る時にもね、一回だけだよって言って、高い高いってしてくれたんだよ。凄く、嬉しかった」
雪は本当に嬉しい時、こんなに綺麗な顔をして笑うのか。
その表情をみて、堪らなく泣きたくなった。
思い返せば終夜と雪の距離感は、最初から近かった。
『明依お姉ちゃんと雪で折ったの。明依お姉ちゃんが向こうから叩いて、雪がこっちから体重をかけて引っ張った』
終夜が格子窓をへし折った時、雪は何を示し合わせた訳でもないのに、終夜を庇って宵にそう説明した。
『終夜、雪まだここにいたい。……まだ明依お姉ちゃんと一緒にいたい』
『ダメだ。わがままは聞かない』
満月屋の宴席。人見知りの雪が、終夜には躊躇わずに意見を伝えていた。終夜の雪への態度は、明らかに柔らかかった。
その時に双子の幽霊と関わりを持たせたのも、大人ばかりの空間にいる雪に対する終夜の優しさだったのだろう。
『終夜は?終夜は、死なない?』
終夜と晴朗が戦っている時。雪は目に涙を溜めて着物の袖を握っていた。大して関りがないはずの雪が、終夜を心底心配している様子だった。
『さっきの女将さんの話、終夜の事だよね』
雪が満月屋に戻ってきて、初めて二人で団子屋に行ったとき、団子屋の女将のした終夜の話に食いついていた。その後、『明依お姉ちゃんは、終夜の事が好き?』と聞くから『うん。好きだよ』と答えると、『そっか』と呟く雪はどこか嬉しそうにしていた。
『いつかこのお団子屋さんで明依お姉ちゃんにご馳走する約束をしています。……終夜も誘います。お団子屋さんのおばちゃんも、会いたいって言ってたから』
昨日、確かに雪は吉野にそう言っていた。
雪は本当に終夜の事が好きだなと思って、それ以上考える事はしなかった。
こんなにたくさんの情報があったというのに、どうして今まで気付かなかったのか。
子どもでさえ見破れないのだ。きっと、こんな風に自分の外側で動いていて気付かない事なんて山ほどある。宵が警察官であった事がその最たる例。やはり見破れなくて当然だったな、と明依は改めて感じていた。
誰も彼もが、たくさんのモノを取り上げられてこの街にいる。現在も、未来も。
それだけでもう、充分すぎるはずなのに。それなのに大人はまだ、こんな純粋な子どもから思い出まで奪おうとする。
「雛菊姐さんが死んで施設に戻った時にもね、終夜は雪の事励ましてくれたんだよ」
「終夜が?」
一体何を励ますというのか。元はと言えば、自分が雪を満月屋から引き離すように言及したというのに。
「『大丈夫。どうせそのうち、明依が迎えに来るから』って」
『待たせてごめんね、雪』
松ノ位に上がって、雪が満月屋に帰ってきた時。明依がそう言うと雪は『ううん。寂しくなかったよ。だって……』と口ごもって、何かを言いかけて口を閉じた。
そしてこう言った。
『明依お姉ちゃんが雪の事をお迎えに来てくれるって知ってたから』
あの時雪は、本当は〝終夜が励ましてくれたから〟と言いたかったのだろう。
でも、終夜との約束を守って、言わなかった。
散々、無理だ、諦めろ。と直接的にも間接的にも様々なバリエーションを駆使して言われた記憶があるが、あれはもしかすると自分の被害妄想だろうか。
あの男の本当は、どこにあるんだ。やっぱり終夜は、どうしようもない嘘つきだ。
それに、こんな所でひそひそと子どもたちと関わっているなんて、どんなギャップだ。
そう思っていると同時に、他の事を考えている。鳴海の話した終夜の過去の事。
子どもの頃、大人にありのままの自分を受け入れてもらえない苦しみを知っているから、未来のある子どもに少しでもできる事をと考えたのだろう。
終夜がそんなに思いやりに溢れた優しい人間だなんて聞いていない。
荒波のような悲しみが襲ってくる。明依はそれに耐える様に、唇を噛みしめた。
「終夜、死んじゃうんでしょ?雛菊姐さんみたいに」
雪のその言葉に、明依は目を見開いた。
雪は勘の鋭い子だ。だからこの状況で何かを察しているのだろうとは思っていたが、まさか終夜が死ぬ事まで考えていたとは思わなかった。
小さな女の子は笑顔を浮かべているが、側にいた雪と同じくらいの男の子も暗い顔をして俯いている。子どもの洞察力は本当に恐ろしい。
「ここに居る子達はみんな、終夜との思い出がたくさんあるの。みんな、終夜の事が本当に大好き。だから明依お姉ちゃん、お願い。終夜の事、助けてあげて」
自分の知らない終夜に触れた。
その彼は、とてもとても優しくて、思いやりに溢れた人だ。
いや、知らない事なんてないじゃないか。
最初の所に戻ってきただけだ。
なんて事はない。
旭と日奈の信じたままの〝終夜〟じゃないか。
「大丈夫だよ。絶対絶対、助けるから」
「本当?」
どこか驚いた様子でそういう雪に、明依は頷いて小指を差し出した。
「うん。約束」
「本当に、本当?」
「当たり前だよ。遊女の〝黎明大夫〟が指切りするんだもん。お墨付だよ。……だから、信じて待ってて」
そう言うと雪は、明依の小指に小指を絡めてやっと安心したように笑った。それから明依は、雪から小指を解いて立ち上がった。
絶対に終夜を見つける。そして、子どもに悲しい思いをさせるなんて何考えてるんだ。と説教してやる。
俄然やる気になった明依は、短く勢いよく息を吐いた。
「って言っても、まずはここから出る方法を考えないといけないんだけどね」
そう言いながら高い塀をぐるりと見回す明依の着物の裾を、雪が数回引っ張った。
「こっちだよ。明依お姉ちゃん」
こっちって何。と思った明依だったが、そういえば雪はどこから入ってきたのか。と考えた。
それから間もなく、雪は何も言っていないというのに明依はもう希望を見出した気になった。
「ちょっと狭いけど、抜け道があるの」
雪はそう言って踵を返す。
「終夜をお願い。明依」
男の子はそう言うと、ペコリと頭を下げた。
「うん。任せなさい。……君も立派だったよ。小さい子に優しくしてあげて。本当に終夜みたいだった」
そう言うと男の子は少し顔を赤くして俯きながら「あの……ありがとう」と呟いた。
子どもたちは皆可愛らしい。終夜にもこんな頃があったのだろうか。こんなに素直で愛らしい男の子がどんな経路を辿ったら終夜の様な生意気な人間になるのだろうか。
「明依お姉ちゃん、行こう」
雪に急かされて、明依は雪の後に続いた。明依は男の子の頭を撫でた後、雪の後ろに続いた。
子どもたちが遊びやすい様にという配慮だろう。障害物は何もなく広い庭だが、庭の一端には下草が生え、松の木や低木が植えられている場所がある。日当たりのいい場所と比べると、草木の落とした影で仄暗い。
裏の方でしゃがんでしまえば、建物側から姿を確認する事は出来ない。子どもがかくれんぼをするには最適だろう。
「ここは全部、子どもたちが管理してるの。ずっと昔からそうなんだって」
雪はそう言って草木の間を縫って歩く。不意に立ち止まった雪は、低木の後ろにある塀に沿って置かれていた大きな庭石を転がすように移動させた。
「ここから外に出られるよ」
そこにはやっと一人が何とか通れそうな穴が開いていた。子どもは難なく通れるだろうが、着物を着た大人は難しいかもしれない。
「どうして施設にこんな穴が……」
「掘ったんだって」
「掘ったって、誰が……?」
「終夜だよ。施設にいる時に掘ったんだって。この為に誰もやりたがらない庭の手入れ係になったって言ってた」
やっぱりアイツはろくな子どもじゃなかった。子どもの頃から終夜は終夜だった。
堀ったにしては穴の周り角張ったり飛び出た部分はなく、通りやすそうに丸くなっている。
「掘った後にやすりをかけるのも大変だったって言ってた。調理場のおろし器とかざらざらな石とかいろんなものを使ってみて丸くしたって」
明依は呆れと同時に、笑いが浮かんで来た。
こんなところでまさか、終夜の過去に触れるなんて。
それが嬉しくもあって、やっぱり今はすごく悲しかった。
「雪、ありがとうね」
明依はそう言って雪の頭を撫でると、着物の帯に手をかけた。
「明依お姉ちゃん!ダメだよ!お外でお洋服脱いだら!!そういうのヘンタイって言うんだよ!!」
「どこで覚えたのそんな言葉……。非常事態だから。雪は真似したらダメだよ」
「うん。雪はそんな事絶対にしないけど……」
仕方がない。帯があってはおそらくここは通れない。
姐さんが破天荒だと大変だな、と他人事のように雪を少し哀れに思った。一番に尊敬していたい人物だろうに。いや、もしそうなら遠慮のかけらもなく『雪はそんな事絶対にしない』とか言うんじゃないよ。と頭の中で二転三転する明依だったが、真似してもらっては困るのだから雪のいう事が正解という所に落ち着いた。
「ここまでで大丈夫。待っててね、雪」
そう言うと雪はこくりと頷いて、明依の腰回りに抱き着いた。
「気を付けてね、明依お姉ちゃん。絶対絶対、帰ってきて」
そういう雪の言葉に頷いて頭を撫でた後、雪から離れて外した帯を穴の向こうにやった。手に何かが当たって、帯を手放して腕を引くとカタンという音がした。
大して気にも止めずに穴を潜った。次に頭に何かが当たって、明依は這いつくばったまま穴を通り過ぎた。
立ち上がって振り返ると、色の褪せた竹が隙間なく綺麗に整列している竹垣があった。通ってきた一部分のだけがペットドアの様に開閉するようになっているが、ぱっと見ただけでは全くわからない。
ましてやここは人通りのない薄暗い裏道。よっぽど丁寧に疑わない限り、誰かに気付かれる事はないだろう。
この仕組みも幼いころの終夜が大人の目を盗んで作ったのかと思うと、本当にとんでもない子どもだと思った。多分子どもの頃の終夜の方が今の自分より格段に頭がいいに違いない。
明依は余計な考えを振り払うように、竹垣に背を向けて着物を着直す。それから、終夜を探す為に走った。
今終夜はどのあたりにいるのだろう。
主郭の人間は頭領の危機だと思っている。だから大半は主郭にいると思うが、終夜を主郭に行かせたくないのであれば、相当な人数を終夜殺害に割いているかもしれない。
陰まで含めたら相当な人数になるだろう。そのほぼ全員が、終夜を狙っている。だから簡単に主郭に行けるはずがない。だからまだ街のどこかにいるはずだと明依は考えていた。
終夜があんなところで無駄に挑発さえしなかったら、今頃ガードは薄かったかもしれないのに。
「こっちを探せ」
時々重々しい雰囲気でそういう男たちと出会いながら、物陰に隠れつつ終夜を探す。
探し始めて一時間は経ったが、終夜を見つける事は出来ない。
こんな広い場所で終夜を探すなんて無謀なのではないか。そんな考えが浮かんで、振り払うようにまた走る。
絶対諦めないと決めたんだから。意を決して大通りの端を移動した。本当に誰もいない。不気味な感じがする。
乾いた空気が体にしみる。肺も心臓も痛みに耐えながら、壁に手をついて歩いた。
「さっきから何してんの?黎明大夫」
その声にびくりと肩を揺らして視線を上げた。
男は顔と身体を夜に紛れる様な黒い布で覆っている陰だった。
「終夜サマが施設の中に閉じ込めたはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう?」
男はわざとらしくそう言うと、顔を覆う布を外した。
見た事のない男だ。
嫌な予感に警戒心を強めるが、男はただ笑っていた。