造花街・吉原の陰謀
38:強欲
明依は終夜から視線を逸らし、黒い装束を纏っている陰の男を見た。
沈黙が不安を煽って大きくする。だから、息を吐いた喉元が少し震えていた。
「通してください」
「あなたをですか」
「いいえ」
まるで考えを知っているかのように問いかける男の言葉を、考えるよりも先に否定する。
この状況では、あなた〝だけ〟をですか。と強調して言わなくても痛い位伝わるものだな、と他人事のように考えている。
思い返せば、土壇場になった時ほど妙に冷静にぽつりと浮かぶ事が多くて。勝山のいう雑草タイプという事だろうか。逆境を力に変えるという事。だったら土壇場は、案外得意なのかもしれない。
その自己暗示が、少し平穏に傾ける。
こんな状況を語って聞かせれば、きっと勝山は〝要は気の持ちよう〟と感覚派全開の言葉でまとめるのだろう。
「私と、終夜を」
「できません」
「急いでいるんです。暁さまの所に行きたいの。通して下さい」
「お一人であればどうぞ」
「終夜がいないと意味がないの」
明依がその類の言葉を言うと想定していたのか、男は驚いた様子も見せずにただじっと明依を見ていた。
躊躇いなくそう言い切って浮かぶ疑問。
救いたいと祈りながら、どうして躊躇いもせずに終夜が死ぬかもしれない未来に進もうとしているのだろう。
終夜が死ぬかもしれないのに、どうして彼を裏の頭領の所まで連れて行こうとしているのだろう。
漠然とした中で思うのは、一緒にいる未来を選ばなかった事。思い出せばたちまち、膿んで不透明な粘液が胸の内側を汚す感覚。
本当はそうしたかったという後悔。そうできなかった葛藤。明らかな、罪悪感。
救うという言葉の定義は一体なんだろう。
見届けなければいけない、なんて大儀があるわけでもないのに。
終夜が死ぬ覚悟はできていない。きっとどんな未来を辿っても、終夜が死ぬ覚悟は芽生えてこない。
堂々巡りになった疑問はとうとう飽和して、最初の所に戻ってくる。
先ほどと何も変わっていない。
今は、終夜の側にいたい。
ただ、それだけ。
「そこをどいてください、黎明大夫」
「そこをどくのはあなたの方よ。急いでるって、そう言ったでしょ」
「これが私たちの最優先任務です。これ以上邪魔をするのであれば、安全の保証はできません」
随分律儀な人だなんてこの状況でそんなことを思った。
先ほどの不真面目で、所構わず抱きたいと言い出す欲望丸出しの男とは訳が違う。
きっと炎天の命令に従う、真っ直ぐで優秀な人なのだろう。
その真っ直ぐな熱量を自分の思う善悪の一方に注ぐのではなくて、ほんの少しだけ〝悪人〟と呼ばれる人にも傾ける柔軟さを持っていれば。
そうやって誰もがほんの少しだけ意識を巡らせることが出来れば、こんな大きな事にはならなかったかもしれないのに。
「忠告はしましたからね」
念を押すようにそう言って、男は明依の方へ手を伸ばす。
こんな態度を取られるのだから、他の四人の松ノ位にはまだまだ及ばないな。と思った。
考えてみれば、そりゃそうだ。
他の松ノ位に比べてまだ昇格して間もなく、年齢も若い。
何の実績もなければ、圧倒的な雰囲気もない。
容姿だけなら優れている女なんてこの吉原にはたくさんいて、男から愛される女も山ほどいる。
だから納得、
なんてできるはずがなかった。
腹が立った。
どうして自分の努力も知らない人たちに、こんな風に評価されないといけないのだろう。
きっとこの男は、あの四人の松ノ位を前にしたらこんな事は言えないはずなのに。
そこまで考えて思った。言えないのではない。
あの四人が〝言わせない〟のだ。
だったら誰が悪いのか。
もう答えは出ていて。出ていたから、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「私に何かあって、ただで済むと思っているんじゃないでしょうね」
明依はそう言って、自分に触れようとする男の手を振り払った。
男は突然の事に、目を見開いて固まっていた。
他を圧倒する雰囲気。それが確かに松ノ位にはあって。でもその感覚は分からないから、自分が正しいと言い聞かせて胸を張った。
「私の身体にどれだけの価値があると思ってるの?」
勝山や夕霧が悠々と余裕の態度で口にしていそうな言葉を選んだのは無意識。しかし、自分が吐くとあまりに高飛車に思えて。
「どきなさいって言ったの!!私を誰だと思ってるの!!」
はっきりとそう告げた事に男が動揺している隙に、明依は終夜の手を握って話をしていた男と周りの陰を振り払って走った。
きっと釣られて走っているだけの終夜は、変わらず唖然とした顔をしているのだろう。
「この状況は、お得意の想定には入ってなかったの?」
いつも通りの挑発的な言葉を吐いても、終夜は何も答えない。
「私はそういうの苦手なんだから、ちゃんと入れといてもらわないと困るんだけど」
それでも終夜は何も言わない。
せめて終夜が自分がここへ来たことに罪悪感を感じさせない様にと、いつも通りを心がけて口を開き続けた。
「それから、謝ってよ。私を突き落としたこと。死ぬところだったんだから」
「……どこまで知ってるの?」
「全部」
「……じゃあなんで」
「私は私の価値をわかってるから」
「価値……?」
終夜は本当にこの状況を想定していなかったらしい。
明依の言葉を聞いてやっとのことで考えを巡らせている様子だった。
ほんとに珍しい事もあるものだ。
意図していなかったが、自分がこんな風に終夜を翻弄する日が来るなんて。
「約束したでしょ。私が盾になってあげるって」
松ノ位には価値がある。
そして、終夜が今守ろうとしている裏の頭領にとって、自分が価値のある人間だという事も明依にはもうわかっていた。
「私が落ち込んで、今度こそくじけると思ってた?」
念の為に終夜の反応を伺ってみるが、彼は返事をしない。しかし明依は、それが肯定であるという事を知っていた。
「それなら、今までの終夜の誤算は全部そこにあるよ。終夜は私の事を、何もわかってない」
自分の定めた〝明依〟という想定と明らかにすれ違っていた事に、終夜が気付いていないはずがなかった。
知らなくていいと思ったのか。それとも例えそうでも丸め込めると思ったのか。真相は分からないが、ここではっきりとさせておきたかった。
「何もかも男に守ってもらう程、女は弱い生き物じゃないの。だからいつまでも私を、心許ない着せ替え人形と思わないで」
前だけを見てはっきりとした口調でそういう。その言葉に迷いも戸惑いもなかった。それに気付いたからか、終夜は乾いた笑いを漏らした。
「どおりで。可愛くないと思ってた」
終夜は茶化す様な口調でそういう。ほんの少しだけ、いつも通り。
理解はしたのだろうか。そんな疑問はあったものの、罪悪感ばかりを抱え込んでいる様子ではない事にほんの少し安堵した。
「じゃあ俺は、捨てた盾を運よくまた拾ったって事だ」
「私が拾わせてあげたの。そんな事より謝ってよ。私を外に突き落とした事」
「もう忘れちゃった」
こいつマジで嘘つけよ。と思っている明依をよそに終夜は手を握り直すと、あっさりと追い越して今度は自分が明依の手を引いた。
「宵兄さんと、十六夜さんは?」
「逃がした。だからさっさとあのジジィの所に行かないと」
終夜はそれ以上、何かをいう事はなかった。どんな言葉をかけたらいいのかわからなくて、結局ありきたりな言葉を選んだ。
「何も気が付かなくて、ごめん」
少し真剣な口調でそう言って視線が合わない角度をいい事に前を走る終夜を見たが、明依の見ている角度から終夜の表情すら見えなかった。
「……隠してたんだよ。ただの遊女なんかに気付かれて堪るか」
本気で隠していなければ、あれほど手の込んだことをするはずがない。
全部知って、いっそ清々しいとさえ思った。これが一時的な感情であることにも気付いている。
「……騙されてたんだよねー、私。全然気付かなかった」
ふてくされたような終夜の言い方に、明るさを混ぜてそういう明依。別に答えを期待しているわけではなかったが、終夜は小さなため息を吐いた。
「満月楼から主郭の地下牢に宵を連れて行くとき、ちゃんと調べろって言うアンタに俺は言ったはずだよ。この世界ではそんなもの、何の意味も持たないって」
『宵兄さんは、犯人じゃない』
『どうしてそう思うの?』
『人の出入りが多い満月屋で、宵兄さんが旭を殺す為に見世を出たなら、必ず誰かが見てるはず。まずはそれを調べてよ』
『世間知らずなお姉さんに一つ教えてあげる。そんなもの、何の意味も持たないんだよ。この世界ではね』
確かにそんなやりとりをした事を思い出して、終夜の言葉の続きを待った。
「もう知ってるだろ。何かを失った人間は、その隙間を埋める為に強く何かと繋がろうとする。それは客と遊女の関係だけじゃない。裏社会って言うのはそもそも、そうやって成り立ってるんだ。だから主犯は自分から動かなくても大業を成し遂げられるんだよ。強く繋がった駒や信者がいるんだから」
あれは他人に罪を擦り付ける事など容易だと言っているのだとばかり思っていた。
「……気付くはずないじゃん」
「だよね。知ってたよ。早い段階でそんな読解能力はないだろうなって思ってた」
コイツ、何でこの状況で自分らしさを全開にできるんだ。
先ほどの誤算によって生まれたパニックはもう残っていないだろうか。残っているなら非力な女でも後ろから一発くらいは入れられそうな気がした。
でも、そんな思いも全部溜息と一緒に吐き出して安堵する。
「終夜、ありがとうね。守ってくれて」
「……はァ?」
終夜は不服そうな様子を微塵も隠さずに、何なら機嫌が悪そうな様子でそういう。
え、なに。言葉間違った?正直に言えば少しいい雰囲気になると思ったんだけど。と混乱した明依だったが、考えてみても何も間違っていないという所に着地した。
「え、なに?」
「煽ってんの?」
「うん。……え、誰が?私?何言ってんの?」
マジでこいつ何言ってんだ。さっきの場所に日本語を忘れてきたのか。でも残念ながら取りに戻っている時間なんてあるわけない。可哀想に。やっぱりまだパニックなのか。と勝手に憐れんでいる明依だったが、終夜は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな音で舌打ちをした。
「守ってやれなかったから、アンタは今ここに居るんでしょ?」
そういう事か。コイツどんだけ捻くれてんだよ。〝結果〟じゃなくて〝過程〟に感謝してんだよ。普通分かるだろ。という言葉は自分との考えとはかけ離れた終夜の思考に触れて、すぐに言葉にはならなかった。
絵に描いたような実力主義者で、完璧主義者。その二つの言葉で終夜のほぼすべてを説明できる気すらしていた。
「……人の言葉を素直に受け取るって事を、覚えられるといいね」
とりあえず、今後終夜の課題になるであろう事を呟いておく。
何も言いはしない終夜に、明依は少し首を傾げて顔を盗み見た。少し見えた顔だけでも不満足気で不機嫌で、納得のいっていない様子だという事がわかった。そこは分かりやすいんだな、という感想で終夜がまた年相応に見える。
こんな状況も忘れて、明依は思わず噴き出した。
「わかりやす」
そう呟くと終夜はさらに不機嫌そうな顔をした。
本当にこの人が、この街の因果応報すべてを一人で抱え込んでいたのだろうかと思うくらい自然な、年相応な様子で。
「うるさい」
終夜はやはり不機嫌そうに呟いて、せめて仕返ししてやろうと思ったのか明依の手を少しだけ強く握った。
もっとはやく終夜を知っていたら、こんな所をたくさん見られたかもしれないのに。
ただ、会いたいと思って駆け出してきただけで。
実際に会えたら目の前の事が見えなくなるくらい安心して。
それだけでよかったはずなのに、今度はまたもっとこうだったらって。別の欲望が顔を出す。
やはり人間に、〝足るを知る〟は不可能なのではないかと明依は思っていた。
でもこの窮地といえるこの状況から隔離された様な感覚は多分、後ろ向きな現実逃避ではなくて。
きっと自制が利かなくなっただけの、どちらかといえば前向きな何か。
その何かがこれまで存分に胸を締め付けてきたことを知っているのに、どうしてこうも学ばないのか。
この状況に幸せすら感じているのか。
思い出したのはやっぱり、日奈の顔で。
だから強く握られた手を握り返すことが出来なかった。
それでも終夜の手をはなさないのは、危機的な状況だから。
そうでなければ終夜の手を取る事が許されるはずがないじゃないかと、自分の中で生まれた罪悪感がそうがなるから。
お互いの違う色をした人生は、こんな形でしか交わる事が許されない。
沈黙が不安を煽って大きくする。だから、息を吐いた喉元が少し震えていた。
「通してください」
「あなたをですか」
「いいえ」
まるで考えを知っているかのように問いかける男の言葉を、考えるよりも先に否定する。
この状況では、あなた〝だけ〟をですか。と強調して言わなくても痛い位伝わるものだな、と他人事のように考えている。
思い返せば、土壇場になった時ほど妙に冷静にぽつりと浮かぶ事が多くて。勝山のいう雑草タイプという事だろうか。逆境を力に変えるという事。だったら土壇場は、案外得意なのかもしれない。
その自己暗示が、少し平穏に傾ける。
こんな状況を語って聞かせれば、きっと勝山は〝要は気の持ちよう〟と感覚派全開の言葉でまとめるのだろう。
「私と、終夜を」
「できません」
「急いでいるんです。暁さまの所に行きたいの。通して下さい」
「お一人であればどうぞ」
「終夜がいないと意味がないの」
明依がその類の言葉を言うと想定していたのか、男は驚いた様子も見せずにただじっと明依を見ていた。
躊躇いなくそう言い切って浮かぶ疑問。
救いたいと祈りながら、どうして躊躇いもせずに終夜が死ぬかもしれない未来に進もうとしているのだろう。
終夜が死ぬかもしれないのに、どうして彼を裏の頭領の所まで連れて行こうとしているのだろう。
漠然とした中で思うのは、一緒にいる未来を選ばなかった事。思い出せばたちまち、膿んで不透明な粘液が胸の内側を汚す感覚。
本当はそうしたかったという後悔。そうできなかった葛藤。明らかな、罪悪感。
救うという言葉の定義は一体なんだろう。
見届けなければいけない、なんて大儀があるわけでもないのに。
終夜が死ぬ覚悟はできていない。きっとどんな未来を辿っても、終夜が死ぬ覚悟は芽生えてこない。
堂々巡りになった疑問はとうとう飽和して、最初の所に戻ってくる。
先ほどと何も変わっていない。
今は、終夜の側にいたい。
ただ、それだけ。
「そこをどいてください、黎明大夫」
「そこをどくのはあなたの方よ。急いでるって、そう言ったでしょ」
「これが私たちの最優先任務です。これ以上邪魔をするのであれば、安全の保証はできません」
随分律儀な人だなんてこの状況でそんなことを思った。
先ほどの不真面目で、所構わず抱きたいと言い出す欲望丸出しの男とは訳が違う。
きっと炎天の命令に従う、真っ直ぐで優秀な人なのだろう。
その真っ直ぐな熱量を自分の思う善悪の一方に注ぐのではなくて、ほんの少しだけ〝悪人〟と呼ばれる人にも傾ける柔軟さを持っていれば。
そうやって誰もがほんの少しだけ意識を巡らせることが出来れば、こんな大きな事にはならなかったかもしれないのに。
「忠告はしましたからね」
念を押すようにそう言って、男は明依の方へ手を伸ばす。
こんな態度を取られるのだから、他の四人の松ノ位にはまだまだ及ばないな。と思った。
考えてみれば、そりゃそうだ。
他の松ノ位に比べてまだ昇格して間もなく、年齢も若い。
何の実績もなければ、圧倒的な雰囲気もない。
容姿だけなら優れている女なんてこの吉原にはたくさんいて、男から愛される女も山ほどいる。
だから納得、
なんてできるはずがなかった。
腹が立った。
どうして自分の努力も知らない人たちに、こんな風に評価されないといけないのだろう。
きっとこの男は、あの四人の松ノ位を前にしたらこんな事は言えないはずなのに。
そこまで考えて思った。言えないのではない。
あの四人が〝言わせない〟のだ。
だったら誰が悪いのか。
もう答えは出ていて。出ていたから、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「私に何かあって、ただで済むと思っているんじゃないでしょうね」
明依はそう言って、自分に触れようとする男の手を振り払った。
男は突然の事に、目を見開いて固まっていた。
他を圧倒する雰囲気。それが確かに松ノ位にはあって。でもその感覚は分からないから、自分が正しいと言い聞かせて胸を張った。
「私の身体にどれだけの価値があると思ってるの?」
勝山や夕霧が悠々と余裕の態度で口にしていそうな言葉を選んだのは無意識。しかし、自分が吐くとあまりに高飛車に思えて。
「どきなさいって言ったの!!私を誰だと思ってるの!!」
はっきりとそう告げた事に男が動揺している隙に、明依は終夜の手を握って話をしていた男と周りの陰を振り払って走った。
きっと釣られて走っているだけの終夜は、変わらず唖然とした顔をしているのだろう。
「この状況は、お得意の想定には入ってなかったの?」
いつも通りの挑発的な言葉を吐いても、終夜は何も答えない。
「私はそういうの苦手なんだから、ちゃんと入れといてもらわないと困るんだけど」
それでも終夜は何も言わない。
せめて終夜が自分がここへ来たことに罪悪感を感じさせない様にと、いつも通りを心がけて口を開き続けた。
「それから、謝ってよ。私を突き落としたこと。死ぬところだったんだから」
「……どこまで知ってるの?」
「全部」
「……じゃあなんで」
「私は私の価値をわかってるから」
「価値……?」
終夜は本当にこの状況を想定していなかったらしい。
明依の言葉を聞いてやっとのことで考えを巡らせている様子だった。
ほんとに珍しい事もあるものだ。
意図していなかったが、自分がこんな風に終夜を翻弄する日が来るなんて。
「約束したでしょ。私が盾になってあげるって」
松ノ位には価値がある。
そして、終夜が今守ろうとしている裏の頭領にとって、自分が価値のある人間だという事も明依にはもうわかっていた。
「私が落ち込んで、今度こそくじけると思ってた?」
念の為に終夜の反応を伺ってみるが、彼は返事をしない。しかし明依は、それが肯定であるという事を知っていた。
「それなら、今までの終夜の誤算は全部そこにあるよ。終夜は私の事を、何もわかってない」
自分の定めた〝明依〟という想定と明らかにすれ違っていた事に、終夜が気付いていないはずがなかった。
知らなくていいと思ったのか。それとも例えそうでも丸め込めると思ったのか。真相は分からないが、ここではっきりとさせておきたかった。
「何もかも男に守ってもらう程、女は弱い生き物じゃないの。だからいつまでも私を、心許ない着せ替え人形と思わないで」
前だけを見てはっきりとした口調でそういう。その言葉に迷いも戸惑いもなかった。それに気付いたからか、終夜は乾いた笑いを漏らした。
「どおりで。可愛くないと思ってた」
終夜は茶化す様な口調でそういう。ほんの少しだけ、いつも通り。
理解はしたのだろうか。そんな疑問はあったものの、罪悪感ばかりを抱え込んでいる様子ではない事にほんの少し安堵した。
「じゃあ俺は、捨てた盾を運よくまた拾ったって事だ」
「私が拾わせてあげたの。そんな事より謝ってよ。私を外に突き落とした事」
「もう忘れちゃった」
こいつマジで嘘つけよ。と思っている明依をよそに終夜は手を握り直すと、あっさりと追い越して今度は自分が明依の手を引いた。
「宵兄さんと、十六夜さんは?」
「逃がした。だからさっさとあのジジィの所に行かないと」
終夜はそれ以上、何かをいう事はなかった。どんな言葉をかけたらいいのかわからなくて、結局ありきたりな言葉を選んだ。
「何も気が付かなくて、ごめん」
少し真剣な口調でそう言って視線が合わない角度をいい事に前を走る終夜を見たが、明依の見ている角度から終夜の表情すら見えなかった。
「……隠してたんだよ。ただの遊女なんかに気付かれて堪るか」
本気で隠していなければ、あれほど手の込んだことをするはずがない。
全部知って、いっそ清々しいとさえ思った。これが一時的な感情であることにも気付いている。
「……騙されてたんだよねー、私。全然気付かなかった」
ふてくされたような終夜の言い方に、明るさを混ぜてそういう明依。別に答えを期待しているわけではなかったが、終夜は小さなため息を吐いた。
「満月楼から主郭の地下牢に宵を連れて行くとき、ちゃんと調べろって言うアンタに俺は言ったはずだよ。この世界ではそんなもの、何の意味も持たないって」
『宵兄さんは、犯人じゃない』
『どうしてそう思うの?』
『人の出入りが多い満月屋で、宵兄さんが旭を殺す為に見世を出たなら、必ず誰かが見てるはず。まずはそれを調べてよ』
『世間知らずなお姉さんに一つ教えてあげる。そんなもの、何の意味も持たないんだよ。この世界ではね』
確かにそんなやりとりをした事を思い出して、終夜の言葉の続きを待った。
「もう知ってるだろ。何かを失った人間は、その隙間を埋める為に強く何かと繋がろうとする。それは客と遊女の関係だけじゃない。裏社会って言うのはそもそも、そうやって成り立ってるんだ。だから主犯は自分から動かなくても大業を成し遂げられるんだよ。強く繋がった駒や信者がいるんだから」
あれは他人に罪を擦り付ける事など容易だと言っているのだとばかり思っていた。
「……気付くはずないじゃん」
「だよね。知ってたよ。早い段階でそんな読解能力はないだろうなって思ってた」
コイツ、何でこの状況で自分らしさを全開にできるんだ。
先ほどの誤算によって生まれたパニックはもう残っていないだろうか。残っているなら非力な女でも後ろから一発くらいは入れられそうな気がした。
でも、そんな思いも全部溜息と一緒に吐き出して安堵する。
「終夜、ありがとうね。守ってくれて」
「……はァ?」
終夜は不服そうな様子を微塵も隠さずに、何なら機嫌が悪そうな様子でそういう。
え、なに。言葉間違った?正直に言えば少しいい雰囲気になると思ったんだけど。と混乱した明依だったが、考えてみても何も間違っていないという所に着地した。
「え、なに?」
「煽ってんの?」
「うん。……え、誰が?私?何言ってんの?」
マジでこいつ何言ってんだ。さっきの場所に日本語を忘れてきたのか。でも残念ながら取りに戻っている時間なんてあるわけない。可哀想に。やっぱりまだパニックなのか。と勝手に憐れんでいる明依だったが、終夜は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな音で舌打ちをした。
「守ってやれなかったから、アンタは今ここに居るんでしょ?」
そういう事か。コイツどんだけ捻くれてんだよ。〝結果〟じゃなくて〝過程〟に感謝してんだよ。普通分かるだろ。という言葉は自分との考えとはかけ離れた終夜の思考に触れて、すぐに言葉にはならなかった。
絵に描いたような実力主義者で、完璧主義者。その二つの言葉で終夜のほぼすべてを説明できる気すらしていた。
「……人の言葉を素直に受け取るって事を、覚えられるといいね」
とりあえず、今後終夜の課題になるであろう事を呟いておく。
何も言いはしない終夜に、明依は少し首を傾げて顔を盗み見た。少し見えた顔だけでも不満足気で不機嫌で、納得のいっていない様子だという事がわかった。そこは分かりやすいんだな、という感想で終夜がまた年相応に見える。
こんな状況も忘れて、明依は思わず噴き出した。
「わかりやす」
そう呟くと終夜はさらに不機嫌そうな顔をした。
本当にこの人が、この街の因果応報すべてを一人で抱え込んでいたのだろうかと思うくらい自然な、年相応な様子で。
「うるさい」
終夜はやはり不機嫌そうに呟いて、せめて仕返ししてやろうと思ったのか明依の手を少しだけ強く握った。
もっとはやく終夜を知っていたら、こんな所をたくさん見られたかもしれないのに。
ただ、会いたいと思って駆け出してきただけで。
実際に会えたら目の前の事が見えなくなるくらい安心して。
それだけでよかったはずなのに、今度はまたもっとこうだったらって。別の欲望が顔を出す。
やはり人間に、〝足るを知る〟は不可能なのではないかと明依は思っていた。
でもこの窮地といえるこの状況から隔離された様な感覚は多分、後ろ向きな現実逃避ではなくて。
きっと自制が利かなくなっただけの、どちらかといえば前向きな何か。
その何かがこれまで存分に胸を締め付けてきたことを知っているのに、どうしてこうも学ばないのか。
この状況に幸せすら感じているのか。
思い出したのはやっぱり、日奈の顔で。
だから強く握られた手を握り返すことが出来なかった。
それでも終夜の手をはなさないのは、危機的な状況だから。
そうでなければ終夜の手を取る事が許されるはずがないじゃないかと、自分の中で生まれた罪悪感がそうがなるから。
お互いの違う色をした人生は、こんな形でしか交わる事が許されない。