造花街・吉原の陰謀
41:奇異なる寄る辺よ
「もう、疲れたの?」
そう問いかける声がまるで雪に話しかけるみたいに優しいなんて。自分の耳に届くその瞬間まで、明依は想像すらしていなかった。
「うん。もう、疲れちゃった」
どこかわざとらしくそういう終夜の表情は複雑で、でも繊細な感情が読み取れて。
綺麗だと思った。思えば終夜の心が思い出に触れて現在の気持ちで評価するとき、憂いを帯びた本当に綺麗な表情をする。
弱い。何も出来ない。
自分の事をこれほど無力に感じた一日は初めて。終夜がいなければ、何も出来なかった。
追手が数人、警戒しながら部屋の中に入ってくる。明依と終夜が背を向けている机越しの障子の向こう側にも、相変わらずたくさんの人の影が見えた。
「……俺に申し訳ないって、思ってる?」
珍しい事を聞くんだなと思った。明依の知っている終夜という男は、この状況で聞かなくてもわかることをわざわざ聞かない。
「思ってる」
だからシンプルなこの答えが、互いにとっての最適解。
「だったら明依のこれから先の人生全部、俺にちょうだい」
なんて傲慢な男だろう。
ほとんどの物は、この男にくれてやった。身体も、心さえも。それなのにこれから先の人生まで欲しいなんて。
「いいよ」
そんなことを思うのに、答えはあっさりしていて。
「本当に?」
自分から提案したくせに、終夜は懐から短刀を取り出しながら薄く笑って不安を煽るようにそう言った。
「ちゃんと考えた?俺は宵と同じか、それ以上に酷い事をしようとしてるよ」
「いいの」
なんて無責任な女なんだと、明依は自分で自分をそう思った。
たくさんの人に対する最悪の裏切り。
でもそれは、こんな地獄の中では二人にとっては唯一の救いで。
だから終夜が何もかも捨てるなら、何もかもを捨てようと思った。
きっと裏の頭領の所へと走って、宵を止める事が正解。道を作ってくれた夕霧の事。終夜を待つ施設の子の事。信じてくれた勝山の事。鳴海の事。暁の事。この街の事。それから、日奈と旭の事。
終夜へ説く内容なら、まるでこのごった返した物置部屋のように次から次に浮かんでくる。
今まで終夜に守られた命だった。もっと厳密な言い方をするなら、魂、心、というのかもしれない。
それならこの命の権利は終夜が持っているはずだなんて、随分と手の込んだ言い訳。
鞘から刀を抜く様子が視界の端をかすめても、怖いとは思わなかった。
「全部、終夜にあげる」
そんな事よりも、安心した様な表情を見せるくせに、その隙間から見えるのは決して明るい感情ではない終夜の顔が、気にかかって。
「じゃあ、貰っていくね」
「痛っ」
ちくりと走った左手の小指の痛みに、明依は顔をしかめた。
小指の付け根には血がにじみ、横に一本薄い傷が入っていた。
「本物の指なんて貰っても迷惑だから、これでいいよ」
終夜に傷を入れられたのだと気づいた時には、終夜はそう言いながら何の躊躇いもなく自分の左手の小指に明依と同じ傷をつけた。
てっきり心中、つまり死ぬものだとばかり思っていた。
この小指の傷はきっと心中立て。つまり、私の全てを終夜にあげます。という、契約の証。
「本当にさ、私の身体を何だと思ってるの?」
「死ぬ気だったなら、これくらい可愛いもんだろ」
一世一代の決心を今日で後、何度すればいいんだろう。
そして何度、覆されればいいのか。
「そんな事よりほら。傷、見せて」
じゃあ終夜は、追手たちをどうするつもりなんだろう。
そう考えている明依に向かって、終夜は手のひらを差し出した。
「もう今更……別に心配してもらわなくていいんだけど」
「いいから」
終夜は少し不機嫌な顔をして〝なにやってんの?〟〝はやくしろよ〟とでも言いたげに、せかす様に差し出した自分の手を動かすだけ。
正直めんどくさいと思いながら、まるで犬が人間にお手を披露するようにして、終夜の手に左手をぽんと差し出した。
すると終夜は、思い切り明依の手を引っ張り自分の方に引き寄せる。傾いた明依の身体を受け止めると、強く抱きしめた。
突然の事にどうしたらいいのかわからなかった。ただ、すぐ近くで足音が聞こえて、危機がすぐそこまで迫っている事を理解する。
「また騙された」
明依はそういいながら、終夜の背中に腕を回す。自分自身に飽き飽きしながら。
「俺の事は信用したらダメって、そろそろ学ぼうよ」
こんな状況で腹の奥の方から沸き上がるような多幸感は、きっと罪だ。
この暖かい世界に埋もれてしまいたいと思う事も。この世界から引きずり出されるくらいなら、もういっそ。そう考える事も全て罪というたった一言で片付く。
でもそのたった一言が、生きている限りずっと胸の内を窮屈に縛り付ける鎖になる。
「終夜のせいで、私の身体傷だらけなんだけど」
それに終夜は何も答えない。その事実がチクリと胸を刺した。そんな風に真剣に受け取ってほしかったわけじゃなくて。
結末を考える事もなく明依はすり寄る様に顔をずらして、終夜の唇に唇を寄せた。
「責任、取ってよ」
終夜がほんの少し、こちらに顔を向けた。
やはり人間に足るを知る事は出来ない。
〝愛している〟という言葉の意味が重なっているのなら。これくらいの罪を背負うくらい、なんてことはないはずだと自制が利かなくなる。
人間は、欲望の前ではバカになる。
つい先ほどまで、胸の内を窮屈に縛り付ける鎖になると考えていたのに。
触れ合った熱を感じれば、生涯忘れないのだろうか。
そんなことを考えていると、口元を覆われる感覚があった。
明依は自分の口元を手のひらで塞いでいる終夜を見た。
触れたかったと思うこの気持ちは、湿り気を残して引いて行く、波のような。
「俺の気持ち、少しはわかった?」
「……嫌い」
終夜を睨みながら明依がそう言うと、終夜は笑った。
もしも平和な世界で、何のしがらみもなかったのなら。
カップルとか、彼氏彼女とか、付き合うとか、結婚するとか。そんな世間一般に埋もれてこんな風に、二人きりの時間を穏やかに過ごせたのだろうか。
こんな戯れたやりとりを、〝いつも通り〟といいながら。
夢と呼ぶことすらもはばかられる、現実からかけ離れた、一縷の希望さえありはしない、非現実。
もうすぐ側まで来た足音に、明依は思わず終夜から視線を逸らした。
「ダメ。ちゃんとこっち見て」
しかし終夜は、明依の頬を両手で包むと、逸らした視線を自分の方へと戻させた。
一体何がしたいのだろう。ぽつんとした疑問だけが残って。
だけどその疑問さえ覆い隠して、暖かい。
終夜が明依に唇を寄せた。
急かされている気分になるのは、焦りが生まれるのは、足音が近付くから。
急かしているのは、本当に足音なのだろうか。
「私も、楽しかったよ」
そういう明依の言葉に、終夜は口付けようとしていた動きを止めた。
「吉原の外、楽しかった」
どうしても言わなければいけない気がして。
それを聞いた終夜はまた、綺麗な顔で笑った。
「その言葉が聞けて良かったよ」
そう言うと終夜は、こつりと明依の額に額を合わせて目を閉じた。
今終夜が見せた笑顔は、悲し気ではなかっただろうか。そう思っているうちにゆっくりと離れる終夜の様は、名残るようで。
暖かい膜の内側で燻る、不安。
嫌な予感というのは、この感覚の事を言うのだと思う。
「終夜」
何か言ってよ。そんな焦りが、彼の名前を呼ぶ声には詰まっている。
「側にいた男が、本当はどんな人間だったのか――」
暖かい声色は、先ほどと何一つ変わらない。それなのに、言葉が冷たい気がして。
その寒暖差が、理解できない。
「――思い知れ」
陰の男が荷物の隙間から顔を出して、逆方向を向いていた視線をこちらに動かそうとした。
気付けば終夜は、男のすぐそばにいた。
男の首が道理に反した方向を向いている。聞いたことのない音が一度、辺りに響いた。それが打撃の音なのか骨が折れた音なのかはわからない。
男の身体が傾く寸前、終夜は男が未だに握っている刀を奪う様に手に取る。
そこまで来てやっと、前にいる味方がやられたことに気付いた男が息を呑み、持っている刀を握りしめて振りかぶった。
刀を振りかぶった男に向かって終夜が刀を薙げば、腕と首が一直線に切れる。
首の骨を折られた男が大きな音を立てて仰向けに地面に倒れると、終夜は見向くこともなく倒れた男の眉間に刀を突き差し手を離した。
それからすぐに、本体から離れた首と腕と共に重力に従って落ちる刀を手に取ると、明依の隣を通って机の縁に上り、障子に刀を突き刺す。
刀を突き刺したまま、机から山積みの荷物の上をバランスを崩す事なく走る。障子はあっという間に、燃え盛る地獄絵図の様に真っ赤に染まるが、終夜はやはり見向きもせずにまた刀を手放し、まだ部屋の中にいる追手の所へ。
理解が出来なかった。
ついさっきまで終夜は目の前で、笑っていたのに。
視界にきらりと何かが光って見えて、明依はそちらに視線を移した。
終夜が最初に殺した男と目が合う。
息を呑むことすら忘れていた。
日奈と旭の死体は〝綺麗〟だったのだと思った。
これがありのままの人の死。緩んだ口元に、開いた目。見慣れた暖色を反射して揺れているだけのその瞳には、憎しみが燃え盛っている様にさえ見えた。
また、鈍く光るなにかが視界に映り込んで、今度は自分の手元に視線を移した。
形を変えて妖しく光りながら迫り来るものが血だという事に気付いても、指一つ動かすことが出来なかった。
夕暮時の影の様に迫る血は少しずつ動きを遅めて、明依のすぐそばでピタリと動きを止めた。
明依はゆっくりと立ち上がった。
見た事のない景色。日奈が死んだ部屋とは比べ物にならないくらいの、血。壁にも、荷物にも床にも、それから天井にも。
血の海の真ん中。死体が転がる中に立つ終夜は、この惨劇の中で返り血一つ浴びてはいなかった。
横たわった男が、短く呻く。
終夜が歩きながら刀を振ると半放射状に血が散り、その瞬間に彼の右頬に短い血が付いた。そして、呻いた男の胸を踏み付けた。
「やめて!!!」
叫ぶ明依の声なんて聞こえていないみたいに、何の迷いもなく男の眉間に握っている刀を突きさした。
呻く声は止んだ。
左手の袖で右の頬についた血をふき取る終夜の冷たい目と顔には、何の動揺も、迷いもない。
きっと彼にとって、これは〝いつも通り〟。
この場所は、それはそれは地獄の様な。
明依の視界に映る終夜は、この地獄で異質な存在ではなかった。
地獄に住む鬼神の様な。
『誰の手も及ばないほど大きく、抗う事も防ぐ事もできない災いを。縋る気持ちで神頼みするしかできない不幸を。人は〝厄災〟と呼ぶんだ』
そういう時雨の言葉を思い出す。
まさに〝厄災〟。
終夜がゆっくりと息を吐き、それから明依の方へと歩いた。
すぐ側に来た終夜に、どんな言葉をかけたらいいのか。どんな顔をしていたらいいのか分からなくて、胸の前で拳を握った明依は、時間が流れるのを待っていた。
そう問いかける声がまるで雪に話しかけるみたいに優しいなんて。自分の耳に届くその瞬間まで、明依は想像すらしていなかった。
「うん。もう、疲れちゃった」
どこかわざとらしくそういう終夜の表情は複雑で、でも繊細な感情が読み取れて。
綺麗だと思った。思えば終夜の心が思い出に触れて現在の気持ちで評価するとき、憂いを帯びた本当に綺麗な表情をする。
弱い。何も出来ない。
自分の事をこれほど無力に感じた一日は初めて。終夜がいなければ、何も出来なかった。
追手が数人、警戒しながら部屋の中に入ってくる。明依と終夜が背を向けている机越しの障子の向こう側にも、相変わらずたくさんの人の影が見えた。
「……俺に申し訳ないって、思ってる?」
珍しい事を聞くんだなと思った。明依の知っている終夜という男は、この状況で聞かなくてもわかることをわざわざ聞かない。
「思ってる」
だからシンプルなこの答えが、互いにとっての最適解。
「だったら明依のこれから先の人生全部、俺にちょうだい」
なんて傲慢な男だろう。
ほとんどの物は、この男にくれてやった。身体も、心さえも。それなのにこれから先の人生まで欲しいなんて。
「いいよ」
そんなことを思うのに、答えはあっさりしていて。
「本当に?」
自分から提案したくせに、終夜は懐から短刀を取り出しながら薄く笑って不安を煽るようにそう言った。
「ちゃんと考えた?俺は宵と同じか、それ以上に酷い事をしようとしてるよ」
「いいの」
なんて無責任な女なんだと、明依は自分で自分をそう思った。
たくさんの人に対する最悪の裏切り。
でもそれは、こんな地獄の中では二人にとっては唯一の救いで。
だから終夜が何もかも捨てるなら、何もかもを捨てようと思った。
きっと裏の頭領の所へと走って、宵を止める事が正解。道を作ってくれた夕霧の事。終夜を待つ施設の子の事。信じてくれた勝山の事。鳴海の事。暁の事。この街の事。それから、日奈と旭の事。
終夜へ説く内容なら、まるでこのごった返した物置部屋のように次から次に浮かんでくる。
今まで終夜に守られた命だった。もっと厳密な言い方をするなら、魂、心、というのかもしれない。
それならこの命の権利は終夜が持っているはずだなんて、随分と手の込んだ言い訳。
鞘から刀を抜く様子が視界の端をかすめても、怖いとは思わなかった。
「全部、終夜にあげる」
そんな事よりも、安心した様な表情を見せるくせに、その隙間から見えるのは決して明るい感情ではない終夜の顔が、気にかかって。
「じゃあ、貰っていくね」
「痛っ」
ちくりと走った左手の小指の痛みに、明依は顔をしかめた。
小指の付け根には血がにじみ、横に一本薄い傷が入っていた。
「本物の指なんて貰っても迷惑だから、これでいいよ」
終夜に傷を入れられたのだと気づいた時には、終夜はそう言いながら何の躊躇いもなく自分の左手の小指に明依と同じ傷をつけた。
てっきり心中、つまり死ぬものだとばかり思っていた。
この小指の傷はきっと心中立て。つまり、私の全てを終夜にあげます。という、契約の証。
「本当にさ、私の身体を何だと思ってるの?」
「死ぬ気だったなら、これくらい可愛いもんだろ」
一世一代の決心を今日で後、何度すればいいんだろう。
そして何度、覆されればいいのか。
「そんな事よりほら。傷、見せて」
じゃあ終夜は、追手たちをどうするつもりなんだろう。
そう考えている明依に向かって、終夜は手のひらを差し出した。
「もう今更……別に心配してもらわなくていいんだけど」
「いいから」
終夜は少し不機嫌な顔をして〝なにやってんの?〟〝はやくしろよ〟とでも言いたげに、せかす様に差し出した自分の手を動かすだけ。
正直めんどくさいと思いながら、まるで犬が人間にお手を披露するようにして、終夜の手に左手をぽんと差し出した。
すると終夜は、思い切り明依の手を引っ張り自分の方に引き寄せる。傾いた明依の身体を受け止めると、強く抱きしめた。
突然の事にどうしたらいいのかわからなかった。ただ、すぐ近くで足音が聞こえて、危機がすぐそこまで迫っている事を理解する。
「また騙された」
明依はそういいながら、終夜の背中に腕を回す。自分自身に飽き飽きしながら。
「俺の事は信用したらダメって、そろそろ学ぼうよ」
こんな状況で腹の奥の方から沸き上がるような多幸感は、きっと罪だ。
この暖かい世界に埋もれてしまいたいと思う事も。この世界から引きずり出されるくらいなら、もういっそ。そう考える事も全て罪というたった一言で片付く。
でもそのたった一言が、生きている限りずっと胸の内を窮屈に縛り付ける鎖になる。
「終夜のせいで、私の身体傷だらけなんだけど」
それに終夜は何も答えない。その事実がチクリと胸を刺した。そんな風に真剣に受け取ってほしかったわけじゃなくて。
結末を考える事もなく明依はすり寄る様に顔をずらして、終夜の唇に唇を寄せた。
「責任、取ってよ」
終夜がほんの少し、こちらに顔を向けた。
やはり人間に足るを知る事は出来ない。
〝愛している〟という言葉の意味が重なっているのなら。これくらいの罪を背負うくらい、なんてことはないはずだと自制が利かなくなる。
人間は、欲望の前ではバカになる。
つい先ほどまで、胸の内を窮屈に縛り付ける鎖になると考えていたのに。
触れ合った熱を感じれば、生涯忘れないのだろうか。
そんなことを考えていると、口元を覆われる感覚があった。
明依は自分の口元を手のひらで塞いでいる終夜を見た。
触れたかったと思うこの気持ちは、湿り気を残して引いて行く、波のような。
「俺の気持ち、少しはわかった?」
「……嫌い」
終夜を睨みながら明依がそう言うと、終夜は笑った。
もしも平和な世界で、何のしがらみもなかったのなら。
カップルとか、彼氏彼女とか、付き合うとか、結婚するとか。そんな世間一般に埋もれてこんな風に、二人きりの時間を穏やかに過ごせたのだろうか。
こんな戯れたやりとりを、〝いつも通り〟といいながら。
夢と呼ぶことすらもはばかられる、現実からかけ離れた、一縷の希望さえありはしない、非現実。
もうすぐ側まで来た足音に、明依は思わず終夜から視線を逸らした。
「ダメ。ちゃんとこっち見て」
しかし終夜は、明依の頬を両手で包むと、逸らした視線を自分の方へと戻させた。
一体何がしたいのだろう。ぽつんとした疑問だけが残って。
だけどその疑問さえ覆い隠して、暖かい。
終夜が明依に唇を寄せた。
急かされている気分になるのは、焦りが生まれるのは、足音が近付くから。
急かしているのは、本当に足音なのだろうか。
「私も、楽しかったよ」
そういう明依の言葉に、終夜は口付けようとしていた動きを止めた。
「吉原の外、楽しかった」
どうしても言わなければいけない気がして。
それを聞いた終夜はまた、綺麗な顔で笑った。
「その言葉が聞けて良かったよ」
そう言うと終夜は、こつりと明依の額に額を合わせて目を閉じた。
今終夜が見せた笑顔は、悲し気ではなかっただろうか。そう思っているうちにゆっくりと離れる終夜の様は、名残るようで。
暖かい膜の内側で燻る、不安。
嫌な予感というのは、この感覚の事を言うのだと思う。
「終夜」
何か言ってよ。そんな焦りが、彼の名前を呼ぶ声には詰まっている。
「側にいた男が、本当はどんな人間だったのか――」
暖かい声色は、先ほどと何一つ変わらない。それなのに、言葉が冷たい気がして。
その寒暖差が、理解できない。
「――思い知れ」
陰の男が荷物の隙間から顔を出して、逆方向を向いていた視線をこちらに動かそうとした。
気付けば終夜は、男のすぐそばにいた。
男の首が道理に反した方向を向いている。聞いたことのない音が一度、辺りに響いた。それが打撃の音なのか骨が折れた音なのかはわからない。
男の身体が傾く寸前、終夜は男が未だに握っている刀を奪う様に手に取る。
そこまで来てやっと、前にいる味方がやられたことに気付いた男が息を呑み、持っている刀を握りしめて振りかぶった。
刀を振りかぶった男に向かって終夜が刀を薙げば、腕と首が一直線に切れる。
首の骨を折られた男が大きな音を立てて仰向けに地面に倒れると、終夜は見向くこともなく倒れた男の眉間に刀を突き差し手を離した。
それからすぐに、本体から離れた首と腕と共に重力に従って落ちる刀を手に取ると、明依の隣を通って机の縁に上り、障子に刀を突き刺す。
刀を突き刺したまま、机から山積みの荷物の上をバランスを崩す事なく走る。障子はあっという間に、燃え盛る地獄絵図の様に真っ赤に染まるが、終夜はやはり見向きもせずにまた刀を手放し、まだ部屋の中にいる追手の所へ。
理解が出来なかった。
ついさっきまで終夜は目の前で、笑っていたのに。
視界にきらりと何かが光って見えて、明依はそちらに視線を移した。
終夜が最初に殺した男と目が合う。
息を呑むことすら忘れていた。
日奈と旭の死体は〝綺麗〟だったのだと思った。
これがありのままの人の死。緩んだ口元に、開いた目。見慣れた暖色を反射して揺れているだけのその瞳には、憎しみが燃え盛っている様にさえ見えた。
また、鈍く光るなにかが視界に映り込んで、今度は自分の手元に視線を移した。
形を変えて妖しく光りながら迫り来るものが血だという事に気付いても、指一つ動かすことが出来なかった。
夕暮時の影の様に迫る血は少しずつ動きを遅めて、明依のすぐそばでピタリと動きを止めた。
明依はゆっくりと立ち上がった。
見た事のない景色。日奈が死んだ部屋とは比べ物にならないくらいの、血。壁にも、荷物にも床にも、それから天井にも。
血の海の真ん中。死体が転がる中に立つ終夜は、この惨劇の中で返り血一つ浴びてはいなかった。
横たわった男が、短く呻く。
終夜が歩きながら刀を振ると半放射状に血が散り、その瞬間に彼の右頬に短い血が付いた。そして、呻いた男の胸を踏み付けた。
「やめて!!!」
叫ぶ明依の声なんて聞こえていないみたいに、何の迷いもなく男の眉間に握っている刀を突きさした。
呻く声は止んだ。
左手の袖で右の頬についた血をふき取る終夜の冷たい目と顔には、何の動揺も、迷いもない。
きっと彼にとって、これは〝いつも通り〟。
この場所は、それはそれは地獄の様な。
明依の視界に映る終夜は、この地獄で異質な存在ではなかった。
地獄に住む鬼神の様な。
『誰の手も及ばないほど大きく、抗う事も防ぐ事もできない災いを。縋る気持ちで神頼みするしかできない不幸を。人は〝厄災〟と呼ぶんだ』
そういう時雨の言葉を思い出す。
まさに〝厄災〟。
終夜がゆっくりと息を吐き、それから明依の方へと歩いた。
すぐ側に来た終夜に、どんな言葉をかけたらいいのか。どんな顔をしていたらいいのか分からなくて、胸の前で拳を握った明依は、時間が流れるのを待っていた。