造花街・吉原の陰謀
50:欺人
「守るって、何?」
呟いた終夜の言葉で、明依の意識は必然的に終夜へと移った。
ぼんやりと宙を見ながら、終夜はそう口にする。
「何一つ事実を知らずに親も友達も殺した男と一緒になって、幸せな幻想世界を見る事?吉原の外で、自分の人生を送る事?それとも、この街で自分の好きな様に生きる事?」
今訪れている未来は他の誰でもない、自分の手で掴み取ったものだ。
何も考えずに我武者羅に、自分の意志で掴み取った。
終夜が手を差し伸べていることになんて、気付きもしないで。
終夜は震える喉元でゆっくりと息を吐いた。
「他人に『守ってくれ』って頼むならさ、〝守る〟ってどういう状態なのか、せめてちゃんと説明して死んで行けって話だよ」
「結局お前は、何一つ守れなかったんだ。頭領も、明依も、それから吉原の街も。……この場はさぞ、地獄だろうな」
暮相の言葉に終夜が何を感じているのかは知らない。
しかし明依は、この状況に疼く様な胸の痛みを確かに感じていた。
「もう苦しまなくていいよ、終夜」
終夜は自分よりもっと深い地獄を見ている。
全て知っていて、全て自分で選択して、今、暮相に刀を突きつけられている。
凛としていなければいけない。
終夜は何も間違っていないと、態度で示さなければいけないのに。
やはり終夜が死ぬ未来を、受け入れられない。
終夜は何を考えているのか、宙を見ている視線を揺らすことはなかった。
まるで暮相の声なんて、聞こえてすらいないみたいに。
「……ただ、見ているだけで充分だったんだ」
ほんの少し震えている終夜の声が、ぽつりと胸の中に落ちる錯覚。
「主郭から真昼の吉原を見下ろして、満月楼に向かう旭を視線で追って、小走りで駆け寄る日奈を見つけて。それから、その後ろを追う明依を見つける」
胸の中に落ちた声が波紋の様に広がって、涙腺に触れる。
「会話も聞こえなければ、表情だって見えない。でもきっと、三人で楽しく笑っているんだろうって。そう思うだけで充分だった」
何の抵抗もなく想像することが出来る。
真昼の下。主郭の上から障子窓を開け放ち、風が髪をさらう事も気にせず薄く笑いながら、その光景を眺めている終夜の姿が。
四人で仲良く笑い合う未来は、本当になかったのだろうか。
旭が裏の頭領になって、吉原の外に出られない事を知って、あれだけ約束したのに、と日奈と二人で呆れている裏で、終夜が涼しい顔をして解決策を出す未来は、本当にどこを辿っても、来なかったのだろうか。
きっと、描くことさえ憚られる夢物語なのだ。
二人が結ばれる未来よりも、もっともっと、遠い話なのかもしれない。
それなら終夜はもう、生きる事さえ諦めてしまったんだろうか。
終夜は自嘲の笑みを浮かべている。
「俺は自分の思っている以上に夢見がちだったらしい。あんななんて事のない一コマくらい、自分の命一つ賭ければ守り切れるって、本気でそう思ってた」
「詰めが甘かったな。お前の敗因は、あの地下牢で俺を殺しておかなかった事だ」
死は時に、救いになるのだと思った。
自分の命なんて、全く惜しくはない。
暮相に〝私を先に殺して〟と冷静な態度で言える自信があった。
終夜に〝心中立てをした仲でしょ〟と説き伏せる自信もあった。
ただどうしても、口にすることができない。
ひしひしと無力な自分の、命の価値を感じていた。
自分の命には日奈と旭の重みがあり、それから終夜の温かさがある。
自分がこの場で死ねば、終夜の最後の願いさえ掻き消えてしまう。
何もできない自分が、知らぬうちに迷惑ばかりかけている自分が、一体何の価値があって生かされたのか。
それを考えながら生きていく事こそ、その地獄こそが罪滅ぼしというのかもしれないと思うくらい、現世の地獄から自ら逃げる事を自分自身に許せない。
「……本当につくづく、神様ってのはこの世にいないんだと思うばかりだね。もし本当に神様がいたら、ちっぽけな情景が幸せだと知っていた俺から、何もかも奪ったりしない。情なんかに呑まれて、お前を殺し損ねたりしなかっただろうから」
「言い残すことはあるか?」
「うーん……じゃあ――」
そう言うと終夜は、どこか柔らかい笑顔を作った。
「――明依の顔が見たい」
驚かずにはいられなかった。
何を思って終夜は最後の願いに『顔が見たい』なんて言うのか。
ほんのりとした期待。行き場のない期待だった。
暮相がこちらに視線を向けて、明依はゆっくりと終夜の所まで歩いた。
そして終夜の隣に正座すると、終夜は少しだけ顔を上げて、耳を床に押し付ける形でこちらを向く。
目が合って、心臓が鳴った。終夜はそれから手を差し出した。明依はその手をぎゅっと握った。
「俺、死ぬみたいなんだけど」
「……見たらわかる」
「もっと悲しそうな顔できないの?」
「……は?」
呆気にとられる明依に、終夜はいつも通りの張り付けた笑顔を向けた。
「むしろ泣けよって思ってるんだけど」
「死ぬ間際までその態度なの……?」
コイツ。人がどんな気持ちでいるか知りもしないで、何勝手な事言ってんだ。と言い散らかしてやりたい気持ちになるのはいつもの事。
いつも通りの終夜だ。
本当に、何もかも。
「嘘。よく耐えてるなって思って」
最後だ、という直感。
しかし口を開く間はなかった。終夜は柔らかい笑顔を浮かべている。
「ありがとね、明依」
その言葉がもろに涙腺に触れて、ぶわっと涙が溢れるのが分かった。
なりふり構わず、終夜の生存に賭けたくなった。
きっとそれは何より、終夜が望まない事で。
「終わりでいいな」
刀を振り上げる暮相の方に顔を向けて、終夜は手を握ったまま目を閉じた。
何が正解なのか、誰かから教えられればその通りに動いたのかもしれない。
そう思うくらい、自分の感情が大きく揺れていた。
例えば宵に自分の将来を捧げて終夜を見逃してもらう可能性に賭けるだとか。
〝私を先に殺して〟と願うだとか。
身動き一つとれないまま、終夜が殺される未来を待っている。
この世界にはやはり、神様なんていないのだろう。
暮相が刀を振り下ろす様子に、終夜の手を握ったまま咄嗟に目を閉じた。
「んな訳ねーだろ、ばーか」
珍しく口汚い終夜の言葉が聞こえて目を開けた。
目の前には、暮相の刀を間一髪の所で止めている晴朗がいた。
終夜は晴朗の腕の隙間から暮相を蹴り飛ばす。
しかし暮相は、すぐに受け身を取って体勢を立て直した。
「あー、危ない。本当に死ぬかと思った」
終夜はなんて事なかったかのように上半身を起こした。
本当に死ぬ気ではなかったのか。
すべてを諦めた訳ではなかったのか。
その明依の考えを真っ向から否定したのは、終夜の張り付けた笑顔だった。
「俺、俳優になろうかなーって思うんだけどどう思う?」
いったい何がどういうことなのか理解できないが、終夜がこの状況を想定していた事と、この男の頭のネジはやはりだいぶ外れているという事だけは理解できた。
「もう……私、本当に……」
死ぬかと思った、という言葉は安堵の涙が溢れて言えなかった。
「大切にしてくださいね。僕が拾った命ですから」
「言い方、キモイよ」
「これで終夜の命は、僕に権利があるはずだ」
晴朗の言葉に返事をしながら、終夜が立ち上がる。
繋いだ手はまた、あっさりと離れる。そう思ったのに、終夜は腕に力を入れて明依を立ち上がらせる。
「晴朗さん……落ちたんじゃ……」
「あれくらいじゃ死なないよ」
明依の疑問にあっさりとした様子で答えたのは終夜だった。
終夜と手を繋ぐのは、これが最後かもしれない。
そしてどちらからともなく、確かめる様に、指を一本一本離した。
晴朗の着物は汚れていて、所々傷はあるが至って元気そうだ。
「よくタイミングを測れましたね」
「音だよ。足音を聞いてたから」
明依は先ほどこちらを向いた時に終夜が床に耳をつけていた事を思い出した。
「それより、コレ。どうして言ってくれなかったんですか?」
晴朗の視線は、少し離れた所にいる暮相に向いていた。
「アンタの頭がイカれてるから。俺と戦わない理由にはならないと思ったし」
「その通りですね。いずれ殺し合いましょう」
いつも通り自分に都合の悪い言葉はスルーする能力の高い晴朗は、終夜の言葉をサラリと流して言う。
「酷いと思わない?」
聞き覚えのある声に、明依は入口の方向へと視線を向けた。
唇を曲げた夕霧がそう言いながらずんずんと出入口から中に入ってくる。
「普通、怪我した女をおいて行くかしら?」
夕霧は腰に手を当てて、高尾と吉野に愚痴るように言った。
「夕霧大夫……!」
明依は思わず瓦礫と共に最下層まで落ちた夕霧の名を呼ぶ。
ぶすっとした表情をしていても、やはり彼女は綺麗だった。
「無事でなによりだ」
「本当に」
高尾と吉野の言葉に、夕霧は腰に手を当てたまま肩を落として息を吐く。
心配されているのは満更でもないらしい。
「普通、瓦礫の山から助けた人間をおいて行くかい?」
清澄は息を乱しながら部屋の中に入り、時雨にそう言うと、膝に手をついて肩で息をしていた。
「ただ者ではないと思ったんですよ、楼主」
本当によかった。
すべての安心が襲ってきたと同時に聞こえた晴朗の声に、明依は視線を移した。
「満月楼の座敷での一件。僕の投げた刀をあっさりと手に取った。身体より先に手が出るなんて、よほど得物の扱いに慣れている者でなければありえない。でも、どれだけ調べてもどれだけ情報を買っても、不自然なくらい綺麗な情報しか出てこない。本当に僕は、踊らされていた。……そうでしょう。情報屋、時雨」
忙しなく状況が変わる。
次に明依は、時雨に視線を移した。
一体、どういうことだ。
時雨が、情報屋というのは。
「僕の年齢。それから、吉原に後から来たタイミングを考えて、絶好だと思ったのでしょう。関係者しか知らない情報を教えて、僕を〝暮相〟かもしれないと思わせる事で、周りの人間の行動を観察していた、という事でしょうか」
「本当、いいタイミングでお前が来てくれて助かったよ。晴朗」
「いい気はしませんが。なかなか賢い事をしますね」
明依は思わず、終夜を見た。
「『この街の闇は深い』って言ったろ」
終夜と視線は絡むことはなかったが、その言葉で明依は思い出した。
丹楓屋に行くときに、終夜に晴朗は何者なのかと問いかけた時の事。
終夜はこう言った。
『用心棒ってヤツだよ。強かったから、切り捨てられる範囲の仕事をしているだけ。〝なんで自分がいなかった頃の吉原の事を詳しく知ってるのか〟って質問の答えは、この街の闇は深いって事』
それはこの街には〝情報屋〟がいて、それが時雨だという意味だったのか。
「暮相があんな死に方をするなんて思えなかったんでね。暮相の様に他人を引き付ける能力。そんなのがゴロゴロこの世にいて堪るか。もしかして、と思ったよ。それから、十六夜の異動。丹楓屋が妓楼の面倒を見ないはず終夜の管轄になった事。そして、晴朗が暮相かもしれないと知って焦らない叢雲の様子で、ほとんど確信した」
そういう時雨はいたっていつもの様子で言う。
「終夜の警察官殺害と『お前は最後だ』って言葉で繋がったよ。国に自分を売って帰ってきたんだってな」
だから時雨は、吉原の内情を事細かに知っていたのか。
それに屋形船の中で情報屋の竹下は『いや、まさか。あなたが来てくれるとは思っていませんでした。時雨さん』と時雨を知っている様子を見せていた。
本当に何も知らずに、外側で世界が回っていたのだ。
「顛末はどうだっていい。興味もない。香夜に聞くまで、まさか本当に生きているなんて思いもしなかった。嬉しいです」
そういう晴朗を暮相はじっと見ていた。
「手合わせいただけますか。命を賭けて」
終夜が急に走り出した。
明依がそれを視線で追うと、梅雨に刀を振るう十六夜と終夜の刀が交わっていた。
暮相と晴朗は、水音を立てて薄く張った水の中を走っている。
他の事に目もくれない晴朗と暮相は、対等に戦っている様子を見せた。
しかししばらく刀を交えた後、暮相の蹴りが晴朗に入り、骨の折れる嫌な音がした。
晴朗の身体は勢いよく幻想世界の出入り口を突き破って、廊下を抜け、遠くの障子や襖をなぎ倒して見えなくなった。
終夜は舌打ちを一つすると、暮相の方向に走る。すぐに十六夜が、終夜の後を追った。
未だに水に浸かっている梅雨の身体から流れた血が、固まることなく溶けている。
ぴちゃりと薄く張った水に足音を響かせたのは、高尾だった。
呟いた終夜の言葉で、明依の意識は必然的に終夜へと移った。
ぼんやりと宙を見ながら、終夜はそう口にする。
「何一つ事実を知らずに親も友達も殺した男と一緒になって、幸せな幻想世界を見る事?吉原の外で、自分の人生を送る事?それとも、この街で自分の好きな様に生きる事?」
今訪れている未来は他の誰でもない、自分の手で掴み取ったものだ。
何も考えずに我武者羅に、自分の意志で掴み取った。
終夜が手を差し伸べていることになんて、気付きもしないで。
終夜は震える喉元でゆっくりと息を吐いた。
「他人に『守ってくれ』って頼むならさ、〝守る〟ってどういう状態なのか、せめてちゃんと説明して死んで行けって話だよ」
「結局お前は、何一つ守れなかったんだ。頭領も、明依も、それから吉原の街も。……この場はさぞ、地獄だろうな」
暮相の言葉に終夜が何を感じているのかは知らない。
しかし明依は、この状況に疼く様な胸の痛みを確かに感じていた。
「もう苦しまなくていいよ、終夜」
終夜は自分よりもっと深い地獄を見ている。
全て知っていて、全て自分で選択して、今、暮相に刀を突きつけられている。
凛としていなければいけない。
終夜は何も間違っていないと、態度で示さなければいけないのに。
やはり終夜が死ぬ未来を、受け入れられない。
終夜は何を考えているのか、宙を見ている視線を揺らすことはなかった。
まるで暮相の声なんて、聞こえてすらいないみたいに。
「……ただ、見ているだけで充分だったんだ」
ほんの少し震えている終夜の声が、ぽつりと胸の中に落ちる錯覚。
「主郭から真昼の吉原を見下ろして、満月楼に向かう旭を視線で追って、小走りで駆け寄る日奈を見つけて。それから、その後ろを追う明依を見つける」
胸の中に落ちた声が波紋の様に広がって、涙腺に触れる。
「会話も聞こえなければ、表情だって見えない。でもきっと、三人で楽しく笑っているんだろうって。そう思うだけで充分だった」
何の抵抗もなく想像することが出来る。
真昼の下。主郭の上から障子窓を開け放ち、風が髪をさらう事も気にせず薄く笑いながら、その光景を眺めている終夜の姿が。
四人で仲良く笑い合う未来は、本当になかったのだろうか。
旭が裏の頭領になって、吉原の外に出られない事を知って、あれだけ約束したのに、と日奈と二人で呆れている裏で、終夜が涼しい顔をして解決策を出す未来は、本当にどこを辿っても、来なかったのだろうか。
きっと、描くことさえ憚られる夢物語なのだ。
二人が結ばれる未来よりも、もっともっと、遠い話なのかもしれない。
それなら終夜はもう、生きる事さえ諦めてしまったんだろうか。
終夜は自嘲の笑みを浮かべている。
「俺は自分の思っている以上に夢見がちだったらしい。あんななんて事のない一コマくらい、自分の命一つ賭ければ守り切れるって、本気でそう思ってた」
「詰めが甘かったな。お前の敗因は、あの地下牢で俺を殺しておかなかった事だ」
死は時に、救いになるのだと思った。
自分の命なんて、全く惜しくはない。
暮相に〝私を先に殺して〟と冷静な態度で言える自信があった。
終夜に〝心中立てをした仲でしょ〟と説き伏せる自信もあった。
ただどうしても、口にすることができない。
ひしひしと無力な自分の、命の価値を感じていた。
自分の命には日奈と旭の重みがあり、それから終夜の温かさがある。
自分がこの場で死ねば、終夜の最後の願いさえ掻き消えてしまう。
何もできない自分が、知らぬうちに迷惑ばかりかけている自分が、一体何の価値があって生かされたのか。
それを考えながら生きていく事こそ、その地獄こそが罪滅ぼしというのかもしれないと思うくらい、現世の地獄から自ら逃げる事を自分自身に許せない。
「……本当につくづく、神様ってのはこの世にいないんだと思うばかりだね。もし本当に神様がいたら、ちっぽけな情景が幸せだと知っていた俺から、何もかも奪ったりしない。情なんかに呑まれて、お前を殺し損ねたりしなかっただろうから」
「言い残すことはあるか?」
「うーん……じゃあ――」
そう言うと終夜は、どこか柔らかい笑顔を作った。
「――明依の顔が見たい」
驚かずにはいられなかった。
何を思って終夜は最後の願いに『顔が見たい』なんて言うのか。
ほんのりとした期待。行き場のない期待だった。
暮相がこちらに視線を向けて、明依はゆっくりと終夜の所まで歩いた。
そして終夜の隣に正座すると、終夜は少しだけ顔を上げて、耳を床に押し付ける形でこちらを向く。
目が合って、心臓が鳴った。終夜はそれから手を差し出した。明依はその手をぎゅっと握った。
「俺、死ぬみたいなんだけど」
「……見たらわかる」
「もっと悲しそうな顔できないの?」
「……は?」
呆気にとられる明依に、終夜はいつも通りの張り付けた笑顔を向けた。
「むしろ泣けよって思ってるんだけど」
「死ぬ間際までその態度なの……?」
コイツ。人がどんな気持ちでいるか知りもしないで、何勝手な事言ってんだ。と言い散らかしてやりたい気持ちになるのはいつもの事。
いつも通りの終夜だ。
本当に、何もかも。
「嘘。よく耐えてるなって思って」
最後だ、という直感。
しかし口を開く間はなかった。終夜は柔らかい笑顔を浮かべている。
「ありがとね、明依」
その言葉がもろに涙腺に触れて、ぶわっと涙が溢れるのが分かった。
なりふり構わず、終夜の生存に賭けたくなった。
きっとそれは何より、終夜が望まない事で。
「終わりでいいな」
刀を振り上げる暮相の方に顔を向けて、終夜は手を握ったまま目を閉じた。
何が正解なのか、誰かから教えられればその通りに動いたのかもしれない。
そう思うくらい、自分の感情が大きく揺れていた。
例えば宵に自分の将来を捧げて終夜を見逃してもらう可能性に賭けるだとか。
〝私を先に殺して〟と願うだとか。
身動き一つとれないまま、終夜が殺される未来を待っている。
この世界にはやはり、神様なんていないのだろう。
暮相が刀を振り下ろす様子に、終夜の手を握ったまま咄嗟に目を閉じた。
「んな訳ねーだろ、ばーか」
珍しく口汚い終夜の言葉が聞こえて目を開けた。
目の前には、暮相の刀を間一髪の所で止めている晴朗がいた。
終夜は晴朗の腕の隙間から暮相を蹴り飛ばす。
しかし暮相は、すぐに受け身を取って体勢を立て直した。
「あー、危ない。本当に死ぬかと思った」
終夜はなんて事なかったかのように上半身を起こした。
本当に死ぬ気ではなかったのか。
すべてを諦めた訳ではなかったのか。
その明依の考えを真っ向から否定したのは、終夜の張り付けた笑顔だった。
「俺、俳優になろうかなーって思うんだけどどう思う?」
いったい何がどういうことなのか理解できないが、終夜がこの状況を想定していた事と、この男の頭のネジはやはりだいぶ外れているという事だけは理解できた。
「もう……私、本当に……」
死ぬかと思った、という言葉は安堵の涙が溢れて言えなかった。
「大切にしてくださいね。僕が拾った命ですから」
「言い方、キモイよ」
「これで終夜の命は、僕に権利があるはずだ」
晴朗の言葉に返事をしながら、終夜が立ち上がる。
繋いだ手はまた、あっさりと離れる。そう思ったのに、終夜は腕に力を入れて明依を立ち上がらせる。
「晴朗さん……落ちたんじゃ……」
「あれくらいじゃ死なないよ」
明依の疑問にあっさりとした様子で答えたのは終夜だった。
終夜と手を繋ぐのは、これが最後かもしれない。
そしてどちらからともなく、確かめる様に、指を一本一本離した。
晴朗の着物は汚れていて、所々傷はあるが至って元気そうだ。
「よくタイミングを測れましたね」
「音だよ。足音を聞いてたから」
明依は先ほどこちらを向いた時に終夜が床に耳をつけていた事を思い出した。
「それより、コレ。どうして言ってくれなかったんですか?」
晴朗の視線は、少し離れた所にいる暮相に向いていた。
「アンタの頭がイカれてるから。俺と戦わない理由にはならないと思ったし」
「その通りですね。いずれ殺し合いましょう」
いつも通り自分に都合の悪い言葉はスルーする能力の高い晴朗は、終夜の言葉をサラリと流して言う。
「酷いと思わない?」
聞き覚えのある声に、明依は入口の方向へと視線を向けた。
唇を曲げた夕霧がそう言いながらずんずんと出入口から中に入ってくる。
「普通、怪我した女をおいて行くかしら?」
夕霧は腰に手を当てて、高尾と吉野に愚痴るように言った。
「夕霧大夫……!」
明依は思わず瓦礫と共に最下層まで落ちた夕霧の名を呼ぶ。
ぶすっとした表情をしていても、やはり彼女は綺麗だった。
「無事でなによりだ」
「本当に」
高尾と吉野の言葉に、夕霧は腰に手を当てたまま肩を落として息を吐く。
心配されているのは満更でもないらしい。
「普通、瓦礫の山から助けた人間をおいて行くかい?」
清澄は息を乱しながら部屋の中に入り、時雨にそう言うと、膝に手をついて肩で息をしていた。
「ただ者ではないと思ったんですよ、楼主」
本当によかった。
すべての安心が襲ってきたと同時に聞こえた晴朗の声に、明依は視線を移した。
「満月楼の座敷での一件。僕の投げた刀をあっさりと手に取った。身体より先に手が出るなんて、よほど得物の扱いに慣れている者でなければありえない。でも、どれだけ調べてもどれだけ情報を買っても、不自然なくらい綺麗な情報しか出てこない。本当に僕は、踊らされていた。……そうでしょう。情報屋、時雨」
忙しなく状況が変わる。
次に明依は、時雨に視線を移した。
一体、どういうことだ。
時雨が、情報屋というのは。
「僕の年齢。それから、吉原に後から来たタイミングを考えて、絶好だと思ったのでしょう。関係者しか知らない情報を教えて、僕を〝暮相〟かもしれないと思わせる事で、周りの人間の行動を観察していた、という事でしょうか」
「本当、いいタイミングでお前が来てくれて助かったよ。晴朗」
「いい気はしませんが。なかなか賢い事をしますね」
明依は思わず、終夜を見た。
「『この街の闇は深い』って言ったろ」
終夜と視線は絡むことはなかったが、その言葉で明依は思い出した。
丹楓屋に行くときに、終夜に晴朗は何者なのかと問いかけた時の事。
終夜はこう言った。
『用心棒ってヤツだよ。強かったから、切り捨てられる範囲の仕事をしているだけ。〝なんで自分がいなかった頃の吉原の事を詳しく知ってるのか〟って質問の答えは、この街の闇は深いって事』
それはこの街には〝情報屋〟がいて、それが時雨だという意味だったのか。
「暮相があんな死に方をするなんて思えなかったんでね。暮相の様に他人を引き付ける能力。そんなのがゴロゴロこの世にいて堪るか。もしかして、と思ったよ。それから、十六夜の異動。丹楓屋が妓楼の面倒を見ないはず終夜の管轄になった事。そして、晴朗が暮相かもしれないと知って焦らない叢雲の様子で、ほとんど確信した」
そういう時雨はいたっていつもの様子で言う。
「終夜の警察官殺害と『お前は最後だ』って言葉で繋がったよ。国に自分を売って帰ってきたんだってな」
だから時雨は、吉原の内情を事細かに知っていたのか。
それに屋形船の中で情報屋の竹下は『いや、まさか。あなたが来てくれるとは思っていませんでした。時雨さん』と時雨を知っている様子を見せていた。
本当に何も知らずに、外側で世界が回っていたのだ。
「顛末はどうだっていい。興味もない。香夜に聞くまで、まさか本当に生きているなんて思いもしなかった。嬉しいです」
そういう晴朗を暮相はじっと見ていた。
「手合わせいただけますか。命を賭けて」
終夜が急に走り出した。
明依がそれを視線で追うと、梅雨に刀を振るう十六夜と終夜の刀が交わっていた。
暮相と晴朗は、水音を立てて薄く張った水の中を走っている。
他の事に目もくれない晴朗と暮相は、対等に戦っている様子を見せた。
しかししばらく刀を交えた後、暮相の蹴りが晴朗に入り、骨の折れる嫌な音がした。
晴朗の身体は勢いよく幻想世界の出入り口を突き破って、廊下を抜け、遠くの障子や襖をなぎ倒して見えなくなった。
終夜は舌打ちを一つすると、暮相の方向に走る。すぐに十六夜が、終夜の後を追った。
未だに水に浸かっている梅雨の身体から流れた血が、固まることなく溶けている。
ぴちゃりと薄く張った水に足音を響かせたのは、高尾だった。