造花街・吉原の陰謀
53:未来も過去もいらなかった
「いいか、終夜。これからお前は死ぬ」
終夜は暮相の話には関心を示さず、感覚を確かめるようにグー、パーと握る自分の手を何食わぬ顔で見ていた。
「恨みは全部、ここで晴らして逝けよ」
「わかるよ、お前の気持ちは」
終夜はそう言うと、残った片目を見開く暮相にゆっくりと視線を移した。
「目的のためには手段を選ばない。俺も、本当に必要だと思えば人を殺せる。……自分勝手だよね。そして呆れるくらいの自己満足。でもわかるよ、お前の気持ち。部分的な解決をして折衷案を取るくらいなら、きっといつでも出来た。その方法は考えもしなかったけど」
そういって終夜は握っていた手を解いて下す。
それから、明らかに暮相だけに向けて、挑発的な笑みを作った。
「だって俺は、もう何の意味もないってわかってて叢雲を自殺に追いやって、十六夜も殺したんだから」
暮相は、色のない表情で終夜を見ていた。
「俺の痛みが分かる?」
終夜は追い打ちをかける様に、変わらず、飄々とそう問いかける。
暮相がそれに応えない事を、おそらく終夜は知っていたのだろう。
「〝恨みは全部、ここで晴らして逝けよ〟」
その言葉を聞いたとたん、暮相は終夜と一気に距離を詰めた。
互いの一撃、一撃が、重たい事も、当たれば軽傷では済まない事も理解できる。
互いにあと少しの所で避ける様子に、明依は胸の前で色が変わるくらい手を握りながら、その戦いを直視できず、目を閉じては開いて。それを繰り返していた。
終夜と〝宵〟が戦っていて、お互いを本気で殺そうとしている。
それを思うだけで、もう人生から逃げ出してしまいたいとすら思う。
頭の中で息をする宵が〝明依〟〝明依〟と、いつも通りの優し気な様子で声をかける。
あの日々は造られていたのだとしても、〝幸せ〟だったのだ。
他の誰でもない、自分自身を深く強く恨まずにはいられない。
自分が吉原の街に来なければ、こんな事にはならなかったのにと自分自身を責めずにはいられない。
もしも吉原に来なければ、日奈と旭は死ななかっただろう。
「お前のせいじゃないよ」
隣に立つ時雨は、はっきりとした口調で明依にそう言った。
明依は息を呑んで時雨を見るが、彼は真っ直ぐに二人の戦いを見ていて、視線が絡むことはなかった。
「明依がいたから、組織の言いなりだった旭は、生きる目的を見つけた」
いつだって眩しい笑顔を見せて〝明依〟と名前を呼んでくれた旭が、墓場まで持って行く予定だった秘密を教えてくれた旭が、記憶の中で笑っている。
「明依がいたから、おどおどしてばかりだった日奈は強くなったんだ」
柔らかく包むような笑顔を向けて〝明依〟と名前を呼んでくれる日奈が、たくさんの誹謗中傷から勇気を出して守ってくれた日奈が、記憶の中で笑っている。
「もしもお前が日奈や旭、そして終夜の立場だったとしたら。大切な人の為に全く同じ事をすると、俺は思うよ」
明依ははっと息を呑んだ。
もしも自分と日奈の立場が逆だったなら、全く同じことをするという確信があったから。
きっと思うはずだ。
自分の存在が日奈が生きていく上で傷にならないだろうか。
日奈は自分の人生を生きられるだろうか。
そして今際の際に祈る。
どうかどうか、私の死で日奈が苦しみませんように、と。
どうか日奈が救われて、幸せでいられますように、と。
それが旭の為の死だろうが、終夜の為の死だろうが、同じことを思う。
旭の立場だろうが、終夜の立場だろうが、きっと同じことをするという確信が、今の明依にはあった。
「お前は三人を、不幸だと思うか?」
明依は拳を強く強く握りしめた。
息を吐くと泣いてしまいそうで、息を止めたまま身体中に強く強く力を入れた。
いつの間にか、先ほど廊下ですれ違った炎天とその部下たち、それから勝山が、二人が激しく争っている様子を遠くから眺めている。
炎天とその部下たちは、この状況を信じられないと言った様子で見つめていた。
明依は今度こそ視線を逸らさない様に未だに刀を交える終夜と暮相を見た。
終夜の刀が暮相の腹部を深く抉る。
暮相が一歩後ろに下がる内に、終夜は刀を一振りして付いた血を飛ばした。
その間に、暮相は一気に距離を詰めて、また終夜がそれをいなしていく。
声を出さない様に注意を払う。
しかし行き場のない気持ちを堪えれば、胸の前で組んだ手に爪が食い込み、血が滲んだ。
暮相に押し負けた終夜の背が、障子窓を外す。
そこから見えるのは、暖色に照らされた華やぐ吉原の街だった。
終夜は暮相の足を払うと、地面に押し付けて刀を振り上げた。
きっと複雑で名前はない感情。
途方もない安心感の隣にある、今にも弾けだしそうな寂しさ。
そんな何かが一瞬で過ぎ去った後、ただ、もう終わるのだと思った。
「〝終夜〟」
暮相の口から零れた自分の名前で、殺意の色に満ちていた終夜の目が変わった。
ほんの一瞬、終夜の動きに隙が出来た事は、誰が見ても明らか。
暮相の銃が終夜の腹部に触れる。
感情が生まれるよりも前に、明依は息を呑んだ。
それから一秒と経たず、今日でもう何度聞いたのかわからない破裂音がすぐ近くで聞こえる。
「終夜!」
時雨に腕を掴まれ、引っ張られるように強制的に動きが止まった明依は、すぐに顔を上げて終夜を見た。
終夜の腹部から出た赤が、着物を染めていく。
傷を左手で抑えて、後ずさる様に数歩後ろに下がって暮相と距離を取る終夜の手は、あっという間に鮮血にまみれていた。
意識のどこかで、夕霧と晴朗が戦っていた時に急に名前を呼ぶなと終夜に言われた時の事を、改めて思い出す。
明依はこれ以上声を出さない様に、ゆっくりと息を吐いた。
いつ切れたのかわからない口の中には、血の味が広がっている。
「プライド、ないの?」
終夜は呆れたようにそう言う。
短く咳払いをすると口から溢れた血を、彼は刀を持った右手の袖口で拭いた。
「お前は死ぬって教えてやったろ、終夜」
暮相の言葉を聞いた終夜は、含み笑いを浮かべる。
この状況で何を思って笑っているのか。それはどういう意味なのか。
明依には全くわからなかった。
暮相は銃を放るように投げ捨て、刀をしっかりとにぎった。
身代わりになれるのなら。
生涯吉原に縛り付けられて構わないから、終夜を見逃してほしいと言えるのなら。どれほど楽だったかわからない。
死後にあるという地獄は、本当にこれ以上に残酷なのだろうか。
俯いてゆっくりと吐いた息が、喉元で震えている。
自分がうまく呼吸ができているのかさえ、明依にはわからなかった。
その様子を、終夜はちらりと横目で見る。
廊下の方向が何やら騒がしくなっていた。
終夜は明依から自分の持っている刀へ視線を移した。
刃零れを視線でなぞると、含み笑いを浮かべる。
そして暮相を見た。
「真剣勝負はやめだ」
「刀じゃ体力がもたないか」
「だってきりがないもん。それにもう、俺の刀は使い物にならないし」
刀を放り投げた終夜は、暮相を正面に見据えて両手を広げた。それを見た暮相は鼻で笑う。
「お前はもっと賢いと思ってたよ」
「試してみてよ。俺が勝つかも」
暮相が一歩を踏み出してから、二人の距離は瞬きをする間もなく縮まる。
暮相の刀が、真っ直ぐに終夜に伸びる。
終夜は左手をかざす様に前に出した。
暮相の刀が終夜の手のひらに吸い込まれるように、垂直に刺さる。
終夜は左手に刀が刺さったまま、その刀を握っている暮相の手を握った。
〝捕まえた〟とでも、言いたげに。
咄嗟に空いている左手を動かそうとする暮相の耳元に、終夜は唇を寄せた。
終夜の口が、言葉を伝えるために動いている。
何を言っているのか、誰も聞き取れないくらい、小さな声で。
暮相の表情が、一瞬だけ変わった。
破裂音が一度だけ、広い空間を薙ぐように響いた。
やっと広い座敷の中に静けさが訪れた後、暮相は血を吐き出してそれから自分の胸を染める血と、開いた穴を見た。
終夜は暮相の話には関心を示さず、感覚を確かめるようにグー、パーと握る自分の手を何食わぬ顔で見ていた。
「恨みは全部、ここで晴らして逝けよ」
「わかるよ、お前の気持ちは」
終夜はそう言うと、残った片目を見開く暮相にゆっくりと視線を移した。
「目的のためには手段を選ばない。俺も、本当に必要だと思えば人を殺せる。……自分勝手だよね。そして呆れるくらいの自己満足。でもわかるよ、お前の気持ち。部分的な解決をして折衷案を取るくらいなら、きっといつでも出来た。その方法は考えもしなかったけど」
そういって終夜は握っていた手を解いて下す。
それから、明らかに暮相だけに向けて、挑発的な笑みを作った。
「だって俺は、もう何の意味もないってわかってて叢雲を自殺に追いやって、十六夜も殺したんだから」
暮相は、色のない表情で終夜を見ていた。
「俺の痛みが分かる?」
終夜は追い打ちをかける様に、変わらず、飄々とそう問いかける。
暮相がそれに応えない事を、おそらく終夜は知っていたのだろう。
「〝恨みは全部、ここで晴らして逝けよ〟」
その言葉を聞いたとたん、暮相は終夜と一気に距離を詰めた。
互いの一撃、一撃が、重たい事も、当たれば軽傷では済まない事も理解できる。
互いにあと少しの所で避ける様子に、明依は胸の前で色が変わるくらい手を握りながら、その戦いを直視できず、目を閉じては開いて。それを繰り返していた。
終夜と〝宵〟が戦っていて、お互いを本気で殺そうとしている。
それを思うだけで、もう人生から逃げ出してしまいたいとすら思う。
頭の中で息をする宵が〝明依〟〝明依〟と、いつも通りの優し気な様子で声をかける。
あの日々は造られていたのだとしても、〝幸せ〟だったのだ。
他の誰でもない、自分自身を深く強く恨まずにはいられない。
自分が吉原の街に来なければ、こんな事にはならなかったのにと自分自身を責めずにはいられない。
もしも吉原に来なければ、日奈と旭は死ななかっただろう。
「お前のせいじゃないよ」
隣に立つ時雨は、はっきりとした口調で明依にそう言った。
明依は息を呑んで時雨を見るが、彼は真っ直ぐに二人の戦いを見ていて、視線が絡むことはなかった。
「明依がいたから、組織の言いなりだった旭は、生きる目的を見つけた」
いつだって眩しい笑顔を見せて〝明依〟と名前を呼んでくれた旭が、墓場まで持って行く予定だった秘密を教えてくれた旭が、記憶の中で笑っている。
「明依がいたから、おどおどしてばかりだった日奈は強くなったんだ」
柔らかく包むような笑顔を向けて〝明依〟と名前を呼んでくれる日奈が、たくさんの誹謗中傷から勇気を出して守ってくれた日奈が、記憶の中で笑っている。
「もしもお前が日奈や旭、そして終夜の立場だったとしたら。大切な人の為に全く同じ事をすると、俺は思うよ」
明依ははっと息を呑んだ。
もしも自分と日奈の立場が逆だったなら、全く同じことをするという確信があったから。
きっと思うはずだ。
自分の存在が日奈が生きていく上で傷にならないだろうか。
日奈は自分の人生を生きられるだろうか。
そして今際の際に祈る。
どうかどうか、私の死で日奈が苦しみませんように、と。
どうか日奈が救われて、幸せでいられますように、と。
それが旭の為の死だろうが、終夜の為の死だろうが、同じことを思う。
旭の立場だろうが、終夜の立場だろうが、きっと同じことをするという確信が、今の明依にはあった。
「お前は三人を、不幸だと思うか?」
明依は拳を強く強く握りしめた。
息を吐くと泣いてしまいそうで、息を止めたまま身体中に強く強く力を入れた。
いつの間にか、先ほど廊下ですれ違った炎天とその部下たち、それから勝山が、二人が激しく争っている様子を遠くから眺めている。
炎天とその部下たちは、この状況を信じられないと言った様子で見つめていた。
明依は今度こそ視線を逸らさない様に未だに刀を交える終夜と暮相を見た。
終夜の刀が暮相の腹部を深く抉る。
暮相が一歩後ろに下がる内に、終夜は刀を一振りして付いた血を飛ばした。
その間に、暮相は一気に距離を詰めて、また終夜がそれをいなしていく。
声を出さない様に注意を払う。
しかし行き場のない気持ちを堪えれば、胸の前で組んだ手に爪が食い込み、血が滲んだ。
暮相に押し負けた終夜の背が、障子窓を外す。
そこから見えるのは、暖色に照らされた華やぐ吉原の街だった。
終夜は暮相の足を払うと、地面に押し付けて刀を振り上げた。
きっと複雑で名前はない感情。
途方もない安心感の隣にある、今にも弾けだしそうな寂しさ。
そんな何かが一瞬で過ぎ去った後、ただ、もう終わるのだと思った。
「〝終夜〟」
暮相の口から零れた自分の名前で、殺意の色に満ちていた終夜の目が変わった。
ほんの一瞬、終夜の動きに隙が出来た事は、誰が見ても明らか。
暮相の銃が終夜の腹部に触れる。
感情が生まれるよりも前に、明依は息を呑んだ。
それから一秒と経たず、今日でもう何度聞いたのかわからない破裂音がすぐ近くで聞こえる。
「終夜!」
時雨に腕を掴まれ、引っ張られるように強制的に動きが止まった明依は、すぐに顔を上げて終夜を見た。
終夜の腹部から出た赤が、着物を染めていく。
傷を左手で抑えて、後ずさる様に数歩後ろに下がって暮相と距離を取る終夜の手は、あっという間に鮮血にまみれていた。
意識のどこかで、夕霧と晴朗が戦っていた時に急に名前を呼ぶなと終夜に言われた時の事を、改めて思い出す。
明依はこれ以上声を出さない様に、ゆっくりと息を吐いた。
いつ切れたのかわからない口の中には、血の味が広がっている。
「プライド、ないの?」
終夜は呆れたようにそう言う。
短く咳払いをすると口から溢れた血を、彼は刀を持った右手の袖口で拭いた。
「お前は死ぬって教えてやったろ、終夜」
暮相の言葉を聞いた終夜は、含み笑いを浮かべる。
この状況で何を思って笑っているのか。それはどういう意味なのか。
明依には全くわからなかった。
暮相は銃を放るように投げ捨て、刀をしっかりとにぎった。
身代わりになれるのなら。
生涯吉原に縛り付けられて構わないから、終夜を見逃してほしいと言えるのなら。どれほど楽だったかわからない。
死後にあるという地獄は、本当にこれ以上に残酷なのだろうか。
俯いてゆっくりと吐いた息が、喉元で震えている。
自分がうまく呼吸ができているのかさえ、明依にはわからなかった。
その様子を、終夜はちらりと横目で見る。
廊下の方向が何やら騒がしくなっていた。
終夜は明依から自分の持っている刀へ視線を移した。
刃零れを視線でなぞると、含み笑いを浮かべる。
そして暮相を見た。
「真剣勝負はやめだ」
「刀じゃ体力がもたないか」
「だってきりがないもん。それにもう、俺の刀は使い物にならないし」
刀を放り投げた終夜は、暮相を正面に見据えて両手を広げた。それを見た暮相は鼻で笑う。
「お前はもっと賢いと思ってたよ」
「試してみてよ。俺が勝つかも」
暮相が一歩を踏み出してから、二人の距離は瞬きをする間もなく縮まる。
暮相の刀が、真っ直ぐに終夜に伸びる。
終夜は左手をかざす様に前に出した。
暮相の刀が終夜の手のひらに吸い込まれるように、垂直に刺さる。
終夜は左手に刀が刺さったまま、その刀を握っている暮相の手を握った。
〝捕まえた〟とでも、言いたげに。
咄嗟に空いている左手を動かそうとする暮相の耳元に、終夜は唇を寄せた。
終夜の口が、言葉を伝えるために動いている。
何を言っているのか、誰も聞き取れないくらい、小さな声で。
暮相の表情が、一瞬だけ変わった。
破裂音が一度だけ、広い空間を薙ぐように響いた。
やっと広い座敷の中に静けさが訪れた後、暮相は血を吐き出してそれから自分の胸を染める血と、開いた穴を見た。