造花街・吉原の陰謀
55:生まれ落ちた理由でさえ
二人の鼓動が完全に止まった事を確認した終夜は、吉原を見下ろせる障子窓に背を向けて廊下へと歩く。
終夜とすれ違う形で、吉野と高尾は息を止めた暮相に近付く。
そして彼のすぐそばに腰を下ろす。そこには、ゆっくりと時間が流れている様な気がした。
対照的に終夜の歩む廊下側では、緊張が走っている。誰もが終夜にどんな言葉をかけるべきなのか迷っていた。
〝大丈夫〟と聞くには終夜の傷は深く、貫かれた左手からは歩いた道に血を落としていた。
しかし今の今まで敵だとばかり思っていた終夜に感謝の言葉をかける者もいなければ、謝罪を口にする者もいない。
この場所にいる人々はただ、誰かが何かしら行動に移すことを待っていた。
終夜は炎天の目の前で動きを止めた。
終夜を敵だと認定して命を奪いかけた炎天と、彼を〝学ばない〟と切り捨てようとした終夜。
二人は互いに、何も言わない。
きっと終夜は、炎天に事務的な用事があるのだと推測するのは簡単で、逆に炎天は個人的な理由から口をつぐんでいる事は確かだった。
「終夜、まずは治療を」
終夜にはそんな気がない事も、もう終夜には時間がない事も知っていた。
望みをかけてそういう明依に終夜は、返事をしない。
終夜は何かに気付いた様に短く息を呑むと、左手の垂れる血を止める為に袖を軽く握り、自分の背中に隠すように腕を移動させた。
それから間もなく廊下に並ぶ遊女が道を開けた先にいたのは、霞と手を繋いでいる雪だった。
雪の姿を見つけてすぐ、明依は何を考えるよりも先に終夜の左腕と、彼が歩いて道になっている血を隠す為に、終夜の左側に少しだけ身を寄せて、雪の視界から極力血を隠すように努めた。
「……ありがとう、明依」
呟く終夜の一言にも涙腺が緩む。
終夜と言葉を交わすのが、最後になるかもしれないと思っているから。
終夜の傷は当然、目立つところに何か所もある。
雪は傷だらけの終夜を見て、今にも泣きそうに顔をゆがめた後、何か言いたげに口を開いてそれからぎゅっと口をつぐんで、俯いた。
こんな状況でも〝施設の外では話しかけない〟という終夜との約束を忠実に守る雪があまりにも不憫で。
明依は雪から視線を離すことが出来なかった。
終夜がゆっくりと気を抜くように息を吐いた。
きっと今、終夜は晴れやかな気持ちでいようとしているのだろうと分かるくらい、爽やかな様子で。
「雪」
終夜にしては明るい声。
雪には聞き覚えがあるのか、目を見開いて弾かれたように顔を上げた。
「もういいよ」
終夜はそう言うと、右手をすこしだけ広げた。
「おいで」
終夜の事をよく知っていると思っていた。
だけどそれは勘違いだったらしい。
施設の子どもは皆、終夜の事が好きなはずだ。
終夜が小さな子どもに、こんな風に、優しい表情を向けるなんて、知らなかった。
どうして優しい彼が死ななければいけないのだろうと、心の底からこの世界を憎みたくなるくらい、優しい表情で。
雪は霞の手を放して、嬉しさを噛みしめる様な、しかし涙をこらえる様な顔をして走る。
終夜はそれに合わせて、少し身を屈めた。飛びつく雪を受け止めると、終夜は右手で軽々と抱き上げる。
「雪、ちゃんと約束守ったよ」
「うん。偉かったね」
終夜の言葉を聞くと、声を上げてしがみつき泣く雪を、終夜は笑みを浮かべながらあやしている。
頬を寄せる終夜の様子は、血まみれの左手で触れる事が許されない、代わりの様に思えた。
「終夜、死んじゃうかと思った」
泣きながら言う雪の言葉を聞いて、終夜は少し寂しそうな表情をする。
それから、「うん」と呟いた。
「明依お姉ちゃんに頼んだの。終夜を助けてって」
もう安心と思っているのだろう。雪は涙を拭いながら笑顔を作って言う。
どんなふうに話をしたらいいのか。
そう考えたのは一瞬の事で、目をそらしてしまいたくなる。
この現実から、この目の前の出来事からも逃げ出してしまえたらと思っている。
無邪気に希望を持ち、今もまだ幻想世界を眺めている雪を、うらやましいと思うくらい。
「雪は将来、どんな大人になりたい?」
終夜は少し声のトーンを落として雪に問いかける。
それには〝何になりたい?〟という不明確で、しかし子どもを縛り付ける様な感覚は、全く含まれていない。
それに雪は、少し考えるそぶりを見せてそれから口を開いた。
「雛菊姐さんみたいな、綺麗な人になりたい」
「そっか。日奈の〝綺麗〟って言うのは所作にあると思うよ。いっぱい稽古しないとね」
「うん。あとはね、明依お姉ちゃんみたいに優しい人になる」
雪の言葉に明依は息を呑んで視線を移した。
屈託のない表情で笑う雪は、終夜に視線を向けている。
終夜は雪の答えに表情を変える事なく、少し笑って言った。
「明依の優しさの理由は、なんだかわかる?」
その質問に、雪は考えるそぶりを見せる。
明依はいつも雪を子どもだと思って接している。勿論、終夜もそうだろう。しかし雪に話をする終夜からは、小さな雪を子どもと認識しながらも、人として対等に扱っているという事が態度や口調から察せられた。
きっといつも終夜はこうやって、子どもたちに自分で考える様に促しているのだろう。
明依は自分の話題に、自然と二人の会話の続きを待っていた。
「わからない」
「答えは一つじゃないよ。だけど俺は、〝他人の為に本気になれる事〟だと思う」
目の前で褒めてやろうだとか、そんな打算が終夜に働くはずがない。
そして、子どもに口先で希望だけを持たせるようなことを言う人間ではない事も知っていた。
「これも才能の一種だ」
だからきっと、これが終夜の本心。
終夜はもうそばにいられない代わりに、雪にこれから先の将来の糧になる言葉を、終夜は与えている。
そう知っているのに、〝認めてる〟と言われているみたいで、心の内側が温かくなる。
終夜はそう言うと、雪を下ろした。
そして、少し身を屈めて優しく雪の頭を撫でた。相変わらず、血まみれの左手は隠したまま。
「だからきっと、雪も明依みたいになれる」
そう言うと雪は、花が咲いた様に明るい笑顔を終夜に向けて、それから大きく頷いた。
子どもは、親や環境を選べない。
吉原に来る子どもたちは、外の世界ではとても恵まれているとは言えない。
しかしきっと、施設の子どもたちは大人になって思い出す。
〝終夜〟という、人とは違った優しさを見せる大人の背中を。ありのままを受け入れてくれる大人の姿を。そしてしみじみと、彼の凄さを感じる。
「黎明」
その声に明依は視線は雪と終夜から視線を移した。
「霞さんが雪を連れてきてくれたんですか」
「一人で歩いていたから。……放っておけないでしょ」
妓楼の中にいる様に命じられているであろう霞や、それから桃を含めた他の遊女たちが主郭にいるのかは知らない。
しかし霞は、ほの暗い、らしくない顔をしている。
「何しに来たんだって顔」
「……そういうわけじゃ」
「清澄さんから聞いたの。黎明は吉原の未来の為に戦ってるって」
そう言うと霞は、いたるところが汚れている明依の着物に目を移した。
明依は彼女たちがここに居る理由のあらかたを察していた。
今までずっと満月屋で肩身の狭い思いをしてきた。大門の入り口で霞を庇った事で、満月屋の遊女たちの考えが変わったのだろう。
「ずっと他人事だと思ってた。この街の事。……勝手に売られて、勝手に格付けされて、窮屈な思いをさせるこの街が、大嫌いだった」
霞はそう言うと、明依の向こう側に視線を移す。
「ずっと気付かなかった」
霞の視線の先、主郭から望む眼下には、吉原の街の隅から隅まで暖色が飽和している。
「この街はこんなに、綺麗だったのね」
そういう霞の声は、これまでの後悔を感じているようにも、これからの希望を感じている様にも聞こえる。
明依には今の霞の気持ちが手に取る様にわかった。
吉野に連れられて、吉原の朝の街へ出た。
いつもと変わらないはずの場所が、違う景色に見えた。
きっと霞は、あの時の自分と同じ感覚を味わっている。
霞は瞬きを一つすると、いつもの気難しい顔とは別人のような、柔らかい表情を見せた。
「あの時、私を守ってくれてありがとう」
探せばいくらでも、同じ場所で新しいものを見つけられる。
全ては自分次第なのだと、たくさんの人に教えられてやっと気付いたというのに、霞は自らそれに気が付いた。
才能というのは平等ではないと感じながら、同時に、霞を助けたことを誇らしく感じていた。
「俺は今から片付けがあるんだ。仕事も山ほど残ってる」
「いつ会えるの」
「さあ、分からないな。しばらくは会えない。……ほら、もう行って」
終夜が雪にそう言うと、雪はこくりと頷いた。
短い時間に霞と仲良くなったのか、霞が手を差し出すと、雪は頭を撫でる終夜の手から抜け出して、笑顔で終夜に背を向ける。
雪の頭から離れた終夜の指が、名残惜しそうに少しの間、彷徨っていた。
「雪を連れてきてくれてありがとう」
見殺しにされかけた終夜に感謝の言葉を言われて何を思っているのか。
霞は雪の手を握ったまま振り返る。そして、露わになった左手の痛々しい傷を見た。
終夜の傷を見た桃はぎょっとした顔をして、それから咄嗟に振り返ろうとする雪を引き留める様に身を屈めて話しかけた。
「力になれたなら、よかった」
霞はまだ何か言いたげな様子だったが、口をつぐんでから終夜に背を向けて雪と一緒に歩き出した。
沈黙の後、大きく息を吸う音が一度聞こえた。
「すまなかった」
炎天ははっきりと聞こえる声でそう言うと、終夜に向かって深く頭を下げた。
「勝山大夫からすべてを聞いた。そして、この目で見た。……言葉では到底許されない事は分かっている。俺が冷静さを欠いて判断を間違えた」
「アンタ一人の判断で吉原が動いていると思ったら大間違いだよ」
真剣な口調で言う炎天に対して、終夜はいつも通り飄々とした口調でそういう。
しかし炎天が顔を上げる事はなかった。
炎天はその場に跪いて、深く深く頭を下げる。
それを見た主郭の人や陰達も炎天に倣って跪き、終夜に向かって頭を下げた。
「頭領、どうぞご指示を」
打ち払った様に静まり返った大座敷の中。
終夜がすっと息を吸った音が、一度だけ聞こえた。
「吉原を解放する」
「……吉原を、解放……?」
炎天はまさに寝耳に水と言った様子で、唖然と終夜の言葉を呟いて顔を上げる。
「一体、何の話を……」
「吉原に売られてくる子どもの中には、戸籍を持っていない子どももいる。もし別の組織に海外にでも売り飛ばされたら。その子ども達が大きくなって自分の過去を知りたいと思った時、二度とその機会は訪れない」
男たちは周りの様子を伺う為に、視線を泳がせた。
「吉原なら、子どもの過去を守ってやれる。この街を失くす訳にはいかない。子を売る親の気持ちなんて知らないけど、子からすれば親はいつでも特別なものだ。……わかるはずだ。親元から離れた人間になら」
終夜は一人で力を発揮する人間だと思っていた。
しかし今、終夜の言葉でたくさんの人の表情が変わる。
「吉原を解放する」
もう一度、確かな意思を持って終夜は言う。
明らかな、胸の痛みだった。
今やこの街に、終夜が吉原の頭領になることに異論を唱える者はいないだろう。
「準備は進めてある。後の事は全部、時雨と、それから明依に」
自分が進めればいい話だ。
そうしない理由は、ここに居る誰もが知っていた。知っていて誰も、口を開かない。
炎天は一度だけしっかりと震える唇を噛みしめた。
「承知した」
それから彼らしい声で、はっきりと承諾の意を示すと、立ち上がりながら振り返り、膝をつく男たちに向き直った。
「我々はこれから吉原解放の指示を待ち、それに尽力する」
またも打ち払ったように静まり返る座敷の中にもう一度、炎天の声が響いた。
「返事は」
炎天の言葉を聞いてすぐ、統率のとれた同意の返事が聞こえる。
吉原の街は自由になる。
きっとこれからみんな、目が回るほど忙しくなるのだろう。
明依は何げなく、終夜の方を振り返った。
「……終夜が、いない」
彼のいた場所には誰もいない。
最後に意識して見た終夜の表情は、どんなものだっただろう。
終夜がいるとばかり思っていた場所には、ぽつりと寂しい埋まらない空白があるように思えた。
終夜とすれ違う形で、吉野と高尾は息を止めた暮相に近付く。
そして彼のすぐそばに腰を下ろす。そこには、ゆっくりと時間が流れている様な気がした。
対照的に終夜の歩む廊下側では、緊張が走っている。誰もが終夜にどんな言葉をかけるべきなのか迷っていた。
〝大丈夫〟と聞くには終夜の傷は深く、貫かれた左手からは歩いた道に血を落としていた。
しかし今の今まで敵だとばかり思っていた終夜に感謝の言葉をかける者もいなければ、謝罪を口にする者もいない。
この場所にいる人々はただ、誰かが何かしら行動に移すことを待っていた。
終夜は炎天の目の前で動きを止めた。
終夜を敵だと認定して命を奪いかけた炎天と、彼を〝学ばない〟と切り捨てようとした終夜。
二人は互いに、何も言わない。
きっと終夜は、炎天に事務的な用事があるのだと推測するのは簡単で、逆に炎天は個人的な理由から口をつぐんでいる事は確かだった。
「終夜、まずは治療を」
終夜にはそんな気がない事も、もう終夜には時間がない事も知っていた。
望みをかけてそういう明依に終夜は、返事をしない。
終夜は何かに気付いた様に短く息を呑むと、左手の垂れる血を止める為に袖を軽く握り、自分の背中に隠すように腕を移動させた。
それから間もなく廊下に並ぶ遊女が道を開けた先にいたのは、霞と手を繋いでいる雪だった。
雪の姿を見つけてすぐ、明依は何を考えるよりも先に終夜の左腕と、彼が歩いて道になっている血を隠す為に、終夜の左側に少しだけ身を寄せて、雪の視界から極力血を隠すように努めた。
「……ありがとう、明依」
呟く終夜の一言にも涙腺が緩む。
終夜と言葉を交わすのが、最後になるかもしれないと思っているから。
終夜の傷は当然、目立つところに何か所もある。
雪は傷だらけの終夜を見て、今にも泣きそうに顔をゆがめた後、何か言いたげに口を開いてそれからぎゅっと口をつぐんで、俯いた。
こんな状況でも〝施設の外では話しかけない〟という終夜との約束を忠実に守る雪があまりにも不憫で。
明依は雪から視線を離すことが出来なかった。
終夜がゆっくりと気を抜くように息を吐いた。
きっと今、終夜は晴れやかな気持ちでいようとしているのだろうと分かるくらい、爽やかな様子で。
「雪」
終夜にしては明るい声。
雪には聞き覚えがあるのか、目を見開いて弾かれたように顔を上げた。
「もういいよ」
終夜はそう言うと、右手をすこしだけ広げた。
「おいで」
終夜の事をよく知っていると思っていた。
だけどそれは勘違いだったらしい。
施設の子どもは皆、終夜の事が好きなはずだ。
終夜が小さな子どもに、こんな風に、優しい表情を向けるなんて、知らなかった。
どうして優しい彼が死ななければいけないのだろうと、心の底からこの世界を憎みたくなるくらい、優しい表情で。
雪は霞の手を放して、嬉しさを噛みしめる様な、しかし涙をこらえる様な顔をして走る。
終夜はそれに合わせて、少し身を屈めた。飛びつく雪を受け止めると、終夜は右手で軽々と抱き上げる。
「雪、ちゃんと約束守ったよ」
「うん。偉かったね」
終夜の言葉を聞くと、声を上げてしがみつき泣く雪を、終夜は笑みを浮かべながらあやしている。
頬を寄せる終夜の様子は、血まみれの左手で触れる事が許されない、代わりの様に思えた。
「終夜、死んじゃうかと思った」
泣きながら言う雪の言葉を聞いて、終夜は少し寂しそうな表情をする。
それから、「うん」と呟いた。
「明依お姉ちゃんに頼んだの。終夜を助けてって」
もう安心と思っているのだろう。雪は涙を拭いながら笑顔を作って言う。
どんなふうに話をしたらいいのか。
そう考えたのは一瞬の事で、目をそらしてしまいたくなる。
この現実から、この目の前の出来事からも逃げ出してしまえたらと思っている。
無邪気に希望を持ち、今もまだ幻想世界を眺めている雪を、うらやましいと思うくらい。
「雪は将来、どんな大人になりたい?」
終夜は少し声のトーンを落として雪に問いかける。
それには〝何になりたい?〟という不明確で、しかし子どもを縛り付ける様な感覚は、全く含まれていない。
それに雪は、少し考えるそぶりを見せてそれから口を開いた。
「雛菊姐さんみたいな、綺麗な人になりたい」
「そっか。日奈の〝綺麗〟って言うのは所作にあると思うよ。いっぱい稽古しないとね」
「うん。あとはね、明依お姉ちゃんみたいに優しい人になる」
雪の言葉に明依は息を呑んで視線を移した。
屈託のない表情で笑う雪は、終夜に視線を向けている。
終夜は雪の答えに表情を変える事なく、少し笑って言った。
「明依の優しさの理由は、なんだかわかる?」
その質問に、雪は考えるそぶりを見せる。
明依はいつも雪を子どもだと思って接している。勿論、終夜もそうだろう。しかし雪に話をする終夜からは、小さな雪を子どもと認識しながらも、人として対等に扱っているという事が態度や口調から察せられた。
きっといつも終夜はこうやって、子どもたちに自分で考える様に促しているのだろう。
明依は自分の話題に、自然と二人の会話の続きを待っていた。
「わからない」
「答えは一つじゃないよ。だけど俺は、〝他人の為に本気になれる事〟だと思う」
目の前で褒めてやろうだとか、そんな打算が終夜に働くはずがない。
そして、子どもに口先で希望だけを持たせるようなことを言う人間ではない事も知っていた。
「これも才能の一種だ」
だからきっと、これが終夜の本心。
終夜はもうそばにいられない代わりに、雪にこれから先の将来の糧になる言葉を、終夜は与えている。
そう知っているのに、〝認めてる〟と言われているみたいで、心の内側が温かくなる。
終夜はそう言うと、雪を下ろした。
そして、少し身を屈めて優しく雪の頭を撫でた。相変わらず、血まみれの左手は隠したまま。
「だからきっと、雪も明依みたいになれる」
そう言うと雪は、花が咲いた様に明るい笑顔を終夜に向けて、それから大きく頷いた。
子どもは、親や環境を選べない。
吉原に来る子どもたちは、外の世界ではとても恵まれているとは言えない。
しかしきっと、施設の子どもたちは大人になって思い出す。
〝終夜〟という、人とは違った優しさを見せる大人の背中を。ありのままを受け入れてくれる大人の姿を。そしてしみじみと、彼の凄さを感じる。
「黎明」
その声に明依は視線は雪と終夜から視線を移した。
「霞さんが雪を連れてきてくれたんですか」
「一人で歩いていたから。……放っておけないでしょ」
妓楼の中にいる様に命じられているであろう霞や、それから桃を含めた他の遊女たちが主郭にいるのかは知らない。
しかし霞は、ほの暗い、らしくない顔をしている。
「何しに来たんだって顔」
「……そういうわけじゃ」
「清澄さんから聞いたの。黎明は吉原の未来の為に戦ってるって」
そう言うと霞は、いたるところが汚れている明依の着物に目を移した。
明依は彼女たちがここに居る理由のあらかたを察していた。
今までずっと満月屋で肩身の狭い思いをしてきた。大門の入り口で霞を庇った事で、満月屋の遊女たちの考えが変わったのだろう。
「ずっと他人事だと思ってた。この街の事。……勝手に売られて、勝手に格付けされて、窮屈な思いをさせるこの街が、大嫌いだった」
霞はそう言うと、明依の向こう側に視線を移す。
「ずっと気付かなかった」
霞の視線の先、主郭から望む眼下には、吉原の街の隅から隅まで暖色が飽和している。
「この街はこんなに、綺麗だったのね」
そういう霞の声は、これまでの後悔を感じているようにも、これからの希望を感じている様にも聞こえる。
明依には今の霞の気持ちが手に取る様にわかった。
吉野に連れられて、吉原の朝の街へ出た。
いつもと変わらないはずの場所が、違う景色に見えた。
きっと霞は、あの時の自分と同じ感覚を味わっている。
霞は瞬きを一つすると、いつもの気難しい顔とは別人のような、柔らかい表情を見せた。
「あの時、私を守ってくれてありがとう」
探せばいくらでも、同じ場所で新しいものを見つけられる。
全ては自分次第なのだと、たくさんの人に教えられてやっと気付いたというのに、霞は自らそれに気が付いた。
才能というのは平等ではないと感じながら、同時に、霞を助けたことを誇らしく感じていた。
「俺は今から片付けがあるんだ。仕事も山ほど残ってる」
「いつ会えるの」
「さあ、分からないな。しばらくは会えない。……ほら、もう行って」
終夜が雪にそう言うと、雪はこくりと頷いた。
短い時間に霞と仲良くなったのか、霞が手を差し出すと、雪は頭を撫でる終夜の手から抜け出して、笑顔で終夜に背を向ける。
雪の頭から離れた終夜の指が、名残惜しそうに少しの間、彷徨っていた。
「雪を連れてきてくれてありがとう」
見殺しにされかけた終夜に感謝の言葉を言われて何を思っているのか。
霞は雪の手を握ったまま振り返る。そして、露わになった左手の痛々しい傷を見た。
終夜の傷を見た桃はぎょっとした顔をして、それから咄嗟に振り返ろうとする雪を引き留める様に身を屈めて話しかけた。
「力になれたなら、よかった」
霞はまだ何か言いたげな様子だったが、口をつぐんでから終夜に背を向けて雪と一緒に歩き出した。
沈黙の後、大きく息を吸う音が一度聞こえた。
「すまなかった」
炎天ははっきりと聞こえる声でそう言うと、終夜に向かって深く頭を下げた。
「勝山大夫からすべてを聞いた。そして、この目で見た。……言葉では到底許されない事は分かっている。俺が冷静さを欠いて判断を間違えた」
「アンタ一人の判断で吉原が動いていると思ったら大間違いだよ」
真剣な口調で言う炎天に対して、終夜はいつも通り飄々とした口調でそういう。
しかし炎天が顔を上げる事はなかった。
炎天はその場に跪いて、深く深く頭を下げる。
それを見た主郭の人や陰達も炎天に倣って跪き、終夜に向かって頭を下げた。
「頭領、どうぞご指示を」
打ち払った様に静まり返った大座敷の中。
終夜がすっと息を吸った音が、一度だけ聞こえた。
「吉原を解放する」
「……吉原を、解放……?」
炎天はまさに寝耳に水と言った様子で、唖然と終夜の言葉を呟いて顔を上げる。
「一体、何の話を……」
「吉原に売られてくる子どもの中には、戸籍を持っていない子どももいる。もし別の組織に海外にでも売り飛ばされたら。その子ども達が大きくなって自分の過去を知りたいと思った時、二度とその機会は訪れない」
男たちは周りの様子を伺う為に、視線を泳がせた。
「吉原なら、子どもの過去を守ってやれる。この街を失くす訳にはいかない。子を売る親の気持ちなんて知らないけど、子からすれば親はいつでも特別なものだ。……わかるはずだ。親元から離れた人間になら」
終夜は一人で力を発揮する人間だと思っていた。
しかし今、終夜の言葉でたくさんの人の表情が変わる。
「吉原を解放する」
もう一度、確かな意思を持って終夜は言う。
明らかな、胸の痛みだった。
今やこの街に、終夜が吉原の頭領になることに異論を唱える者はいないだろう。
「準備は進めてある。後の事は全部、時雨と、それから明依に」
自分が進めればいい話だ。
そうしない理由は、ここに居る誰もが知っていた。知っていて誰も、口を開かない。
炎天は一度だけしっかりと震える唇を噛みしめた。
「承知した」
それから彼らしい声で、はっきりと承諾の意を示すと、立ち上がりながら振り返り、膝をつく男たちに向き直った。
「我々はこれから吉原解放の指示を待ち、それに尽力する」
またも打ち払ったように静まり返る座敷の中にもう一度、炎天の声が響いた。
「返事は」
炎天の言葉を聞いてすぐ、統率のとれた同意の返事が聞こえる。
吉原の街は自由になる。
きっとこれからみんな、目が回るほど忙しくなるのだろう。
明依は何げなく、終夜の方を振り返った。
「……終夜が、いない」
彼のいた場所には誰もいない。
最後に意識して見た終夜の表情は、どんなものだっただろう。
終夜がいるとばかり思っていた場所には、ぽつりと寂しい埋まらない空白があるように思えた。