造花街・吉原の陰謀
06:世界を彩色する
「黎明大夫。終夜から預かりモン」
ふいに聞く〝終夜〟という名前はあまり心臓によろしくない。
酒を持ったまま明依の側まで歩いて来た鳴海はさらりとそう言うと、拳を差し出した。
「預かりものって何ですか?」
「手、出して」
終夜からの預かりものって、いったいなんだろう。
明依はドキドキと脈打つ心臓の音には聞こえないふりをして、鳴海の方向へと水をすくうように形作った手を差し出した。
ぽろり、と明依の手の上に落ちてきたのは、吉原名物〝袖の梅〟。
酒を飲む観光客が必ずと言っていい程購入する、吉原で売られている二日酔いの薬。
「よかったな。これで二日酔いせずに済む」
鳴海はそう言うと、さっさと自分の席に戻っていく。
二日酔いせずに済む?
そんなはずない。
本物の酒乱モンスターを見たことがないだろう。
普段、高尾の様な女性を見ているからだ。
世の中の真実が何も見えていない。
徳利に直接口を付けて飲む女なんて、きっと鳴海は見たことがないに違いない。
今に見てろよ。この酒乱モンスターは絶対にお前の所にもいくぞ。
束の間の休息を味わえばいい。
心の住み着いた悪魔が悪態を付く。
今日はきっと、夏祭り前夜の様に酒も程々に、とはいかないだろうなという覚悟はあった。
もしかすると終夜は今日、もともと宴席が嫌いだという理由で来ないのではなくて、この惨事に飲み込まれないようにするために来ないのでは、と疑い始めた明依は、一気に勝山に言いたい事が増え、一気に終夜が嫌いになった。
あの野郎。自分だけ逃げたな。
そう思ったが、ここまで来ては仕方がない。
明依は酒で袖の梅を流し込んだ。
「お疲れ様、明依」
穏やかな吉野の声が聞こえて明依は視線を移す。
吉野は徳利を明依の方へと向けていた。
明依が猪口を差し出すと、吉野は猪口の半分にも満たない量の酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
明依は吉野の注いだ酒を一口で飲み下した。
「頑張ったな、黎明」
高尾が穏やかで凛と張った口調で言う。
吉野と高尾が、抗争とそれから吉原解放を労わってくれているのだと理解して、明依は高尾に猪口を差し出した。
高尾は明依の持つ猪口に、口に含む程度のわずかな量の酒を注いだ。
高尾の率直な言葉が、まるで頑張りを褒めてもらった子どもの頃の気持ちにさせる。
先代・吉野大夫。
自分の母親の訓えを、吉野とは違う形で、高尾の中に感じていた。
「じゃあ、私も」
夕霧はそう言うと明依に徳利を差し出す。
お言葉に甘えて、明依は猪口を差し出した。
「私は好きよ。あなたの他人の為に本気になれるところ」
「ありがとうございます」
夕霧が注いだ半分ほどの酒を飲み下した。
「感謝しな」
勝山はニヤリと笑ってそう言うと、猪口に並々酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
手が震えない様に、細心の注意を払いながら、明依は勝山の入れた酒を飲み下した。
身体が熱い。そして大きく感情が揺れて、浮いた様な気持ちになる。
薬でも盛られているのではないかと思うくらい。
吉原に来てから今まで、これほど気を張らなかった時間はなかったかもしれない。
「史上初だね、黎明」
「何がですか?」
明らかに意味を含んだ勝山の言葉に、明依は不思議に思って声を上げた。
「松ノ位、全員に酌してもらった人間は、アンタが初めてだ」
勝山がいつもの調子で言う。
本当にその通りだ。
松ノ位は吉原の街の夢物語と言っても過言ではない。
普通の観光客は、不規則に行われる松ノ位の花魁道中を見る事がやっとなのだ。
松ノ位と口をきくどころか、松ノ位同士が話をしている所を見るだけで、一生涯の思い出だろう。
それなのに、話をする所か、同じ座敷で酒を飲んで、酒まで注いでもらえる。
四人と同じところにいる。
随分と高い所に来た。
明依は改めて自分の今いる立場を俯瞰して眺めていた。
日奈や旭が死ぬ前では、考えられなかったことだ。
本当に甘えていたのだと思った。
こうやって自分の足で立っている感覚が心地よい。
「幸せ者ですね、私は」
紛れもなく、心の底からの言葉だった。
自分の命を守ってくれた人が、大切な人が側にいなくても、人間はいつかきっと慣れる。
忘れて生きていくことが出来る。
そう考えれば人間は、無慈悲で残酷な生き物で。忘れるからこそ美しく見えて、堪らなく焦がれる。
「人は本来、どんな場所でも自分で幸せを見つけられる力を持っている」
高尾は人と違った容姿を誇りに思い、それから人と違った容姿を恨んだ。
もしかすると高尾は、母が愛した容姿を恨んだあの時の自分に、同じ言葉をかけてあげたいのかもしれない。
高尾は凛としていて、せせらぐ川の流れの様にしなやかで。一歩引いた所から俯瞰して物事を見る目を持っている。
「周りに流された途端、自分の幸せは分からなくなる。だから自信を持ちなさいと言ったの」
夕霧は容姿の美しさで、しなくていい苦労を人よりも多くした。
〝自信〟というのは、夕霧にとっての武装だったのだろう。見た目と乖離した中身を埋めるために必要不可欠なものだったに違いない。
夕霧は妖艶で、容姿だけではなく彼女の内側に潜む深い何かをもって人の心を奪っている。
「よく戦った。この私が褒めてやってもいい」
勝山は曲がってもおかしくない環境でも、なくしたものを数えずに、手にしているものを数え続けた。
言葉も態度にも気の強さがにじむが、人への思いやりを必ず感じる。
勝山は女性として強く、人間として強かだ。
「過去は過去としてある。だけど今見えているのは、〝最悪の世界〟じゃないはずよ」
親の顔を知らずに捨てられた吉野は、他人の都合を全て自分のせいだと思い込んだ。
過去は過去として、他人は他人として切り分けて考える事で、〝自分〟を大切にすることを知った。
吉野は可憐でいて、人を明るい気持ちにさせるのに、内側に秘めたぶれない軸を持っている。その様子が、決して手折られる事のない花を思わせる。
こんな人たちと、同じ場所にいる。
これでいいのだと思った。
過去との決別とまでは言わない。
ただ、過去を過去のままで形をとどめて、その上に新しい自分の世界を作っていくことは、間違いではない。
藤間の言葉を、いくつも思い出す。
『過去の何一つが欠けていたって今の私にはならないなら、どうしようもなかった事も受け入れようと思えてくる。そして、小さな事にも感謝できるようになるものだ。そう思うまでに随分と長い時間が流れたのに、まだ自分の中で解けきれていない何かがあるのも事実。それでも昔よりは随分と、楽になった。時間とは、そういうものだよ、黎明』
一体いつ、その言葉の意味が理解できる様になったのだろう。
『今見る景色が褪せて見えるのなら、〝あの人がいないから、世界が変わった様に見える〟と悲観してはいけない。〝あの人がいたから、世界がより色付いて見えていた〟と思い直すんだ。人間の心って言うのは案外単純にできていてね。そう思えば、考え方が変わっていき、言動が変わってくる。そうやって少しずつ、本当に一歩ずつ、雛菊の存在を自分の糧にしていけばいい』
いつの間に、その通りだと納得できるようになったのだろう。
日奈と旭が、それから父と母が、あの世で笑っていてくれたらいい。
「この人生でよかった」
今はもう、この目で見える景色くらいなら、自分で色を付ける事ができるから。
「いい夜ですね」
明依は座敷の中に視線を移した後、四人に視線を移す。彼女たちは、穏やかな顔で笑っていた。
「やあ、飲んでるかい」
そういって清澄は明依を含む五人の所にやってきた。
「今日は丹楓楼式の酒の場に、俺も混ぜてもらおうと思ったんだけど」
無知というのは恐ろしいと思った。
「いい度胸だ、清澄」
勝山は大きく頷いて清澄を迎え入れる。
少しセンチメンタルな気持ちになって、完全に気を抜いていた明依は急いで勝山と距離を取った。
「すみません、ちょっとトイレ」
「わかりやすい嘘付くんじゃないよ」
はっきりとそう言い切る明依に、勝山はすぐに活を飛ばした。
「いや本当です。本当にすぐに戻りますから」
約五分言い続けてやっと勝山から許可が下りた明依は、急ぎ足で座敷を出る。
センチメンタルな気持ちが一瞬で吹き飛んだ。
しかし、これが自分らしいのかもしれないと、楽しそうな声を背に歩く。
そして宴会の様子がほんの少し聞こえてくる、少し離れたこじんまりとした座敷に入った。
月明かりを頼る薄暗い部屋には、先ほどの遊女に頼んだ通り。
三人分の料理が用意されていた。
吉原の街に愛された暮相と、十六夜と、叢雲の分。
明依は向かい合う様に三つ並んだ台の側に座った。
表向きには、誰も彼ら三人に餞できない。
しかし、この三人に特別な感情を抱いている人もいるはずだ。
これが三人へのせめてもの贈り物だ。
きっと三人は、すぐに天国へはいけないだろう。
だからどうか罪を償った後、安らかに眠れますように。
明依は三人分の酒を注ぎ、自分の猪口にも酒を注いだ。
吉原の街もこの先ずっと安泰という事はないだろう。
時間が流れる限り、平たんなままとはいかないだろうから。
しかし、それでも明依はこれでよかったのだろうと確信していた。
かける言葉は、見つからない。
だからただ、思ったことを。
「いい夜ですよ、今日は」
持ち上げた猪口を傾けて、一気に飲み下す。
酒が体の中を通って、熱くする。
仄暗い座敷の中。喧騒の外側。涼し気な様子。
座敷には空気がある。まるで役目を終えて気を抜いているみたいに、穏やかな空気だった。
早く行かないとどやされる。
そう思った明依は静かな座敷から、にぎやかな声が遠くに聞こえる廊下へと出た。
今まで静かな所にいたからか、入口から見る景色では、最初から騒がしかった座敷が、さらに騒がしくなっていた。
「隣失礼します、黎明大夫!」
遊女たちは忙しそうに酒を運んでいる。
しかし、誰もが楽しそうな顔をしている。時には酔った客に困り笑顔を浮かべながら。
以前、主郭の重役たちが満月屋を利用したときとは比べ物にならないくらい、明るい表情をしている。
自分は正しい事をしたのだと、明確にそう感じていた。
「わかってるんだろうね、黎明」
「何がですか?」
明依が席に戻って開口一番、勝山が言う。
「終夜は来ないんだ」
「そうですね」
「アンタが私を楽しませな」
「なんで私が……」
無茶苦茶だ。
終夜が来ないのは誰のせいでもない。あの男が派手な場所が嫌いなだけだ。
もしくはほかの誰でもない勝山を警戒したからだ。
「ほら」
勝山はそう言うと明依に徳利を握らせる。
すぐそばには先ほど地獄入りした清澄と、炎天もいた。
明依は心の中でガッツポーズをした。
これで酒乱モンスターの力は分配されるに違いない。
これだったら勝てるぞ。
明依は自分の席から前回勝山と酒を飲んだ時に吉野が持ってきていた様な桶をスタンバイさせた。
どこからでも来るといい。
私は逃げも隠れもしない。
「俺はァ、可愛い子に、酒注いでもらっちゃおっかな~。ね~黎明ちゃーん」
ご機嫌な様子でそういって明依のすぐ側に座って肩に腕を回すのは鳴海だった。
品のある香水の匂いがして、酔いをほんの少し加速させる。
「鳴海、黎明が嫌がるようなことはするなよ」
「わかってるって」
「黎明、嫌ならはっきりそう言っていいからな」
高尾は鳴海に釘を刺した後、明依にいつもの様子で優しい言葉をかけた。
心の底が温かくなって、肩に腕を回されている事なんてどうだってよくなるくらいだ。
「いい度胸じゃないか。高尾の客」
「おー。男は度胸がねーとな」
勝山はそう言うと、高尾の隣に座っている梅雨に向かって手招きをした。
「梅雨。ちょいと」
梅雨は明らかに不審そうな様子で高尾の側から離れ、勝山の側へと腰を下ろした。
「……何でしょう、勝山大夫」
梅雨はあくまで事務的に、しかし明らかに不審な様子を隠さずに勝山に問いかけた。
「よーし!挑戦者は、ずらーっと一列に並びな」
広い座敷の中でなんだなんだと興味をそそられた人間たちが、近い場所に集まってくる。
そして勝山は並んだ悲劇の挑戦者たちに徳利を差し出した。
全員が全員、徳利を持っている勝山に注いでもらえるものだと思って差し出している猪口を奪い去られ、徳利を握らされていた。
「ちょっと……!俺は、」
「ほら」
抵抗も虚しく、梅雨も同様に悪魔の飲み物を握らされる。
「この女の街吉原で、この勝山さまの前で、いつまでもちまちま酒が飲めるだなんて思ってるんじゃないだろうね」
「……まじ?」
鳴海は絶望が混じった口調で呟いた。
ふいに聞く〝終夜〟という名前はあまり心臓によろしくない。
酒を持ったまま明依の側まで歩いて来た鳴海はさらりとそう言うと、拳を差し出した。
「預かりものって何ですか?」
「手、出して」
終夜からの預かりものって、いったいなんだろう。
明依はドキドキと脈打つ心臓の音には聞こえないふりをして、鳴海の方向へと水をすくうように形作った手を差し出した。
ぽろり、と明依の手の上に落ちてきたのは、吉原名物〝袖の梅〟。
酒を飲む観光客が必ずと言っていい程購入する、吉原で売られている二日酔いの薬。
「よかったな。これで二日酔いせずに済む」
鳴海はそう言うと、さっさと自分の席に戻っていく。
二日酔いせずに済む?
そんなはずない。
本物の酒乱モンスターを見たことがないだろう。
普段、高尾の様な女性を見ているからだ。
世の中の真実が何も見えていない。
徳利に直接口を付けて飲む女なんて、きっと鳴海は見たことがないに違いない。
今に見てろよ。この酒乱モンスターは絶対にお前の所にもいくぞ。
束の間の休息を味わえばいい。
心の住み着いた悪魔が悪態を付く。
今日はきっと、夏祭り前夜の様に酒も程々に、とはいかないだろうなという覚悟はあった。
もしかすると終夜は今日、もともと宴席が嫌いだという理由で来ないのではなくて、この惨事に飲み込まれないようにするために来ないのでは、と疑い始めた明依は、一気に勝山に言いたい事が増え、一気に終夜が嫌いになった。
あの野郎。自分だけ逃げたな。
そう思ったが、ここまで来ては仕方がない。
明依は酒で袖の梅を流し込んだ。
「お疲れ様、明依」
穏やかな吉野の声が聞こえて明依は視線を移す。
吉野は徳利を明依の方へと向けていた。
明依が猪口を差し出すと、吉野は猪口の半分にも満たない量の酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
明依は吉野の注いだ酒を一口で飲み下した。
「頑張ったな、黎明」
高尾が穏やかで凛と張った口調で言う。
吉野と高尾が、抗争とそれから吉原解放を労わってくれているのだと理解して、明依は高尾に猪口を差し出した。
高尾は明依の持つ猪口に、口に含む程度のわずかな量の酒を注いだ。
高尾の率直な言葉が、まるで頑張りを褒めてもらった子どもの頃の気持ちにさせる。
先代・吉野大夫。
自分の母親の訓えを、吉野とは違う形で、高尾の中に感じていた。
「じゃあ、私も」
夕霧はそう言うと明依に徳利を差し出す。
お言葉に甘えて、明依は猪口を差し出した。
「私は好きよ。あなたの他人の為に本気になれるところ」
「ありがとうございます」
夕霧が注いだ半分ほどの酒を飲み下した。
「感謝しな」
勝山はニヤリと笑ってそう言うと、猪口に並々酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
手が震えない様に、細心の注意を払いながら、明依は勝山の入れた酒を飲み下した。
身体が熱い。そして大きく感情が揺れて、浮いた様な気持ちになる。
薬でも盛られているのではないかと思うくらい。
吉原に来てから今まで、これほど気を張らなかった時間はなかったかもしれない。
「史上初だね、黎明」
「何がですか?」
明らかに意味を含んだ勝山の言葉に、明依は不思議に思って声を上げた。
「松ノ位、全員に酌してもらった人間は、アンタが初めてだ」
勝山がいつもの調子で言う。
本当にその通りだ。
松ノ位は吉原の街の夢物語と言っても過言ではない。
普通の観光客は、不規則に行われる松ノ位の花魁道中を見る事がやっとなのだ。
松ノ位と口をきくどころか、松ノ位同士が話をしている所を見るだけで、一生涯の思い出だろう。
それなのに、話をする所か、同じ座敷で酒を飲んで、酒まで注いでもらえる。
四人と同じところにいる。
随分と高い所に来た。
明依は改めて自分の今いる立場を俯瞰して眺めていた。
日奈や旭が死ぬ前では、考えられなかったことだ。
本当に甘えていたのだと思った。
こうやって自分の足で立っている感覚が心地よい。
「幸せ者ですね、私は」
紛れもなく、心の底からの言葉だった。
自分の命を守ってくれた人が、大切な人が側にいなくても、人間はいつかきっと慣れる。
忘れて生きていくことが出来る。
そう考えれば人間は、無慈悲で残酷な生き物で。忘れるからこそ美しく見えて、堪らなく焦がれる。
「人は本来、どんな場所でも自分で幸せを見つけられる力を持っている」
高尾は人と違った容姿を誇りに思い、それから人と違った容姿を恨んだ。
もしかすると高尾は、母が愛した容姿を恨んだあの時の自分に、同じ言葉をかけてあげたいのかもしれない。
高尾は凛としていて、せせらぐ川の流れの様にしなやかで。一歩引いた所から俯瞰して物事を見る目を持っている。
「周りに流された途端、自分の幸せは分からなくなる。だから自信を持ちなさいと言ったの」
夕霧は容姿の美しさで、しなくていい苦労を人よりも多くした。
〝自信〟というのは、夕霧にとっての武装だったのだろう。見た目と乖離した中身を埋めるために必要不可欠なものだったに違いない。
夕霧は妖艶で、容姿だけではなく彼女の内側に潜む深い何かをもって人の心を奪っている。
「よく戦った。この私が褒めてやってもいい」
勝山は曲がってもおかしくない環境でも、なくしたものを数えずに、手にしているものを数え続けた。
言葉も態度にも気の強さがにじむが、人への思いやりを必ず感じる。
勝山は女性として強く、人間として強かだ。
「過去は過去としてある。だけど今見えているのは、〝最悪の世界〟じゃないはずよ」
親の顔を知らずに捨てられた吉野は、他人の都合を全て自分のせいだと思い込んだ。
過去は過去として、他人は他人として切り分けて考える事で、〝自分〟を大切にすることを知った。
吉野は可憐でいて、人を明るい気持ちにさせるのに、内側に秘めたぶれない軸を持っている。その様子が、決して手折られる事のない花を思わせる。
こんな人たちと、同じ場所にいる。
これでいいのだと思った。
過去との決別とまでは言わない。
ただ、過去を過去のままで形をとどめて、その上に新しい自分の世界を作っていくことは、間違いではない。
藤間の言葉を、いくつも思い出す。
『過去の何一つが欠けていたって今の私にはならないなら、どうしようもなかった事も受け入れようと思えてくる。そして、小さな事にも感謝できるようになるものだ。そう思うまでに随分と長い時間が流れたのに、まだ自分の中で解けきれていない何かがあるのも事実。それでも昔よりは随分と、楽になった。時間とは、そういうものだよ、黎明』
一体いつ、その言葉の意味が理解できる様になったのだろう。
『今見る景色が褪せて見えるのなら、〝あの人がいないから、世界が変わった様に見える〟と悲観してはいけない。〝あの人がいたから、世界がより色付いて見えていた〟と思い直すんだ。人間の心って言うのは案外単純にできていてね。そう思えば、考え方が変わっていき、言動が変わってくる。そうやって少しずつ、本当に一歩ずつ、雛菊の存在を自分の糧にしていけばいい』
いつの間に、その通りだと納得できるようになったのだろう。
日奈と旭が、それから父と母が、あの世で笑っていてくれたらいい。
「この人生でよかった」
今はもう、この目で見える景色くらいなら、自分で色を付ける事ができるから。
「いい夜ですね」
明依は座敷の中に視線を移した後、四人に視線を移す。彼女たちは、穏やかな顔で笑っていた。
「やあ、飲んでるかい」
そういって清澄は明依を含む五人の所にやってきた。
「今日は丹楓楼式の酒の場に、俺も混ぜてもらおうと思ったんだけど」
無知というのは恐ろしいと思った。
「いい度胸だ、清澄」
勝山は大きく頷いて清澄を迎え入れる。
少しセンチメンタルな気持ちになって、完全に気を抜いていた明依は急いで勝山と距離を取った。
「すみません、ちょっとトイレ」
「わかりやすい嘘付くんじゃないよ」
はっきりとそう言い切る明依に、勝山はすぐに活を飛ばした。
「いや本当です。本当にすぐに戻りますから」
約五分言い続けてやっと勝山から許可が下りた明依は、急ぎ足で座敷を出る。
センチメンタルな気持ちが一瞬で吹き飛んだ。
しかし、これが自分らしいのかもしれないと、楽しそうな声を背に歩く。
そして宴会の様子がほんの少し聞こえてくる、少し離れたこじんまりとした座敷に入った。
月明かりを頼る薄暗い部屋には、先ほどの遊女に頼んだ通り。
三人分の料理が用意されていた。
吉原の街に愛された暮相と、十六夜と、叢雲の分。
明依は向かい合う様に三つ並んだ台の側に座った。
表向きには、誰も彼ら三人に餞できない。
しかし、この三人に特別な感情を抱いている人もいるはずだ。
これが三人へのせめてもの贈り物だ。
きっと三人は、すぐに天国へはいけないだろう。
だからどうか罪を償った後、安らかに眠れますように。
明依は三人分の酒を注ぎ、自分の猪口にも酒を注いだ。
吉原の街もこの先ずっと安泰という事はないだろう。
時間が流れる限り、平たんなままとはいかないだろうから。
しかし、それでも明依はこれでよかったのだろうと確信していた。
かける言葉は、見つからない。
だからただ、思ったことを。
「いい夜ですよ、今日は」
持ち上げた猪口を傾けて、一気に飲み下す。
酒が体の中を通って、熱くする。
仄暗い座敷の中。喧騒の外側。涼し気な様子。
座敷には空気がある。まるで役目を終えて気を抜いているみたいに、穏やかな空気だった。
早く行かないとどやされる。
そう思った明依は静かな座敷から、にぎやかな声が遠くに聞こえる廊下へと出た。
今まで静かな所にいたからか、入口から見る景色では、最初から騒がしかった座敷が、さらに騒がしくなっていた。
「隣失礼します、黎明大夫!」
遊女たちは忙しそうに酒を運んでいる。
しかし、誰もが楽しそうな顔をしている。時には酔った客に困り笑顔を浮かべながら。
以前、主郭の重役たちが満月屋を利用したときとは比べ物にならないくらい、明るい表情をしている。
自分は正しい事をしたのだと、明確にそう感じていた。
「わかってるんだろうね、黎明」
「何がですか?」
明依が席に戻って開口一番、勝山が言う。
「終夜は来ないんだ」
「そうですね」
「アンタが私を楽しませな」
「なんで私が……」
無茶苦茶だ。
終夜が来ないのは誰のせいでもない。あの男が派手な場所が嫌いなだけだ。
もしくはほかの誰でもない勝山を警戒したからだ。
「ほら」
勝山はそう言うと明依に徳利を握らせる。
すぐそばには先ほど地獄入りした清澄と、炎天もいた。
明依は心の中でガッツポーズをした。
これで酒乱モンスターの力は分配されるに違いない。
これだったら勝てるぞ。
明依は自分の席から前回勝山と酒を飲んだ時に吉野が持ってきていた様な桶をスタンバイさせた。
どこからでも来るといい。
私は逃げも隠れもしない。
「俺はァ、可愛い子に、酒注いでもらっちゃおっかな~。ね~黎明ちゃーん」
ご機嫌な様子でそういって明依のすぐ側に座って肩に腕を回すのは鳴海だった。
品のある香水の匂いがして、酔いをほんの少し加速させる。
「鳴海、黎明が嫌がるようなことはするなよ」
「わかってるって」
「黎明、嫌ならはっきりそう言っていいからな」
高尾は鳴海に釘を刺した後、明依にいつもの様子で優しい言葉をかけた。
心の底が温かくなって、肩に腕を回されている事なんてどうだってよくなるくらいだ。
「いい度胸じゃないか。高尾の客」
「おー。男は度胸がねーとな」
勝山はそう言うと、高尾の隣に座っている梅雨に向かって手招きをした。
「梅雨。ちょいと」
梅雨は明らかに不審そうな様子で高尾の側から離れ、勝山の側へと腰を下ろした。
「……何でしょう、勝山大夫」
梅雨はあくまで事務的に、しかし明らかに不審な様子を隠さずに勝山に問いかけた。
「よーし!挑戦者は、ずらーっと一列に並びな」
広い座敷の中でなんだなんだと興味をそそられた人間たちが、近い場所に集まってくる。
そして勝山は並んだ悲劇の挑戦者たちに徳利を差し出した。
全員が全員、徳利を持っている勝山に注いでもらえるものだと思って差し出している猪口を奪い去られ、徳利を握らされていた。
「ちょっと……!俺は、」
「ほら」
抵抗も虚しく、梅雨も同様に悪魔の飲み物を握らされる。
「この女の街吉原で、この勝山さまの前で、いつまでもちまちま酒が飲めるだなんて思ってるんじゃないだろうね」
「……まじ?」
鳴海は絶望が混じった口調で呟いた。