造花街・吉原の陰謀
11:三千世界の鴉を殺して
これほど穏やかな時間を終夜と過ごすことができる日が来るなんて、考えたこともなかった。
終夜は酒を飲みながら、日奈と旭の話を聞かせてくれた。
幼いころは、落ち着きのない旭に日奈が振り回されっぱなしだったとか。
成長するにつれて、日奈は旭の見守り方を学んだだとか。
抗争で施設に閉じ込められた時に、雪が案内してくれた外に通じる壁穴の事も。
庭の手入れ係になった終夜は、旭と日奈と三人でこっそりと抜け出そうと思って壁に穴を掘っていたが、完成間近に日奈にだけバレてしまったらしい。
そして、終夜が一人で逃げ出すと思った日奈が〝お願いだから、危ない事をしないで〟と泣いたのだそうだ。
本気で泣いている日奈に三人で外に遊びに行こうとも言えず、しかし完成間近になって中止するのも嫌だった為、それからというもの、監視が厳しくなる日奈の目を盗んで壁の穴を掘っていて大変だったらしい。
そして旭は明依の想像通り、何一つ気付かないまま平和に施設の中で暮らしていたのだそうだ。
知らない二人に触れている。
終夜の語る、生前の日奈と旭の姿。
それはとても愛しい事で。
しかし心の汚い部分の言葉を拾うのなら、終夜の口からきく〝日奈〟という言葉がほんの少しだけ、胸を刺す。
「これ、旭と日奈にもらったんだ」
終夜はそう言うと、鍵の束を取り出した。
何度か見た、擦り切れた布がストラップ代わりに巻き付けられている鍵の束。
ぽつりと思い出したのは、日奈の言葉。
『終夜の傷を治療したことがあったの。そしたら終夜、凄く驚いてて、その後ありがとうって少し悲しそうに笑ったんだ』
「昔は怪我ばっかりしてた。日奈と旭が自分の着物を裂いて治療してくれたんだ」
『その時、本当に心から笑ってくれたんだって思ったの。きっとこの子は、自分の感情を言葉や態度に出す事が苦手なんだと思った』
「嬉しかったって、今でもよく覚えてる」
『いつもなんてことない顔して笑って、傷ついてない風に見せてるだけだって』
日奈と旭は、終夜の本当の姿をわかっていた。
日奈と終夜と旭の三人の関係にはきっと、後から出てきたよそ者が入れる余白などない。
正直に言うと、それは悲しい事で。
しかし、過去の終夜にも心の拠り所があった事が嬉しくて。
でもやっぱり、汚い部分の感情が騒ぎ出す。
人間の感情というのはどうして、分かりやすい一色に染まり切ってくれないのだろう。
「明依が見た旭と日奈って、どんな人?」
「私から見た旭は、一生懸命なんだけど、テキトーで、だけど正義感はあって」
「俺が見たアイツと、大して変わらないね」
「日奈は、可愛い。そして、優しい」
「うん。日奈は優しい」
二人でそういって笑い合いながら、二人でまた酒を口に含んだ。
「小さいころ、日奈と旭とどんな事して遊んだの?」
「いろいろやったよ。子どものやりそうなことは、何でも。日奈はかるたが上手だったし、旭はけん玉で怪我してた」
「してそう」
「明依は直接話してみると旭と似た感覚がする」
「……どういう事?」
「からかいやすいってこと」
にらまれる視線を感じながらも、終夜は笑ってまた酒を口に含む。
「こんな話をする日が来るなんて、思わなかったな」
終夜は穏やかな様子で言う。
いつもよりずっと、柔らかい終夜の雰囲気。
きっと終夜は、これから必ず訪れる別れがあると分かってるから、心の底から素直な言葉を言えるのだろう。
いろいろなことがあった。
殺されかけて、恨んで憎んで、それから愛したいと思った。
今の終夜は、最初にあった時とは随分と違う顔をしている。
明依は終夜に最初に会った時に借りた長羽織の事を思い出した。
洗ってからずっと、自室の押し入れの中にしまっている。
思い出してみると、終夜があれ以来長羽織を着ている所を見たことがない。
あの日の予報はきっと、雨だったはずだ。
もしかすると終夜は、あの時、ああなることが分かっていて。
濡れた着物の代わりに貸す為に、丈の長い羽織を羽織っていたのかもしれない。
ありえないと思うのに、終夜ならそれくらいの事は朝飯前なのだろうと思うのだ。
「羽織、返さないとね」
もうきっと、これが最後だから。
「待ってて」
「いらない」
明依は立ち上がろうとするが、終夜は畳についた明依の手に自分の手を重ねた。
「捨てといて」
そう言いながら月を眺める終夜を見て、明依は立ち上がろうとすることをやめた。
月が傾く様子を、終夜の隣で眺めている。
二人で月を見るのは、きっとこれが最後だ。
この手を掴んでいる理由が、少しでも一緒にいたいから、なんて、酔狂な理由だったらいいのにと思うのは、少し夢を見すぎだろうか。
「どうして吉原を出ようと思ったの?」
終夜からの純粋な質問は、珍しい気がして。
「終夜が見せてくれた吉原の外の世界を、もっとこの目で見てみたいと思ったから」
「そう」
「それに私はもう、どんな場所でも幸せを見つけられる」
終夜はぼそりと呟いて、明依の言葉を聞いた後、息を漏らす様に笑った。
「よかった」
終夜は月を見ながら、少し目を細めて笑う。
心底安心しているみたいに。
日奈と旭。それから終夜は雰囲気が違うと思っていた。
しかし、今の終夜を見ていると、やはり二人の深い友達で、よく気が合ったのだろうと思う。
自分はこの吉原の街に縛られるくせに、他人の幸せに心の底から笑う事ができる。
「さようならを言いにきた」
終夜は相変わらず、優し気な口調で、分かり切った、残酷なことを言う。
「この座敷での事は、俺達のこれから先の人生でなかったことになる」
相も変わらず、優しい口調で。
「もう俺に言っておきたいことはないの?」
本当に彼は優しい人だ。
心の底の底に残る苦しみさえ取り除いて、汚い部分をさらって、この街から送り出そうとしてくれるから。
「私は、日奈が羨ましい」
終夜はその言葉を、何の気もないような様子で聞いていた。
きっと彼の中では、想定していた範囲内の言葉だったのだと思う。
「これから先もずっと、終夜の心の中に強く残る日奈が羨ましい」
終夜がいなくなることに比べたら些細なことだと思っていたのに、いざ生きているとなるとどうしてこうも欲が出るのだろう。
本当に人間というのは、わがままで、汚い。
「どう思う?こんな私の事」
「別に、どうも。心の中で思う事なんて、仕方ないじゃん。……でもきっと、日奈と旭は明依の側にいるよ」
明依は終夜の言葉に、曖昧にほほ笑んだ。
しかし明依の考えは正反対。
二人が死んだ後にどこかへ行ける事を選べるのなら、きっと終夜の側にいる。
二人ともきっと、終夜を放っておけない。
終夜はあの抗争で死ぬつもりでいた。
塵一つ残さない程見事に、この世界から消えるつもりでいたのだと思う。
だから今終夜は、文字通り吉原の街に生かされている。
先代の裏の頭領と同じように。
「終夜こそ、私に言いたいことが――」
頭の中で終夜の大好きだった、日奈と旭が笑う。
「――言わないといけない事が、あるはずよ」
明依は念を押すように言った。
終夜は明依の方向へと振り向きながら、薄い笑顔を作った。
「好きだよ」
喉の奥が閉まる。
胸が、しめつけられる。
「これでいいの?」
まるで最初から、これ以上言いたいことは何もないとでも言いたげに。
日奈と旭を大切に思っていた終夜が自分に言いたいことが、こんな話しであるわけがないのに。
『どれだけ強がっていたって、みんな怖いのさ。自分という人間を信じる事、自分の人生の責任を自分で取る事も。本当の意味で孤独になることも』
勝山の言葉が、頭の中に浮かんでくる。
もしも本当にそうなら、この一晩だけ、きっといない神様を頭の中ででっちあげて、許しを請う。
『その一晩だけは清も濁も併せ呑んで、その人間の味方になって認めてやる』
この一晩だけ。
勝山の言葉を思い出して、胸からお腹に何かがぽつんと落ちた。
それと同時に、明依は終夜にぽつりと触れるだけの口付けを落とす。
たった、それだけ。
それだけの行為が、すべてを掻っ攫って、心の一面を変えて魅せる。
こんな形でなければ、戯れでさえも、この言葉を言えなかった。
「私も好きよ、終夜」
今だけでいい。
人生でたった一度、この一晩だけでいいから。
日奈と旭の事は、忘れていたいと思った。
この暖かさは生涯、二度と感じる事ができないから。
思い出す必要性も感じないくらい。
終夜は明依の頬に手を添えると、今度は自分から、口付けを落とす。
口付けというのは本来、こんなに満たされた気持ちになるものだっただなんて。
心を揺さぶって、掴まれて、堪らない気持ちにさせるものだったなんて、知らなかった。
明依は期待も後悔もごちゃごちゃに全部を抱えたまま、終夜の背に腕を回して強く強く抱きしめた。
着物が肩を滑り落ちる。
衣擦れの音に、中間温度に落ち着く体温。
もうこの夜から、抜け出せなくなってしまえばいいのに。
夜は決まって、朝を連れてくる。
終夜は酒を飲みながら、日奈と旭の話を聞かせてくれた。
幼いころは、落ち着きのない旭に日奈が振り回されっぱなしだったとか。
成長するにつれて、日奈は旭の見守り方を学んだだとか。
抗争で施設に閉じ込められた時に、雪が案内してくれた外に通じる壁穴の事も。
庭の手入れ係になった終夜は、旭と日奈と三人でこっそりと抜け出そうと思って壁に穴を掘っていたが、完成間近に日奈にだけバレてしまったらしい。
そして、終夜が一人で逃げ出すと思った日奈が〝お願いだから、危ない事をしないで〟と泣いたのだそうだ。
本気で泣いている日奈に三人で外に遊びに行こうとも言えず、しかし完成間近になって中止するのも嫌だった為、それからというもの、監視が厳しくなる日奈の目を盗んで壁の穴を掘っていて大変だったらしい。
そして旭は明依の想像通り、何一つ気付かないまま平和に施設の中で暮らしていたのだそうだ。
知らない二人に触れている。
終夜の語る、生前の日奈と旭の姿。
それはとても愛しい事で。
しかし心の汚い部分の言葉を拾うのなら、終夜の口からきく〝日奈〟という言葉がほんの少しだけ、胸を刺す。
「これ、旭と日奈にもらったんだ」
終夜はそう言うと、鍵の束を取り出した。
何度か見た、擦り切れた布がストラップ代わりに巻き付けられている鍵の束。
ぽつりと思い出したのは、日奈の言葉。
『終夜の傷を治療したことがあったの。そしたら終夜、凄く驚いてて、その後ありがとうって少し悲しそうに笑ったんだ』
「昔は怪我ばっかりしてた。日奈と旭が自分の着物を裂いて治療してくれたんだ」
『その時、本当に心から笑ってくれたんだって思ったの。きっとこの子は、自分の感情を言葉や態度に出す事が苦手なんだと思った』
「嬉しかったって、今でもよく覚えてる」
『いつもなんてことない顔して笑って、傷ついてない風に見せてるだけだって』
日奈と旭は、終夜の本当の姿をわかっていた。
日奈と終夜と旭の三人の関係にはきっと、後から出てきたよそ者が入れる余白などない。
正直に言うと、それは悲しい事で。
しかし、過去の終夜にも心の拠り所があった事が嬉しくて。
でもやっぱり、汚い部分の感情が騒ぎ出す。
人間の感情というのはどうして、分かりやすい一色に染まり切ってくれないのだろう。
「明依が見た旭と日奈って、どんな人?」
「私から見た旭は、一生懸命なんだけど、テキトーで、だけど正義感はあって」
「俺が見たアイツと、大して変わらないね」
「日奈は、可愛い。そして、優しい」
「うん。日奈は優しい」
二人でそういって笑い合いながら、二人でまた酒を口に含んだ。
「小さいころ、日奈と旭とどんな事して遊んだの?」
「いろいろやったよ。子どものやりそうなことは、何でも。日奈はかるたが上手だったし、旭はけん玉で怪我してた」
「してそう」
「明依は直接話してみると旭と似た感覚がする」
「……どういう事?」
「からかいやすいってこと」
にらまれる視線を感じながらも、終夜は笑ってまた酒を口に含む。
「こんな話をする日が来るなんて、思わなかったな」
終夜は穏やかな様子で言う。
いつもよりずっと、柔らかい終夜の雰囲気。
きっと終夜は、これから必ず訪れる別れがあると分かってるから、心の底から素直な言葉を言えるのだろう。
いろいろなことがあった。
殺されかけて、恨んで憎んで、それから愛したいと思った。
今の終夜は、最初にあった時とは随分と違う顔をしている。
明依は終夜に最初に会った時に借りた長羽織の事を思い出した。
洗ってからずっと、自室の押し入れの中にしまっている。
思い出してみると、終夜があれ以来長羽織を着ている所を見たことがない。
あの日の予報はきっと、雨だったはずだ。
もしかすると終夜は、あの時、ああなることが分かっていて。
濡れた着物の代わりに貸す為に、丈の長い羽織を羽織っていたのかもしれない。
ありえないと思うのに、終夜ならそれくらいの事は朝飯前なのだろうと思うのだ。
「羽織、返さないとね」
もうきっと、これが最後だから。
「待ってて」
「いらない」
明依は立ち上がろうとするが、終夜は畳についた明依の手に自分の手を重ねた。
「捨てといて」
そう言いながら月を眺める終夜を見て、明依は立ち上がろうとすることをやめた。
月が傾く様子を、終夜の隣で眺めている。
二人で月を見るのは、きっとこれが最後だ。
この手を掴んでいる理由が、少しでも一緒にいたいから、なんて、酔狂な理由だったらいいのにと思うのは、少し夢を見すぎだろうか。
「どうして吉原を出ようと思ったの?」
終夜からの純粋な質問は、珍しい気がして。
「終夜が見せてくれた吉原の外の世界を、もっとこの目で見てみたいと思ったから」
「そう」
「それに私はもう、どんな場所でも幸せを見つけられる」
終夜はぼそりと呟いて、明依の言葉を聞いた後、息を漏らす様に笑った。
「よかった」
終夜は月を見ながら、少し目を細めて笑う。
心底安心しているみたいに。
日奈と旭。それから終夜は雰囲気が違うと思っていた。
しかし、今の終夜を見ていると、やはり二人の深い友達で、よく気が合ったのだろうと思う。
自分はこの吉原の街に縛られるくせに、他人の幸せに心の底から笑う事ができる。
「さようならを言いにきた」
終夜は相変わらず、優し気な口調で、分かり切った、残酷なことを言う。
「この座敷での事は、俺達のこれから先の人生でなかったことになる」
相も変わらず、優しい口調で。
「もう俺に言っておきたいことはないの?」
本当に彼は優しい人だ。
心の底の底に残る苦しみさえ取り除いて、汚い部分をさらって、この街から送り出そうとしてくれるから。
「私は、日奈が羨ましい」
終夜はその言葉を、何の気もないような様子で聞いていた。
きっと彼の中では、想定していた範囲内の言葉だったのだと思う。
「これから先もずっと、終夜の心の中に強く残る日奈が羨ましい」
終夜がいなくなることに比べたら些細なことだと思っていたのに、いざ生きているとなるとどうしてこうも欲が出るのだろう。
本当に人間というのは、わがままで、汚い。
「どう思う?こんな私の事」
「別に、どうも。心の中で思う事なんて、仕方ないじゃん。……でもきっと、日奈と旭は明依の側にいるよ」
明依は終夜の言葉に、曖昧にほほ笑んだ。
しかし明依の考えは正反対。
二人が死んだ後にどこかへ行ける事を選べるのなら、きっと終夜の側にいる。
二人ともきっと、終夜を放っておけない。
終夜はあの抗争で死ぬつもりでいた。
塵一つ残さない程見事に、この世界から消えるつもりでいたのだと思う。
だから今終夜は、文字通り吉原の街に生かされている。
先代の裏の頭領と同じように。
「終夜こそ、私に言いたいことが――」
頭の中で終夜の大好きだった、日奈と旭が笑う。
「――言わないといけない事が、あるはずよ」
明依は念を押すように言った。
終夜は明依の方向へと振り向きながら、薄い笑顔を作った。
「好きだよ」
喉の奥が閉まる。
胸が、しめつけられる。
「これでいいの?」
まるで最初から、これ以上言いたいことは何もないとでも言いたげに。
日奈と旭を大切に思っていた終夜が自分に言いたいことが、こんな話しであるわけがないのに。
『どれだけ強がっていたって、みんな怖いのさ。自分という人間を信じる事、自分の人生の責任を自分で取る事も。本当の意味で孤独になることも』
勝山の言葉が、頭の中に浮かんでくる。
もしも本当にそうなら、この一晩だけ、きっといない神様を頭の中ででっちあげて、許しを請う。
『その一晩だけは清も濁も併せ呑んで、その人間の味方になって認めてやる』
この一晩だけ。
勝山の言葉を思い出して、胸からお腹に何かがぽつんと落ちた。
それと同時に、明依は終夜にぽつりと触れるだけの口付けを落とす。
たった、それだけ。
それだけの行為が、すべてを掻っ攫って、心の一面を変えて魅せる。
こんな形でなければ、戯れでさえも、この言葉を言えなかった。
「私も好きよ、終夜」
今だけでいい。
人生でたった一度、この一晩だけでいいから。
日奈と旭の事は、忘れていたいと思った。
この暖かさは生涯、二度と感じる事ができないから。
思い出す必要性も感じないくらい。
終夜は明依の頬に手を添えると、今度は自分から、口付けを落とす。
口付けというのは本来、こんなに満たされた気持ちになるものだっただなんて。
心を揺さぶって、掴まれて、堪らない気持ちにさせるものだったなんて、知らなかった。
明依は期待も後悔もごちゃごちゃに全部を抱えたまま、終夜の背に腕を回して強く強く抱きしめた。
着物が肩を滑り落ちる。
衣擦れの音に、中間温度に落ち着く体温。
もうこの夜から、抜け出せなくなってしまえばいいのに。
夜は決まって、朝を連れてくる。