造花街・吉原の陰謀

16:ようこそ地獄へ

「どうして私を身請けてくれたの」
「藤間から聞いたろ。あれは旭と日奈の金だ」
「二人の遺したお金だけじゃないはずよ」
「さあ、どうだったかな。生憎、金勘定は苦手なんだ」

 終夜はそう言った後、真っ直ぐに明依を見た。

「まだ俺に、何か用?」

 例え言葉を尽くしたのだとしても、終夜を納得させられるとは思っていなかった。

 ここに居ること自体が、終夜が望む行動とは真逆で。
 終夜からすれば迷惑千万な話だ。

「このまま吉原を出るのは嫌だったの」

 明依は部屋の中に、足を踏み入れた。

 ここはもう、まぎれもなく終夜の領域。
 万が一ここで何かあったとしても、誰も助けに来てはくれない。

「私たちはまだ、本気で向き合っていない」
「必要ないよ」

 終夜ははっきりと言い切って、両足を畳につき、障子窓に背を向けて座った。

「〝向き合う〟って言うのは、少なくとも人生が交わる人間同士がする行為だ。俺達はもう〝他人〟」

 ここまではっきりと言われているのに、諦めの感情一つ浮かばない。
 そのことを察したのか、終夜はため息を吐いた。

「まったく、救いようがない」

 終始冷たい態度。

 宵を連行したときに、首を絞められたあの苦しみが、よみがえる。

 終夜の手中にいる底知れない恐怖を、身動きが取れない感覚を思い出す。

 今の終夜の目を見て、明依はほとんど確信していた。
 終夜は今もまだ、消化しきれない思いを抱えている。

「私は、終夜と一緒に生きていきたい」

 大罪だと、知っている。

 その選択は互いに、日奈と旭の思いに背く、最大の罪。

 これ以上近付かなければ、胸を張って天寿を全うできただろう。
 日奈の想い人、という形を保ったまま片付けられたのかもしれない。

 最後の座敷で身体を重ねたのは、偶然。
 一晩の過ち、とも言えない些末な事。

 異例と言われる遊女の物珍しさに興味を持って、最後に遊んでおくかと思った客と、客を選ばなかった遊女の話。

「自由はもう目の前にある。こんな街に縛られる必要はない」

 だから運命というものがあるのなら、二人の関係はあの最後の座敷で。遊女と客として終わるはずだった。

 人間は慣れる生き物だ。
 身を焦がすこの想いもいつか、きっと終夜がいない人生の最中で〝懐かしい〟という言葉で片付けられる。

 生涯に幕を閉じるときに、彼に会いたいと叶わない事をぽつりと思うくらいで、片付くはずなのに。

「吉原の外じゃなくていい。私は、終夜と一緒にいたい」
「俺の気持ちを分かった気になってここに来たんだろ」

 終夜の言う通り。
 終夜の気持ちを分かった気になって、ここに来た。

 だって終夜はまだ、本当に言いたいことを言っていない。

 終夜は目も合わせずに、頑なに譲る気のない様子を前面に出していた。

「だけどお生憎様、アンタじゃ始末に負えないよ。わかったら、さっさと出て行って」

 明依は終夜の元まで歩いて、彼の頬に触れて、ほとんど無理矢理、視線を合わせた。

「どんな言葉でも、態度でもいいから」
「はなして」
「ちゃんと私と向き合ってよ」

 切羽詰まった声でそう言うと、終夜はゆっくりと息を吐いた。
 まるで落ち着けと自分に言い聞かせているみたいに。

「日奈と旭がいなかったら私たちはお互いを知らなかった。この広い街じゃ、すれ違うこともなかったかもしれない」

 真剣に向き合うという事が、これほど怖いとは知らなかった。
 態度も言葉もきっと、本当に身を裂かれるみたいに痛くて、辛いに違いない。

 それなのに、この先にしか未来がないという、脅迫的なまでの衝動。

「私が憎いでしょ」

 終夜は何も言わず、表情を作る余裕すらもなく、明依から視線を逸らしていた。

「私の事、恨んでも恨み切れないって終夜は思ってる。私がいなかったら、」
「旭と日奈は今も生きていたはずだって、何回も思ったよ」

 取り繕う余裕すらない終夜が、感情を抑えて抑えて、ぽつりとした声で言う。

「アンタの顔を見る度に思った。お前さえいなかったらって。お前さえいなかったら、旭と日奈は死ななかった」

 身を裂くように痛いのに、同時に、安心もしている。
 終夜から本心を聞き出せたことが。

 これが、終夜がずっと隠してきた気持ち。
 そして本来なら一生涯、口にするつもりはなかったであろう本心。

 真っ当に行けば、今生の最後。

 最後の座敷ですら終夜は、この言葉を言わなかった。

 しかし終夜の中に確実にあった、葛藤。

 『――どうしてあなたは、愛する人を本気で殺そうと思えるのですか』

 抗争の渦中、今まで守っていた女を本気で殺そうと刀を向けた終夜への、十六夜からの素朴な疑問。

 『愛なんてたった一言で片付くほど、単純じゃないから』

 的を得ない、終夜の回答。

 繋ぎ合わせれば、簡単な話だ。

 終夜も、日奈と旭の二人が世界の全てだった。
 二人の為に汚い仕事をして、二人の為に生きてきた。

「二人はお前の為に死んでいった。自分が死ぬ理由が明依だってわかっているのに、最後まで心配して。〝明依を頼む〟ってあの優しい二人が、俺の枷になると分かっていて頼むんだ」

 目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。
 表情を作る余裕すらない終夜の目は、ただ憎しみをそのまま映している。

 終夜は明依の手を振り払い、明依の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「何度も思い出す。何度も夢に見る。……ただ黙って見ている事しか出来ない俺の気持ちが……。一秒でも早く楽にさせてやることしかできなかった俺の気持ちが、アンタにわかる?」

 どれほどの地獄だろう。

 大切な人の死にゆく様子を間近で見て、楽になれる様にと、手にかけて。
 何も知らずに自分が悲劇のヒロインだと勘違いしている元凶を不本意に守る事は。

「それなのに、〝笑ってほしい女の子がいる〟って言う旭の希望に満ちた顔が、忘れられない」

 憎むだけなら、どれほどよかったか知れない。

「わかってるんだよ、全部。アンタがここに来なかったら、旭と日奈は死ななかったかもしれない。でもアンタが来なかったら旭と日奈は、生きる理由すら見つけられなかった。二人は幸せだったんだろうって、ちゃんとわかってる……」

 互いに誰よりも、日奈と旭の事が大切だった。
 一番に思っていたから、互いの事が大切になった。

「食い止められたはずなんだ。……俺があの時、贈り物なんて選び行かないで旭の側にいたら。……日奈は俺の言葉を信じて動いて、怪しまれたから殺された。〝宵が旭を殺した〟なんて言わなかったら。まさか日奈が、俺の言葉をそのまま信用するなんて、予想していなかった。自分が日奈に信用される人間だなんて考えもしなかった。……だから、もっとちゃんと……よく考えて動いていたらきっと、食い止められたはずなのに」

 泣くな泣くなと歯を食いしばっても、涙が流れてくる。
 どんな思いで、今まで側にいたのだろう。

「……なんで、アンタが泣くの」
「終夜の代わりに、泣いてあげてるの」

 終夜はゆっくりと息を吐いて、明依の胸ぐらを掴んでいる力を緩めた。
 終夜の手が離れようとするから、明依はとっさに、その手を掴む。

 これから終夜はきっと、まだ自分が冷静なうちに出て行け、というのだ。

「歩けるだろ。俺がまだ冷静なうちに、出て行って」

 お互いの事を、よく知っている。
 次の言葉を、難なく予想できるくらいには。

 終夜が守ってくれた命だ。
 殺すくらいの事で気が済むなら、そうしてくれて構わない。

 しかしもはや、死は免罪符になりはしない。

 死よりも辛い生を知りすぎた。

 生きる事こそが(あがな)い。
 身を焼く痛みと苦しみこそ、罪滅ぼし。

「私を殺したいって、思ってる?」
「思ってるよ」

 あっさりと、当然とでも言いたげに、終夜は言う。

「殺したいくらい、憎くて憎くて堪らない。それなのに同じくらい、愛しいと思ってる」

 その事実がまたひとつ、明依を罪深くする。
 汚れていて、歪んでいて。
 真っ当ではなくても、(つが)う理由になる、愛のはずなのに。

「近付けば近付くほど、苦しくなる」

 終夜に近付けば近付くほど日奈を思い出して胸が痛む気持ちとはきっと、比べ物にならない。

「……こんな気持ちを俺は、どうしたらいい?」

 そして終夜は苦しそうで、悲しそうな表情をしていた。

「私が全部、教えてあげる」

 『わからない事は、俺が全部教えてあげるよ』
 蕎麦屋の二階で終夜が言った言葉と、同じものを。

 どうしたらいいのか見当もつかないまま、嘘をつく。

「教えてあげるから、突き放そうとしないで」

 頼りなく震えた声で、やっとのことで言った後、明依は終夜を抱きしめた。

「今やっと、終夜の気持ちに触れられた気がするから」

 振りほどかれない様に、終夜の着物を強く握る。

「……どこがいいんだか」

 終夜は興味もなさげに、ただぽつりとそういう。

「地獄の底にも幸せがあるなんて思っているなら、夢を見過ぎだ」
「私が見つけて、教えてあげる」

 きっと互いを求める度に思い出す。
 何度でも、何度でも思い出す。

 誰かの顔を、必死で守り抜いた思い出を。

 その度に襲う身を裂く苦痛はもしかすると、本当の地獄がどちらかわからなくなるほど。

 もし生まれ変わるなら、とよく言う。

 とんでもない。
 人生は二度もいらない。

 この一度、たった一回きりでいい。

「だから、終夜。私と一緒に、地獄に堕ちて」
「……うん、いいよ」

 今を足掻いて生きる為だけに、過去も未来さえも捨てて。
 身を寄せ合って痛みに耐えながら、夜を数える。

「一緒に、地獄に堕ちよう」

 重ねた唇が中間温度に落ち着いても、やめない。

 心も体も使い果たした先で、自分だけのものになったと知る瞬間まで。

 この欲の果ては、地獄。

 言葉にも形にもならないもので互いに互いを強く縛りあったまま、地獄の最下層まで。
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