造花街・吉原の陰謀
4:一歩
とっくに見飽きた景色をしばらく屋根の上から眺めていた明依は、ある重大なことに気が付いた。
「嘘、どうしよう。……どうやって降りるの」
屋根の上になんて登ったことはなかった。当然、どうやって降りたらいいのか皆目見当もつかない。裸足であることが救いだとしても、着物なのだ。足だってうまく開かない。座ったままの状態でしばらく考えていたが、いい解決策など思い当たる訳もなかった。
「一人で降りられないの?助けてあげようか~?」
その声に振り向くと、終夜が隣の建物の手すりに座って足をプラプラと動かしながら楽しそうにこちらを見ていた。こんな状況になると分かっていて待機していたのなら、本当に趣味が悪い。しかし降りられない事も事実だ。
「いらないから」
しかし、明依はそういって立ち上がりバランスを取りながら屋根の上を移動した。これほど自分の勝気な性質を恨んだことはない。命には代えられないのだ。素直に助けてほしいと頭を下げればいいものを、こんな男に頭を下げてたまるかというプライドが邪魔をしていた。
「〝金輪際盾突きません。これからは心を入れ替えて慎ましく生活します〟くらい言ってみなよ」
「馬鹿じゃないの」
「どう考えたって馬鹿はアンタの方だろ。命は大切にした方がいいと思うよ。そもそもここに連れてきたのは俺だし。強がってないでさ、おとなしく頼ったら?」
終夜は追い打ちをかける様に挑発とも思える口調でそういう。この男はおそらくこの状況を楽しんでいるのだろう。そうでなければ許可など取らずにさっさと抱えてさっさと降りているはずだ。助けをこうくらいなら死んだ方がましだとすら思えてくる。余裕たっぷりで見つめる終夜を睨んだ後、明依は何とか足をかけられそうな場所を見つけ慎重に足を下ろした。そうやって四苦八苦しながら移動した先は運悪くも格子窓だった。これでは中に入れない。どうしたものかと汗が滲む手でしっかりと木造の格子を握った。
突如パシャッと鳴った軽い音に、明依は動きを止めて後ろを振り向いた。
終夜の手に握られているものが一体何なのか、明依は一瞬理解できなかった。その間にまた同じように鳴った軽い音にそれがシャッター音だという事に気付いた。それは明依にとって5年ぶりに見るスマートフォンだった。久しぶりに見たとか、今写真撮ったよねとか、浮かぶ言葉が多すぎて唖然としている明依に、画面から視線をずらした終夜は手を振った。
「頑張れ~」
「アンタ……!絶ッ対許さないから!」
「俺の事は気にしないで、そっちに集中しなよ。足滑らせたらゲームオーバーだよ」
終夜とそう言い合っている途中、今度は甲高い悲鳴が聞こえた。先に視線を移したのは終夜だった。彼の視線の先を辿ると、団子屋の女将が青白い顔をして明依を見ていた。
この状況は凄くまずいのではないか。終夜への怒りが一瞬にして消え去り、変わりにこの現状を端的に説明する事で頭の中はいっぱいだった。
「れ、黎明……!アンタ、何やってんだい!?」
「これは、違くて!」
「そんな事して、雛菊が喜ぶと思ってんのかい!」
「だから私、」
「はっ、早まるんじゃないよ……!落ち着きな、冷静になるんだよ黎明!」
あたふたしている団子屋の女将に、明依の言葉はことごとく遮られていった。
「待ってな!宵さん呼んでくるから、」
「お願いだから呼ばないでください!恥ずかしいから!」
「恥ずかしいもクソもあるかい!怖気づくのも強さだよ!」
「だから違うんです!とにかく何とかなりますから、誰も呼ばないで!」
「何言ってんだい!飛び降りようとしてる人間放っておける程腐っちゃいないよ!強がってないでちょっと待ってな!飛び降りるんじゃないよ!」
「言われなくても飛び降りませんから!生きようとしているの!最初からずっと怖気づいてるの!恥ずかしいんだってば!」
宵など呼ばれては堪ったものではない。ただでさえ心配をかけているのだ。三階から飛び降りようと思っている程思い悩んでいるなんて誤認識をすれば、優しい宵にさらに気苦労をかける事になる。それだけはどうしても避けたかった。さらに言えば、格子窓にしがみついているのだ。こんなところ宵所か誰にも見られたくない。
そんな最中、終夜は団子屋の女将とのやりとりを笑って高みの見物を決め込んでいた。
「珍しく素直だね。確かに恥ずかしいよね。遠くから見たら、間違いなく季節外れの蝉だもん」
「マジでどっか行ってよ!うるさいから!」
「飛び降りないなんて言っておいて、私が呼びに行っている内に飛び降りようとしてるんじゃないだろうね!」
「おばちゃんに言ったんじゃないから!!」
「〝ゆで卵大夫〟のあだ名が風化してきたのに、自らネタを作るなんて遊女の鑑だね。じゃあ次は蝉にちなんで〝ツクツクボウシ大夫〟とか呼ばれるのかな」
「何でアンタが知ってるの!?」
「アタシは何も知らなかったんだよ。黎明、頼むから考え直しておくれよ。アタシはまだアンタと話したいことが山ほどあるんだよ」
「捨て垢作って写真投稿してみる?絶対〝蝉すぎて草〟とかコメントされて、加工画像出回るよ」
「ちょっと黙ってて!」
「アンタが死のうとしてるときに黙ってなんていられるかい!」
もはや収集が付かなくなった明依を中心としたトライアングルの関係が終わったのは、明依がしがみついている格子の内側の障子窓が開いたことだった。
「雪……!」
格子窓の内側はどうやら雪の部屋だったらしい。雪は唖然としたまま明依を見ていた。
「驚かせてごめん。でも大丈夫だから!全然、問題ないから!」
必死の形相で格子にしがみついている時点で問題しかないが、雪に心配をかけまいと明依は額に汗をにじませながらも笑顔を作った。しかし、唖然としていた雪の顔は、みるみる内に歪んでいった。
「うわぁぁぁぁん」
そしてとうとう、声を上げて泣き始めた。一体何事なのか理解できない明依は、ただ目を見開いて雪を見つめていた。雪がこんな風に感情を表に出すのは初めての事だった。
「誰か~!誰か助けて!!明依お姉ちゃんが、死んじゃう!!」
雪はその場にへたり込んで、わんわんと声を上げて泣きじゃくっていた。
「雪、違うから!大丈夫だよ!ね、待ってて。すぐそっちに、」
雪を安心させようと格子ギリギリに顔を近づけてそういった途端、明依は足を滑らせた。まずい、と思ってからすぐに明依の身体は重力に忠実に従った。しかし、格子から手が離れるより前に何かが明依に陰を落とし、それに支えられて落下せずに済んだ。状況を理解するより前に明依の顔の横から伸びた腕が格子の一本をへし折り、さらに腕を引くタイミングで握った二本目の格子をへし折った。そして無遠慮に後頭部を押された明依は、へたり込む雪の隣へと顔面から着地した。
「もたもたしないでよ。俺、仕事柄あんまり目立てないんだから」
軽々とした動きで部屋の中に入ってきたのは終夜だった。
「痛いッ!鼻打った……!」
「運よく生きてるんだから痛みくらい我慢しなよ」
鼻を抑えながら蹲る明依など気にも留めず、終夜はそう言い放つ。終夜がいなければこんな状況にならなかったと言えばそれまでだが、彼がいなければ確実に死んでいただろう。
明依が起き上がった途端、雪は明依の腰に巻きつくように抱き着いた。
「明依お姉ちゃん!どこにもいかないで!雪をおいて行かないで。雪、何でもするから!」
そういって雪は泣いた。日奈が死んで、ずっと不安でたまらなかったのだろう。妓楼に来てまだそんなに日にちは経っていない。それなのにずっと側にいた日奈がいなくなったのだ。不安でない訳がなかった。それを必死に隠していたんだろう。まだこんなに小さいのに。そう思うと、自然と目に涙が溜まっていった。
「どこにもいかない。約束する」
そして優しく、しかししっかりと小さな雪の身体を抱きしめた。
明依は自分を雪の立場に例えて考えていた。もしも一番近くにいた遊女吉野が、いつまでも様々なことを引きずり、笑顔もなく自分勝手な遊女であれば、もっと前にこの街のシステムを呪っていたかもしれない。この子を支えてあげないといけない。こんな汚い世界も、気持ち一つで凛と乗り越えていけるのだと、身をもって証明しないといけない。それが自分の役目の様にさえ思えた。
「待って……!」
そういう雪に顔を上げれば、終夜は窓に足をかけており、そのままぴたりと動きを止めた。雪は明依から離れると、先ほど明依に差し出した飴が入った木の箱を終夜に差し出した。
「ありがとう、明依お姉ちゃんを助けてくれて。……これ、あげる」
いらないとか、甘いものはきらいとか、雪を傷つける様な事を平気で言うのではないかと、明依は息を止めてその様子を見ていた。終夜は雪の差し出した木の箱を見下ろした。
「青いやつは?」
「もうないの。さっき明依お姉ちゃんにあげたから」
「そっか」
明依の心配を他所に終夜はそう言うと、指先で飴をはじくように避けて親指と人差し指で一つの飴を摘まんだ。
「じゃあ、これにする」
「選んでくれて嬉しい。雪が二番目に好きな飴」
本当に嬉しそうに笑う雪に、終夜は何も言わず障子窓から身を乗り出した。
「……ありがとう、助けてくれて」
本音を言えば終夜の招いた事態だと思ったが、強がったのは明依本人であり、何より自分よりもずっと幼い雪が自分の為に礼を言っているのにそれに何も言わないのはあまりにも大人げなく不躾だと思った。
「俺はアンタと違って、自分の言動に自信も責任も持ってる。だから、感謝される筋合いなんてないね」
振り返らずそういった終夜は、カラフルな飴を口に放った後あっという間に姿を消した。
終夜は本当に何がしたいのかわからない。明依に対する態度も相変わらずだ。でも、雪に対する態度はどこか柔らかかったような気がした。あの男は平気で人を殺すことが出来る男だ。終夜に助けられたのは、単なる彼の気まぐれなのだろうか。
雪は終夜が去った窓をしばらく眺めてから、座り込む明依の腰に抱き着いた。そして顔を擦り付ける様子は、初めて見る雪の甘えた姿だった。
「またあの店のお団子が食べたい。今度は雪が、明依お姉ちゃんにご馳走する」
「うん。食べよう、一緒に」
「雪ね、明依お姉ちゃんの事が大好き」
「私も、雪が大好きだよ」
明依は雪の頭を撫でた。雪は目を閉じて、穏やかな顔をしている。
「明依お姉ちゃん、生きていてくれてありがとう」
雪を撫でていた手に、ぽたぽたと涙が落ちた。純粋な雪だからこそ感じる言葉の重みに、明依は今心底感謝していた。
「こちらこそありがとう、雪」
「何で明依お姉ちゃんがお礼言うの?」
明依は雪が目をあけてこちらを見ない様に、撫でるふりをして雪の瞼に触れた。
ずっと忘れていた。自分の事に必死になりすぎて。『もう駄目だと思う時こそ、自分を騙してでも胸を張って堂々としていなさい』という吉野の言葉を。強がりでも、虚勢でもいい。明依はどんな経路をたどっても溢れてくる言い訳に無理矢理蓋をした。そして何度も自分の中で繰り返す。
大丈夫。絶対大丈夫。私はまだ、暗い夜を越えていける。
「雪、どうした?」
そういって雪の部屋の襖を開けたのは宵だった。宵は雪と明依を見た後、折れた木製の格子を見た。
「これは一体、」
「屋根の上から降りようと思って」
明依のその言葉に、宵は眉間に皺を寄せた。
「違うよ!そういう事しようとしたんじゃないから!それで、降りようと思ったら格子のついた部屋で、そこが雪の部屋だっただけで」
「それで自分で格子をへし折って中に入ったのか?」
明依は言葉に詰まった。木製とはいえ、女一人の力で格子を折る事は出来ないだろうと思ったからだ。そこでふと、当然の様に終夜を庇っている事に気が付いた。
「明依お姉ちゃんと雪で折ったの。明依お姉ちゃんが向こうから叩いて、雪がこっちから体重をかけて引っ張った」
「そう」
明依が口ごもってすぐに雪は宵にそう説明すれば、彼は一言呟いた後窓辺から外を覗いていた。
雪は終夜の事情など知らないはずだ。明依の意図を汲み取った訳ではないだろうが、終夜の名前を出さなかったことに、少しだけ安堵していた。
「二人とも、怪我は?」
宵はもう一度格子を見つめた後、薄く笑顔を作って明依と雪を見た。
「どこも痛くない」
「私も平気。ごめんなさい、壊しちゃって」
「そんなことはいいよ。二人に怪我がなくて何よりだ」
宵は軽く首を振りながらそういった。そして明依の顔にかかった髪をさっと払って額に手を当てて、離した。
「もう大丈夫なのか?」
「え?」
宵のその言葉で、終夜が宵を気分が悪いと言って追い払った事を思い出した。
「うん、もう大丈夫。ごめんね、心配かけて」
「そうか」
どうして終夜を庇っているのかはよくわからない。しかしどうせ部屋に押し入られた証拠も出すことは出来ないのだ。だから今回だけ、そう思うのは雪に対する態度からほんの少しだけ人間味を感じたから、という理由なのかもしれない。
「宵兄さん。私、仕事するから」
そういう明依を、宵は目を見開いて見つめた。
「急にどうしたんだ。何かあったのか?」
「何もないよ。ただこのままでいいって、思えないだけ」
しかし心の淵では諦め悪く、絶望感が浮遊している。明依は短く息を吐いて、それを見ないふりをした。
「今までありがとう、宵兄さん。私はもう、大丈夫」
宵は複雑な表情で明依を見ていた。もしかすると宵は、明依の気持ちに気付いているのかもしれない。しかし、明依はそれにも気づかないふりをした。
「わかった。無理だけはしないで」
そう言う宵に、明依は笑顔を作った。
退路は断った。後はもう、なる様にしかならない。あの男の思う通りになりたくない。この街の普通に飲み込まれたくない。もう雪に、心配はかけない。何もかもを中途半端にして目を逸らしたまま、無理矢理前に進みだそうとしている事は理解していた。ただ立ち止まっているよりかは、少しくらいマシな気がした。例えそれがほんの僅かな、小さな一歩でも。
「嘘、どうしよう。……どうやって降りるの」
屋根の上になんて登ったことはなかった。当然、どうやって降りたらいいのか皆目見当もつかない。裸足であることが救いだとしても、着物なのだ。足だってうまく開かない。座ったままの状態でしばらく考えていたが、いい解決策など思い当たる訳もなかった。
「一人で降りられないの?助けてあげようか~?」
その声に振り向くと、終夜が隣の建物の手すりに座って足をプラプラと動かしながら楽しそうにこちらを見ていた。こんな状況になると分かっていて待機していたのなら、本当に趣味が悪い。しかし降りられない事も事実だ。
「いらないから」
しかし、明依はそういって立ち上がりバランスを取りながら屋根の上を移動した。これほど自分の勝気な性質を恨んだことはない。命には代えられないのだ。素直に助けてほしいと頭を下げればいいものを、こんな男に頭を下げてたまるかというプライドが邪魔をしていた。
「〝金輪際盾突きません。これからは心を入れ替えて慎ましく生活します〟くらい言ってみなよ」
「馬鹿じゃないの」
「どう考えたって馬鹿はアンタの方だろ。命は大切にした方がいいと思うよ。そもそもここに連れてきたのは俺だし。強がってないでさ、おとなしく頼ったら?」
終夜は追い打ちをかける様に挑発とも思える口調でそういう。この男はおそらくこの状況を楽しんでいるのだろう。そうでなければ許可など取らずにさっさと抱えてさっさと降りているはずだ。助けをこうくらいなら死んだ方がましだとすら思えてくる。余裕たっぷりで見つめる終夜を睨んだ後、明依は何とか足をかけられそうな場所を見つけ慎重に足を下ろした。そうやって四苦八苦しながら移動した先は運悪くも格子窓だった。これでは中に入れない。どうしたものかと汗が滲む手でしっかりと木造の格子を握った。
突如パシャッと鳴った軽い音に、明依は動きを止めて後ろを振り向いた。
終夜の手に握られているものが一体何なのか、明依は一瞬理解できなかった。その間にまた同じように鳴った軽い音にそれがシャッター音だという事に気付いた。それは明依にとって5年ぶりに見るスマートフォンだった。久しぶりに見たとか、今写真撮ったよねとか、浮かぶ言葉が多すぎて唖然としている明依に、画面から視線をずらした終夜は手を振った。
「頑張れ~」
「アンタ……!絶ッ対許さないから!」
「俺の事は気にしないで、そっちに集中しなよ。足滑らせたらゲームオーバーだよ」
終夜とそう言い合っている途中、今度は甲高い悲鳴が聞こえた。先に視線を移したのは終夜だった。彼の視線の先を辿ると、団子屋の女将が青白い顔をして明依を見ていた。
この状況は凄くまずいのではないか。終夜への怒りが一瞬にして消え去り、変わりにこの現状を端的に説明する事で頭の中はいっぱいだった。
「れ、黎明……!アンタ、何やってんだい!?」
「これは、違くて!」
「そんな事して、雛菊が喜ぶと思ってんのかい!」
「だから私、」
「はっ、早まるんじゃないよ……!落ち着きな、冷静になるんだよ黎明!」
あたふたしている団子屋の女将に、明依の言葉はことごとく遮られていった。
「待ってな!宵さん呼んでくるから、」
「お願いだから呼ばないでください!恥ずかしいから!」
「恥ずかしいもクソもあるかい!怖気づくのも強さだよ!」
「だから違うんです!とにかく何とかなりますから、誰も呼ばないで!」
「何言ってんだい!飛び降りようとしてる人間放っておける程腐っちゃいないよ!強がってないでちょっと待ってな!飛び降りるんじゃないよ!」
「言われなくても飛び降りませんから!生きようとしているの!最初からずっと怖気づいてるの!恥ずかしいんだってば!」
宵など呼ばれては堪ったものではない。ただでさえ心配をかけているのだ。三階から飛び降りようと思っている程思い悩んでいるなんて誤認識をすれば、優しい宵にさらに気苦労をかける事になる。それだけはどうしても避けたかった。さらに言えば、格子窓にしがみついているのだ。こんなところ宵所か誰にも見られたくない。
そんな最中、終夜は団子屋の女将とのやりとりを笑って高みの見物を決め込んでいた。
「珍しく素直だね。確かに恥ずかしいよね。遠くから見たら、間違いなく季節外れの蝉だもん」
「マジでどっか行ってよ!うるさいから!」
「飛び降りないなんて言っておいて、私が呼びに行っている内に飛び降りようとしてるんじゃないだろうね!」
「おばちゃんに言ったんじゃないから!!」
「〝ゆで卵大夫〟のあだ名が風化してきたのに、自らネタを作るなんて遊女の鑑だね。じゃあ次は蝉にちなんで〝ツクツクボウシ大夫〟とか呼ばれるのかな」
「何でアンタが知ってるの!?」
「アタシは何も知らなかったんだよ。黎明、頼むから考え直しておくれよ。アタシはまだアンタと話したいことが山ほどあるんだよ」
「捨て垢作って写真投稿してみる?絶対〝蝉すぎて草〟とかコメントされて、加工画像出回るよ」
「ちょっと黙ってて!」
「アンタが死のうとしてるときに黙ってなんていられるかい!」
もはや収集が付かなくなった明依を中心としたトライアングルの関係が終わったのは、明依がしがみついている格子の内側の障子窓が開いたことだった。
「雪……!」
格子窓の内側はどうやら雪の部屋だったらしい。雪は唖然としたまま明依を見ていた。
「驚かせてごめん。でも大丈夫だから!全然、問題ないから!」
必死の形相で格子にしがみついている時点で問題しかないが、雪に心配をかけまいと明依は額に汗をにじませながらも笑顔を作った。しかし、唖然としていた雪の顔は、みるみる内に歪んでいった。
「うわぁぁぁぁん」
そしてとうとう、声を上げて泣き始めた。一体何事なのか理解できない明依は、ただ目を見開いて雪を見つめていた。雪がこんな風に感情を表に出すのは初めての事だった。
「誰か~!誰か助けて!!明依お姉ちゃんが、死んじゃう!!」
雪はその場にへたり込んで、わんわんと声を上げて泣きじゃくっていた。
「雪、違うから!大丈夫だよ!ね、待ってて。すぐそっちに、」
雪を安心させようと格子ギリギリに顔を近づけてそういった途端、明依は足を滑らせた。まずい、と思ってからすぐに明依の身体は重力に忠実に従った。しかし、格子から手が離れるより前に何かが明依に陰を落とし、それに支えられて落下せずに済んだ。状況を理解するより前に明依の顔の横から伸びた腕が格子の一本をへし折り、さらに腕を引くタイミングで握った二本目の格子をへし折った。そして無遠慮に後頭部を押された明依は、へたり込む雪の隣へと顔面から着地した。
「もたもたしないでよ。俺、仕事柄あんまり目立てないんだから」
軽々とした動きで部屋の中に入ってきたのは終夜だった。
「痛いッ!鼻打った……!」
「運よく生きてるんだから痛みくらい我慢しなよ」
鼻を抑えながら蹲る明依など気にも留めず、終夜はそう言い放つ。終夜がいなければこんな状況にならなかったと言えばそれまでだが、彼がいなければ確実に死んでいただろう。
明依が起き上がった途端、雪は明依の腰に巻きつくように抱き着いた。
「明依お姉ちゃん!どこにもいかないで!雪をおいて行かないで。雪、何でもするから!」
そういって雪は泣いた。日奈が死んで、ずっと不安でたまらなかったのだろう。妓楼に来てまだそんなに日にちは経っていない。それなのにずっと側にいた日奈がいなくなったのだ。不安でない訳がなかった。それを必死に隠していたんだろう。まだこんなに小さいのに。そう思うと、自然と目に涙が溜まっていった。
「どこにもいかない。約束する」
そして優しく、しかししっかりと小さな雪の身体を抱きしめた。
明依は自分を雪の立場に例えて考えていた。もしも一番近くにいた遊女吉野が、いつまでも様々なことを引きずり、笑顔もなく自分勝手な遊女であれば、もっと前にこの街のシステムを呪っていたかもしれない。この子を支えてあげないといけない。こんな汚い世界も、気持ち一つで凛と乗り越えていけるのだと、身をもって証明しないといけない。それが自分の役目の様にさえ思えた。
「待って……!」
そういう雪に顔を上げれば、終夜は窓に足をかけており、そのままぴたりと動きを止めた。雪は明依から離れると、先ほど明依に差し出した飴が入った木の箱を終夜に差し出した。
「ありがとう、明依お姉ちゃんを助けてくれて。……これ、あげる」
いらないとか、甘いものはきらいとか、雪を傷つける様な事を平気で言うのではないかと、明依は息を止めてその様子を見ていた。終夜は雪の差し出した木の箱を見下ろした。
「青いやつは?」
「もうないの。さっき明依お姉ちゃんにあげたから」
「そっか」
明依の心配を他所に終夜はそう言うと、指先で飴をはじくように避けて親指と人差し指で一つの飴を摘まんだ。
「じゃあ、これにする」
「選んでくれて嬉しい。雪が二番目に好きな飴」
本当に嬉しそうに笑う雪に、終夜は何も言わず障子窓から身を乗り出した。
「……ありがとう、助けてくれて」
本音を言えば終夜の招いた事態だと思ったが、強がったのは明依本人であり、何より自分よりもずっと幼い雪が自分の為に礼を言っているのにそれに何も言わないのはあまりにも大人げなく不躾だと思った。
「俺はアンタと違って、自分の言動に自信も責任も持ってる。だから、感謝される筋合いなんてないね」
振り返らずそういった終夜は、カラフルな飴を口に放った後あっという間に姿を消した。
終夜は本当に何がしたいのかわからない。明依に対する態度も相変わらずだ。でも、雪に対する態度はどこか柔らかかったような気がした。あの男は平気で人を殺すことが出来る男だ。終夜に助けられたのは、単なる彼の気まぐれなのだろうか。
雪は終夜が去った窓をしばらく眺めてから、座り込む明依の腰に抱き着いた。そして顔を擦り付ける様子は、初めて見る雪の甘えた姿だった。
「またあの店のお団子が食べたい。今度は雪が、明依お姉ちゃんにご馳走する」
「うん。食べよう、一緒に」
「雪ね、明依お姉ちゃんの事が大好き」
「私も、雪が大好きだよ」
明依は雪の頭を撫でた。雪は目を閉じて、穏やかな顔をしている。
「明依お姉ちゃん、生きていてくれてありがとう」
雪を撫でていた手に、ぽたぽたと涙が落ちた。純粋な雪だからこそ感じる言葉の重みに、明依は今心底感謝していた。
「こちらこそありがとう、雪」
「何で明依お姉ちゃんがお礼言うの?」
明依は雪が目をあけてこちらを見ない様に、撫でるふりをして雪の瞼に触れた。
ずっと忘れていた。自分の事に必死になりすぎて。『もう駄目だと思う時こそ、自分を騙してでも胸を張って堂々としていなさい』という吉野の言葉を。強がりでも、虚勢でもいい。明依はどんな経路をたどっても溢れてくる言い訳に無理矢理蓋をした。そして何度も自分の中で繰り返す。
大丈夫。絶対大丈夫。私はまだ、暗い夜を越えていける。
「雪、どうした?」
そういって雪の部屋の襖を開けたのは宵だった。宵は雪と明依を見た後、折れた木製の格子を見た。
「これは一体、」
「屋根の上から降りようと思って」
明依のその言葉に、宵は眉間に皺を寄せた。
「違うよ!そういう事しようとしたんじゃないから!それで、降りようと思ったら格子のついた部屋で、そこが雪の部屋だっただけで」
「それで自分で格子をへし折って中に入ったのか?」
明依は言葉に詰まった。木製とはいえ、女一人の力で格子を折る事は出来ないだろうと思ったからだ。そこでふと、当然の様に終夜を庇っている事に気が付いた。
「明依お姉ちゃんと雪で折ったの。明依お姉ちゃんが向こうから叩いて、雪がこっちから体重をかけて引っ張った」
「そう」
明依が口ごもってすぐに雪は宵にそう説明すれば、彼は一言呟いた後窓辺から外を覗いていた。
雪は終夜の事情など知らないはずだ。明依の意図を汲み取った訳ではないだろうが、終夜の名前を出さなかったことに、少しだけ安堵していた。
「二人とも、怪我は?」
宵はもう一度格子を見つめた後、薄く笑顔を作って明依と雪を見た。
「どこも痛くない」
「私も平気。ごめんなさい、壊しちゃって」
「そんなことはいいよ。二人に怪我がなくて何よりだ」
宵は軽く首を振りながらそういった。そして明依の顔にかかった髪をさっと払って額に手を当てて、離した。
「もう大丈夫なのか?」
「え?」
宵のその言葉で、終夜が宵を気分が悪いと言って追い払った事を思い出した。
「うん、もう大丈夫。ごめんね、心配かけて」
「そうか」
どうして終夜を庇っているのかはよくわからない。しかしどうせ部屋に押し入られた証拠も出すことは出来ないのだ。だから今回だけ、そう思うのは雪に対する態度からほんの少しだけ人間味を感じたから、という理由なのかもしれない。
「宵兄さん。私、仕事するから」
そういう明依を、宵は目を見開いて見つめた。
「急にどうしたんだ。何かあったのか?」
「何もないよ。ただこのままでいいって、思えないだけ」
しかし心の淵では諦め悪く、絶望感が浮遊している。明依は短く息を吐いて、それを見ないふりをした。
「今までありがとう、宵兄さん。私はもう、大丈夫」
宵は複雑な表情で明依を見ていた。もしかすると宵は、明依の気持ちに気付いているのかもしれない。しかし、明依はそれにも気づかないふりをした。
「わかった。無理だけはしないで」
そう言う宵に、明依は笑顔を作った。
退路は断った。後はもう、なる様にしかならない。あの男の思う通りになりたくない。この街の普通に飲み込まれたくない。もう雪に、心配はかけない。何もかもを中途半端にして目を逸らしたまま、無理矢理前に進みだそうとしている事は理解していた。ただ立ち止まっているよりかは、少しくらいマシな気がした。例えそれがほんの僅かな、小さな一歩でも。