造花街・吉原の陰謀
9:贔屓客の昔話
宵が終夜に連れていかれてからというもの、吉野と明依と日奈の三人で宵の請け負っていた仕事を分担していた。
何でもそつなくこなす吉野と日奈がいても、目が回る程忙しい。
宵の手際の良さと凄さを改めて認識した。さすが頭領に一目置かれて最年少で楼主に抜擢されただけの事はある。
当然、どれだけ忙しくても宵の身の安否が頭から抜ける事はない。同時に終夜への憎しみと、日奈の悲しそうな表情も。
日奈は終夜の事が好きなのだろうと明依はそう確信していた。
勿論、友達としてという意味ではなく、恋愛対象としてという意味で。
優しい日奈はきっとそうでなくても、例えば終夜の今ある立ち位置が旭だったのだとしても、同じように彼の身を案じていただろう。
だから根拠がある訳ではないが、女の勘というやつだ。
この状況をどうすることも出来ないのはもどかしいが、余計なことを考えなくて済むのは不幸中の幸いと言える。
昼過ぎにはすでにライフは0に近いが、ここからが本番。吉原の最も華やぐ夜が始まろうとしていた。
「明依。藤間さまがいらっしゃったわよ」
明依が書類の確認をしていた時の事、そういう吉野の言葉に胸は大げさに音を立てた。
旭を見送った雨の日の夜に座敷で明依を待っていた贔屓客だ。最近の所忙しくてすっかり忘れていたが、藤間が来た時にはしっかりと謝罪をしなければと明依は思っていた。
「しっかり謝っていらっしゃいな。大丈夫。藤間さまはお優しい方だから」
そういう吉野に背中を押されて、自室に戻って手早く身支度を整えてから藤間の待つ座敷前に座った。
「藤間さま」
一呼吸おいてからそう声をかけてみるものの中から返事はない。明依が襖を開けると、藤間は障子窓を開けて寄りかかって外を眺めていた。
藤間は騒がしい場所を好まず、いつも一人で来ては明依と穏やかに過ごす。そして、ドンチャン騒ぎで飲み食いした座敷の客が落としていく金とほぼ同額の金を払って帰る、満月屋の上客だ。
藤間が振り向こうとしたところで、明依は慌てて床に手のひらをつけて、深々と頭を下げた。
「先日の事、申し訳ありんせん」
「入っておいで黎明」
穏やかな笑顔の藤間にそう促され、明依は座敷の中へと足を進め、襖を閉じて藤間と向き合った。藤間はゆっくりとした足取りで明依の側に歩み寄った。もう一度座り直し、頭を下げようとした明依の頬に触れた藤間と目が合えば、彼は首を横に振った。
「一度会えなかったくらいで怒る血気盛んな年齢に見えているなら、まだまだ捨てたもんじゃないね」
藤間の目じりの笑皺が彼の物静かで優しい性格をよく表している。
「謝る必要はないよ。その分今日は、話し相手になってくれるんだろう?」
「何時間でも、何日でも。喜んでお付き合いしんす」
真剣な顔でそう言う明依に藤間はふっと笑って、まだ手を付けていない台の物の前に座った。明依が酒を注ごうと徳利に触れると、普段は熱いそれが生ぬるかった。
「そのままでいいよ。今日はね」
藤間はそういうと、明依に猪口を差し出した。明依が徳利を傾けるのを見つめた後、酒を飲み下した藤間は短く息を吐いた。
「熱燗が好きだといっていつもそればかり飲んでいる男が、焦がれた女性を待っている間に冷えてしまったその酒を、その女性に注いでもらうのはどんな気持ちか、知りたかっただけなんだ」
明依は何と答えていいのかわからなかった。藤間が戯れの言葉を言う事は滅多にないからだ。
「なに、物語の脇役の話だよ。宵くんから聞いているかもしれないが、私は物書きでね。だから、言葉は何も必要ない」
藤間はベストセラーを連発している人気小説家らしい。身の上話を好かない藤間からではなく、宵から聞いた話だ。
遊女失格のレッテルを貼られても仕方がないが、戯れの言葉ではなかったことに多少安堵した。
今更ベタベタと寄り添う恋人ごっこのむせ返るようなやり取りを希望されても、どうしたらいいのかわからないというのが正直な明依の本心だった。
明依が酒を注ぎ、藤間が飲み干す。
そのやり取りが何度か続いている間、藤間は宙を見て目を細めたり、大きく息を吸ったかと思えば、目を閉じて息を吐きだしたりと何かを考えている様子だった。
いや、感じているという表現の方が正しいかもしれない。自分の内側に、心と呼ばれる不明確領域の中に何かを浸透させようとしている様に思えた。
小説家の様に自分の内側を形にして露わす人間には、自分の感じた感情を精査する時間が必要なのだろうか。
同じ空間にいるのに、まるで分断された世界にいる様な感覚にさえなってくる。
そんな藤間の自分だけの時間が終わりを迎えた合図は意外にもわかりやすく、細く息を吐いた後で酒を飲み下し、明依が酒を注ぐ様子を眺めた事だった。
「藤間さま、一体どんな気持ちでいらっしゃいんすか」
待たされた女に、好みではない温度の酒を注がれるというのはどういう気持ちなのだろうかと、純粋な疑問だった。
一方で明依の気持ちはと言えば、正直に言えば当然だがあまり気分のいいものではない。当然藤間にという意味ではなく、彼の言葉を借りるなら、物語の脇役の男に酒を注ぐ女の立場になって考えると、という話だ。
嫌味事の一つも言わないくせに、〝お前のせいで冷えてしまったんだ〟と言わんばかりに好みではない温度の酒を注がされる。何事もないような顔をしているくせに、その心の中はまるで女の罪を彼女自身に深く刻み込もうとしているのではないかと思えてくる。
その予想が本当なら、その男はひねくれものだと明依は思った。
「一言じゃ言い表せないな。例えば……いや、やめておこう。口にすると我ながら気持ち悪い。文章ならもっとまともに書けると思うんだが」
そういって酒を口に含んだ藤間は、品のある所作で台の物に手を付けた。
「では、藤間さまご自身が普段書いていらっしゃる様な小説文を、朗読するような言葉で教えておくんなんし。わっちなりにその物語の脇役という殿方の気持ちを考えてみんした。答え合わせがしとうありんす」
藤間はそういう明依に困った笑顔を浮かべたが、すぐに考えるそぶりを見せた。それからゆっくりと目を閉じた。
「〝彼女の胸にぽつりと一滴でも影を落としたのだという柄にもない優越感。そう思っている自分に対する背徳感。その一切を隠して、外側を白く塗り潰すように平然を装っていた。しかし、それでも垣間見えているであろう色を吐き捨てた様にうるさい内側に、彼女はそっと目を伏せたまま、気付かないふりを決め込んでいた。結局の所一言でまとめてしまえば、会えて嬉しい。ただそれっぽっちの安い言葉を、男は女が注いだ酒と一緒に飲み下した。〟……乱雑だな。それに、少し物語の脇役に入り込みすぎたみたいだ」
藤間は目を開いて納得がいかないといった様子だ。明依は藤間の事を本当に根っからの小説家なのだと思った。その男と同じ環境に身を置けば、男の気持ちを理解しようと頭が動くらしい。
「藤間さま、その方は一体、どんな方なのでしょう」
焦がれた女を酒が冷えるまで待っているというのは、一体どういう状況なのかという疑問だった。
藤間は猪口を持っている手を明依の方へと移動させ、明依はそれに合わせて徳利を傾けた。
「本当は自分が物語の主人公になりたかったくせに、自ら選んで脇役になったバカな男さ」
「では、その方の本当の願いは叶わなかった、と。悲しい話でありんすな」
「この話を悲劇だと思うなら、まだ若いって証拠だ。良くも悪くもね」
明依は藤間の語った男が、女の幸せの為に誰かに道を譲ったのだという事を悟った。しかし藤間は口元で笑みを作って明依の目を見た。何の事かわからない明依から藤間は視線を逸らしてから目を伏せた。
「少し、昔の話をしてもいいかな」
「ええ、勿論」
「人生って言うのは長い。思いもよらない病気にかかって長い間入院する事になったり、揉めた友人と縁を切った事もあった。仕事が思うようにいかない日も、落ち込む日も数えきれないほどあった。子どもが出来なかった分生涯寄り添って暮らそうと約束していた妻に先立たれた時には、自分の生きている意味を見つける事が出来ない日々が続いた」
藤間に妻がいた事など初耳だった。それほど藤間は不必要に自分の話をしない。だから今回の話は何か意味があるのだろうと、明依は驚きながらも真剣に耳を傾けていた。
「その時は精神的にかなり落ち込んでね、当時勤めていた会社を退職した。暇を持て余して同じことばかりを考えていた時、それなら自分の理想とする人生を書いてみようと思ったんだ。しかしそれがまあ、つまらない話でね。何もかも欲しいと思った時に手に入るとなると、人間は途端に堕落するんだと知ったよ。自分中心に世界が回っている主人公の、誰にも見せられない話しか書けないくせに、夢中になって話を書いた。それが、私の物書き人生の始まりだ」
それから藤間は手に持っていた猪口を台の上に置き、朗らかな顔で顔を上げた。
「過去の何一つが欠けていたって今の私にはならないなら、どうしようもなかった事も受け入れようと思えてくる。そして、小さな事にも感謝できるようになるものだ。そう思うまでに随分と長い時間が流れたのに、まだ自分の中で解けきれていない何かがあるのも事実。それでも昔よりは随分と、楽になった。時間とは、そういうものだよ、黎明」
じっと黙って話を聞く明依へと顔を向けた藤間は、先ほどと変わらず朗らかな表情を崩さない。
明依は両親を亡くしたが、吉原に来て前向きに生きているつもりでいた。だから、時間が解決するという意味は理解できた。
吉野の言う、自分の目で見た宵を信じて待つというのもきっと、この話にも関連するだろう。きっと胸の内で今も騒ぎ立てている旭の事も、時間と共に風化していくに違いない。
過去の何一つが欠けても今の自分にはならない。そう思える日がいつか本当に、自分にもやってくるのだろうか。
「何があったのかは聞かないが、君が座敷に上がらなかったくらいだ。余程の事があったんだと想像するのは難しくない。しかし、あまり自分を責めるのは感心しないな。ほら、その顔」
そう言うと藤間は、明依の額を指で軽く弾いた。
「少し気を抜くと、難しい顔をしているよ。まずはしっかりと眠る事だ」
明依は自分の目元を指でなぞった。目の隈はしっかりと化粧で隠してきたつもりだったが、どうやら藤間にはお見通しらしい。
吉野からは睡眠だけはしっかりとる様にと言われ、毎日夜にまとまった休息の時間をもらっていた。しかし、眠れるはずもない。
旭の事でさえ、気持ちの整理がついていないのだ。宵の手を借りてやっとのことで日奈と前を向こうと思った矢先に、今度は勇気づけてくれた宵がいなくなった。
「どうやら藤間さまには、隠し事はできないようでありんす」
「歳ばかり食ってはいないさ。君の心が楽になるなら、私はいつだって君の言える範囲で話を聞くよ。壁に話しかけているとでも思って、いつでも言ってくるといい」
「壁でありんすか。それならば、話す方も気楽でいられますなァ」
「音を吸収するだけで、対して何もできはしない壁だという事も覚えておいてくれ」
そう冗談まじりで笑った藤間に釣られて、明依も口元を緩めた。
「黎明。どれだけ辛いことがあっても、他の誰かから大切に想われている事だけは、絶対に忘れちゃいけないよ」
「それは一体、」
どういう事なのかと聞こうと明依が口を開いたところで、藤間は立ち上がって出入り口へと移動すると、襖を開けた。
そこには不安気な難しい顔を見合わせていたが、襖が突然開いた事に驚いた顔をした日奈と吉野がいた。
「申し訳ありません、藤間さま。盗み聞きしようとした訳ではないんです」
「め、黎明の事が心配で。だから、出てきた時に、少しでも話を聞ければと思って」
藤間の性格をよく知っている吉野は、困った様に笑いながら頬に手を添えていた。日奈はあたふたと落ち着きのない様子だ。
「ほら、言った通りだろう?」
藤間は振り向いてどこかしたり顔でそういったが、それからすぐにふっと優しく笑った。
「わかったね、黎明」
「ええ。どれだけ幸せ者か、身に余るほどわかりんした」
明依の返事に一度頷いた藤間は吉野に向き合った。
「今日はこれで失礼しよう。黎明のおかげで随分と心地がいい。今夜はゆっくりと話の続きを書きたい気分だ」
そう言う藤間の意思に従って、吉野と明依と日奈の三人は彼を満月屋の前から見送ったが、藤間は相変わらず振り向きもせずに人込みの中へと消えていった。
「明依、何の話をしてたの?藤間さま、凄く嬉しそうな顔をしてたけど」
藤間を見送ってすぐ、日奈が明依にそう問いかけた。
「どれだけ辛いことがあっても、他の誰かから大切に想われている事だけは、絶対に忘れちゃいけない。って、言われたの」
「いつも藤間さまに挨拶に行く宵さんが何も言わずに店を開けた事が、公にできる様な話じゃないって何となく気付いていらっしゃるのね」
「そうかもしれません。私の言える範疇で話を聞くと言っていただきましたから」
「やっぱり勘の鋭い方だわ。簡単に騙されてはくれないわね」
吉野はそういってため息を一つ吐いた。
満月屋は、吉原が造られた当初からある。楼主が変われど、いつも大人数の女を抱えている吉原指折りの妓楼だ。大きな妓楼はそれだけ人がいて、金が必要になる。
その金を働かずに工面をするには余りに無知だ。吉野が出した騒動の当日から店を開けるという結論は最善解だったのだろうと明依は思っていた。
満月屋の経営が傾けばまず、宵がこつこつと築き上げた吉原での立場は無くなるだろう。凪や朔達の立場である梅ノ位は当然解雇となり、明依の立場である竹ノ位はおそらく主郭の指示によって別の妓楼に流されるだろう。
松ノ位である吉野は吉原の中にも外にも名は知れ渡っているから、満月屋がなくなってもどうにでもなる。
しかし明依にとって一番気がかりなのは、日奈だ。
松ノ位に昇進が決まっていると言っても、満月屋がなくなり別の妓楼に移動する事になればその話が白紙になる事だってあり得るのだ。それだけは、何としても避けたかった。旭と同じ意思を持って吉原を変えようと心に決めている日奈から、もうこれ以上何も失わせたくはなかったからだ。
「仕事しよう。藤間さまはきっと、いつも通りお酒と満月屋の雰囲気を楽しみに来ただけだよ。もし藤間さまが帰ったのが私たちの現状を察しての事なら、折角作ってくれた時間を無駄にはできないよ」
「明依が前向きだと、私も頑張らないとって思えてくる」
「日奈がそう言ってくれるから、私は前を向こうって思えるんだよ」
日奈がそういったのは強がりだという事は明依には察しがついた。そして日奈には、明依の言ったことが強がりだという事も手に取る様にわかっているだろう。
それでもお互いに何も言わない。これが吉野の下で学んだライバルでもあり、かけがえのない友である二人の最善の距離感だった。
「ではわっちは、お前さんらに背中でも見せておくとしんしょう」
吉野は演じた様な口調で、普段言わない言葉を言うと、気品のある素振りで歩き出す。
その背中は、まだまだ遠い。
何でもそつなくこなす吉野と日奈がいても、目が回る程忙しい。
宵の手際の良さと凄さを改めて認識した。さすが頭領に一目置かれて最年少で楼主に抜擢されただけの事はある。
当然、どれだけ忙しくても宵の身の安否が頭から抜ける事はない。同時に終夜への憎しみと、日奈の悲しそうな表情も。
日奈は終夜の事が好きなのだろうと明依はそう確信していた。
勿論、友達としてという意味ではなく、恋愛対象としてという意味で。
優しい日奈はきっとそうでなくても、例えば終夜の今ある立ち位置が旭だったのだとしても、同じように彼の身を案じていただろう。
だから根拠がある訳ではないが、女の勘というやつだ。
この状況をどうすることも出来ないのはもどかしいが、余計なことを考えなくて済むのは不幸中の幸いと言える。
昼過ぎにはすでにライフは0に近いが、ここからが本番。吉原の最も華やぐ夜が始まろうとしていた。
「明依。藤間さまがいらっしゃったわよ」
明依が書類の確認をしていた時の事、そういう吉野の言葉に胸は大げさに音を立てた。
旭を見送った雨の日の夜に座敷で明依を待っていた贔屓客だ。最近の所忙しくてすっかり忘れていたが、藤間が来た時にはしっかりと謝罪をしなければと明依は思っていた。
「しっかり謝っていらっしゃいな。大丈夫。藤間さまはお優しい方だから」
そういう吉野に背中を押されて、自室に戻って手早く身支度を整えてから藤間の待つ座敷前に座った。
「藤間さま」
一呼吸おいてからそう声をかけてみるものの中から返事はない。明依が襖を開けると、藤間は障子窓を開けて寄りかかって外を眺めていた。
藤間は騒がしい場所を好まず、いつも一人で来ては明依と穏やかに過ごす。そして、ドンチャン騒ぎで飲み食いした座敷の客が落としていく金とほぼ同額の金を払って帰る、満月屋の上客だ。
藤間が振り向こうとしたところで、明依は慌てて床に手のひらをつけて、深々と頭を下げた。
「先日の事、申し訳ありんせん」
「入っておいで黎明」
穏やかな笑顔の藤間にそう促され、明依は座敷の中へと足を進め、襖を閉じて藤間と向き合った。藤間はゆっくりとした足取りで明依の側に歩み寄った。もう一度座り直し、頭を下げようとした明依の頬に触れた藤間と目が合えば、彼は首を横に振った。
「一度会えなかったくらいで怒る血気盛んな年齢に見えているなら、まだまだ捨てたもんじゃないね」
藤間の目じりの笑皺が彼の物静かで優しい性格をよく表している。
「謝る必要はないよ。その分今日は、話し相手になってくれるんだろう?」
「何時間でも、何日でも。喜んでお付き合いしんす」
真剣な顔でそう言う明依に藤間はふっと笑って、まだ手を付けていない台の物の前に座った。明依が酒を注ごうと徳利に触れると、普段は熱いそれが生ぬるかった。
「そのままでいいよ。今日はね」
藤間はそういうと、明依に猪口を差し出した。明依が徳利を傾けるのを見つめた後、酒を飲み下した藤間は短く息を吐いた。
「熱燗が好きだといっていつもそればかり飲んでいる男が、焦がれた女性を待っている間に冷えてしまったその酒を、その女性に注いでもらうのはどんな気持ちか、知りたかっただけなんだ」
明依は何と答えていいのかわからなかった。藤間が戯れの言葉を言う事は滅多にないからだ。
「なに、物語の脇役の話だよ。宵くんから聞いているかもしれないが、私は物書きでね。だから、言葉は何も必要ない」
藤間はベストセラーを連発している人気小説家らしい。身の上話を好かない藤間からではなく、宵から聞いた話だ。
遊女失格のレッテルを貼られても仕方がないが、戯れの言葉ではなかったことに多少安堵した。
今更ベタベタと寄り添う恋人ごっこのむせ返るようなやり取りを希望されても、どうしたらいいのかわからないというのが正直な明依の本心だった。
明依が酒を注ぎ、藤間が飲み干す。
そのやり取りが何度か続いている間、藤間は宙を見て目を細めたり、大きく息を吸ったかと思えば、目を閉じて息を吐きだしたりと何かを考えている様子だった。
いや、感じているという表現の方が正しいかもしれない。自分の内側に、心と呼ばれる不明確領域の中に何かを浸透させようとしている様に思えた。
小説家の様に自分の内側を形にして露わす人間には、自分の感じた感情を精査する時間が必要なのだろうか。
同じ空間にいるのに、まるで分断された世界にいる様な感覚にさえなってくる。
そんな藤間の自分だけの時間が終わりを迎えた合図は意外にもわかりやすく、細く息を吐いた後で酒を飲み下し、明依が酒を注ぐ様子を眺めた事だった。
「藤間さま、一体どんな気持ちでいらっしゃいんすか」
待たされた女に、好みではない温度の酒を注がれるというのはどういう気持ちなのだろうかと、純粋な疑問だった。
一方で明依の気持ちはと言えば、正直に言えば当然だがあまり気分のいいものではない。当然藤間にという意味ではなく、彼の言葉を借りるなら、物語の脇役の男に酒を注ぐ女の立場になって考えると、という話だ。
嫌味事の一つも言わないくせに、〝お前のせいで冷えてしまったんだ〟と言わんばかりに好みではない温度の酒を注がされる。何事もないような顔をしているくせに、その心の中はまるで女の罪を彼女自身に深く刻み込もうとしているのではないかと思えてくる。
その予想が本当なら、その男はひねくれものだと明依は思った。
「一言じゃ言い表せないな。例えば……いや、やめておこう。口にすると我ながら気持ち悪い。文章ならもっとまともに書けると思うんだが」
そういって酒を口に含んだ藤間は、品のある所作で台の物に手を付けた。
「では、藤間さまご自身が普段書いていらっしゃる様な小説文を、朗読するような言葉で教えておくんなんし。わっちなりにその物語の脇役という殿方の気持ちを考えてみんした。答え合わせがしとうありんす」
藤間はそういう明依に困った笑顔を浮かべたが、すぐに考えるそぶりを見せた。それからゆっくりと目を閉じた。
「〝彼女の胸にぽつりと一滴でも影を落としたのだという柄にもない優越感。そう思っている自分に対する背徳感。その一切を隠して、外側を白く塗り潰すように平然を装っていた。しかし、それでも垣間見えているであろう色を吐き捨てた様にうるさい内側に、彼女はそっと目を伏せたまま、気付かないふりを決め込んでいた。結局の所一言でまとめてしまえば、会えて嬉しい。ただそれっぽっちの安い言葉を、男は女が注いだ酒と一緒に飲み下した。〟……乱雑だな。それに、少し物語の脇役に入り込みすぎたみたいだ」
藤間は目を開いて納得がいかないといった様子だ。明依は藤間の事を本当に根っからの小説家なのだと思った。その男と同じ環境に身を置けば、男の気持ちを理解しようと頭が動くらしい。
「藤間さま、その方は一体、どんな方なのでしょう」
焦がれた女を酒が冷えるまで待っているというのは、一体どういう状況なのかという疑問だった。
藤間は猪口を持っている手を明依の方へと移動させ、明依はそれに合わせて徳利を傾けた。
「本当は自分が物語の主人公になりたかったくせに、自ら選んで脇役になったバカな男さ」
「では、その方の本当の願いは叶わなかった、と。悲しい話でありんすな」
「この話を悲劇だと思うなら、まだ若いって証拠だ。良くも悪くもね」
明依は藤間の語った男が、女の幸せの為に誰かに道を譲ったのだという事を悟った。しかし藤間は口元で笑みを作って明依の目を見た。何の事かわからない明依から藤間は視線を逸らしてから目を伏せた。
「少し、昔の話をしてもいいかな」
「ええ、勿論」
「人生って言うのは長い。思いもよらない病気にかかって長い間入院する事になったり、揉めた友人と縁を切った事もあった。仕事が思うようにいかない日も、落ち込む日も数えきれないほどあった。子どもが出来なかった分生涯寄り添って暮らそうと約束していた妻に先立たれた時には、自分の生きている意味を見つける事が出来ない日々が続いた」
藤間に妻がいた事など初耳だった。それほど藤間は不必要に自分の話をしない。だから今回の話は何か意味があるのだろうと、明依は驚きながらも真剣に耳を傾けていた。
「その時は精神的にかなり落ち込んでね、当時勤めていた会社を退職した。暇を持て余して同じことばかりを考えていた時、それなら自分の理想とする人生を書いてみようと思ったんだ。しかしそれがまあ、つまらない話でね。何もかも欲しいと思った時に手に入るとなると、人間は途端に堕落するんだと知ったよ。自分中心に世界が回っている主人公の、誰にも見せられない話しか書けないくせに、夢中になって話を書いた。それが、私の物書き人生の始まりだ」
それから藤間は手に持っていた猪口を台の上に置き、朗らかな顔で顔を上げた。
「過去の何一つが欠けていたって今の私にはならないなら、どうしようもなかった事も受け入れようと思えてくる。そして、小さな事にも感謝できるようになるものだ。そう思うまでに随分と長い時間が流れたのに、まだ自分の中で解けきれていない何かがあるのも事実。それでも昔よりは随分と、楽になった。時間とは、そういうものだよ、黎明」
じっと黙って話を聞く明依へと顔を向けた藤間は、先ほどと変わらず朗らかな表情を崩さない。
明依は両親を亡くしたが、吉原に来て前向きに生きているつもりでいた。だから、時間が解決するという意味は理解できた。
吉野の言う、自分の目で見た宵を信じて待つというのもきっと、この話にも関連するだろう。きっと胸の内で今も騒ぎ立てている旭の事も、時間と共に風化していくに違いない。
過去の何一つが欠けても今の自分にはならない。そう思える日がいつか本当に、自分にもやってくるのだろうか。
「何があったのかは聞かないが、君が座敷に上がらなかったくらいだ。余程の事があったんだと想像するのは難しくない。しかし、あまり自分を責めるのは感心しないな。ほら、その顔」
そう言うと藤間は、明依の額を指で軽く弾いた。
「少し気を抜くと、難しい顔をしているよ。まずはしっかりと眠る事だ」
明依は自分の目元を指でなぞった。目の隈はしっかりと化粧で隠してきたつもりだったが、どうやら藤間にはお見通しらしい。
吉野からは睡眠だけはしっかりとる様にと言われ、毎日夜にまとまった休息の時間をもらっていた。しかし、眠れるはずもない。
旭の事でさえ、気持ちの整理がついていないのだ。宵の手を借りてやっとのことで日奈と前を向こうと思った矢先に、今度は勇気づけてくれた宵がいなくなった。
「どうやら藤間さまには、隠し事はできないようでありんす」
「歳ばかり食ってはいないさ。君の心が楽になるなら、私はいつだって君の言える範囲で話を聞くよ。壁に話しかけているとでも思って、いつでも言ってくるといい」
「壁でありんすか。それならば、話す方も気楽でいられますなァ」
「音を吸収するだけで、対して何もできはしない壁だという事も覚えておいてくれ」
そう冗談まじりで笑った藤間に釣られて、明依も口元を緩めた。
「黎明。どれだけ辛いことがあっても、他の誰かから大切に想われている事だけは、絶対に忘れちゃいけないよ」
「それは一体、」
どういう事なのかと聞こうと明依が口を開いたところで、藤間は立ち上がって出入り口へと移動すると、襖を開けた。
そこには不安気な難しい顔を見合わせていたが、襖が突然開いた事に驚いた顔をした日奈と吉野がいた。
「申し訳ありません、藤間さま。盗み聞きしようとした訳ではないんです」
「め、黎明の事が心配で。だから、出てきた時に、少しでも話を聞ければと思って」
藤間の性格をよく知っている吉野は、困った様に笑いながら頬に手を添えていた。日奈はあたふたと落ち着きのない様子だ。
「ほら、言った通りだろう?」
藤間は振り向いてどこかしたり顔でそういったが、それからすぐにふっと優しく笑った。
「わかったね、黎明」
「ええ。どれだけ幸せ者か、身に余るほどわかりんした」
明依の返事に一度頷いた藤間は吉野に向き合った。
「今日はこれで失礼しよう。黎明のおかげで随分と心地がいい。今夜はゆっくりと話の続きを書きたい気分だ」
そう言う藤間の意思に従って、吉野と明依と日奈の三人は彼を満月屋の前から見送ったが、藤間は相変わらず振り向きもせずに人込みの中へと消えていった。
「明依、何の話をしてたの?藤間さま、凄く嬉しそうな顔をしてたけど」
藤間を見送ってすぐ、日奈が明依にそう問いかけた。
「どれだけ辛いことがあっても、他の誰かから大切に想われている事だけは、絶対に忘れちゃいけない。って、言われたの」
「いつも藤間さまに挨拶に行く宵さんが何も言わずに店を開けた事が、公にできる様な話じゃないって何となく気付いていらっしゃるのね」
「そうかもしれません。私の言える範疇で話を聞くと言っていただきましたから」
「やっぱり勘の鋭い方だわ。簡単に騙されてはくれないわね」
吉野はそういってため息を一つ吐いた。
満月屋は、吉原が造られた当初からある。楼主が変われど、いつも大人数の女を抱えている吉原指折りの妓楼だ。大きな妓楼はそれだけ人がいて、金が必要になる。
その金を働かずに工面をするには余りに無知だ。吉野が出した騒動の当日から店を開けるという結論は最善解だったのだろうと明依は思っていた。
満月屋の経営が傾けばまず、宵がこつこつと築き上げた吉原での立場は無くなるだろう。凪や朔達の立場である梅ノ位は当然解雇となり、明依の立場である竹ノ位はおそらく主郭の指示によって別の妓楼に流されるだろう。
松ノ位である吉野は吉原の中にも外にも名は知れ渡っているから、満月屋がなくなってもどうにでもなる。
しかし明依にとって一番気がかりなのは、日奈だ。
松ノ位に昇進が決まっていると言っても、満月屋がなくなり別の妓楼に移動する事になればその話が白紙になる事だってあり得るのだ。それだけは、何としても避けたかった。旭と同じ意思を持って吉原を変えようと心に決めている日奈から、もうこれ以上何も失わせたくはなかったからだ。
「仕事しよう。藤間さまはきっと、いつも通りお酒と満月屋の雰囲気を楽しみに来ただけだよ。もし藤間さまが帰ったのが私たちの現状を察しての事なら、折角作ってくれた時間を無駄にはできないよ」
「明依が前向きだと、私も頑張らないとって思えてくる」
「日奈がそう言ってくれるから、私は前を向こうって思えるんだよ」
日奈がそういったのは強がりだという事は明依には察しがついた。そして日奈には、明依の言ったことが強がりだという事も手に取る様にわかっているだろう。
それでもお互いに何も言わない。これが吉野の下で学んだライバルでもあり、かけがえのない友である二人の最善の距離感だった。
「ではわっちは、お前さんらに背中でも見せておくとしんしょう」
吉野は演じた様な口調で、普段言わない言葉を言うと、気品のある素振りで歩き出す。
その背中は、まだまだ遠い。