恋する天然酵母
7 別れの理由
それから三か月ほどの間、フミは美里の店に隔週くらいで通った。客がいて忙しそうなときはさっと帰ったし、暇そうなときはおしゃべりをした。店の居心地の良さと美里に対する憧れがフミを活性化させた。また月に一度ほど会う弘樹の存在も心を温かくさせていた。
「あら、弘樹。今日はどうしたの?雨降ってないけど」
フミと美里がお茶を飲んでいると、弘樹がやってきた。
「ああ、フミちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
頭を下げると弘樹は優しく笑った。
「あのさ、職場の先輩に子供ができたんだけどなんか見繕ってくれないかな。現金じゃないほうがいいと思うんだ」
「そうなのね。いいわよ。ちょうどオーガニックコットンの可愛い産着あるから。男の子?女の子?一応どっちでもいけるけど」
「んー。たぶん男の子だってさ。来月生まれるみたい」
「じゃ、包んでストックしといてあげる」
「サンキュ。頼むよ。じゃ」
「はーい。またね」
「フミちゃんもまたね」
弘樹は要件をさっと言って立ち去って行った。後姿を見送りながらフミは素朴な疑問を言葉に出した。
「美里さんも弘樹さんも恋人いらっしゃらないんですか?二人ともすごく素敵なのに」
ふっと美里は笑った。
「弘樹はもう五年近くいないんじゃないかな。仕事場に女の子いないし、合コンも面倒らしいしね」
「へー。もったいない」
「あら、そう思う?よかったらフミちゃん彼女になってあげてよ」
にっこり言う美里に慌てて両手を振りながらフミは答えた。
「え。私なんてダメですよ。弘樹さんにはもっと大人のほうがいいですよ」
そう言いながらも美里に言われて、妙に意識をし始めている自分に戸惑いを感じ始めた。
「フミちゃんなら弘樹と上手くいきそうだけどねえ」
目を細める美里に「はあ」とフミは曖昧な声を出した。
「あのこって今どきの草食ってやつ? 受け身なのよね。おまけに前の彼女に振られた理由がさ、ゲームしてて一か月連絡しなかったんだって。ばかよねえ」
あははとフミは乾いた笑い声で相槌を打った。
「まあ、そんなマイペースな弟薦めるのもどうかと思うけど。でもフミちゃんならまともなお付き合いできそうだと思ったのよね」
「そ、そうですか」
「よかったら考えてやってね」
姉と言う存在は、弟に対して常に上から目線なのであろうということに改めてフミは実感し面白くなったが、さすがに自分が弘樹の彼女になってあげるといった態度は無理だった。
むしろ彼のような大人の男とまともに付き合える自信などなかった。そろそろ帰ろうと立ち上がり、美里に挨拶をして店を出た。
今日の夕暮れ時は寂しくも美しくフミを感傷的にさせた。夕日を背にゆっくり歩く。失恋して何か月か経った今、久しぶりに振られた時のことを思い出した。
――雨の休日。午後三時に恋人の高橋健児から近所のファミレスに来てとラインが入った。健児は営業マンで外回り中、たまにこうして呼び出されることがあった。お互いに休日が合わず、短い時間のデートを重ね続けて二年経ったところだった。
フミは急いで一張羅のワンピースを着、慣れないマスカラを塗り重ね慌てて出掛けていく。空は暗く黒い雲が迫ってきているが、傘を持たずに駆けた。息を切らせて大きな窓を外から除き、健児を見つける。彼はいつも窓際を背にして入口に近いところに座っていた。
店に入ったとたんゲリラ豪雨がやってきた。降られなかったことにほっとして健児の待つ席に向かった。
「おまたせ」
「よう」
短い挨拶をしてフミは席に着く。ソファーに深く腰を掛けている健児が、なんだか落ち着かなく組んだ指を揉み合わせて動かしている。今日は湿度が高いせいかブルーのスーツがくたびれている。フミは一人掛けの木の椅子に座りテーブルに近づけるようにぎぎっと寄せた。
「あのさ」
「ん?」
「ああ、先なんか頼めば」
「うん」
喉が渇いていたフミはアイスティーを頼んだ。飲み物はすぐさまやってきて冷たいアイスティーをストローで吸い込み、小さくため息をつくと健児が話し始めた。
「俺さ」
「うん」
「あの」
「どうしたの?」
なんだかいつもと違う様子だ。フミと健児は同い年で会話には基本的に遠慮がなかった。斜め下に目を動かしながら正視しないまま健児は言う。
「俺たちさ、もう別れたほうがいいと思うんだ」
「えっ」
喧嘩をしたわけでもなく穏やかに仲良くやってこれていたと思うので、まさに寝耳に水だった。唖然としているフミに健児は言い訳のようにつらつら言葉を垂れ流す。
「休みも合わないしさ、たいして遊べないし……フミは……自分の時間大事にしてるもんな。」
フミはこの状況を知っていた。最初、既視感かと思った。高校生の時にも付き合っていたやはり同級生の男子に『お前マイペースだから……』という理由で振られた。数日後、後輩の女の子とと仲良く帰宅しているのを見た。
「好きな人できた?」
ぼんやりと思い出す、過去の痛みを吐き出すように静かに聞いた。健児は落ち着かなく指先をテーブルにトントントンと軽く叩いた。
「あの、いや……」
「いいよ。はっきり言ってくれないとさ。私しつこくしちゃうかもよ」
少しぎょっとして健児は意を決したようにつぶやいた。
「ごめん。そう」
「そっか。わかった」
あっけなく終わった。フミはしつこくするかもと言ったが、そういうことが出来る性質ではなかった。苦く感じるアイスティーをもう一口飲み、じゃあねと言い、またねと続けそうになるのをぐっとこらえてフミは先に店を出た。
雨には降られなかったからラッキーなのかなと暗い空を見つめた。
――別れ話を聞くまで全く予想をしていなかったが、今思うと別れる一か月ほど前から健児の髪型と使っている整髪剤の香りが変わっていた。
無香料のワックスを使い短い髪をツンツンさせていたのが、前髪を降ろし甘酸っぱいグリーンアップルの匂いをまき散らしていた。
フミは職業柄、香料を使えなかった。だから人の香りには敏感だ。なのに、それを意味することには気が付かなかった。
久しぶりに思い出しため息をつく。そういえば弘樹からは香料を感じないことに気づき美里の『マイペースな弟』と言う言葉に自分と同じタイプだと思う安心感がわいた。
そして『まともなお付き合い』という言葉に今更反応して、どぎまぎしていると後ろから声を掛けられた。
「あら、弘樹。今日はどうしたの?雨降ってないけど」
フミと美里がお茶を飲んでいると、弘樹がやってきた。
「ああ、フミちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
頭を下げると弘樹は優しく笑った。
「あのさ、職場の先輩に子供ができたんだけどなんか見繕ってくれないかな。現金じゃないほうがいいと思うんだ」
「そうなのね。いいわよ。ちょうどオーガニックコットンの可愛い産着あるから。男の子?女の子?一応どっちでもいけるけど」
「んー。たぶん男の子だってさ。来月生まれるみたい」
「じゃ、包んでストックしといてあげる」
「サンキュ。頼むよ。じゃ」
「はーい。またね」
「フミちゃんもまたね」
弘樹は要件をさっと言って立ち去って行った。後姿を見送りながらフミは素朴な疑問を言葉に出した。
「美里さんも弘樹さんも恋人いらっしゃらないんですか?二人ともすごく素敵なのに」
ふっと美里は笑った。
「弘樹はもう五年近くいないんじゃないかな。仕事場に女の子いないし、合コンも面倒らしいしね」
「へー。もったいない」
「あら、そう思う?よかったらフミちゃん彼女になってあげてよ」
にっこり言う美里に慌てて両手を振りながらフミは答えた。
「え。私なんてダメですよ。弘樹さんにはもっと大人のほうがいいですよ」
そう言いながらも美里に言われて、妙に意識をし始めている自分に戸惑いを感じ始めた。
「フミちゃんなら弘樹と上手くいきそうだけどねえ」
目を細める美里に「はあ」とフミは曖昧な声を出した。
「あのこって今どきの草食ってやつ? 受け身なのよね。おまけに前の彼女に振られた理由がさ、ゲームしてて一か月連絡しなかったんだって。ばかよねえ」
あははとフミは乾いた笑い声で相槌を打った。
「まあ、そんなマイペースな弟薦めるのもどうかと思うけど。でもフミちゃんならまともなお付き合いできそうだと思ったのよね」
「そ、そうですか」
「よかったら考えてやってね」
姉と言う存在は、弟に対して常に上から目線なのであろうということに改めてフミは実感し面白くなったが、さすがに自分が弘樹の彼女になってあげるといった態度は無理だった。
むしろ彼のような大人の男とまともに付き合える自信などなかった。そろそろ帰ろうと立ち上がり、美里に挨拶をして店を出た。
今日の夕暮れ時は寂しくも美しくフミを感傷的にさせた。夕日を背にゆっくり歩く。失恋して何か月か経った今、久しぶりに振られた時のことを思い出した。
――雨の休日。午後三時に恋人の高橋健児から近所のファミレスに来てとラインが入った。健児は営業マンで外回り中、たまにこうして呼び出されることがあった。お互いに休日が合わず、短い時間のデートを重ね続けて二年経ったところだった。
フミは急いで一張羅のワンピースを着、慣れないマスカラを塗り重ね慌てて出掛けていく。空は暗く黒い雲が迫ってきているが、傘を持たずに駆けた。息を切らせて大きな窓を外から除き、健児を見つける。彼はいつも窓際を背にして入口に近いところに座っていた。
店に入ったとたんゲリラ豪雨がやってきた。降られなかったことにほっとして健児の待つ席に向かった。
「おまたせ」
「よう」
短い挨拶をしてフミは席に着く。ソファーに深く腰を掛けている健児が、なんだか落ち着かなく組んだ指を揉み合わせて動かしている。今日は湿度が高いせいかブルーのスーツがくたびれている。フミは一人掛けの木の椅子に座りテーブルに近づけるようにぎぎっと寄せた。
「あのさ」
「ん?」
「ああ、先なんか頼めば」
「うん」
喉が渇いていたフミはアイスティーを頼んだ。飲み物はすぐさまやってきて冷たいアイスティーをストローで吸い込み、小さくため息をつくと健児が話し始めた。
「俺さ」
「うん」
「あの」
「どうしたの?」
なんだかいつもと違う様子だ。フミと健児は同い年で会話には基本的に遠慮がなかった。斜め下に目を動かしながら正視しないまま健児は言う。
「俺たちさ、もう別れたほうがいいと思うんだ」
「えっ」
喧嘩をしたわけでもなく穏やかに仲良くやってこれていたと思うので、まさに寝耳に水だった。唖然としているフミに健児は言い訳のようにつらつら言葉を垂れ流す。
「休みも合わないしさ、たいして遊べないし……フミは……自分の時間大事にしてるもんな。」
フミはこの状況を知っていた。最初、既視感かと思った。高校生の時にも付き合っていたやはり同級生の男子に『お前マイペースだから……』という理由で振られた。数日後、後輩の女の子とと仲良く帰宅しているのを見た。
「好きな人できた?」
ぼんやりと思い出す、過去の痛みを吐き出すように静かに聞いた。健児は落ち着かなく指先をテーブルにトントントンと軽く叩いた。
「あの、いや……」
「いいよ。はっきり言ってくれないとさ。私しつこくしちゃうかもよ」
少しぎょっとして健児は意を決したようにつぶやいた。
「ごめん。そう」
「そっか。わかった」
あっけなく終わった。フミはしつこくするかもと言ったが、そういうことが出来る性質ではなかった。苦く感じるアイスティーをもう一口飲み、じゃあねと言い、またねと続けそうになるのをぐっとこらえてフミは先に店を出た。
雨には降られなかったからラッキーなのかなと暗い空を見つめた。
――別れ話を聞くまで全く予想をしていなかったが、今思うと別れる一か月ほど前から健児の髪型と使っている整髪剤の香りが変わっていた。
無香料のワックスを使い短い髪をツンツンさせていたのが、前髪を降ろし甘酸っぱいグリーンアップルの匂いをまき散らしていた。
フミは職業柄、香料を使えなかった。だから人の香りには敏感だ。なのに、それを意味することには気が付かなかった。
久しぶりに思い出しため息をつく。そういえば弘樹からは香料を感じないことに気づき美里の『マイペースな弟』と言う言葉に自分と同じタイプだと思う安心感がわいた。
そして『まともなお付き合い』という言葉に今更反応して、どぎまぎしていると後ろから声を掛けられた。